Prev / Index / Next
  第 14 章  

 見せたいものがあると言う岸川に続いて、カウンターの奥にある部屋に入った。
 いかにも事務所兼休憩室という感じの飾り気のない狭い部屋で、真ん中には向かい合わせに置かれたソファとテーブル、壁際にはスチールデスクとパソコンラックが並んで据えてある。唯一の調度と呼べそうなのは壁に貼られたジャンゴ・ラインハルトのLPジャケットくらいだ。
「……来いって言っといてなんだけどさ、あんまり、こういうところにホイホイと誘い込まれないほうがいいよ」
 岸川がわざとらしい押し殺した声で言った。当惑するアタシを見てニンマリ笑うと、咥えている禁煙パイプの先っぽがユーモラスにピョコンと跳ね上がる。どういう理由か知らないが、岸川は店の中では一切タバコを喫わない。
「どうしてですか?」
「襲われたらどうするのさ」
 何処にそんな物好きがいるのだろう。由真ならともかく。
「アタシを襲う人なんていませんよ」
「まあ、確かに真奈っちにヘンなことしようとしたら、鉄拳制裁が待ってるんだろうけどさ。――準備するからそこに座ってなよ」
 岸川はアタシの言葉を違う意味に取ったようだった。アタシは彼の前で一度、自分たちの腕のなさを棚に上げて他のバンドに難癖をつけていたバカを得意技のブラジリアン・ハイ・キックで沈めたことがある。
 パソコンラックの前に他のデスクの椅子を寄せて、アタシは腰を下ろした。岸川はキャビネットの中から小さな箱を取り出すと、その中からDVDを引っ張り出して戻ってきた。
「何ですか、それ?」
「エッチなDVD。真奈っちに性教育しようかと思って」
 相変わらずだな、このオトコ。しょうがないので岸川の顔をジッと見据えてやる。そのうち、向こうが根負けして居心地悪そうに首を竦めた。
「……えーっと、まあ、見ててよ」
 岸川はデスクトップの電源を入れて何かのソフトを起動させた。決して悪い人間ではないのだが、つまらないジョーク(主に下ネタ)が多いのが玉にキズだ。
 立ち上がった画面のサーチという欄に”22:00”と打ち込むと、液晶ディスプレイに浮かぶ小さな枠の中に映像が現れた。バーテンダーの背後から見下ろすようなアングルでカウンターに並ぶ客の表情を捉えている。横にスイングするようにカウンターの隅から隅までを捉えて、ゆっくりと戻ってくる。
「これは――?」
「ウチの防犯カメラの映像。ハードディスクに記録されるようになってて、ある程度溜まったらDVDに焼くって寸法さ」
「ビデオテープじゃないんですね」
「いつの時代の話をしてるのかね、この娘は。真奈っちのパパの事件じゃないけど、こういう店ってバカがつまんないことすることが多くてさ。こっちも自衛のためにこういう記録を残しとかなきゃならないってわけ。ちなみに今映ってるこいつは昨日の映像。で、こっちのコレが」
 岸川は手にしたDVDをヒラヒラと振ってみせた。
「五月四日と五日のものだ。俺の記憶違いじゃなければ、こいつにその、ホステスのお姐ちゃん――」
「白石葉子」
「そう、その葉子ちゃんが映ってるはずだ。ここで待ち合わせた相手もね」
「よくその日だって覚えてましたね」
「俺の誕生日なんだ。早い時間で他に客がいなかったから、独りで飲んでた彼女に一杯奢ったのさ。一緒に祝ってくれませんかってね。彼女のこともそれで覚えてた」
「うわあ……下心丸出し」
「何とでも言ってくれ。ついでに言うなら、彼女のメモの書き方だってそうだよ。普通、何日か先の待ち合わせなら、時間だけじゃなくて日付も書くはずじゃないか?」
 確かにそれはそうだ。
「で、ナンパの結果はどうだったんです?」
「……訊くなよ」
 岸川はテスクトップのトレイにDVDを載せた。サーチ欄に”19:00”と打ち込むと画面が一度ブラックアウトしてから、再びカウンターを見下ろすアングルに切り替わった。
 ほぼスキンヘッドと言っていいバーテンダーの肩越しに葉子の姿が見えた。ホームページのものより遥かに大人しい髪型で、格好もオフショルダーのカットソーというカジュアルなものだ。
 胸元にはラップアラウンドのサングラスが引っ掛けてあった。五月の午後七時はサングラスが必要な時間帯ではない。カウンターに載っているボストン・レッドソックスのキャップと同じく、おそらく顔を隠すためのものだろう。
 岸川は再生を早送りに切り替えた。
 画面の下のカウンターの数値が猛スピードで跳ね上がっていく。カウンターの全景を捉えるためにカメラがスイングしているので常に葉子が移っているわけではないが、そんな中でも葉子にはほとんど動きがなかった。
「待ち合わせの相手が何時ごろ来たか、覚えてますか?」
「そうだなあ、少し客が入り始めた頃だから、八時は過ぎてたと思うんだけどな」
 葉子は独りで一時間も待っていたことになる。時間にルーズな人間はそれくらいは平気で人を待たせるものだが、待たされる側にここまで動きがないというのも変な感じがする。葉子はケイタイに手を伸ばすでもなく、ただ目の前のグラスをじっと見つめているように見えた。
 待ち合わせの相手が現れたのは、画面のカウンターが午後八時三十二分を回ろうかとしている頃だった。岸川は再生モードを通常に戻した。
「……おいでなすったね」
 葉子の隣に腰を下ろしたのは豊かな金髪と、もっと豊かな胸元が印象的な若い女だった。ボーダー柄のラガーシャツというラフな格好。丸顔でいかにもキツそうな険のある目鼻立ち。顎のあたりがたるんで二重になっているのが小さな映像でも見て取れる。髪を染めて時間が経っているのか、頭頂部だけがプリンの上のカラメルのように黒くなっている。
 細かい表情までは捉えることができないが、椅子を引くときの乱暴な仕草に彼女にとってもこの会談が愉快なものではないことが見て取れた。
「これが和津実ちゃん……かな」
「と思しき、ですね。文集のページが破られてるんで、写真がないんです」
「ああ、そうだったね」
 長いカウンターをスイングしながら映しているため、二人がフレームに収まっている時間はそれほど長くない。画質は悪くないがいかんせんアップではないし、そもそも声が入っていないので二人の会談の様子は具体的には伝わってこなかった。
「この人のことは覚えてますか?」
「いや、このときには俺はフロアのほうにいたから、相手をしてないんだよ。えーっと、この後ろ姿はシュンだな」
 画面にはバーテンダーの後頭部と肩口くらいまでが映り込んでいる。始まったときはスキンヘッドだったのが長髪の男に替わっていた。
「シュンさんは今日は?」
「そろそろ来るはずだけど」
 岸川が言うのとほぼ同時に部屋のドアが開いた。
「おざーっす」
 入ってきたのは二十歳くらいの陽に灼けたサーファー風の男だった。耳以外にも眉や鼻にピアスが鈴なりになっていて、ニット帽からは枯れ草のような色の髪が無造作に流れ落ちている。耳には白いイヤホンが突っ込まれていて、挨拶をしながらも身体は微妙にリズムをとっていた。ノースリーブから覗く逞しい腕にはこれ見よがしにタトゥーが入っている。
 岸川はカウンターの二人がフレームに入っているところで画像を一時停止させた。
「ちょうど良かった。シュン、ちょっとこの画像を見てくれないか」
 シュンと呼ばれた男はアタシに怪訝な視線を向けながら、手にしていたバッグをソファに放った。愛想笑いを浮かべて小さく会釈すると、シュンは首だけで小さく会釈しながら画面を覗き込んだ。
「この女のこと、覚えてないか?」
「……右の女は覚えてないっす。左はコレ、和津実じゃないっすか」
 シュンはさも当たり前のように言った。アタシと岸川はシュンの顔をまじまじと見た。
「友だちなのか?」
「うーん、友だちっていうほど親しくはないっすけど。知ってるってだけっすよ。そう言えばいつかウチに来たことあったけど……これってそのときの?」
「まぁな。二人が何を話していたとか、覚えてないか?」
「どうだったかなあ。何だか深刻な話だったような気がするんすけどねえ……」
 シュンは目を閉じてその情景を思い出そうとしているような表情を浮かべた。やがて二、三回ほど首を捻って鼻から大きく息を吐いた。
「……カネがどうとか言ってたっすね。どっちがどっちに言ってたかは分かんないっすけど。――ああ、確かこっちのキレイなほうが和津実に何か渡してたっす」
「現金をですか?」
 思わず口を挟んだ。シュンは否定の代わりに小さく鼻を鳴らした。
「そこまでは分かんなかったっすね」
「他には何か覚えてないか?」
「それくらいっす。だいたい俺はずっと客の話に聞き耳立ててるわけじゃないっすよ。ここはアヴァンティじゃないんすから」
「俺もジェイクを雇った覚えはないけどな」
 アタシには意味の通らないやり取りだった。岸川はわざとらしく咳払いをした。
「シュン、サンキューな。何か飲むか?」
「あざっす。何でもいいっす」
 岸川は禁煙パイプの先をピョコピョコと上下させながら店のほうへ行った。
 見知らぬ二人だけになって、その場に何とも居心地の悪い沈黙が漂った。それを破るようにシュンが口を開いた。
「あんた、ひょっとして――」
「何ですか?」
「梅野さんの彼女じゃないか?」
 思わずシュンを見やった。内心で盛大なため息をつく。ヤンキー上がりの元彼のお友だちにはこの手の輩がとても多くて、こういうことが過去にも何度かあった。
「……元がつきますけどね。何処かで会いましたっけ?」
「去年の夏だったかな。梅野さんたちにコーチしてもらって箱崎埠頭でクルマの練習してただろ。そこで何度か見かけたんだ」
「ああ、なるほど」
 そんな些細な邂逅をよく覚えていられるものだが、アタシは顔立ちにしろ体型にしろ特徴があるので、一度見たら覚えられやすい傾向にある。
 そんなことはどうでもいいが、それからしばらくシュンが元彼の近況を訊いて、アタシが元彼のメールの内容からそれに答えるというやり取りが続いた。自分の夢に向かって歩いている(らしい)元彼はシュンにとっては尊敬に値する人のようだった。アタシには過去の人でも、一度は好きになった男がそう思われるのは悪いものではない。
「――ところで、あんたが和津実に用があるのか?」
 唐突にシュンが言った。
「ええ、まあ」
「元がついても梅野さんの彼女だから忠告しとくよ。あいつに関わるのはよせ。ロクなことにならないぜ」
 シュンの声には面倒ごとを避けるような疎ましい響きがあった。百の言葉を費やすよりも、ほんの僅かな声の調子のほうが遥かに雄弁なことがある。
 しかし、忠告には従えない。アタシはニッコリと笑ってみせた。
「でも、そういうわけにもいかないんで。シュンさん、よかったら和津実さんがどんな人だか、教えてもらえませんか?」
 シュンは目を剥きかけて、やれやれという感じの笑みを浮かべた。
「まったく、しょうがねえな。――アイツはとんでもない女だよ。クスリにエンコー何でも来いだし、気に入らない奴は取り巻きにボコらせるし。今はヤクザのイロだって話だ。あ、イロって意味分かるよな」
「情婦ってことですよね」
「そんなところだ。どこが良いのか分かんないけど、昔から男はとっかえひっかえなんだよ。そう言えば、ずっと前にはドラッグの元締めと付き合ってたこともあったな」
「ドラッグの元締め?」
「ああ。何年か前にこの店で殺された渡利って男なんだけどさ。あんたは知らないだろうけど」
「へぇ……」
 自分の声が冷えていくのを感じた。すべての事柄が三年前の事件へと収斂していく。
 シュンが滔々と続ける事件の話はアタシの耳には届かなかった。白石葉子、渡利純也、そして千原和津実。あるべきところにパズルのピースがはまり込むような感覚がアタシを捉えて離さなかったからだ。

Prev / Index / Next

Copyright (c) All rights reserved.

 

-Powered by HTML DWARF-