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  第 26 章 

 午前零時過ぎの雑餉隈界隈は思っていたより静かだった。
 筑紫通りの交通量も、この時間になると昼間の慢性的な渋滞が嘘のように少ない。ヒップホップを大音量で鳴らしながらビッグスクーターでローリングを決めるバカの姿もない。通り沿いにある風俗店の看板も以前に来たときよりもずいぶん少なくなっていた。陸上自衛隊の駐屯地の真裏で賑わっている飲み屋街とは言え、平日、しかも月曜日はそうでもないのだろう。JRと西鉄もそろそろ終電で、駅方面へ歩いていく人が多少いるくらいだ。

 南福岡駅のロータリーにあるローソンの前にクルマを停めて、和津実のケイタイを鳴らした。留守電に切り替わる直前で和津実が電話に出た。
「……あ、もしもしぃ……?」
 明らかに寝ぼけてくぐもった声だった。そんなことだろうとは思っていたが。
「今、どこぉ?」
「南福岡駅の前にいるわ。荷物、どこまで持って行けばいいの?」
「あ〜、あたしが今からそっちに行くよ。ここ、けっこう分かりにくいしさ。でも、ホントに来てくれたんだぁ……」
 声にはまだぼんやりした眠りの名残りがあった。
 一瞬、目覚まし代わりに怒鳴りつけてやろうかと思った。そうしなかったのは辺りにまったく人通りがないわけじゃなかったのと、和津実の起き抜けの声が、昨夜の剣呑な物腰とは別人のようにあどけなかったからだ。クルマが昨日のBMWではないことと、現在地がJRの駅前のローソンだと念を押して電話を切った。
 和津実がどこから歩いて来るのか知らないが、あの様子では身支度を整えるだけでも時間がかかるに違いない。こんな時間にのこのこ出てきて待たされる自分の間抜けさに、もはやため息をつく気にもならない。
 駐車料金代わりにローソンで缶コーヒーを買って、ロードスターに戻った。
 クルマの外で待ってもいいが、深夜だというのに暑気はちっとも収まる気配を見せていなかった。汗だくになって目印になってやらなくてはならない謂れはない。近くに来て見つけられなければ、今度はあちらから電話してくるだろう。
 CDをそれまで聴いていたメアリー・J・ブライジから、眠気覚ましにジャミロクワイに変えた。〈キャンド・ヒート〉のうろ覚えの歌詞を口ずさみながら、しばらくボンヤリと外の様子を眺めて過ごした。

 あれからアタシは板長に「ちょっと熱っぽいから」と断って(もちろん仮病だ)、アルバイトを早く上がらせてもらっていた。
 そのまままっすぐ吉塚に行ってもよかったが、かなり汗ばんでいたのでシャワーを浴びて着替えたかった。和津実には遅くなると言ってある。急ぐ必要はないので家に戻ることにした。
 一〇時近かったというのに、由真はまだ家に帰っていなかった。祖母に届いたメールによれば「知り合いと会うから晩御飯はいりません」ということらしい。
「知り合い?」
「ええ、そう書いてあるけど。それがどうかしたの?」
「……あ、うん。別に大したことじゃないけど」
 由真は普段、あまり”知り合い”という言葉を使わない。友だちは友だちと言うし、バイト先の人たちのこともちゃんとそう言う。曖昧な括りでごまかさなくてはならないような間柄を彼女は嫌うからだ。
 電話をかけてみようと思って開いたケイタイのディスプレイをしばらく凝視して、アタシはそれを閉じた。
 由真が検察庁なんかで何をやっていたのか、気にならないわけではなかった。でも、それをいちいちアタシが問い質すのもおかしな話だ。彼女には彼女の都合があるし、それをアタシの父親の事件の背景を調べることよりも優先させたとしても非難される謂れはどこにもない。
 もやもやした気分を洗い流すようにシャワーを浴びて、遅くなると言い残して家を出た。路地を抜けて浄水通りに出ようとしたところで由真のBMWと出くわした。インカムで誰かと話しているらしく、由真は弾けるように笑っていた。
 いつもなら短くクラクションを鳴らすところだ。
 けれど、アタシはそのままロードスターを通りに出した。横を通り過ぎようとしたとき、由真はようやく気づいてアタシのほうに視線を向けた。何か言いたそうな表情にも見えたが、気づかなかったようなフリをしてそのままBMWをやりすごした。
 そのまま城南線に出て、住吉橋を渡ろうとした辺りでケイタイが鳴った。たまたまハンズフリー・キットを付け忘れていたのもあって、アタシは”運転中だから出られない”と普段とは真逆の対応をした。八コールで留守番電話に切り替わった。由真はどこか遠慮がちな声で<真奈? 話したいことがあるから電話ちょうだい。遅くてもいいから>と吹き込んでいた。
 信号で停まったときに聞き返してメッセージを削除した。今さら何を話したいというのか。
 ――好きにすれば。
 ケイタイを助手席に放って、心の中でそう吐き捨てた。

 助手席の足元にはルイ・ヴィトンのボストンバッグが置いている。和津実の部屋にあったものだ。ブランド物にはそれほど詳しくないが、和津実の持ち物が韓国あたりで売っているコピー品であることは賭けてもいい。
 中身は和津実名義の貯金通帳と印鑑、隠してあった十数万円の現金、パスポート、国民健康保険のカードといったところだ。あとはバッグの余裕の分だけ下着やジーンズ、Tシャツといった着替えが詰め込んである。夜逃げするには最低限の物だろう。事実、和津実はこれらをいつでも持ち出せるように一まとめにしていた。輪ゴムで留めたクレジット・カードの束もあったが、どうせ限度額一杯まで使ってあるのだろうからそのまま残してきた。
 適当に何冊か持ってきてくれと言われた本棚に村上龍や中上健次、柳美里などが並んでいたのには驚いた。ただ、考えてみれば和津実には進学校に行くだけの頭脳はあったわけで、文学部に進むことになってようやく本を読み始めたアタシとは違うのだ。何となく負けを認めさせられたような気分だった。
 コンコン、と窓をノックする音がした。
 そばかすだらけのスッピンで誰だか分からなかったが和津実だった。当たり前のような顔で助手席に乗り込んでくる。サテンのチュニックドレスに膝丈のデニムというラフな格好で、トレードマークの胸の谷間は見せびらかしたいというより普通の服を着れば自然とそうなるという感じだった。無造作に束ねた髪と眉のない顔は人前に出すにはちょっと、というシロモノだったけど、二十一歳という年齢には相応に見えた。
「サンキュ。悪かったね、ムチャ言って」
「まったくよね。図々しいったらありゃしない」
「まあ、そう言わないでよ。感謝してるんだからさ」
 バッグの中身を確認しながら、和津実は朗らかな口調で言った。昨夜の誰彼構わず威嚇するしつけの悪い犬のような雰囲気は微塵も感じられなかった。節操がないといえば確かにそうなのだが、周りの人間を無理やり自分のペースに巻き込んでしまう気まぐれさは、ある種の男性には魅力として映るのかもしれない。
「まさか、本当に来てくれるとは思ってなかった」
「約束したでしょ。どんな約束でも破るのは嫌いなの」
「そういうとこ、あんた、葉子によく似てるよ」
 不意に出てきたその名前に親しみの情が混じっていることに驚いた。
「……昨日とはずいぶん違うじゃない」
「そうかな? あたしはいつもこんなだよ」
 封筒に入っていた現金をフェンディの財布に収めると満足そうにニンマリと笑う。もともと入っていた分と合わせれば三十万円以上はありそうだ。当座の逃走資金としては充分なのだろう。バッグを抱えると彼女はドアのレバーに手をかけた。
「じゃ、ありがとね」
「ちょっと待ちなさいよ」
「なに?」
 和津実は心底意外そうな顔をしていた。
「持ってきてあげる代わりに訊きたいことがあるって言ったでしょ」
「ああ、そうだったっけ。――で、どこで話す? ここで?」
「……どこでもいいけど」
「だったら、何か食べながらにしない? 一日中、ホテルにこもってたんでロクなもの食べてないんだよね。心配しなくてもちゃんと奢ってあげるからさ」
「結構よ。逃走資金が目減りしたって恨まれたくないもの」
 以前に読んだ本に「どれだけ長く復讐心を抱き続けることができるかがその人の精神的な高貴さの証だ」というような意味のことが書いてあった。その伝でいくなら、あれほど嫌悪しながらヤクザに連れ去られるのを見過ごせなかったばかりか、こうやって彼女の頼みをきき、あまつさえそのペースに巻き込まれつつあるアタシなど精神的には正真正銘の庶民か、それ以下なのだった。
 そんなアタシの葛藤になど気づく様子もなく、和津実はこの時間ではファミレスくらいしか開いていないことに想いを馳せているようだった。アタシはことさら大きなため息をついてロードスターをスタートさせた。

「ん〜、うまいっ!」
 和津実はべったりとチーズが乗ったハンバーグを口に運びながら、ビアグラスを手で引き寄せた。
 うだうだと「あれが食べたい、これが食べたい」とほざいた挙句、ホテルには戻らずに始発で福岡を離れるという彼女が選んだのは博多駅近くのジョイフルだった。言うとおりなら宿泊料金は踏み倒すことになるのだが、アタシが非難しても始まらないのでやめておいた。ホテルだって前金くらい取っているだろう。
 アタシは呆れながら、カプチーノとは名ばかりの焦げ臭いコーヒーをすすった。
「よく、こんな真夜中にそんなコッテリしたもの食べられるわね。しかもジャンボだし」
「だってさ、昼間っからホテルのそばのコンビニのおにぎりしか食べてないんだもん。そりゃ腹も減るって。それよりあんたは食べないの?」
「結構。太るといろいろ問題があるのよ」
「あ、そっか。あんた、モデルなんだっけ」
 和津実は事も無げに言った。アタシは思わずむせそうになった。
「……誰に聞いたのよ?」
「葉子。写真を見せてもらったことがあるんだよ。昨日は思い出せなかったけど」
「写真? どんな?」
「ウェディング・ドレスを着たやつ。ワインレッドっていうのかな、あの色」
 葉子が見に来てくれたあのショーでアタシが最後に着たのがボルドーのドレスだった。客席からの撮影は自由だったので、葉子が撮ったのだろう。
「どうして彼女はあんたにそんな写真を見せたの?」
「どうしてって……さあ?」
 和津実は小さく首を傾げた。鉄板にフォークの先端が当たるカチンという音がした。一口ごとに切るのが面倒になったらしく、和津実はフォークでハンバーグを一口大に切っていた。ハンバーグはいつの間にか半分の大きさになっていた。
「別に見せてくれって頼んだわけじゃないよ。葉子のやつが見ろって煩かったから見ただけさ。ほら、あたしの知り合いの娘さんだけど綺麗でしょって。ま、写真のあんたは確かに綺麗だったから、そうだねって答えといたけど」
「悪かったわね、実物はそうでもなくて」
「化粧の仕方が下手なんだよ。ちゃんと習ったことないだろ?」
「あんたはあるの?」
「あるよ。これでもちょっと――ホントにちょっとの間だけど、美容部員やってたこともあるし。三ヵ月も続かなかったけどね。でも、腕はあたしが一番良かったんだ。あんたは見たことないだろうけど、店のホームページに載ってる葉子の写真、あのメイクはあたしがやったんだよ」
 和津実は自慢げな微笑を浮かべた。
 その写真なら見たことがあった。いかにもホステスという感じの艶っぽい表情で微笑んでいた白石葉子。実際に店にも行ってみたけが、あの写真の葉子なら他の誰にも引けをとらなかっただろう。和津実自身にしても、このそばかすだらけの野暮ったい顔が男の関心を引き寄せるレベルにまで変わるのだから、少なくともその技術は確かなものだと言えた。
「葉子の結婚式のメイクはぜったいにあたしがやるって約束してたんだ。ま、それはもう叶わないけどさ」
 和津実の口調に少ししんみりした響きが混じった。どういうことだろう。
「あんたと葉子って、仲が悪かったんじゃないの?」
「……どうしてそう思うのさ?」
 和津実の笑みが深くなった。
「あんた自身が昨日、そう言ったじゃない。葉子からカネを巻き上げてたのは、貸しを返してもらってただけだって」
「そうだったっけ?」
「とぼけないで。葉子が自分をこんな世界に引っ張り込んだって言ったわよね。なのに、渡利が死んだら自分だけちゃっかり学校に戻ったって。あんたが渡利の女になった経緯については、あんたの言うことを鵜呑みにはできないみたいだけど」
「よく、そんなに人が言うことを覚えてられるねぇ」
「茶化さないで」
 テーブルを平手でひっ叩きたくなる衝動を懸命にこらえた。和津実は澄ました顔をしていた。
「いいじゃん、別に。あたしと葉子の仲が良かろうが悪かろうが。本当のことはあたしと葉子しか知らないし、葉子は死んじゃったし。じゃあ、あたしがここであんたに向かって「ホントは二人は大親友でした」って言ったら信じてくれる?」
 そう言われると答えに窮する。
 彼女が言うことを全否定する材料があるわけではない。しかし、一方で頭から無条件に信じることもできない。条件付で信用するというのは信用していないのと同じことだ。
「オッケー、悪かったわ。その話は訊かない」
「……意外とあっさり引き下がるんだね。もうちょっと屁理屈をこねるかと思ってたのに」
「そんなに頭が良くないの。認めたくないけど」
 少しぬるくなったカプチーノを一息に飲み干した。豆が同じだからなのか、フォームミルクと焦げた上澄みがなくなった残りは普通のブレンドコーヒーと区別がつかない。
 和津実はハンバーグの最後の一片を口に放り込むとビールの残りも飲み干した。テーブルには店員呼び出し用のボタンがあるのに、和津実は居酒屋の客のように大声で「ビール、お替りっ!!」と怒鳴った。
「信じてくれなくてもいいけど、あたしと葉子は親友だった。最後の最後までね。そりゃ長い付き合いだから途中でいろいろあったよ。ケンカもしたし絶交もしたさ。でも、あんたには貸しを返してもらってたって言ったけど、あれは葉子が「早く借金を返して今のダンナと縁を切れ」って言って用立ててくれたんだ」
 防犯カメラに映っていたやりとりにはそういう事情があったのだ。二人のピリピリした雰囲気――葉子の怒りと和津実の不機嫌さも、確かに理解できるものだった。
「そう言えば、ダンナとやらは?」
「ホントに逃げたみたい。こっちは何とか借金を返そうと必死になってたって言うのにさ」
 必死になる方向が根本的に間違えているのだが、今はそれを指摘するところではない。
「それであんたも逃げることにしたの?」
「そういうこと。借金の大半はあたしがしたものじゃないんだから。ま、名義は半分くらいはあたしだし、連帯保証人とかもあるけどね。全部でいくらあるのか、考えたくもないよ」
 ビールのお替りが届いた。細かい汗をかいたグラスがとても魅力的に見えた。和津実がほんの少し――本当にほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「これも信じてくれなくていいけどさ。あたし、本当はジュンと付き合う気なんかなかったんだ」
「どういうこと?」
「あの二人――ジュンと葉子のことだけど、もともと家が近くでさ。幼馴染っていうの? 葉子のヤツ、中学校のときからジュンのことが好きだったらしいんだよね」
「そうらしいわね」
「それでわざわざ越境入学までして同じ学校に来たんだ。なのに、どういうわけだかぜんぜん近寄ろうとしなくってさ。ジュンはあたしたちが入学してすぐに家のことで退学しちゃってたけど、わざわざジュンが入ってた施設まで会いに行ってたのにだよ? 普通、そこまでやったらコクってるのと一緒じゃん。なのに、ジュンが言い寄ったら「あんたみたいな不良と付き合う気はない」とか言っちゃってさ」
「どうしてだろう。葉子自身も街で遊んでたクチなんでしょ?」
「どうも、何とかジュンを元の真っ当な道に戻らせたかったらしいんだよね。だから、自分まで一緒にワルくはなりたくなかったみたい」
「なるほどね。で、それとあんたが渡利を寝取ることになったのと、どんな関係があるのよ?」
 和津実はチラリとアタシを睨んだ。
「……それがさ、あたしも葉子がそんなつもりだなんて知らないからさ、余計なお節介しちゃったんだ。あんたにその気がないんならあたしがジュンを取っちゃうよって。そう言えば、いくら葉子だって重い腰を上げるんじゃないかって」
「へぇ……」
「ところがさ、帰ってきたのは「好きにすれば?」って一言。ホントにその一言。まあ、呆れるやら腹が立つやらで、ちょっとした言い合いになっちゃって。それでその、売り言葉に買い言葉って言うか――」
「本当に渡利と付き合っちゃったわけだ。呆れたものね」
 バツが悪そうに口許を歪める和津実に向けて、アタシは冷ややかな視線を投げつけてやった。でも、どこかで聞いたような話にアタシの心中は違う意味で穏やかではなかった。
 和津実は話題を変えるきっかけのように卓上のベルで店員を呼んだ。
「――さて、と。訊きたいことがあるって言ったよね?」
 訊きたいと思っていた事柄のうち、葉子と和津実の関係についてはこれまでの雑談の中に含まれていた。もちろん、それが本当のことだという確証はなかったが、これから福岡を離れてしまう和津実が今さら嘘をついて自己弁護しなくてはならない理由もないような気はする。
「若松郁美って知ってる?」
「郁美? あの子がどうかしたの?」
「あんたと葉子、それと郁美の三人でつるんで、渡利たちのところに出入りしてたって聞いたから」
 和津実は誰に聞いたのかと言った。アタシは自分が彼女の従姉と同じ事務所にいることを話した。
「つるんでたって言うか、あの子が勝手にあたしと葉子にくっついてきてたんだけどね。どっちかって言うと葉子に懐いてたけど。でもまあ、葉子もちょっと持て余してたかな」
「どういうこと?」
「元はと言えば、郁美が博多駅の筑紫口の先でB系のチンピラに絡まれてたのを、葉子が助けたのが知り合ったきっかけなんだよ。それ以来、何となく近づいてくるようになってさ」
「同級生だからじゃないんだ?」
 和津実はうなづいた。
「自分で言うのもなんだけどさ、あたしはれっきとしたドロップアウト組なわけよ。葉子もそう。正直、二人とも卒業できたのが不思議なくらいだから。でも郁美は違ったんだよね。成績も良かったし、表向きはちゃんとしてたしね」
「実はそうじゃなかったってこと?」
「そういうわけでもないんだけど、ちょっと家庭に問題があってさ」
「……聞かせてもらいましょうか」
 和津実は返事の代わりにフウッと長い息をついた。
「郁美んちは親が離婚してて、あいつはお袋さんと暮らしてたんだけど、そのお袋母さんが交通事故だか病気だかで死んじゃってね。叔母さんちに引き取られたんだよ。ただ、そのときに親父さんと叔母さんの間でいろいろ悶着があったみたいなんだ。詳しいことは知らないけど。それに、どうも叔母さん夫婦が郁美を引き取ったのは、お袋さんに残された分の遺産が目当てだったらしくってさ」
「叔母さんちで苛められてたとか?」
「それはどうだか分かんないね。でも、あんまり家には帰りたがらなかったし、家のほうもよっぽど問題を起こさない限りはほったらかしだったみたいだ」
「なるほどね。で、彼女はあんたたちにくっついてきて、何をやってたの?」
「何やってたってこともないんだけど――」
 和津実は顔をしかめて言いよどんだ。罪の意識というほどのものではないのかも知れないが、彼女が他人のことに関して、そんな表情をするのは意外だった。
「どういうことなの?」
「……あたしも後から知ったんだけどさ。郁美のヤツ、ジュンたちのグループのマスコット――はっきり言っちゃえば、オモチャにされてたんだ」
「オモチャって、その――」
「たぶん、あんたが想像してる通りだね」
 アタシの想像通りなら――本人が屈辱と考えていたかどうかはともかく――郁美は肉体的に屈辱的な状況におかれていたということになる。
 和津実は届いたビールに口をつけると、飲む気をなくしたようにグラスを置いた。
「さすがにヤッてる現場に出くわしたことはないけどさ。カズとヤスの二人と一緒にホテルに入ってくとこ、何度か見たことあるんだ。他にも守屋っていうホスト崩れのヤツに連れられてたこともある。あいつ、ロリコンの上に変態でさ。一回、郁美が着替えてるとこ見たことあるんだけど、体中にアザができてたことがあったよ」
 和津実は言うことを言って、いくらか罪の意識が紛れたような顔をしていた。一瞬、頭に血がのぼりそうになったが、ここで和津実を責めても何にもならない。
「葉子ははそれを黙って見てたの?」
「いろいろ話は訊いてたみたいだけどさ。あたしは半分は自分で首を突っ込んだようなもんだけど、郁美は葉子にくっついてジュンたちのところに出入りし始めたんだ。責任を感じてたんだろうね。――でも、やっぱり本人がやめようって思わなきゃどうにもなんないよ」
 最後の一言にアタシは引っかかるものを感じた。それは普通に聞けば悪い男たちと付き合うことを指す言い草ではなかった。
「クスリ……なのね?」
 和津実は返事をせずにそっぽを向いた。しかし、それが返事のようなものだった。
 何かがアタシの中で、パズルのように型に嵌まっていくのを感じた。
 クスリで言うことを聞かされ、弄ばれた少女。村上は以前、父に助けを求めた少女のことをそう言った。アタシはそれをずっと葉子のことだと思っていた。
 しかし、葉子にはその被害者像と一致しない部分がある。葉子自身はドラッグに手を出していなかった――少なくとも常習者ではなかった。それに、いろんな人に聞いてアタシが抱いている葉子の人物像は、誰かに弱みを握られていいようにされるような弱い女ではない。
 しかし、被害少女が若松郁美だったのなら、村上が言った条件とほぼ一致している。しかも、父が郁美の境遇を知っていたのであれば――理由は違うけど――片親で育った彼女をアタシと重ね合わせたこともさほどおかしくない。
 むしろ、葉子は被害少女に父を紹介したとされる女子高生だと考えたほうが自然だ。そうであれば、あのスクラップ・ブックを作ったりして父が事件を起こしたことを気に病んでいたことにも説明がつく。
 歯噛みする思いだった。由真が言っていたじゃないか――事件のときの女子高生は本当に葉子なのか、と。あの時点で村上に事情を訊いていればとっくに分かっていたことだ。そうであれば上社がとくとくと葉子のことを語っているときに、もっと訊くべきことがあったはずだ。
 後手に回ったからといって何が困るというものではない。アタシがこうやって父の事件のことを調べているのは単に自分自身の疑問を解決するためで、時間の制約があるわけではないからだ。それでも、自分のつまらない意地――あるいは意気地のなさが遠回りの原因だったことはアタシの神経をささくれ立たせた。
「――どうしたんだよ、恐い顔してさ」
 アタシは我に返った。彼女の目の前にあるビールがやけに魅力的に見えた。グラスを奪い取って、苛々と一緒に飲み干してしまいたくなる衝動を何とかこらえた。
「で、今、郁美がどうしてるのか、知ってる?」
 和津実は力なく首を振った。
「さあね。あたしが最後に郁美を見たのは、あんたの親父がジュンを殺した日――あたしたちが街にいられなくなって、根城にしてた部屋を逃げ出したときだからね」
 彼女は”ジュンを殺した”というところをことさらはっきりと言った。
 彼らが根城を逃げ出したときのことを訊いた。和津実は他の連中のことは知らないと答えた。彼女自身は留美さんを通じて親に連絡を取り、下関にある親戚の家に逃げていた。和津実の両親は今後一切迷惑をかけないことを条件に病気療養で休むという偽装をしたのだそうだ。
 彼女はおよそ三ヵ月ほど身を隠し、そして学校に戻った。話を聞いている限りでは学校には行っていないような気がしていたが、そういうわけではなかったらしい。
「郁美を見たのが、そのときが最後だったってことは……」
「学校に来たのもその前の日が最後だったってこと。手続きの上でどういうことになってるのかは知らないよ。たぶん、自主退学なんじゃないかな」
 和津実は「他に話がないなら行くよ」と言った。話があったところでこれ以上しゃべるとは思えなかった。彼女は勘定書きを挟んだバインダーを乱暴な手つきで取り上げた。
「じゃあね、もう会うことないと思うけど」
「同感。でも、アタシがこんなこと言うのもなんだけど気をつけて。相手はヤクザなんだから」
「あんた、ホントにお人よしだね」
 和津実はレジで金を払うと、一度も振り返ることなく店を出て行った。

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