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  第 2 章  

「――オッケー、お疲れさまでしたぁっっ!!」
 ショーの現場を仕切っていたイベント会社の社長のハイテンションな声が控え室に響いた。
(やっと終わった……)
 心の中でそう呟くと、それが合図だったように膝から力が抜けていく。アタシはその場にヘナヘナと座り込んだ。
 由真の策略にはまって所属契約書にサインしてからおよそ半月。アタシは雑誌のドライブ特集企画のモデルと、新聞の折込に入るショッピングモールの広告のモデルの二つの仕事をこなしていた。ショーモデルは大半が経験を積んだプロの先輩たちに回されて、新入りのアタシにはそういったどちらかと言えば小さな仕事のほうが割り振られるのだと由真は説明してくれていた。
 それなのに、アタシは今日、大名のチャペルを借りて行われたブライダル関係のショーでステージデビューを果たす羽目に陥っていた。
 そんなことになったのは、不慣れなアタシのことを何かと気にかけてくれた先輩モデルの留美さんが交通事故に遭ってしまったからだ。
 ただ、普通であればそういう事態が起こっても代役の都合はすぐにつく。ところが、今回はそれがショーの二日前だったことと、用意されていた衣装が長身の彼女に合わせてあったために、空いている他のモデルでは穴を埋められなかったのだ。
 正直に言って迷った。そもそも本格的にモデルを目指すつもりはなかったし、小さな仕事でも数をある程度こなしていけば、そう遠くないうちに目標金額を達成できそうだったからだ。しかし、入院先からわざわざ詫びと代役のオファーの電話をかけられては断ることもできない。
 決して大きなイベントではなかったけれど、沸き立つような歓声とみなぎっていた緊張の名残りが入り混じって、奇妙な高揚感がその場を支配していた。誰の顔にも安堵と達成感に満ちた表情が浮かんでいる。心の準備をする間も与えられず、ほぼぶっつけ本番でショーに挑んだアタシ以外は。
 最後の出番でアタシをエスコートしてランウェイを歩いた男性モデルがボルヴィックのペットボトルを手渡してくれた。紫色のタキシードという、この場でなければ正気を疑うような姿が驚くほど様になっている。
「よかったよ、真奈ちゃん。すっごく堂々としてたし」
「……はぁ。そうですか……」
 それだけ言って、あとは何を言われても糸の切れかかったマリオネットのようにぎこちなく頷き返すことしかできなかった。胃を握り潰されるようなプレッシャーからようやく開放されたというのに、動悸はまるで収まる気配を見せなかった。達成感を感じる余裕などどこにもない。
「――お疲れ。どうだった?」
 いつの間にか隣の椅子に由真が座っていた。スタッフとしてこの現場に来ている由真はジーンズに薄手のトレーナーというラフな格好だった。彼女がそんな格好でアタシが着飾っているという図式は、まるで「王子と乞食」の劇のようだった。
「……もうダメ。死にそう」
「またぁ、オーバーなんだから」
「全然オーバーじゃないよぉ。ホント、右手と右脚が一緒に出そうだったもの」
「そんな感じには見えなかったよ。社長がビックリしてたもん。すっごい舞台度胸だって」
「冗談じゃないよ。もう、頭の中が真っ白だったんだから」
 由真は申し訳なさそうに目を伏せていた。
「ホント、ごめん。いきなりムチャさせちゃったね」
「いや、そんなこと――」
 ないけど、という言葉は飲み込んだ。そんな気遣いをする余裕もないほどアタシは凹みまくっていた。

 家に帰ると、そんなアタシに追い討ちをかけるような事態が待っていた。ダイニングのテーブルに鯛の尾頭付きやお赤飯、特製のがめ煮やアタシの好物のゴマ鯖など、何が起こったのかと問いたくなるようなご馳走がならんでいたのだ。
 無論、それは祖母がアタシのために用意してくれたお祝いだった。
「うわあ、すっごーい!!」
 由真の能天気な歓声がアタシの疲労感をさらに重いものにした。
「あら、早かったのね。もうちょっと遅いかと思ってたから、まだ準備ができてないのよ」
「この上、まだあるの?」
 テーブルにはこれ以上何か置けそうなスペースは見当たらなかった。
「だって真奈の花嫁姿が見られるなんて、こんな嬉しいことはないじゃない。どれだけお祝いしたってしきれないわ。ねえ、由真ちゃん、そうでしょう?」
「だよねぇ。あ、ちゃんと録画してきてるから」
 由真はアタシが横目で睨むのを意にも介さず、ニヤニヤと笑っていた。二年前の事件で一家離散の憂き目にあった由真は我が家に居候している。自分の祖母が早くに亡くなっているせいもあってか、血縁者であるアタシ以上に祖母に懐いている。
「でもさ、花嫁姿っていっても仕事でドレスを着ただけだよ?」
「それでもよ。だって、本当にあなたがお嫁入りするころには、わたしもお祖父さんもこの世にはいないかもしれないでしょ」
「……縁起でもないこと言わないでよ」
 仕方ないのでテーブルについて、藤色の小紋の上に割烹着を着て忙しなくキッチンを動き回る祖母の姿を見ていた。祖父の入院が長引く中、このところめっきり元気のなくなっていた祖母が生き生きしている姿を見るのは久しぶりだった。そう思えば少しぐらいはしゃがせてあげるのも祖母孝行というものなのかもしれない。
「お祖母ちゃん、準備できたよ」
 DVDデッキの前の由真が振り返った。
「そう? じゃあ、さっそく見せてちょうだいな」
「……アタシ、用事思い出した。ごはんの準備できたら呼んで」
 祖母に見るなとは言いたくないけど、引き攣った自分の表情を見て自己嫌悪に陥るのは勘弁して欲しい。宴の準備ができるまでの間、アタシは自分の部屋に引っ込むことにした。
 
 ガレージの二階の離れでシャワーを浴びて、小型の冷蔵庫に隠している発泡酒を取り出した。プルタブを押し開けて、缶の半分ほどを一息に飲み干す。
 デスクトップの電源を入れてiTunesを起動した。大のコンピュータ音痴だったアタシも由真の教育のおかげで、人並み程度にはコンピュータを扱えるようになっていた。
 ”お気に入り”というプレイリストのプレイボタンをクリックする。
 流れ出したのは松本孝弘の〈セイクリッド・フィールド〉のど派手なギター・リフだった。アタシの趣味じゃなかったしプレイリストに入れた覚えもない。多分、由真が勝手に取り込んだのだろう。
 メールボックスには有象無象の未承諾広告のメールが溜っていた。マウスをカチカチ鳴らしながらそれらを削除していると、中に一通だけ広告じゃないメールが紛れているのに気づいた。
 送信者のところには”Kohji Umeno”と記されている。半月に一通くらいのペースで届く、今年の二月まで付き合っていた元彼からのメールだった。相変わらず漢字の少ない文面はその割に短くて、ようやく東京での暮らしに慣れ始めたという内容のことが書かれていた。
 メールは二度読み返して削除した。以前にきたメールにも返事は返していなかった。
 アタシが通っていた空手道場に、保護司のオジサンに彼が連れられてきた(そして、最初の手合わせでアタシにノックアウトされた)のが、彼と知り合ったきっかけだった。
 当初はただ道場で顔を合わせるだけの調子のいい男という認識でしかなかった。それが急接近することになったのは、二年前の事件で手元に送られてきたMOディスクの解析のためにコンピュータに疎いアタシの相談に乗ってくれたからだ。彼はそのまま由真を捜すのに手を貸してくれて、その過程でアタシは彼に惹かれていったのだ。

 プレイリストを布袋寅泰の曲を集めたものに切り替えた。
 最初の曲は〈バッド・フィーリング〉だ。叩きつけるようなカッティングが印象的なBOOWYのカバー・ナンバー。元彼は熱狂的な布袋ファンで、洋楽かぶれのアタシもおかげでずいぶんと詳しくなっていた。
 彼とは憎みあって別れたわけじゃなかった。ヤンキー上がりでくすぶっていた彼に、ひょんなことから望んでいた道が開けたのは今年初めのことだった。ただ、その条件として上京しなくてはならなくなったのだ。
 遠距離恋愛という選択肢はあったのかもしれない。でも、アタシは遠く離れたところで心を通い合わせ続ける自信がなかった。そして、いつしか彼を信じられなくなるのが嫌だったのだ。
 などと格好のいいことを言ってみても、別れてからしばらくはアタシも人並みに落ち込んだ。由真を相手に一週間連続でヤケ酒を飲んでみたり、中学生の頃の恋愛の思い出に浸ってみたり。元彼と同じように保護司のオジサンに道場に連れて来られたいたいけな不良少年をコテンパンに伸してみたりもした。卒業旅行と称してクラスメイトと温泉旅行に行ったときには、彼女たちの容赦ない取調べに別れたときの気持ちを思い出して号泣したりもした。
 ただ、それでもアタシは自分でも意外なほどあっさりと立ち直った。由真や周りの友達がみんなで励ましてくれたし、大きな声では言えないが、あるきっかけで知り合った男の子と一晩だけだがいい感じになったりして――残念ながら福岡の人ではなかったのでそれっきりだけど――幾らか救われたりしたからだ。
 曲は〈サレンダー〉から〈ラストシーン〉、〈ビート・エモーション〉、そして〈ダンシング・ウィズ・ザ・ムーンライト〉へと続いていた。
 アタシは付き合い始めてすぐ、彼の友人たち(みな、元ヤンキーだった)で結成されたバンドのライブに行ったときのことを思い出していた。
 所詮はアマチュアのライブで演奏はたどたどしく、ヴォーカル兼サイドギターを担当していた彼も練習の甲斐なくところどころ音程をはずしていた。それでも黒いボディに白線の幾何学模様の入った布袋モデルのテレキャスターを誇らしげに掲げた彼は――一緒に行った由真からは”彼女バカ”呼ばわりされたけれど――最高に格好良かった。
 そのライブのラストの曲がこの〈ダンシング・ウィズ・ザ・ムーンライト〉だったのだ。

 ”Holding you tight,Dancing with the moonlight!”

 布袋のお世辞にも上手いとは言いがたい歌声をじっと聴いていると――思いがけないことだったけど――自分の顔がほころんでいるのが分かる。音楽はいつも思い出と繋がっている。そしてそれはつらい記憶を、いつの間にか笑顔で振り返れるものにしてくれるのだ。元彼のバンドはやがて洋楽のコピーもするようになって、アタシもヴォーカルとして参加することにもなった。自分が人前で歌うことなど想像したこともなかったけど、それは間違いなくアタシの”青春の一ページ”なのだ。
 ふと思い立って、削除したメールをもとのフォルダに戻した。そして、そこに記されたアドレスに向けて返事を書き始めた。大した内容じゃない。アタシも大学生活に慣れ始めたことやちょっとした行きがかりでモデルのアルバイトを始めたこと、今日がそのステージデビューだったことを書き連ねただけだ。
 にもかかわらず、返事は思っていたよりも長文になった。文末に今後もこうやって文通を続けるニュアンスを含ませるか、ちょっとだけ迷った。
 未練があるような響きになるのが何となく悔しかったので、アタシは<またメールします。追伸、早く新しい彼女を見つけてね>と記した。
 どうしてアタシはこんなに意地っ張りなのだろう?

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