「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 10 章  

 どこの世の中に自分の娘と元ボクサーのヤンキーとのタイマンを許す父親がいるのかと思うけど、始まってしまったものは仕方なかった。ボクには見守ることと応援することしかできない。
「オラアッ!!」
 先に口火を切ったのは古閑のほうだった。
 小さな舌打ちを残して真奈がサイドステップを踏む。ブンッと音がして、真奈が立っていたところへ金属バットが振り下ろされる。コンクリートの地面を叩く音と破片が周囲に飛び散った。
「――あっ!!」
 思わず声が出た。それはボクが持ち込んで、建物の中で落っことしてきたバットだった。さっきは素手だったのに。後ろの金髪女にでも持たせていたんだろうか。
 一対一の勝負――タイマンだと断っていても、これは試合でもなければ真っ当な立ち合いですらない。ただのケンカだ。元ボクサーでも拳で殴り合いをしなきゃならない謂れは確かにない。
 だからって、ボクの持ち物が相手に利用されるなんて。
 真奈は「予想の範囲内」とでも言いたげに涼しい顔をしている。それでも、古閑の間合いに入れないでいるのは事実だった。
 バットを避けながらタイミングを計るように小刻みなステップを踏んでいるけど、取り回しがいい子供用のバットと古河の膂力の組み合わせがその隙を与えない。パンチやキックなら踏み込んでヒットポイントをずらして受けるという手もあるけど、金属バット相手じゃそんな真似は血迷ってもできない。
 横殴りに一閃するバットを真奈はバックステップでかわす。古閑はそれを追って今度は叩き潰さんばかりに上から振り下ろす。真奈はそれをサイドステップでかわして、体を入れ替えるように古閑の死角へ飛ぶ。
 すれ違いざまに一撃入れようとしているようだけれど、次の横殴りが来るのでそのチャンスはない。左右、どっちに避けるかの違いがあるだけで、さっきから展開はその繰り返しだった。
 真奈が避け損なうか、古閑のスタミナが続かなくなるかの勝負。
 どっちが不利かと言えば真奈のほうだ。倉庫の建物側に追い込まれれば避けること自体が難しくなるし、かすっただけでも当たり所次第では大きなダメージになりかねない。
 ボクは歯噛みした。
「ちくしょう、ボクがあんなもの持って来なきゃ――」
「やったら、他のところで鉄パイプを調達しとったやろうさ。または自前のバットか木刀ば出したか。あいつらのクルマには標準装備になっとるけんな」
 いつの間にか、真奈のお父さんがボクの隣にいた。立ち上がれないボクに付き合うようにその場にしゃがみ込んでいる。口調はまるでリングサイドの解説者のように呑気なものだった。
 ――何なんだ、このオッサンは?
 自分の娘がぶん殴られようとしているのに、まるで他人事だった。それどころか面白がっているフシすらあった。
「おーっと、危ない。今、五センチくらいしか離れとらんかったぞ」
「おいッ、ちょっと待てよ。あんたの娘だろッ!?」
 思わず怒鳴った。お父さんはキョトンとした顔をしている。そして、さっきまでの強面が嘘のように顔をほころばせた。
「なんだ、坊主。お前がジジイが言いよった真奈の彼氏か?」
「へっ!?」
 ジジイという言葉が真奈のお祖父さんと結びつくのに、ちょっと時間がかかった。
「……あー、いや、彼氏とか、そういうことじゃないんですけど……」
 この非常時に何を言ってるんだ、ボクは。
「そうじゃなくて、早くやめさせ――」
「いいから黙って見とけって。真奈にはちゃんとバットが見えとるし、それに、そろそろ仕掛けるチャンスがくるはずやけんな」
「……チャンス?」
「そうって、ホラ」
 ボクは闘いのほうに目を戻した。
 軽い子供用のバットは、古閑の体力を削ぐには確かに役不足だった。しかし、ことごとく避けられることで古閑の冷静さは徐々に失われつつあった。さっきから攻撃がだんだん力任せの雑なものになってきている。
「死んどけッ!!」
 それまで片手で振り回していたバットを、古閑は両手持ちで体重を乗せて振り下ろした。コンクリートの地面を割ってしまいそうな勢い。
 その攻撃の終わりを真奈は見逃さなかった。
 真奈はかわしざまに飛び乗るようにバットを踏みつけて、それを軸に右の回し蹴り――武藤敬司ばりのシャイニング・ウィザードを放つ。古閑はとっさにバットを離して後ろに飛びずさった。バットが地面に落ちるカランカランという軽々しい音が、静まり返った山間に響く。
「うわあ、詰め、甘ッ!!」
 お父さんは年齢に似合わない罵声を飛ばした。真奈がこっちを向かずに「せからしッ!!」とやり返す。まったく、どこまで本気でどこからふざけてるんだ、この父娘?
「さて、次はナイフ? それともメリケンサック? ひょっとしてヌンチャクとか言わんでよね?」
 嘲るように真奈が言う。古閑の両手がスウッと上がって拳を作る。
「調子に乗んなよ、貴様。そんツラ、ボッコボコにしてやるからな」
「へえ、やってみてんねって」
 古閑が構える。上体を立てるアウトボクサーらしいアップライト・スタイル。デトロイト・スタイルでもやったら笑ってやろうと思っていたけど、古閑はそこまでふざけてはいなかった。
「――シッ!!」
 歯の間から空気を押し出すような声。それに乗って左の連打が真奈に襲い掛かる。
 スピードは付け焼刃の真奈のジャブとあまり変わらないけど、威力は体格の分だけ古閑のほうが上に見えた。真奈との特訓の成果を試す機会はボクにはなかったけど、あったところで手を捕まえることができたかどうかは甚だ疑問だった。
「へっ!?」
 真奈の戸惑ったような声。
 まずい、ひょっとして真奈でもついていくのがやっとなのか。
 パーリングとフットワークを駆使して、真奈は何とか古閑の攻撃をしのいでいる。ロー・キックで相手の出足をけん制するのが精一杯だ。
 顔や身体には当てさせないけど、ブロックする腕と古閑の拳が当たるたびに肉を叩くビシッという音が響きわたる。グローブなしの裸拳の威力は想像以上だ。
 反撃の手を出そうにも打つ手がなさそうだった。
 古閑のほうがリーチで勝る上に、ボクシングと空手ではそもそも想定している距離が違う。あんまり言いたくはないけど空手は立ち技の中では比較的、距離に無頓着(好意的に言えば至近距離向き)な格闘技だ。技もどちらかと言うと間合いが詰まった状態でも使えるものが多い。
 しかし、それは言い換えればロングレンジでは相手に先を取られやすいということでもある。
 真奈に勝機があるとすれば、相手には使えない蹴りで勝負することだけだ。
 ただ、それは古閑だって分かっているだろう。迂闊に蹴りにいけばカウンターが待っているはずだ。自由に脚を蹴らせてもらえるほどボクサーの攻撃範囲は狭くない。それは真奈自身が言っていたことだ。
 一方的な展開にギャラリーが沸き立つ。特に金髪女はかなりエキサイトしていた。
「マコト、そんまんまやっちゃえッ!!」
 一瞬、古閑がそれに気を取られればいいのにと思ったけど、さすがにそこまでバカじゃなかった。
「とりあえず作戦通りやな」
 お父さんが腕時計を見ながら呟いた。
「作戦!?」
「シッ!! なんだ、俺と真奈が何の打ち合わせもせんと、こんなことやりてるとでも思っとったとか?」
 ……すいません、思ってました。
「どういうことなんですか?」
「まあ、見とけって。そろそろ試合開始から二ラウンドが終わる。しかも途中のインターバルなしでな。それが何を意味すると思う?」
 とっさには思いつかない。お父さんはニヤニヤしながら古閑の様子を見守っている。
 古閑の額にはびっしりと汗の粒が浮いていた。ジットリと湿ったタンクトップが肌に貼り付いて、見るからに邪魔そうだ。九月も終わりでそんなに暑くない――というより、山間では肌寒さを感じる程だというのに。
 そういうことか。
 確かに実戦でしか身につかないことは多い。特に攻め手に関しては。ところがスタミナは日々の鍛錬の積み重ねでしか維持することができない。
「最初から古閑の体力を削ぎにいくつもりだったんですか?」
「それだけが理由やなかけど、まあ、そういうことたいね。出足の凶器攻撃にはちっとヒヤヒヤしたが、上手くやり過ごしてくれたけんな。普通の殴り合いになれば結果は見えとうよ。夜な夜なクルマで遊びまわって酒とタバコかっ食らっとうとようなヤツが、ウチの跳ねっ返りとまともにやりあえるわけがなかけんな」
 それは同感だった。
 古閑の動きが目に見えて落ち始めた。息が上がって肩が大きく上下している。
「……ちょこまか逃げ回りやがってくさ」
 真奈がほくそ笑む。
「しょうがなかろうもんって。自分のスタミナも把握できんお馬鹿さんに殴られてやるほど、アタシ、お人好しじゃなかもんね。――亮太の分、しっかり仕返しさせてもらうけんね」
 言いざまに閃光のようなロー・キックが飛ぶ。古閑の顔が苦痛に歪む。真奈は追い討ちに突き飛ばすような前蹴りを放った。合わせてカウンターをとろうとしていた古閑は、胸を思いっきり蹴飛ばされて後ろに吹っ飛んだ。
「……オイ、ヤバイっちゃねえと?」
 ようやく古閑の”愉快な仲間たち”が騒ぎ始める。普通ならこいつらのことだ、すでにフォール負けを防ぐためにタッグ・パートナーがカットに入ってきてるはずだ。ただ、今回は真奈のお父さんの別件逮捕の脅しで二の足を踏んでいる。
「……ノブ……カズシ、こいつらやっちまえ」
 古閑が咳き込みながら身体を起こす。
「やっちまえって、これってタイマン――」
「せからしかッ!! 三人ともやっちまって、どっかに埋めりゃ済むこつやろうがッ!!」
 古閑が怒鳴る。お父さんがボクの横で短く口笛を吹いた。
「坊主、やっちまうに当てる漢字、”殺”と”姦”のどっちと思う?」
 ボクは手のひらに二種類の”やっちまう”を書いてみた。……まったく、このオッサンは非常時に何を考えてるんだろう?
 真奈が「死亡遊戯」でブルース・リーがやってたような芝居がかった手招きをした。
「なんなら、そっちの二人もかかってきたってよかよ。あ、先輩も良かったらどうぞ。今度は足を潰すなんて生易しいことはしませんけど」
 怪訝そうな顔の金髪女がハッとしたような顔をした。相手が何者かを思い出したようだ。
「なんであんたが?」
「行きがかり上ってとこですかね。ま、二年前はお互いに消化不良でしたし、決着をつけましょうか」
 上級生への丁寧な敬語がこれほど不遜に聞こえることもない。金髪女が猛然と真奈を睨みつける。月明かりの下でみると、目の周りのメイクがまるでくまどりのようだ。
「ノブッ、カズシッ!! さっさと――」
「あー、せからし。やっとられんって、もう。俺は降りる」
「俺もだ」
 真ん中分けとトサカは口々にそう言って、踵を返した。倉庫の壁際まで行って、そこで壁にもたれかかるように身体を預けた。古閑が呆然とその様子を見つめる。
「テメエラ……」
「さすがに人殺しはゴメンったいね。それに刑事にこんだけハッキリ見られてとうとぜ。今さら逃げられやせんよ。……言っとくが、俺たちはお前に裏切ったらボコボコにするって脅かされて、イヤイヤながら従っとったとやけんな。シャブのことにしたって、オンナのことにしたって」
「そういうこと。俺たちは従犯。主犯はマコト、おまえよ」
 二人が言ってることを額面どおりに受け取るわけにはいかない。クスリに関してはむしろ周囲が古閑にねだっているような部分があったからだ。状況がどう見ても不利になったから、古閑一人に責任を負わせて逃げを打っているのは間違いない。こいつらの仲間意識なんてこんなもんだ。
「お二人さんはそういうことみたいだけど、先輩はどうします?」
「えっ……!?」
 金髪女は助けを求めるように周囲を見回した。もちろん、誰も彼女に手を差し伸べたりはしない。凶暴なタヌキのような表情から、金髪女は一変して愛想笑いを浮かべながら「あははは、えーっと、あたしも関係ないかな?」と言い放った。
 信頼関係があったとは思えないけど、それでもあっさりと仲間に見捨てられた古閑はしばらく呆然としていた。
「いい友だちを持ったわねえ」
 真奈が言う。哀れみと嘲りが混じった怜悧な声。
 古閑はヨロヨロと立ち上がった。
「チクショウ、なんてやって。俺が何したっちゅうとかよッ!!」
 子供か、お前は。他人が自分の思い通りにならないのが気に入らなかっただけじゃないか。他人と真っ正面から向き合って傷つくのが怖くて、暴力とかクスリで自分の望みを叶えようとしただけじゃないか。
「――貴様ら、許さんけんな。全員、ぶっ殺しちゃる」
 どこに隠し持っていたのか、手にはナイフが握られていた。
「なんね、根性見せて立ってきたかと思ったら、それ?」
「うっせえ、このアマッ!!」
 繰り出されるナイフの切っ先を、真奈は相手の左――ナイフを持った右手と反対へステップを踏んでかわす。伸びた手首をつかんで、反対の手で顔面に裏拳を叩き込んだ。相手の軸線上から最小限の動きで外れてカウンターを取る。真奈が得意とする動きだ。
「真奈、そろそろ終わらせろ!!」
 お父さんが言う。何がそろそろ?
 真奈は小さく頷いてつかんでいた古閑の手首を捻る。短い悲鳴とともにナイフが地面に落ちる。真奈はそれをすばやく蹴っ飛ばした。
「チクショウッ!!」
 自分が敗北に近づいているのが我慢ならないのか、さっきから古閑はそれしか口にしていない。真奈は古閑を突き飛ばして距離をとった。
「死んどけッ!!」
 さっき自分が言われた罵声を相手に叩き返すように怒鳴る。真奈の右脚が跳ね上がる。古閑はとっさに頭をガードしようと腕を上げる。
 その瞬間、古閑の側頭部めがけて飛んでいた足が急に軌道を変えた。軸足をすらして腰を返し、横方向の上段回し蹴りを縦方向の蹴りへと変化させる。
 変則軌道を描く上段縦蹴り――グラウベ・フェイトーザばりのブラジリアン・ハイ・キック。
 美しい弧を描いた真奈の足先が、ガードを飛び越えて別名の通りに古閑の首筋にめり込んだ。充分すぎるほど体重が乗っていて、首の骨が折れたんじゃないかと思うくらい古閑の頭が傾いだ。
 古閑は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「……悔しがってよかとは努力した人だけよ。あんた、何にもしとらんやんね」
 真奈は足元の敗者に容赦ない言葉を投げつけた。

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