砕ける月

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  第 22 章  

 遠くから何かが蠢くような耳障りな音が聞こえていた。
 それが枕元のバッグの中でケイタイのヴァイヴレータの音だと気付くのに少し時間がかかった。
「……んあ? 誰よ、こんな時間に……」
 アタシは枕に突っ伏したまま、手を伸ばしてバッグの中に手を突っ込んだ。指先がケイタイに触れたのとヴァイブが止まったのはほぼ同時だった。
 ケイタイを引っ張り出した。時計は十時を示していた。
 こんな時間、ではなさそうだった。
 ベッドに潜り込んだのが四時過ぎだったから六時間は眠ったことになる。夢も見ないほどの深い眠りのおかげで疲れはかなり軽くなっていた。
 ケイタイを開いて着信履歴を見た。
 三村美幸からだった。朝から七回かかってきていて最初の午前七時以降、几帳面なことにきっかり三十分に一回のペースでかかってきていた。
 同じA型でもアタシとはえらい違いだ。
 番号を呼び出したまま発信ボタンを押した。電話は一コール目が終わる前に繋がった。
「――もしもし、榊原さん!?」
 声には苛立ちが表れていた。昨夜から数えると十回近くかけても繋がらないのだから無理もない。
「ゴメン、寝てたんで。どうしたの?」
「あの後、由真と連絡とれた?」
「まだ。そっちは?」
「こっちもまだ」
 訊いてから「馬鹿なことを……」と思った。連絡がとれていればアタシに電話などかかってこない。
「――徳永さん、どうしちゃったんだろ?」
「そうだね」
 昨日と同じようにお互いに盛大なため息をついた。
 油断すると遠のきそうな意識をしっかり保って、アタシはベッドの上で仰向けになった。
 エアコンが切れていて体中に気持ちの悪い汗をかいていた。カーテンの隙間からは昨日までの晴天がウソのようなどんよりした空が覗いていた。このまま雨が降り出しそうな感じで、バイク乗りにはちょっと憂鬱な天気だ。
「――ねぇ、昨日のことなんだけど。あなた、訊いたじゃない。由真に何の用事かって」
 三村が言った。
「うん」
「実は私、由真のことで心配してることがあるの。ちょっと深刻な話なんで、今まで誰にも話してないんだけど、ひょっとして連絡が取れないことと関係があるんじゃないかと思って」
「いいの? アタシにそんなこと話して」
 三村は短く唸った。
「そうなんだけどね。でも、他に相談できそうな相手もいないし……」
 何となく頭の中で話が繋がった。おそらく祐輔が由真を殴った現場に現れた友人というのは三村美幸のことなのだ。そういえば彼女の家も同じ百道浜にある。
「オッケー。電話じゃなんだし、時間が合うなら何処かで会おうか」
「ええっ!?」
 三村は心底驚いたように大きな声を出した。
「……アタシ、何かヘンなこと言った?」
「ううん、そんなことないけど……。いいよ、私は今日は一日空いてるけど何処にする?」
 アタシは少し考えた。彼女に会う前に高橋の見舞いに行っておきたかった。一時にドーム前のハードロック・カフェでと言うと、三村は了解と答えて電話を切った。
 パジャマと下着を脱ぎ捨てて、自分の部屋の狭いバスルームでシャワーを浴びた。
 熱いお湯と冷水を交互に浴びて肌に纏わりついている鬱陶しい汗を洗い流すと、徐々に身体が目覚めてくるのを感じた。
 膝の絆創膏は洗面所に置いてある薬箱の新しいものと貼り替えた。
 姿見で見ると意外と目立っていて、しばらくは脚を露出するものは避けなきゃいけないなと思った。まあ、もともと生傷だらけの脚を出すのは趣味じゃないけれど。
 祖母に見咎められたら何と誤魔化そうかと考えていて、不意に夕べの祖母との会話が脳裏に甦った。
 ――遅くなったら迎えに来るから電話するのよ。
 アウディを降りるアタシに向かって祖母はそう言った。
 そして現実はというと、午前様どころかほぼ朝帰りだった。
「……うわぁ、ヤバイなぁ」
 アタシは思わず呟いた。そして自分がそう思っていることに少し驚いた。
 夜遊びも朝帰りも初めてではないので、おそらく改めて咎められはしないだろう。と言うよりこれまでそんなことを気にしたことすらなかった。そもそも祖母に送ってもらうこともそんな約束をしたのも初めてだったのだ。
 なのに初っ端からそれを破ってしまったことを、アタシは少なからず後悔していた。
 窓から中庭と母屋の方を窺った。
 祖母は大きな麦藁帽子を被って庭木に水をやっていた。本来は祖父の仕事なのだけれどその姿は見えなかった。おそらくゴルフか釣りに行っているのだろう。
 しばらく迷ってから、アタシはノースリーブのシャツとショートパンツを着て庭に出た。
「……おはよ」
「あら、もう起きたの?」
 祖母は散水用のシャワーノズルを手に、子供が水遊びでもしているような笑顔で水を撒いていた。そこには少なくともアタシを咎めだてするような雰囲気は感じられなかった。
 それがかえってアタシを暗澹たる気持ちにさせた。
「……お祖父ちゃんは?」
「またゴルフよ。まったく、お盆くらいウチでおとなしくしていればいいのに」
「そうだよね」
 アタシは祖母の傍らに立った。この年代の女性にしては長身の祖母も、アタシの隣では小柄な老女だった。アタシは祖母の手からシャワーノズルを取った。
「アタシがやるよ。お祖母ちゃんは休んでて」
「……そう?」
 祖母は大して気にする様子もなく身を引いた。アタシはノズルに付いているレバーを引き絞って、勢いよく水を撒いた。水滴がどんよりした曇り空を背景に雨の前兆のように降り注いだ。
「でもさぁ、雨が降りそうなのに、何で水なんて撒くの?」
「――そうねぇ、何でかしらね。もうボケが始まってるのかしら」
「やなこと言わないでよ」
 しばらく押し黙ったままアタシは庭に水を撒き、祖母は縁側に腰を下ろしてその様子を見ていた。
 アタシは昨日の約束をすっぽかしたことを謝るタイミングを探っていたけれど、それはなかなか掴むことができなかった。
 やがて一通り水を撒き終えて、アタシはホースをリールに巻き取った。普段はキチンと巻けるのに、今日は何度途中でやり直してもいびつなバランスでしか巻けなかった。
「――膝、どうしたの?」
 縁側に歩いていくと祖母が言った。
 一瞬、ケンカしたのと言いそうになった。
 ケガしたところを隠さずに、むしろこれ見よがしに脚を出してみせたのは祖母の反応が見たかったからだった。放任主義と言いながら実際にはアタシと向き合いたくないんじゃないか。――アタシはそんなことを考えていた。
 そして、そんなことで祖母を試そうとしている自分がたまらなく嫌だった。
「ちょっとね、転んだの。慣れないスカートなんか履いちゃったから。あははは」
 アタシはわざとらしく大きな声で笑った。祖母は柔らかい笑みを浮かべたまま何も言わなかった。
 玄関のインターホンが鳴った。
 祖母は立ち上がると縁側に面した部屋でインターホンの受話器を取った。アタシは一旦、自分の部屋に戻ろうとしながらその様子を窺った。
 柔和な祖母の表情が見る見るうちに硬くなっていくのが見て取れた。
 何事だろうか。
 アタシは縁側から上がって部屋の入口に立った。
 やり取りは短くて、アタシが行ったときには話は終わろうとしていた。
「……そうですか、分かりました。呼んでまいりますので、しばらくお待ち下さいませ」
 祖母はそう言って受話器を置いた。パネルのスイッチを操作して玄関の門扉のロックを外した。
 アタシのほうを振り返った祖母の表情は、困惑とも怒りとも取れる感情で微妙に歪んでいた。
「誰なの?」
「警察の方よ」
 祖母の声は夜の闇のように暗く、そして硬かった。
「警察!?」
「そう。……真奈、あなたに用だそうよ」
「アタシに? アタシ、警察沙汰になるようなことしてないよ」
 思わず声が裏返りそうになった。
「そうじゃないの。あなたのお友達のことで話を訊きたいそうなの。高橋さんって、あなたが能古島に行ってる間に電話を下さった方よね?」
「そうだけど……」
 確かに今のアタシと警察の接点といえばそのことしかなかった。事件に何か進展があったのか。それとも高橋の容態が急変でもしたのだろうか。
 祖母はアタシの顔をじっと見つめていた。
 その表情からアタシは祖母の変化の原因に思い当たった。高橋拓哉の傷害事件の担当刑事として、この家を訪ねてくるのは奴しかいない。
 彼女の一人娘の娘婿、そして孫娘の父親を刑務所に送った男――村上恭吾。








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