砕ける月

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  第 9 章  

 翌朝、目が覚めるとアタシの部屋はひどい事になっていた。
 すったもんだの末に着てみせるハメになった例のドレスは床の上にクシャクシャになってわだかまっていた。他にも由真がクローゼットや抽斗から引っ張りだしたもの――本、CDやDVD、今までに貰った空手大会のトロフィーや盾、ヴァレンティーノ・ロッシのレプリカのヘルメット、果ては何故だかアタシの下着まで――が床に散乱している。
 つけっ放しのテレビは午前中のローカル情報番組をやっていて、画面の時計は午前十時過ぎを示していた。
 エアコンは苦手だという由真のためにタイマーで切れるようにしていたので、部屋の中はムッとするような暑さだった。遮光カーテンの隙間から真夏の日差しが差し込んでフローリングの床に光の帯を作っている。
「……あっつい」
 アタシはボヤキながらソファから起き上がった。
 思いっきり身体を伸ばして首を回してみた。不自然な格好で寝ていたせいか、頚椎がゴキゴキッという不気味な音を立てた。道場通いを再開してからこんな遅い時間まで寝ているのは久しぶりだった。
 アタシのベッドを占領したはずの由真は、そのベッドの上にいなかった。
 どこにいるのかと探してみると、羽根布団を抱き枕のように抱えたままでベッドの向こう側に落ちていた。
 それほど高くないといってもそれなりに段差はあるのだけれど、由真はそんなことを気にする様子もなく、子供のように幸せそうな表情でスヤスヤと眠っている。
 アタシは物音を立てないようにシャワーを浴びに行った。
 汗ばんだ下着を脱ぎ捨てて脱衣所のカゴに放り込んだ。アタシの分と一緒に由真の着ていたものも入っていて、そういえば泊まるつもりじゃなかった由真は着替えを持ってきていないことに気付いた。
 アタシは急いで服を着て洗濯カゴを抱えて母屋へ行った。中身を洗濯機に放り込んで乾燥までするようにセットした。
 キッチンでは祖母が一人でお茶を飲んでいた。
 昨夜から祖父を見ていなかったので訊いてみると、昨夜はかなり遅くに(アタシたちが部屋に引っ込んでから)中洲から酔っ払って帰ってきて、今朝は早くからゴルフに出かけたということだった。元気な年寄りだ。
「お友達はもう起きてるの?」
 祖母が言った。
「まだ。でもそろそろ起こすよ。合宿に行くのに買わなきゃいけないものがあるの」
 何処へ行くのかと訊かれたので、天神だと答えた。祖母は二人で何か食べるように、とお小遣いをくれた。
 部屋に戻ると――どうやって這い上がったのか分からないけど――由真はベッドの上でうつ伏せの大の字になっていた。
 ワンピースのパジャマの裾がめくれ上がって由真の形のいい脚がむき出しになっていた。パジャマの下には何も着ていないことを思い出すとそのあまりに無防備な姿態にこっちが恥ずかしくなって、アタシは急いで裾を引っ張り下ろした。
 それがきっかけになったのか、由真は目を覚ました。
「……うーん、真奈ぁ?」
「オハヨ。っていうか、もうすぐ昼だよ」
「……えー、ホントぉ?……」
 由真は枕元の時計を見て、寝過ごしたことに気付いた朝のような勢いで飛び起きた。
「えー、もうこんな時間? 真奈ってば、起こしてくれればよかったのにー」
「だって、ずいぶん気持ち良さそうに眠ってたから」
 由真はベッドの上で座りなおし、寝汗で額に貼り付いた前髪を払った。
「うん、久しぶりにすっごくよく眠ったような気がする」
「そりゃよかった。アンタの服は今、洗濯してるから。乾くまではコレ着といて」
 アタシは用意しておいた部屋着のワンピースを手渡した。
 シャワーを浴びるようにいうと、由真はまだ少しボーっとした感じで立ち上がって脱衣所に入っていった。
 アタシはコンポにジプシー・キングスのCDをセットして、「ジョビ・ジョバ」の歌詞をデタラメに口ずさみながら部屋の片付けに取り掛かった。
  
 誰にもらったものか忘れたけど、ずっと置きっぱなしにしていたナイジェル・マンセルのレプリカ・ヘルメットはタンデムで出かけるときの由真の専用になっている。ユニオンジャックをあしらったデザインはいかにもといった感じで、あまり似合うとは思えないのだけれど、どういうわけだか彼女のお気に入りなのだ。
 タンデム・シートに由真を乗せてアタシは市内中心部に向かった。
 これまで何度か乗せたことがあるので今では由真も慣れたものなのだけれど、最初のときには自転車の二人乗りのように横乗りしようとしたり、乗せてみたらコーナーでマシンを寝かせるのと反対に身体を起こそうとして二人揃って引っくり返りそうになったものだ。
 まあ、自転車に乗れるかどうかも怪しい彼女に多くを期待するほうが間違いなのだけれど。
 バンディットはいつものように、バイト先のビルの裏に停めさせてもらうことにした。
 ここがあるからアタシは天神へバイクで来られるのだけれど、そうでなければ駐車違反で捕まるリスクを犯すか、苦手な原付に乗り換えるか、来るのをやめるかという三択を迫られることになる。
 実際の話、福岡の駐輪事情は恐ろしく悪い。
 もっともこれはバイクに限った話じゃなくて、天神地区は二期連続で放置自転車全国ワーストワンという輝かしい(?)記録も作っている。
 あまりの不名誉っぷりにお役所は対策として駐輪場の増設(自転車と原付しか停められないので自動二輪のアタシにはあまり関係がない)や監視員のおじさんを増員したり、”チャリ・エンジェルス”なる何処かからクレームの来そうなネーミングのキャンペーン・ガールを作ったりしているけれど、どの程度の効果があったのかは疑問だ。
 どこ行くのという由真の質問にあたしは「新天町」と答えた。
 新天町は西鉄天神駅の裏手にある、趣きのある――言い換えるとあまり若向きではない商店街だ。
 市内でも川端商店街と並んで歴史があって、年季の入ったアーケードには時代を感じさせる構えのお店が揃っている。
 西通り方面へ抜ける近道でもあるので通行人の年齢層は幅広いけど、ここで買い物をしているのは圧倒的に年配の人が多い。アタシは祖母のお供でたまに来るのだけれど、祖母の買い物はココと岩田屋(移転してキレイになったけど趣きがなくなったと祖母は言う)で大抵終わってしまう。
 とりあえず腹ごしらえということで、アタシは由真と連れ立って新天町倶楽部に行った。
 知らないと何処が入口か分からないところにある、新天町のテナント従業員のための社員食堂だ。もっとも、混雑時に従業員が優先になる以外は一般のお客さんでも食べることが出来る。安いわりにはボリュームがあって美味しいという、アタシのお気に入りの店だった。
 初めて入る雰囲気に由真は驚き半分、好奇心半分で目を輝かせていた。
「へえ、こんなとこあるんだ。よく来るの?」
「そういうわけじゃないけど。イヤなら他のところにしようか?」
「ううん、いいよ。で、何が真奈のオススメなの?」
「そうだなあ……」
 同じものを頼んでもつまらないのでアタシはチキンカツ定食、由真はメンチカツ定食を頼んだ。ふんわりした卵とじがかかったメンチカツはかなりお気に召したらしく、由真はご満悦だった。
 食事が終わって、アタシは自分の買い物をすることにした。目当てはアーケードの入口にあるスポーツ用品店だった。
 その店でアタシはビーチ・サンダルと積み上げられた特売の靴の中から安いスニーカーを選んだ。他のヒトはどうであろうと自分はキチンと練習するつもりなので、拳に巻くバンテージとテーピング用に専用のテープ、足首用のサポーターをカゴに放り込んだ。一枚五百円の無地のTシャツがあったのでこれも十枚ほどカゴに入れた。汗をかくのでTシャツは何枚あっても困らないからだ。
 レジで清算していると、店内をウロウロしていた由真が戻ってきてカゴの中を覗きこんだ。基本的に彼女の興味を引きそうなものはここにはないので、明らかに退屈している感じだった。
「そんなに買うの?」
「アンタの買い物に比べたら可愛いもんでしょ」
「ふーんだ。あとはナニ買うの」
「とりあえず、ここではこれだけ。あとは水着かな」
「……水着?」
 由真の明らかな口調の変化にアタシの中のセンサーが警報を発した。それは昨日、例のドレスを発見したときと同じ響きをもっていたからだ。
「ねぇ、どんなのにするの?」
「……どんなのって、別に決めてないけど。普通の地味なのでいいんだけどね」
「ダメだよ、そんなの」
 ナニがダメなのか全く理解できないけど、由真は一刀両断にアタシの意見を否定した。
「せっかく海に行くんだからステキなのにしないと。誰が声かけてくるか分かんないんだし」
「いや、アタシは合宿に行くんですけど」
「とりあえず、他のところに見に行こうよ。キャナルに特設売り場があったよね」
 アタシの言うことなど聞いちゃいなかった。
 由真はアタシの手を取って、思いもかけない強さで引っ張っていこうとした。アタシは大きくため息をついて彼女に従って店を出た。
 
 新天町から西鉄福岡駅のコンコースを通り抜けた。
 夏休みということもあってか、街はにぎやかだった。サマー・バーゲンの袋を提げたアタシたちと同世代の女の子の姿が目に付いた。
 みんな申し合わせたようにキャミソールやチューブトップ、ミニスカートといった露出度の高いコーディネートだった。流行というのもあるけれど、実際そうじゃないと暑くてかなわないのだ。アスファルトは日差しを容赦なく照り返していて、街中がオーブンにでもなったように熱気で澱んでいる。
「あっつーい。真奈、何とかしてよ」
「……お願いだから、寝言は寝てから言ってくれない?」
 天神のバス停から百円循環バス(市内の中心部をグルグル回っていて、そのエリア内なら何処まで乗っても百円なのだ)でキャナルシティ博多へ向かった。
 キャナルシティは那珂川のほとり、ちょうど中洲の南新地(名物のいかがわしいお風呂が集まっているところ)の川を挟んだ向かいにある大型のショッピング・モールだ。グランド・ハイアット・ホテルや福岡シティ劇場、シネマ・コンプレックスなどもあって、そこだけでも充分に一日遊べるほどだ。
 空調の効いた店内に入って生き返った由真は、アタシを真っ直ぐ特設の水着売り場に連れて行こうとした。
 アタシとしてはHMVを覗いてみたかった(そして時間を使いたかった)のだけれど、そんなささやかな抵抗はあっさり無視された。
 水着売り場には目が痛くなるような極彩色の水着が並べられていて、マネキンに着せられたものに至っては、よほどスタイルに自信がないと着れないような代物だった。アタシが思っていたような地味な水着は見当たらなくて、この中から選ぶのかと思うと眩暈がしそうだった。
「あのー、由真さん?」
 アタシは恐る恐る声をかけた。由真はハンガーに架けられた水着を手にとっては、真剣な眼差しで吟味していた。
「なぁに?」
「せめて、パレオのついたヤツにして欲しいんですけど」
「却下」
 由真はアタシのほうを見もせずに即答した。
 自分のものを選ぶのに何故こんなに低姿勢なのか、自分でもよく分からなかった。
 彼女の機嫌を損ねたくないのかもしれない。ただ、それは仲違いの間に抱いていた由真に対する依存のような気持ちとは別のものだった。
 何だかんだ言っても、彼女と一緒にいる時間がアタシにとってかけがえのないものであることは間違いないのだ。
 あとは彼女が選ぶ水着がとんでもないものでないことを祈るばかりだった。
 
 キャナルシティの端っこ、コムサ・ストアの中にあるスイーツ・ミュージアムの店内にはビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」が流れていた。コムサ・ストアのBGMは全部ビートルズで、全体的にモノトーンの品揃えと相まって不思議なレトロ感を醸し出している。
 那珂川を臨む窓際の席で水着を手にして何とコメントするべきか悩むアタシを、由真は哀れな犠牲者を見る悪魔のような微笑みを浮かべて見守っていた。
 由真が選んでくれだ水着はターコイズ・ブルーのホルターネックのワンピースだった。
「いいでしょ、それ」
「うーん。色は好きだよ。でも、背中の開きが大きいのが気になるなぁ。ちょっと恥ずかしいよ」
「それはホルターネックだから仕方ないの。だいたい、サイズ的にワンピースよりビキニの方が選択肢は広いって言ったでしょ。それなのにビキニは腹筋が割れてるのが見えるからヤダって言うし、谷間の見えるヤツは恥ずかしいからヤダって言うし。だいたい真奈は贅沢だよ。そんなにスタイルいいのに」
「アタシが?」
「そうだよ。背は高いし手脚は長いし。ウエストもちゃんと括れてるし。ちょっと肩幅が広いのと胸がないのが残念だけど」
「……アンタって人が気にしてること、ハッキリ言うよね」
 由真は聞こえない振りをしてフルーツがたっぷり載ったプチタルトを口に運んだ。アタシは例によってこういうところでは食べるものがないのでコーヒーを飲んでいた。BGMはいつの間にか「ヘルプ!」に変わっていた。
「じゃあ、明日から能古島に行くんだ?」
 由真が言った。
「うん。姪浜の渡船場に集合して、そこから船で島までね。向こうでは毎年お世話になってる民宿があるらしいんだ」
「へー、楽しそうだね。いいなあ」
「アンタも来る?」
「えっ?」
 由真はキョトンとした顔をしていた。
「別に構わないよ。高校生以下は参加費無料だし、どうせ誰も向こうでちゃんと練習なんかしないだろうしね。空手道場としてどうかとは思うけど」
 実際のところ、ドンブリ勘定のウチの道場ではキチンと成人会員の参加費用を回収できているのかどうかすら疑わしかった。新年の寒稽古のときには”かかった費用を大人の人数で頭割り”ということもあったくらいだ。由真が紛れ込んだところで誰も文句なんて言いはしない。
 アタシは言葉を尽くして由真を誘った。
 クラスメイトよりは気心が知れている道場のメンバーと言っても、彼らはやっぱり一緒に遊びに行くような間柄ではない。それよりも由真が一緒に来てくれたほうがアタシも楽しいに決まっている。
「楽しそうだね。あたしも行きたいなあ」
 由真はそう言ってニッコリ笑った。
「――でも、ゴメン。今回はやめとく」
「えー、そう?」
「やっぱり、そういうのは親に言ってからじゃないとね。無断外泊しといて説得力ないけど」
 残念だったけど、由真がそういうのをムリに誘うのは悪いような気がした。
 アタシは分かったと答えた。

 キャナルシティをぶらつきながら、由真の見立てでアタシとしては久しぶりに服を買った。
 ニットのカットソーやカラフルなキャミソール、ひらひらしたワンピース、肌触りのいいサテン地のパフスリーブのブラウスなんかだ。アタシだってそれなりに服は持っているけど、自分で選ぶとどうしても無難な地味系ばかりになってしまう。
「そう言えば、真奈ってあんまりスカート履かないよね」
 試着室のカーテンから顔だけ突っ込んで、由真はアタシが試着するのを眺めていた。恥ずかしいから、と言ってもお構いなしだった。
「履いてるよ、毎日」
「あれは制服でしょ。いっつもジーンズかカーゴパンツだもんね」
「だって、脚出すの恥ずかしいんだもん」
「へえ。じゃあ、ちょっと待ってて」
 言ってから「……しまった」と思った。コイツにそんなことを言ったが最後、どんなものを履かされるか分かったものじゃない。
 由真が選んできたのは、彼女にしてはシックな色合いと常識的な長さのティアードスカートだった。
 それでも履いてみるとアタシには膝上の”ちょいミニ”だった。まあ、長身のアタシには大体の婦人服は寸足らずなのだけれど。
「やっぱり恥ずかしいよ」
 アタシは言った。
「そんなことないよ。うん、似合ってるって」
「……ホント?」
「本当だってば。真奈はもっとこういう格好をした方がいいよ」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。女の子なんだから、ね」
 結局、アタシはそのスカートも買った。

 キャナルシティの地階のオープンフロアにはその名前の由来でもあるキャナル(運河)が流れていて、運河にせり出した突端の舞台では大道芸人がその妙技を披露していたりもする。
 運河沿いの広場には出店が出ていて、ハンドメイドの小物やちょっと怪しげなデザインのアクセサリを売っている。アクセサリの類にはあまり興味がないアタシだけれど、こういうところのものは見ていて飽きなかった。
「ねぇ、あれナニ?」
 由真が指差した出店にはジッポのライターやシルバーのアクセサリなどが飾られていた。
 手元の彫刻用のミニドリルで名前を入れるサービスをやっていて、大学生くらいのカップルがジッポに何やら彫ってもらっているようだった。
 タンクトップにヤギひげのオニイサンの手元に、タイプライターを頑丈にしたような機械があるのが目にとまった。
 アレがあるということは。
 アタシは陳列されている商品に視線を走らせた。
 お目当てのものはすぐに見つかった。銀色の小判型のプレート――ドッグタグだ。
 本来は軍隊の個人認識票として死体の識別などにも使われるものなのだけれど、最近はファッションアイテムとして認知されている。アタシも中学生のときに父親に沖縄に連れて行ってもらって、向こうでお揃いのものを作ったことがあった。
「ねぇ、アレ作ろうよ。お揃いのヤツ」
 ドッグタグのことを簡単に説明した。
 由真はいいねと言った。彼女の好みよりは随分と無骨な代物だけれど、お揃いというところが興味を引いたようだった。
「ねぇ、なんて彫る?」
「そうだなぁ。ホントは個人情報――名前とか血液型とかそういうのを入れるんだけど。でも、それじゃ落としたとき大変だし」
「そうだね。じゃ、二人の名前と今日の日付――それと何か一言」
「一言って?」
「それは真奈が決めていいよ」
「えー、そんなの急に思いつかないよ」
 喧々諤々の押し付け合いの結果、名前と日付だけをいれることになった。
 どっちの名前を先にするかとか何でもないことで若干時間はかかったけど、由真が勝手にアタシの名前を先でオーダーしたので”MANA SAKAKIBARA/YUMA TOKUNAGA 2005/08/09”と彫られたドッグタグが二枚出来上がった。
 細いチェーンを二本買って、ペンダントにしたものを由真に手渡した。
「コレ、大事にするね」
 由真が言った。
 アタシも、と答えると彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 五時頃になり、由真がそろそろ帰る、と言い出した。
「百道まで送るよ」
「ううん、バスで帰るからいいよ。真奈、この後バイトなんでしょ?」
「うん、まぁ、そうなんだけど」
 アタシはいつもの渡辺通りのバス停まで由真を送った。バスに乗り込む寸前、由真が振り返った。
「今日はホント、楽しかった。昨日は勝手に押しかけたのに、泊めてくれてありがとね」
「いいよ、そんなこと。また、いつでも遊びに来て」
「うん。そうする」
 由真はバスに乗り込んだ。そして、アタシのほうを振り返って何か言おうとした。
「なぁに?」
 アタシは耳に手を当てて聞こえなかったことを示した。
 由真はすぐに笑って、何でもないというふうに手を振った。ドアが閉まるダンパーの音がして、由真を乗せたバスは渡辺通りの混雑の中に滑り込んでいった。

 このとき、もしアタシがすぐに電話をかけて何が言いたかったのか訊いていたら、そしてもし由真がそれに答えてくれていたら、この後に起こった悲しい出来事の一部は避けることが出来たかも知れないのだった。
 確かなこととは言えないのだけれど。







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