砕ける月

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  第 20 章  

「……何ですか、コレ」
 アタシは言った。自分の声はまるで地の底から聞こえてくるように現実感を欠いていた。
 熊谷はギネスをチビチビ啜りながら、画面を覗き込んでいた。
「俺も自分の目と耳を疑ったよ。まさか、由真がこんなことをするなんてね」
「……そんな……」
 ショックが大き過ぎて言葉がなかなか見つからなかった。
 画面の中で由真は、何度も繰り返して同じことを言っている。そこに映っているのはまぎれもなくアタシの親友だった。
 しかしアタシには見せたことのない表情をしていた。いつもの屈託のない太陽のような笑顔じゃない。冷たく澄み切った月のような暗い微笑み。
「理由が分かんないわ。何で、由真がこんなことしなきゃいけないの!?」
 アタシは思わず大声を出した。怒りとも怖れともつかない感覚がアタシの全身を貫いていた。
 こういう可能性をまったく想像していなかったといえば嘘になる。
 由真の言う”絶対に表沙汰には出来ない三つのファイル”――二つのカルテと死体の画像ファイルには、彼女にとっては二つの利用目的しかないからだ。
 告発と恐喝の二つしか。
 おそらくアタシは無意識に後者の可能性を考えないようにしていたのだろう。
 由真がそんなことをするはずはない。我がままで気まぐれなところはあるけれど、由真は曲がったことが嫌いなタイプだ。ディスクを持ち出したのも医療ミスの隠蔽工作に対して持ち前の正義感が頭をもたげたからに違いない。アタシはそう思い込もうとしていた。
 でも現実はそうじゃなかった。
 熊谷が手を伸ばした。マウスをクリックすると由真は画面から消えた。
「この後、由真からは連絡がない。代わりといっては何だが、こんなメールが届いた」
 矢印が他のメールの上に止まった。画面に大きく表示された。

<敬聖会福岡病院における医療事故とその隠蔽工作について、私たちは重大な事実を把握しています。証拠となりうるMOディスクも内部の協力者を通じてすでに入手しています。私たちの要求に応じて戴けないようであればこれらを然るべきところへ提出する準備があります。要求内容は明日の午後、そちらへ電話を入れます。尚、交渉の余地はありませんのでそのつもりで>

「ずいぶんと他人行儀な文面ですね」
「そう言われればそうだな。まあ、こんな手紙をトモダチ口調で書かれても困るが。送られてきたのは八月十日の夕方だった。送信元はやはりフリーメールのアドレスだ。ただし由真のじゃなかったが」
「誰のなんですか?」
 熊谷は一瞬だけ躊躇った。
「……言っておいたほうがいいんだろうな。この件には二組の脅迫者が絡んでいる。由真と、もう一つ別組がね」
「どういうことなんです?」
「詳しいことはまだ分かっていない。ただ、ここ数ヶ月、敬聖会の内情を探ろうとしていた連中がいたことは確かだ。ひょっとしたら君を襲ったのはそいつらかも知れないな」
 熊谷は吐き捨てるように言った。
「そいつらと由真の関係は?」
「文面にある”内部の協力者”が誰を指すのかによって、その答えは変わる。が、由真は自分で動画メールを送ってきている。協力関係にあったとは考えにくい」
「でも、MOディスクはそんなに何枚もあるわけじゃないんでしょう?」
「ここから盗まれた一枚だけだ」
 だとすれば、由真の身柄を押さえているのはそいつらである可能性が出てくる。高橋を襲ったのも。MOを手に入れたというのは(それがアタシの手にある以上は)ブラフなのだけれど、それを熊谷の前で口にするわけにはもちろんいかなかった。
「要求の電話は掛かってきたんですか?」
「ああ。――五千万だそうだ」
「五千万!?」
 アタシは息を飲んだ。由真と合わせれば一億円だ。
「大金だが敬聖会に払えない金額じゃない。由真が本気でカネを要求しているとは思いたくないが……。いずれにせよ、徳永夫妻は払うだろう。大事な跡取り息子の将来が掛かってるんだ」
 熊谷の口調に嘲るようなニュアンスが混じった。
「大体、祐輔君のミスの揉み消しはこれが始めてじゃないんだ。いくら元が外科じゃなかったと言ってもね」
 アタシは強烈な不安に襲われた。
「それで跡取りが勤まるんですか?」
 熊谷は肩を竦めた。
「決して頭が悪いわけでも不器用ってわけでもないんだが……。向き不向きってやつだろうな。研修先の大阪ではせめて好きな子供と接することの出来る小児科を選んでいて、そこではそこそこの評価だったんだがな。ま、本人は最初から医者にはなりたくなかったらしいし」
 由真も兄が自分の進路について悩んでいたようなことを言っていた。
「でも今は、確か外科の先生なんですよね」
「昨今の少子化の影響ってヤツで、敬聖会の小児科は診療休止状態なのさ。本人は同じ専門替えでも手術のない内科にしたかったらしいが、両親ともに外科医だからな。半ば無理やりってところさ」
 アタシは徳永邸で見た祐輔の憔悴しきった顔を思い出した。
 親の期待に背くことが出来ずに望まない道に進んで、結果として大きな罪の意識と責任を背負ってしまった男。哀れと言えないこともない。
 アタシは話題を元に戻した。
「こういう言い方はしたくないですけど……。振り込んだからって由真がディスクを返すとは限らないんじゃないですか?」
「それで恐喝が終わるという保証もな。デジタルデータはいくらでもコピーが取れる。こういう事件の場合、重要なのはカネを払わずに済むかどうかじゃない。二度目を防げるかどうかなんだ。それに――」
「それに?」
「由真がこんなことをしでかした原因が取り除かれない限り、連れ戻したところで何の解決にもならないさ」
 熊谷はギネスを飲み干して、空き缶を握って潰した。前腕でもアタシの下肢くらいの太さがあって、競技は違うけれどさっきの大沢とでも渡り合えそうな感じだった。
 アタシもギネスを飲み干した。お替りはという問いには結構ですと答えた。熊谷は自分の分の二本目を取って戻ってきた。
「ところで、この”内部の協力者”が由真じゃないとしたら、一体誰なんですか?」
 アタシは訊いた。
「考えられるのは小宮っていう敬聖会の元システム・エンジニアだな。順を追って話さないと分かり難いかも知れない。少し長くなるがいいかな?」
 アタシは構わないと答えた。熊谷は話の順序をまとめるように眉根を寄せて、話し始めた。
「徳永祐輔が投薬ミスで患者を死亡させたのは、今年の二月のことだ。俺はその場にいなかったんで人づてに聞いたんだが、直ちに緘口令が敷かれて徳永夫妻は対応に追われたらしい。本来なら直ちに警察に届けた上で担当医が遺族に説明をしなきゃならないんだが、徳永夫妻が出した結論は、警察には届けるが祐輔君には身代わりを立てるというものだった」
 熊谷はそこで一息ついた。
「幸いにもと言っていいのか分からないが、当時敬聖会にはそれに打ってつけの人物がいた。業者と癒着して横領まがいの着服を繰り返して、クビになるのを待っているような状態のクズがね。そこで徳永夫妻はこの男に、刑事告訴と損害賠償を見送って就職先も斡旋してやる代わりに、医療ミスをしたのは自分だと名乗り出ろと迫った。この世界は意外と狭くて話が広がるのは早い。横領で告訴された男を雇う病院なんかないし、素行に目を瞑ってでも受け入れて貰えるほどの腕があるわけでもない。無医村にでも行けば話は別だろうがね。男に異存などあろうはずもなかった」
「でも、医者としてのキャリアには大きな傷がつくんじゃないですか?」
「確かにそうだが、それは医者を続けられることが前提の心配だ。それに日本にどれくらい医療ミスを繰り返す、いわゆる”リピーター医師”がいると思うんだ?」
「だったら、祐輔さんだって同じことじゃないですか」
「一介の雇われ医師と敬聖会の跡取り息子じゃ立場がまるで違うさ。とにかく話はまとまり、直ちにカルテの担当医の書き換えが行われた。まあ、この辺りのことは俺はよく知らないんだけどな」
「コンサルタントのあなたが?」
「言ったろ、俺はその場にいなかったって。一連の工作には俺は関わってないんだ。で、コンピュータ・システムの関係で同じカルテを改ざんするわけにはいかなくて、別のカルテを作ってすり替えるという面倒な作業があったらしいんだが、実際にこの作業を行ったのが手紙にある内部の協力者、小宮健太郎なのさ」
「小宮は今、どうしているんですか?」
「故郷の宮崎で家業の農家を手伝ってるはずだ。念のために確認したが、福岡には近づいてもいない」
「いつごろの話ですか?」
「四月の終わり、ゴールデンウィークに入るちょっと前のことだったかな」
 意味が分からなかった。
「由真はそんなに以前からディスクを持っていたんですか?」
「それは違う。小宮とは別の件でトラブルがあってね。まあ、まったく別件でもないんだが……。ちょっとばかり痛い目に会ってもらって、宮崎にお帰り願ったんだ。二度とつまらない考えを起こさないことを約束させてね」
「ちょっと待ってください。だったら由真はどうやってディスクを?」
「そこがちょっと話が入り組んでるところなんだが……。実はこいつはもう一つ、敬聖会を破滅させるようなネタを掴んでいたんだ。それに比べれば医療事故の隠蔽など些細なことに過ぎない。この事件にはもっと重大な犯罪が絡んでいるのさ」
「……何ですか?」
「人が殺されているんだ」
 アタシは息を呑んだ。
 殺人のことでではない。まさかこの話を出してくるとは思っていなかったからだ。
 確かに村松俊二を殺したことに比べればカルテのすり替えなど些細なことに過ぎない。言うとおり破滅的なネタだ。
 そんなことを部外者に教える熊谷の意図を、アタシは図りかねた。
 熊谷は構わずに話を続けた。
「担当医のすり替えは徳永夫妻の描いたシナリオどおりに話は進んでいた。警察には事故として届けられたし、補償もガイドラインに沿って行われることになっていた。ところが一つだけ、進んでいないことがあったんだ」
「何です?」
「患者の家族と連絡が取れなかったのさ。娘夫婦は大阪の吹田市で住み込みでパチンコ屋の店員をやっていたんだが、娘夫婦は寮を追い出されてしまっていてね。派遣したスタッフが所在を掴んだのは三月に入ってからだった」
「でも、連絡はついたんでしょう?」
「何とかね。ところが医療事故だと聞いて補償金が取れると知ってから娘の態度が変わった。急に親孝行な娘に豹変したのさ。償の額は保険会社の査定だから妥当なものだったと思うんだが、それじゃ足りないとか言い出してね。終いには「まだ隠していることがあるはずだ」とか言い出して、警察に訴えると息巻く始末だ」
 熊谷は当時のやり取りを思い出すようにウンザリした顔をした。まあ、確かに隠していることはあったのだけれど。
「そんな告訴が受け入れられるんですか?」
「民事不介入とは言いつつも一応は遺族の申し立てだからな。実際に示談が決裂して告訴ってことになれば、即不受理ってわけにはいかなかっただろう。まあ、カルテの偽造は完璧だったし、そもそも医療ミスの存在そのものを争うわけでもないからこちらは泰然と構えていればよかった。ところが、警察沙汰になるかも知れないっていうことで村松がすっかり震え上がってしまった。取り乱して、全部ぶちまけると言い出したんだ」
「どうなったんです?」
「徳永夫妻と俺は村松を、奴の家の近くにある野間の診療所に呼び出した。忘れもしない三月十八日のことだ。我々は腕のいい弁護士を手配したことや、万が一裁判になって有罪判決が下りても敬聖会の系列病院で面倒をみるということで宥めようとしたんだが、奴は聞き入れようとせず逆に開き直ってしまった。最後には口止め料を要求する始末でね。偽装工作を始めてしまった以上、今更、村松を横領で告訴することが出来ないのを見越してのことだったようだが」
「足元を見られたんですね」
「そういうことだ。交渉――というか怒鳴り合いは深夜に及んだが、なかなか結論は出なかった。で、とりあえず頭を冷やそうということになって俺と徳永はタバコを吸うために外に出た。そんなに長い間じゃない。十五分くらいだったと思うんだが」
 熊谷はそこで一息おいた。
「唐突に病院の中からけたたましい女の笑い声が聞こえてきた。驚いた俺と徳永が慌てて戻ったときには、診察室の処置台の上に村松が横たわっていた。首には内視鏡用のファイバースコープが巻き付いていて、すでに息をしていなかった。傍らでは徳永麻子が、顔を紅潮させて荒い息をしながら立ち尽くしていたよ」

 熊谷の言葉は奇妙な説得力を伴ったまま、アタシの耳に蟠っていた。
「麻子さんは落ち着いた理知的な女性に見えるが、何と言うか……衝動的な部分があってね」
 アタシの脳裏に徳永邸の玄関ホールでのやり取りが甦った。
 あの時、徳永麻子はそれまでの落ち着き払った態度がウソのように我を失って、部外者のアタシには聞かせてはならないことを口走った。
 冷静なときの彼女なら、まず考えられないことのように思える。おそらく、カッとなると抑えが効かなくなるタイプなのだろう。
 見てもいないのに、彼女が巻きつけたコードで村松俊二の首を締め上げる場面を想像することが出来た。興奮して血走った眼差し。口の端から洩れる荒い息遣い。
「多分、物事が自分のコントロールできない状況になると、急に不安に取り付かれてしまうんだろうな。ヒステリーを起こして、周りの言うことなんか耳に入らなくなってしまうんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。過去にもそれで取り返しのつかない失敗をしているんだが……」
「失敗って、どんな?」
 熊谷は返事の代わりに曖昧な微笑を浮かべただけだった。
 時計を見ると午前二時になろうとしていた。アタシは無意識に空っぽのギネスの缶を口に運んだ。本当はアルコールじゃなくて、目が覚めるような苦いコーヒーが飲みたい気分だった。
 熊谷が口を開いた。
「我々が戻ったときには村松はすでに心停止状態にあった。救命処置が無駄だというのはヤツの死に顔を見れば一目瞭然だった。警官時代にもずいぶんと死体を見ているからな」
「由真のお母さんは――?」
「今風に言うなら”イッちゃってた”とでも言うのだろうな。肩で息をしながら横たわる村松のことを見下ろしていた。満面の笑みを浮かべたままでね。あのときの彼女のことは、思い出しただけでゾッとするよ」
 熊谷は寒気を追い払うように首を振った。
「とにかく麻子さんに鎮静剤を飲ませて落ち着かせてから、我々はどうするか協議した。といっても、結論は最初から決まっていたがね。徳永は直ちに隠蔽工作に取り掛かった」
「隠蔽工作?」
「そうだ。医者にしかできない荒技でね。どんな方法だと思う?」
 考えるまでもなくアタシはその答えを知っていた。首を絞められて殺された男を心筋梗塞で亡くなったことにする、たった一つの方法。
「……死亡診断書を偽造したということですか?」
「ご名答」
 熊谷は喉を湿らせるようにギネスを一口飲んだ。
「医師法の規定によると、診療継続中の病気で患者が死亡したときにだけ、主治医は死亡診断書を書くことが出来るとされている。それ以外は異状死体という扱いになって死体検案書――ま、書式は一緒なんだが――とにかくそれを作成することになり、死亡時の状況によっては警察に届け出る義務が発生する。しかし”異状死”を”継続治療中の患者の死”ということにしてしまえば、誰にも咎められることなく遺体を火葬場に送ることが出来る。役所の窓口は書類に不備さえなければ埋葬許可証を出すからな。おそらくこの世で一番、完全犯罪に近い死体の処理方法だろう」
「でもそれって……」
「医師法違反、並びに有印私文書偽造、同行使だな。もちろん、その前に殺人の事後従犯と証拠隠滅がついてくる」
「そんなことが可能なんですか?」
「過去に実際にあった話だし、逮捕者も出てる。そうじゃないかと疑われた事例は数え切れないよ。世の中には、特に日の当たらない社会の連中には”消えてもらわなきゃならないが、だからと言って変な死に方をしてもらっちゃ困る人”というのがいてね。跡目争いの真っ最中なんか、特に。そういう人間が死んだとき、連中の息のかかった医者が出てきて偽の診断書を書くのさ」
「……イヤな話ですね」
「確かにそうだな」
 アタシがイヤだったのは話の内容もそうだったけれど、元警官であるはずの熊谷がこういう不正を半ば肯定的に受け入れていることだった。しかしそのニュアンスは伝わらず、熊谷は苦笑いしただけだった。
「徳永はまず小宮をを呼び出した。村松には持病の心臓疾患があって、自宅近くの野間の診療所に通院していたというカルテを偽造させるためだ。出先の診療所の患者の担当医が本院の院長というのもかなりおかしな話だが、ま、辻褄はどうにでも合わせられるからな。その上で村松の遺体を本院の霊安室に運び込んで、出入りの葬儀屋に通夜の準備をさせた。本来なら家族がやるべきことだが、村松は横領が発覚する少し前――去年の暮れに三行半を突きつけられていて身寄りはなかった。逆に言えばそうだったからこそ、この隠蔽は可能だったんだが」
「葬儀屋さんたちは、死体の首の痕には気付かなかったんですか?」
「気付いたかもしれないが、葬儀屋はそれを詮索したりはしないよ。自殺かな、と思っただけだろう。表向きの死因と実際が違うケースなんて世間にはいくらでもあるからな」
「――それはそうでしょうけど」
 声に刺々しい響きが混じっているのが自分でも分かった。
「とにかく小宮の手によって偽造カルテが作成され、徳永はそれに基づいて偽の死亡診断書を作成した。村松の通夜と葬儀はすぐに行われ、遺体は早々に火葬場に送られた。後になって警察に探りを入れられたが、いかんせん遺体が灰になったあとでは彼らもどうしようもない。偽装は上手くいったはずだった」
 熊谷はそこで言葉を切った。アタシはその後を続けた。
「――小宮が脅迫者に成り下がるまでは、ですか?」
 熊谷の目に一瞬、鋭い光が宿ってすぐに消えた。
「そうだ。小宮は徳永夫妻を脅迫するために霊安室で村松の遺体を撮影していたんだ。ヤツは同時に祐輔君の事故のカルテもホストコンピュータから盗み出していた」
「ずいぶんと思い切ったことをしたもんですね」
「確かにな。小宮というのは見た目は気の小さい実直そうな男でね。徳永夫妻が偽装工作に巻き込んだときにも、強請りを働くような度胸はないと思っていたから放っておいたんだ。ところが小宮は実は救いようのないギャンブル狂でね。負けが込んだ分を街金融に借金していて、追い込みをかけられて切羽詰っていたらしい。そんなところにカネになりそうなネタが転がり込んできた」
「千載一遇のチャンスというわけですね」
 熊谷は小さく頷いた。
「さっきも言ったが、ゴールデンウィークに入るちょっと前に、小宮がカルテのコピーと村松の遺体の写真を収めたMOディスクと引き換えに二千万円を要求してきた」
「追い込まれていた割には、ずいぶんとのんびりした脅迫ですね」
「そうかも知れんが、迂闊に強い態度に出て村松の後を追わされては堪らないと考えたんだろう。一旦、村松の事件が落ち着いてからのほうが脅迫の効果も高いしな。ついでに言うと工作の謝礼として、小宮は徳永夫妻から結構な礼金を受け取っている。当座の支払いはそれでしのげていたはずだ」
「本命のカネは逃げはしないということですね。二千万円は払ったんですか?」
「徳永夫妻は支払うと言ったが、俺は反対した。一度支払えば、今後、何度でもカネを要求してくるだろう」
「二度目を防げるかどうかが重要ということですね」
 アタシは熊谷自身の言葉を引用した。
「そのとおり。協議は大揉めに揉めたが結局は俺の意見が通った。我々は要求に応じるフリをして小宮の身柄を押さえて、ヤツの自宅にガサをかけた」
 ”ガサをかける”というのは家捜しをするという意味だ。テレビのバラエティ番組などでも使われるので、警察の隠語の中では比較的ポピュラーな部類に入る。
「ディスクは回収できたんですか?」
「ああ。持ち出したオリジナルとバックアップ用のコピーが一枚づつ。念のため、小宮のノートパソコンやらデスクトップ、例の高性能デジタルカメラの類は完膚なきまでに破壊させてもらった。他にも本やCD、DVDなんかも、ちょっとでも怪しいものは全て持ち出して焼却した。ジャズの名盤コレクションを燃やすのはちょっと心が痛んだがね」
「でも、事の真相を知っていることには変わりないわけですよね。またカネに困って、同じ事を繰り返さないという保証はないんじゃないですか?」
 熊谷は可笑しそうに目を細めた。
「確かにそうかも知れないが、そう思っているのなら君は暴力というものがどれだけ人の心を萎縮させるか、知らないのさ。一度、折れた心はそう簡単には元に戻らない。それを取り戻す力こそが本当の強さだと思うが、小宮にはそんな強さはないよ」
「……そんなものですか」
 熊谷の得意げな物言いが、不意にアタシの何処かにある怒りのスイッチを押した。
 それは何と言ったところで、この男が暴力を拠り所にして仕事をしていることへの嫌悪感だった。
 アタシだってケンカもするし、その結果として他人にケガをさせたこともある。それには必ずしも自分の身を守るためだとか、誰かを助けるためだとか、そういう真っ当な理由があったわけじゃない。ハリネズミが近づけばお互いを傷つけあうように、ただ虫の居所が悪かっただとかガンをつけただとか、そんなくだらない理由で拳を振り上げる。それだって暴力には違いない。
 しかし熊谷の――あるいは高橋を襲った連中の振るう暴力は誰かの心を折るための力、人間としての尊厳や誇りを踏みにじるための力だ。それはアタシが信じている闘うための力とは違うものだ。
 それは強さとは絶対に違うものだ。
 怒りにまかせてもいい場合でないことは分かっていた。しかし、一度膨れ上がった感情は抑えることが出来なかった。
 前触れもなく押し黙ってしまったアタシを熊谷は不審そうな眼差しで覗き込んだ。しばらく話の糸口を捜すように宙に視線を彷徨わせていた。
「何か気に障ることを言ったのかな?」
「……別に、そんなことないです」
 熊谷は小声で何か(これだから女は、とかそんなことを)呟きながら肩を竦めた。
「あー、そろそろ帰ったほうがいいかもな。家まで送ろう」
 熊谷はポケットから取り出したキーホルダーを指で回しながら、自分のとアタシのギネスの缶を取ってゴミ箱に放り込んだ。
「いいです、タクシーで帰りますから。それに熊谷さん、お酒飲んでるじゃないですか」
「こんなの呑んだうちに入らんよ。いいから乗っていけよ。さっきみたいなのがまた出てきたらどうするんだ」
 大沢がマスク男を置いてここに舞い戻ってくるとは思えなかったし、これ以上、この男と話したくもなかった。しかし出掛けにあれだけ念入りに整えたアタシの格好は、立ち回りのせいで汚れてボロボロになっていた。こんな格好でタクシーに乗ろうものなら、どんな誤解を受けるか分かったものじゃない。
 アタシは気持ちを落ち着けようと大きく深呼吸した。
「分かりました。家まで送って下さい」
 熊谷は椅子から立ち上がり、デスクトップの電源を落とす操作をした。アタシは破れたストッキングを丸めてバッグに押し込んだ。灯りを消して戸締りをしてからオフィスを出た。







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