砕ける月

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  第 55 章  

 アタシは再びウッドデッキの縁に近寄った。
 言いたいことを言い終えたのか、古瀬は上機嫌だった。永浦にクルマを裏庭に回すように言うと突きつけていた拳銃を下ろした。
 その手のものにはほとんど興味のないアタシでも、拳銃にリボルバーと呼ばれる回転式の弾倉を持つものとグリップに弾倉を差し込むもの(名前は知らない)があることくらいは知っている。
 男の手にある拳銃には回転式弾倉の出っ張りは見当たらなかった。
 アタシは思わず舌打ちしそうになった。リボルバーなら弾丸はせいぜい五、六発しか入らないはずだけど、そうでないものが何発撃てるのかなど知る由もないからだ。
 アタシは何発の銃声を聞いたか思い出そうとした。
 最初に聞こえた一発。裏手に回る間に一発、リズミカルに三発、二発。そして少し間を置いて二発と一発。そしてさっきの一発。〆て計十一発。
 この手の拳銃が弾丸を撃ち尽くすと上部のスライドする部分が後ろに下がったままになるのは、映画で見たことがあった。でも、それが本当にそうなのかというとちょっと自信が持てない。
 ただ、弾切れの銃を突きつけて脅すほど古瀬も馬鹿ではないだろう。
 出来れば弾丸を撃ちつくして弾倉を交換している隙を突きたかった。しかし、それを待っていて熊谷や大沢が撃ち殺されては本末転倒だった。
 やるしかない。
 アタシは覚悟を決めた。自分でも驚くほどの汗が額に吹き出しているのが分かった。
 不意打ちで拳銃を叩き落せなかった場合、初弾をかわすしかなくなる。父が以前、拳銃というのはよほど熟達していないと狙っても当たるものじゃないとは言っていたけれど、村上曰く、射撃が大の苦手だったという父の言に賭けるのは憚られる。
 一瞬でいいから古瀬の注意を引きつける何かが欲しかった。しかし、それを待っている暇はなかった。
 アタシは気づかれないように注意しながらデッキの縁の出っ張りに足を掛けた。柵の上にゆっくりと手を伸ばした。
 その瞬間、大沢が勢いよく身体を起こした。まるでアタシの動きに気づいていたようなタイミングで。
「古瀬ぇっ!!」
 獰猛な野獣の咆哮のように大沢の低く太い声が鳴り響いた。
「ヒッ!!」
 情けない声とともに拳銃が跳ね上がって、大沢の胸に狙いを定めた。古瀬の背中がアタシの視界一杯を占めた。
 アタシは全身のバネを開放して柵の上に飛び上がった。ギシッという柵の軋む音がびっくりするほどはっきり聞こえた。
 古瀬はとっさに首を回した。アタシの姿を認めると銃口がアタシのほうへ向き直ろうとした。
 しかし、その瞬間にはアタシは身体ごと古瀬に飛び掛かっていた。
「――ぐはあっ!!」
 床に叩きつけられて、古瀬が肺の中の息を吐き出した。
 殺した相手の血でも啜ったような生臭さだった。顔を背けたくなるのを堪えて上から拳銃を持っているほうの手首を押さえた。関節を極めてやりたかったけど背後から押さえ込むような格好では手首を捻るのは難しい。
 古瀬の右腕に力がこもった。ゆっくりと拳銃の向きを変えようとしている。
 アタシは空いているほうの手も動員してその腕を押さえにかかった。大沢が相手ならそれでも振り切られたかもしれないけど、古瀬の腕力ならアタシでも何とかなる。 
 アタシは古瀬の胴に足を掛けてそのまま身体を起こして馬乗りになった。
 半身の状態の古瀬の左腕は自分の身体の下敷きで動かせない。
 古瀬は懸命に身を捩った。しかしアタシは全体重をかけて古瀬の動きを封じた。一応は年頃の乙女であるアタシは風呂上りに体重計に乗るたびに憂鬱になるけれど、今だけは自分の男勝りの体格に感謝した。
「ちくしょう、このアマ、どきやがれッ!!」
「ホント、あんたってボキャブラリーがないのね」
 アタシは右腕を押さえる手に力を込めた。
 前腕の橈骨と尺骨の間に指先をめり込ませた。
 ここには手首を内側に曲げる筋が通っていて、押さえると激痛とまでは言わないけど手先に力が入らなくなる。しかもアタシの指は貫手の稽古で女子の手とは思えないほど鍛え上げられている。
 古瀬の手が弛んだ。アタシは古瀬の手首を持ち上げて拳銃を持った手ごと、何度も床に叩きつけた。三回めで拳銃は古瀬の手を離れてデッキの上を滑っていった。
 アタシは握ったままの手を引っ張って古瀬の身体をひっくり返した。
 いわゆるマウント・ポジションという格好で、古瀬はようやく自分が絶対的に不利な状況に置かれたことを悟ったようだった。
「おい、ちょっと待てよ。まさか、俺をフクロにしようってんじゃないだろうな?」
「そのまさかよ」
 アタシは躊躇なく顔のど真ん中に拳を落とした。さらに数発殴ると鼻の軟骨が折れた感触が伝わってきた。
「ひぐぅっ!!」
 間の抜けた悲鳴が古瀬の口から洩れた。鼻の穴から鮮血が流れ出す。
 そのまま怒りにまかせて殴り続けてもよかった。この男には須崎埠頭で拉致されそうになったときにスタンガンでいたぶられているのだし、尻も蹴り上げられている。その借りは数発殴った程度では返せはしない。
 そうしなかったのは今のこの状況に心底嫌気が差しているからと、熊谷を一刻も早く病院に運ばなくてはならないことを思い出したからだった。
 古瀬の目からは完全に戦意が消え去っていた。アタシは最後にもう一発、裏拳で頬を張ってから立ち上がった。
 次の瞬間、アタシは自分の迂闊さを呪った。
 古瀬の手を離れた拳銃は、立ち上がった大沢隆之の手の中にあった。
 銃口の黒い穴は不思議なほど大きく見えた。
 絶望的な恐怖の前にアタシの両脚は凍りついたように動かなかった。
「……何の真似?」
 それでも内心の動揺を悟られないよう、アタシは精一杯の虚勢を保った。
 しかし、大沢の視線はアタシを通り越して背後の庭に向けられていた。古瀬の手の中ではそれなりに大きく見えた拳銃が大沢が持つと子供の玩具のようにしか見えない。
 無造作に銃口が上がると、もはや聞き慣れつつある銃声が鳴り響いた。
 鼓膜を直接ぶん殴られるような轟音にアタシは思わず耳を塞いだ。
 拳銃はリズミカルに三発鳴った。銃の上部のスライドする部分が後退したまま開きっぱなしになった。
 アタシは恐る恐る弾丸が打ち込まれた背後の裏庭を見た。
 そこにはヒゲ面の男が仰向けに倒れていた。胸の部分が赤く染まって手が痙攣するようにピクピク動いている。その手には大沢が持っているものによく似た拳銃が握られていた。
「……まったく、ブローニング・ハイパワーなんて、どこで手に入れたんだ」
 大沢は開いた部分を元に戻して拳銃を床に落とした。鋼鉄の塊がたてるゴトンという音がしびれた耳に奇妙な響きを残した。
 アタシは目の前で起こったことを受け入れようと大きく深呼吸した。騒がしさの元凶がなくなると辺りは気まずさを取り繕うような静けさを取り戻していた。
 糸の切れたマリオネットのように大沢がその場に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫なの?!」
 アタシはその身体を支えようとしたけれど、とてもアタシの力でどうにかなる体格ではなかった。
「俺はいい。社長を頼む」
 大沢はデッキの片隅に倒れ込んだままの熊谷のほうを見やった。微かに上下する胸がまだ生きていることを示していたけれど、蒼白な顔からは表情は削げ落ちてもはや生命の気配は感じられなかった。
 アタシはトランシーバーのスイッチを捻った。
「美幸、聞こえる?」
『真奈っ!!』
 銃声よりもよほど鼓膜に堪える叫び声だった。
『大丈夫、真奈!? すごい音だったけど、ケガとかないの!?』
 言い募る美幸を宥めて、アタシは急いで本館から医者と搬送用のクルマを呼んでくるように頼んだ。ここは曲がりなりにも病院の敷地内だ。一一九番にかけるよりそちらのほうが早いだろう。
 アタシは熊谷の傍らに膝をついた。熊谷は目だけでアタシのほうを見た。
「……よう」
「しゃべらないで。すぐ、救急車が来るわ」
「……よせよ、どうせ助からん。腹に四発も喰らってるんだ。……ヤクザが何故、人を撃つときに腹を狙うか、知ってるか? 腹じゃ即死はしない。意識もしっかりしたままだ。しかし、内臓を傷つけられたら絶対に助からないからだ」
「そんな余計な知識、いらないです」
 血まみれのシャツには焦げたような穴が確かに四つ開いていた。出血量も相当なもののようだった。
 熊谷は魂が抜け出す音のような細くて長いため息をついた。
「……つまらんことに、巻き込んで、すまなかったな」
「アタシが勝手に首を突っ込んだんです。――由真はどこですか?」
「地下だ。祐輔くんも、一緒だ。……二人とも鎮静剤を打ってあるが、命に別状は、ないはずだ」
 熊谷は一瞬、自分の下半身のほうに目をやった。
 ダークスーツなので目立たないけど、スラックスの腰回りには流れ出した血が染み渡っていた。生地が肌に貼り付いて気持ち悪いのか熊谷は身を捩ろうとしたけれど、身体は動かなかった。もはやそんな力も残されていないのだった。
「どうしてこんなことに?」
 訊きながら、アタシは猛烈な怒りと無力感を感じていた。
「……復讐、だったんだ」
「復讐?」
「そう……徳永夫妻に対する、ね」
「徳永麻子が、妹の佳織さんを殺したからですか?」
 アタシがそれを知っていることに熊谷はちょっとだけ驚いたような素振りを見せた。しかし、それはすぐに何かを悟ったような表情に変わった。
「……そうだ。あの日、俺はいつものように、佳織の見舞いに顔を出した。……そして、麻子が佳織を殺した現場に、出くわしたんだ」
「あなたは最初から、それを知っていたんですか?」
 熊谷は返事の代わりに目を閉じた。
「あなたはまだ刑事だったじゃないですか。なのにどうして、それを見逃したりしたんですか?」
「……取引だったのさ」
「今の立場を手に入れることと?」
「由真を娘として育てることと、だ。……あのまま、麻子を逮捕したとしても、由真はそれこそ、本当の孤児になるだけだ。父親が知れないってことで、徳永の先代は最初から、由真には冷淡だったし、圭一郎は由真を引き取って育てたりは、しなかっただろうからな。……あいつは麻子が逮捕されるのなら、祐輔くんすら徳永家に残して、出て行くと言ったんだ」
「あなたが由真を引き取ればよかったじゃないですか」
「……簡単に言うなよ。いくつ、越えなきゃならん、法の壁があると思ってるんだ」
 熊谷はアタシの顔をじっと見詰めた。
「……人はな、自分が痛い目に遭わされたことは忘れないが、自分が人を傷つけたことは、やがて忘れてしまう。……俺は警官時代に、被害者がずっと事件の重荷を引きずってるのに、加害者が慰謝料だけ払って、あとはのうのうと暮らしているのを、何度も見てきた。……麻子だって、いずれは自分たちがしたことの罪の深さを、忘れてしまうんだ」
 熊谷はそこで一度、言葉を切った。
「……俺はあいつらの、喉に刺さって抜けない小骨になることを、選んだ。……俺という男に強請られ続けることで、自分たちが何をしたのか、忘れさせないために」
「それが、あなたの復讐だったんですね」
「そうだ。……しかし、あれからもう、十四年経った。徳永夫妻は少なくとも、由真に関する約束は守った。由真は本当にいい子に育った。……俺が引き取ってたら、ああはいかなかっただろうな」
 アタシは頷いた。熊谷は苦笑を浮かべた。
「……一方、望んで手を染めたわけじゃないが、俺は由真の近くにいるには、相応しくない人間に成り下がった。そろそろ、俺は消えるべきだ。もう、いいだろう。この家族を解放してやろう。――そう思っていた。そんな矢先、祐輔くんの事故が起こった」
「隠蔽工作は徳永夫妻の独断で行われた。あなたは関わっていないんでしたよね」
 熊谷は小さく頷いた。
「これ以上、俺に、弱みを握られたくなかったんだろう。……しかし、それが、結果的に麻子のコロシを誘発してしまった」
 言い捨てるような”コロシ”という単語がこの男の出自を示していた。
「本当に、愕然としたよ。麻子も圭一郎も、何も学んじゃいなかった。俺に長い間、頭を押さえつけられて、不愉快な想いをしたはずなのに。……大事な跡取り息子のためだったかもしれない。だが、自分たちの都合のいいように、物事を解釈するところは、まるで変わっちゃいなかったんだ」
「だから、殺人の隠蔽を手伝った代わりに、夫妻に口止め料を要求したんですね。二人に思い知らせるために」
「……なぜ、そう思うんだ?」
「由真は脅迫メールの中で、あなたに五千万円を要求しました。それは、あなたが夫妻から脅し取ったおカネを取り返そうとしたんじゃないですか?」
「……やはり、君は頭のいい子だな。学校を辞めかけたってときに、ウチにスカウトしておけばよかったよ」
「今度は真っ当な仕事をするんだったら、刑務所を出てきてから手伝ってあげてもいいですよ」
 熊谷の唇の端がちょっとだけ動いた。おそらく笑ったのだろう。
「由真と麻子が仲違いをしたことは、耳に入っていた。……しかし、まさか由真が、俺を敵視して、あんなことをしでかすとは思っていなかった」
 熊谷の息は絶え絶えになりつつあった。しかし、彼は話すことをやめようとはしなかった。
 事件の終焉を知らせるベルのようにパトカーのサイレンの音が近づいてきた。クルマのブレーキの音が建物の向こうでいくつも鳴った。
「そんなにあのファイルは、大事なものだったんですか?」
「俺にとって、というよりも、あのファイルに名前のある連中にとって、だけどな。……そいつらが、動き出す前に、何としても俺の手で、ファイルを取り戻さなきゃならなかった」
「そうでなければ、由真がそいつらから狙われることになるから?」
「……そのとおり。結果的に、それで後手後手に回らざるを得なかったことが、俺の敗因になったがな」
 アタシは息を呑んだ。
 それはもし熊谷がファイルを奪還することを最優先にしていたら、そしてそのために手段を選ばなかったら、今ごろアタシは由真や高橋と一緒に何処かに埋められていてもおかしくなかったということだからだ。
 騒がしい足音ともに建物の角から村上と藤田が姿を見せた。惨状を目の当たりにして二人は顔を曇らせた。その後ろにいた中年の医師らしき白衣の男と担架を抱えた助手っぽい若者が走り寄ってきた。
「……一つ、頼まれてくれるか?」
 熊谷はまた目を閉じていた。
「何をです?」
「俺の代わりに、由真に謝っておいてくれ。つらい目に遭わせて済まなかった、と」
「嫌です、そんなの。自分で謝って下さい」
「言ったろ。……俺はもう、助からん」
「そんな――」
 どきたまえと隣にしゃがみ込んだ中年の医師が言った。アタシは思わずその医師を睨み返しそうになった。しかし、その場で邪魔をしているのは明らかにアタシのほうだった。
 アタシは立ち上がって後ろに下がった。広げられた担架の上に熊谷の恰幅のいい身体が載せられて、誰かが開けた建物のベランダの窓から手際よく運び出された。
 大沢も白衣の男に付き添われて別の担架に載せられていた。抵抗する素振りは見せていない。
 裏庭にいつの間にか制服警官でごった返していて、周辺には立ち入り禁止を示す黄色いテープが張られていた。
 古瀬が乱暴に引っ立てられて行く様子が見えた。権藤課長の指示で死体を入れるのに使う黒い寝袋のようなビニールバッグが運び込まれて、残りのメンバーはそれに入れられて運ばれていった。
 この場で繰り広げられたあまりにも現実感を欠いた出来事が、今ごろになってアタシの精神を揺さぶった。
 人が三人殺されて、一人が今にも死にそうになっている。熊谷が倒れていたところには下手糞な前衛芸術家がハケで刷いたようにベッタリと赤黒い血痕が残っていた。耳の奥に残る銃声がいつまでも消えない残響のように何度もリフレインしていた。
「――大丈夫か?」
 村上が言った。
 アタシは錆びついたブリキの人形のようにぎこちない動きで彼のほうを向いた。
 地下室に由真と祐輔がいることを告げると、村上は近くにいた制服警官に彼らを保護して病院に運ぶように指示した。
 村上はジッとアタシを見詰めていた。
 自然と涙が溢れた。
 人が死んだことが悲しいのか。誰も救われなかったことが悔しいのか。それとも全てが終わったという安堵なのか。涙の理由はアタシ自身にもよく分からなかった。
 アタシは村上の胸板に頭を預けてすすり泣いた。
 村上は昔、まだ今のような関係になる以前によくしてくれたように、アタシの頭をポンポンと優しく叩いた。







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