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「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 9 章  

 姉貴の悲鳴のような叫び声――ボクの名前を呼ぶ声が聞こえる。
 たった数メートル向こうのはずなのに、やけに遠くに感じられる。左耳の奥に何か詰まったように感覚がなくなっている。どうやら鼓膜が破れたらしい。
 あれから、どれくらい時間がたったんだろう。
 まだパトカーのサイレンが聞こえる気配はない。とんでもなく長い時間が過ぎたような気がするけど、そう考えると大して時間は稼げていないようだ。
 なのにボクはコンクリートの床に転がって、指先すら動かせなくなっていた。途中から”顔は痕が目立つ”という理由でしこたま腹を殴られていた。おかげで内臓が圧縮プレス機にかけたように押し固められてしまっている。弁当を食べていたら、今ごろ胃の中身をぶちまけていただろう。
「ふう、ガキんくせにけっこうタフやな」
 古閑の弟――ヤスシの声。ボクより二学年上なだけとは思えない見事なすきっ歯のせいで、どうしても空気が洩れてるような妙な感じに聞こえる。
「そいつがタフなんやなくて、おまえが弱かだけだろうがって」
 誰かが混ぜっ返す。
 ヤスシは言い返しはしない。たぶん、言ったのは目上の誰かなんだろう。
 こいつらのグループ内の力関係になんて何の関心もないけど、変にチャチャを入れるのはやめて欲しかった。その分の腹いせがボクに回ってくるからだ。案の定、ヤスシはボクの背中に蹴りを入れた。
 勝てないことは最初から分かっていたし、覚悟もしていた。ボクの役目はとにかく姉貴たちから目を逸らさせること、そして、時間を稼ぐこと。だから、こうやって地面に這いつくばって足蹴にされても冷静でいられた。悔しくないわけじゃ、もちろんないけど。
 真奈は――警察はまだか。
 一瞬、何かの手違いでこのまま来ないんじゃないか、という考えが脳裏をよぎる。
 真奈がうまく警察に説明できないで、まともに取り合ってもらえなかったんじゃないだろうか。あるいはボクが送った指示メールがサーバに引っかかったままになっていて、真奈は連絡がないことにやきもきしながらコンビニの前をウロウロしているのかもしれない。ひょっとしてコンビニに行く途中で無免許運転で止められて、話も聞いてもらえずにこっぴどくしぼられているのかも……。
 次々に浮かぶ不吉な考えを必死で振り払った。今さらジタバタしても始まらない。
「……さて、と」
 古閑が言った。さっきまで「ぶっ殺す」を繰り返していたとは思えない朗らかな声。
「リョータくんもおとなしゅうなったところで、みんなでドライブに行くか。ヤスシ、ミノル、そのガキばおまえらのランクルに乗せろ。俺とハルカはノブのマークUに乗せてもらうけん。アッコとチヒロはカズシのアルテな」
 全員が思い思いに返事する。しないのはボクと姉貴、アッコとかいう赤毛の子。諦めたのか、それとも、恐ろしくて声が出せないのかは分からないけど、姉貴たちは沈黙してしまったままだ。
「こいつ、連れてくとか?」
 ヤスシの不満そうな声。古閑が皮肉っぽく笑う。
「いくらなんでも、ここに置いとくわけにいかんけんな。もちろん、途中で捨てるとやけど。ま、運が良けりゃ誰かに拾ってもらえるやろ」
「俺らのこと、タレこんだらどげんすっと?」
「大丈夫って。何て言うたっちゃお姉ちゃん想いのリョータくんやけんな。ヘタなことすりゃハルカがどんだけ恥ずかしか思いばするか、想像できんわけやなかろうよ」
「なーるほど、さっすが兄貴」
 こういう輩が考えることって、どうしてこうベタなんだろう。まあ、ベタは効果があるからベタなんだという考えかたもあるけど。
 しかし、古閑たちがここを出るとなると、いろいろと話が変わってくる。
 もし真奈が間に合わないのなら、せめて手掛かりを残していかなくちゃならない。携帯があればブラインドタッチでメールを打つという奥の手(実は特技)があるけど、壊されたくなかったので倉庫の外に隠してきていた。指示のメールを見た真奈から電話がかかってくるのを、こいつらにとられたくないというのもあった。
 代わりのアイデアはまるで浮かばなかった。
 ボクはヤスシとモジャモジャ――ミノルの二人がかりで外に運び出された。
「なんで俺はこんガキで、ノブさんたちは女連れなんかな。不公平よなあ」
 ヤスシがぼやく。
「それば言うなら俺でちゃそうさ。あーあ、せめてチヒロだけでんこっちならよかのに」
「あれは俺のオンナって」
「よう言うぜ。チヒロのやつ、ノブさんとカズシさんにべったりやんか」
「せからしかって」
 話を聞いているだけでそこはかとなく人間関係が見えてくる。古閑と真ん中分け、トサカ(どっちがノブでどっちがカズシかは分からないけど)はイーブンな関係。ヤスシとミノル、チヒロは同学年だろう。ヤスシはまだチヒロと付き合ってるつもりのようだけど、チヒロはそうでもないようだ。それは窓の外から見ていてもそう思えた。
「ここまでクルマ回してくるけん待っとけ」
「おう。……意外と重たかな、こいつ」
 一人じゃ支えきれなくて、ミノルはボクをコンクリートの前庭に放り出した。受身が取れずに背中を強く打ちつけた。衝撃で肺の中の空気を吐き出させられて、ボクはその場で猛烈に咳き込んだ。身体を丸めて何とか呼吸を取り戻そうとするけど、なかなか咳は収まらなかった。
「うっわ、汚なッ!! よだれで顔、グチャグチャやん」
 嘲るようなミノルの声。ヤスシはクルマに行こうとして、途中で戻ってきた。
「どうした?」
「いや、どうせなら今のうちに迷惑料ばもらっとこうと思ってさ。あとで兄貴たちが身ぐるみ剥ぐとやろうけど、こっちには回ってこんけんな。クルマば汚さるっとは俺とこれさ」
 ヤスシはボクの上を跨いでポケットを漁り始めた。
 抵抗しようにも手足に力が入らない。せめてと思って身体を捩ったら、ヤスシが面倒くさそうに「大人しくしろ」と言って拳を落としてきた。後頭部を殴られて目の奥で火花が散った。
「オッ、なんやコレ?」
 ヤスシの手が腰の後ろのフラッシュライトに触れた。お守りとして貸してもらったけど、結局使わずじまいだった。
「なんや、懐中電灯か。いらん、いらん。財布は持ってらんとかな……お、けっこう持っとるやんか」
 ジーンズの尻ポケットから財布を抜かれた。たしか、一万円とちょっと入っているはずだ。あとはレンタルビデオ屋のカードと西鉄の定期券、ファミレスのドリンク券。それと――。
「うっわ、誰や、この女!?」
 ミノルが大声で笑う。
 本人には絶対にナイショだけど、それは学校でこっそり撮った真奈の写真だった。
 休み時間になると一人で中庭で過ごす習慣がある真奈を、父親が一時期趣味で使っていた超望遠の一眼レフで校舎の影から撮影したものだ。音楽を聴いているのか、耳には白いイヤフォンが挿し込まれている。木々のやわらかい影の下で、うっすらと目を伏せて物想いにふける真奈は十五歳とは思えないほど大人びていた。
 盗撮と言われても、ボクには何も言い返すことはできない。撮らせてくれと頼んでも断られること間違いなしなので、そうするしかなかったのだ。
「あれっ、これってヤスの中学の制服やないか?」
「へっ? ああ、そうやんか。――おい、ちょっと待てって。なんでこいつがこの女の写真とか持っとうとかって?」
 ヤスシの声が曇った。
「なんや、知っとうとか?」
「知っとうも何も――」
 ヤスシは言いよどんだ。そりゃそうだろう。暴力だけが拠り所のこいつにとって、二つも年下の女の子にぶちのめされたのは忌まわしい過去以外の何者でもない。
「ひょっとして、おまえが中学んときにボコボコにされたっちゅう女?」
 ミノルの声に嘲りが混じる。
 一瞬、その場に剣呑な空気が膨らんだけど、すぐにしぼんでしまった。
 ヤスシはぶっきらぼうに「……そうだ」と認めた。自分で喧伝するはずはないので、おそらく古閑が面白半分に言いふらしたんだろう。いい兄貴を持って幸せだな。
「くそっ、こいつんせいで俺はエライ恥をかいたんぞ。兄貴にゃこれでもかっていうくらいバカにさるっしよ」
「そりゃ女に負けるおまえが悪かっだろ。つーか、そげんに強かとか、この女?」
「認めとうはなかばってんな。空手やっとって、女にしちゃあ、やたらふとかし。言うとくけど俺は相手が女やけんって油断しとったけんやられただけやけんな。相手が空手使いってわかっとったら、あがんことにはなっとらん」
 いくら油断してたって瞬殺はないだろ。
 心の中で突っ込んでやった。ミノルも同感だったようで、喉の奥で笑い声をあげている。
「ばってん、こうやって見ると意外と可愛くねえ、こいつ?」
「どこがかって。おまえ、実物見たことなかけんそがん思うだけさ。一七〇センチ以上もあるオトコオンナなんぜ」
「誰がオトコオンナって?」
 唐突に誰かが割り込む。ちょっとハスキーなアルト。
 その声は――!?
「ひぶっ!!」
 ボクの目の前にヤスシの顔が転がってきた。
 そのまま頭を踏みつけるように足が落ちてくる。アディダスのマークが入ったスニーカー。ヤスシはとっさに地面を転がってその足を逃れた。
 ボクは首を捻って宙を見上げた。下から見上げるアングルのせいで実際以上に長く見える脚。
 ――真奈!!
 心の中で叫ぶ。本来あるべき立場とは逆だけど、助けに来てくれたことに胸が熱くなった。
「くっそ、貴様――」
 ヤスシが身体を起こそうとする。しかし、真奈はその隙を与えずにヤスシの顔面を思いっきり蹴り上げた。ゴツッという鈍い音がして、ヤスシはもんどりうって倒れた。真奈はさらに追い討ちをかけようとしている。
 パチン、という音がした。
 音がしたのはミノルの手の中だった。折り畳み式のナイフのノッチの音だ。オモチャのような小さな刃先だけど、もちろんそれはオモチャじゃない。ヤスシに向かってるせいで真奈はミノルに背を向けている。
 ――危ないッ!!
 声は喉に引っかかって出せなかった。
 起き上がろうとしたボクの手に何かが触れた。ついさっき、ヤスシが「いらね」と言って放り出したフラッシュライト。
 拾い上げて、逆手に持ってグリップエンドのボタンに指をかける。押しっぱなしじゃないと消えてしまうので手を添えたままだ。連続発光にすることもできるはずだけど、その操作方法がとっさに思い出せない。
「オイッ!!」
 力いっぱい怒鳴った。反射的にミノルがこっちを向く。発光ボタンを押し込んだ。先端から強烈な白色光――文字通りのビームが伸びる。
「――――ッ!!」
 ミノルの声にならない悲鳴。完全に不意打ちだったので、手で遮ることもできずに直視してしまっている。
 ……おい、こんなの子供に持たせていいのかよ。
 そう突っ込みたくなるほど、シュアファイアのフラッシュライトはとんでもない代物だった。至近距離では直接当たっていなくても目を背けずにいられないほどだ。細長いグリップの形のせいもあって、ボクはガンダムのビームサーベルを連想してしまった。
「亮太、ナイスっ!!」
 声と共に視界に真奈が飛び込んできた。

 ミノルが必死に身体を捩る。頭を両手でガードして、腹部を守ろうと身体を丸める。目が見えない状況では、それしか方法がない。
 真奈は冷酷にも無防備な股間へ、蝶野正洋ばりのケンカキックを叩き込んだ。見ているボクまで生唾を飲み込んでしまいそうな金的蹴り。
「ウゲエッ……!!」
 力ない呻きがミノルの口から洩れる。

 後ろ向きにたたらを踏むミノルをめがけて、真奈はとどめの上段後ろ回し蹴りを放った。すでに防御の術がないミノルの側頭部に、真奈のかかとが吸い込まれるように命中した。
 悲鳴すらあげることもできずにミノルは撃沈した。

 まるで一陣の嵐のように、真奈はその場にいた二人をあっという間に打ち倒した。あらためて、ボクはどんな凄い子に空手を教わっているのかを実感していた。
「真奈……」
 ボクは何とか身体を起こした。彼女の前で這いつくばっているのはプライドが許さなかった。どんなにちっぽけなプライドでも。
「亮太、大丈夫ッ!?」
「たいしたことはないよ。……ちょっと痛いけど」
 まぶたが腫れ上がって視界が狭い。特に左目はほとんど見えていない。鼻の奥で血が固まり始めているのか、空気が通らなくなってやけに息苦しい。しょうがないので口で息をすると、喉の奥で嫌な雑音がするのが聞こえる。
「ゴメン。約束破っちゃったね」
「そんなん、いいけど……。ホントに大丈夫? 骨とか折れとらん?」
 真奈が手馴れた様子でボクの全身を探る。何箇所かは触られたことで激痛が走ったけど、彼女の見立てではとりあえず骨が折れているような兆候はないらしい。
 続いて真奈はボクの目を覗き込んだ。
 もちろん、それは瞳孔が開いてないかとか焦点が合ってるかとか、そういう意味でのことだ。それは分かってる。それでも真っ直ぐな瞳で見つめられて、ボクは鼓動が高鳴るのを感じた。
「よう、坊主。なかなか大変やったみたいやなあ?」
 背後からやけに陽気な声が降ってきた。そっちを振り返って、ボクは息を呑んだ。
 声の主は人相の悪い五十歳くらいの男の人だった。前髪が後退した広い額、小さくて険しい眼差し。白髪混じりの髪をオールバックに撫で付けて、唇の端に火のついていないタバコを咥えている。ズボンのポケットに手を突っ込んで、いかり肩を揺らすようにこっちに歩いてくる。
「えーっと……どなたですか?」
「そこん跳ねっ返りの父親ったいね。三浦亮太くん、やったか。ウチの真奈と仲良くしてくれとるそうやな」
 獰猛な猛禽類を思わせるガラの悪そうな笑顔。思わず真奈を振り返った。真奈は何故か少し恥ずかしそうに「……そういうこと」と言った。
 何と挨拶していいのか分からなくて、ボクはペコリと頭を下げるしかなかった。
 真奈のお父さんが警察官だというのは知ってたし、相談するという考えがまったく浮かばなかったわけじゃない。ただ、それ以前に真奈を巻き込むつもりがなかったし、事態が動き始めてからは考えが及ぼす余裕がなかった。
「一一〇番しようと思ったとやけど、細かいことを説明するのが大変そうやったけんが父さんに相談したとよ。――あんまり気が進まんかったとやけどね」
「おい、どういう意味かって」
 お父さんは傷つけられたように顔をしかめた。
「だいたいお前が最初から話ばしとったら、こがん面倒なことにはなっとらんとぜ。古閑誠と愉快な仲間たちはずっとウチでマークしとったとだけんな」
 どのへんが愉快なのか理解できないけど、そう言えば奴らの仲間の一人が逮捕されたと言っていた。警察がその交友関係に注目していてもおかしくはない。
 真奈は父親の文句を見事にスルーした。
「おかげで話は簡単やったけど、その代わり、父さんが待ち合わせのコンビニまで来るとに時間がかかってね。ゴメンね、遅うなって」
「しょうがなかろうがって、飲んどったとやけん。タクシーもなかなか捕まらんかったし」
 お父さんが口を挟む。真奈はフンと鼻を鳴らした。
「飲んどったって、どうせいつもの香椎のスナックやろ。あの巨乳のママさんがおる」
「バカなこつ言うな。俺はそれが目当てであの店に通いよるわけじゃなかぞ」
「どうだか。アタシ、ホステスのお姉さんから聞いたとやけんね。父さんがこの前、ドサクサに紛れてママさんの胸に触ったって。自分が警官っていう自覚、あるとね?」
「……いつ、あの店に行ったとや?」
「先週の土曜日に道場に行った帰り。新物のかぼちゃでサラダ作ったけん、おすそ分けに持って行ったとよ」
「おまえ、なんで中学生のくせにそげん所帯じみとうとやって?」

 ……まるで夫婦の会話だな。
 真奈がとても中学生とは思えないほどしっかりしている理由を垣間見たような気がした。

「ま、なんにせよ、間に合ってよかったな」
 お父さんは分の悪いやり取りから逃れるように、唐突に話題を変えた。真奈はフンと鼻を鳴らした。
「誰かさんが遅れんかったら、亮太もここまでこっぴどうやられんで済んだとよ。――ところで亮太、お姉さんは?」

 そうだ、安心するのはまだ早い。
「まだ倉庫の中だ。赤毛の子と二人、クルマに乗せられようとしてたんだ」
 その時、建物のシャッターがゴウン、ゴウンというものすごい軋みを立てながら上がり始めた。合わせるように横のドアが開く。
「オイ、ヤスシッ!! ガキ一人載すっとにどんだけ時間かかっとうと――」
 古閑はそこまで言って、凍りついたようにその場に立ちすくんだ。
「ちょっとお!!」
 立ち止まった古閑の背中にぶつかりそうになって、金髪女が文句を言った。上がったシャッターのほうから顔を出した真ん中分けとトサカも同じように立ち止まった。
「……どういうことかって、これ?」
 古閑はちょうど視線の先にいたボクを睨みつけた。同時に真奈と、真奈のお父さんの様子を抜け目なさそうに観察している。
「どうもこうもないさ。勝負は時間切れ、判定に持ち越しってこと。残念ながら、あんたは判定じゃ勝ち目はないんだけど。イエローカードが何枚も出てるからね」
 意味が通じるのに少し時間がかかった。
「最初からそんつもりやったとか?」
「まともにやっても勝てないからね。あんたを怒らせて、警察が来るまで足止めするのが目的だったのさ。あ、姉貴を連れまわしたのを言い逃れるのは勝手だけど、あんたにはボクへの傷害容疑がある。それにさっき、あんたたちはクスリにも手を出してるって言ってたよね」
「このガキ……」
「おとなしく姉貴を離せ。すぐに警察が来る。もう終わったんだ」
 古閑はしばらくジットリした目でボクを睨んでいた。ボクもその目を真っ正面から睨み返した。他の面々もその様子を固唾を呑んで見守っている。
 ところが、古閑は不意に弾けるように笑い出した。
「まあ、おまえばボコボコにしたのは事実やけどな。ばってん、それは弟のヤスシがやったことぜ。最初に二発殴ったとは、おまえが俺のグロリアばメチャクチャにしたけんや。俺ば傷害罪で訴えるんなら、俺もおまえば器物破損罪で訴えるぜ。それに、俺たちがクスリばやりよるって証拠がどこにあるんや?」
「それは……」
 しまった、調子に乗り過ぎた。
 確かに物的な証拠はない。盗み聞きした話が事実だということには確信に近いものがあるけど、それも裏づけなしではこいつらを追い詰める武器にはなり得ない。なったとしてもあやふやなものにしかならない。
 とりあえず、有無を言わさずに傷害罪で逮捕してもらえば良かったんだ。あとは警察に任せればそれで済んだ。なのに、ボクは最後の最後でヘマをしてしまった。弟に罪をかぶせてこの場から逃れてしまったら、古閑はただちに証拠隠滅に及んでしまう。
「……あー、さっきから黙って聞きよると、ガキが適当なこつばっかり言いよるな。どこで器物破損罪とか小難しか言葉ば覚えたとや?」
 真奈のお父さんが言った。面倒くさそうに小指で耳の穴をほじっている。
 古閑はそっちに剣呑な視線を投げつけた。
「バカにすんなって、オヤジ。そんくらい知っとる」
「そうか。やったら訂正しといちゃるよ。器物破損罪やなくて器物損壊罪。知ったかぶりするなら正しく覚えとかんとなあ。ついでに言うとくと、お前はそこの坊主ば二発ばっかりど殴ったこつば認めとる。理由は自分の車ば傷つけられたからって言うたな?」
「それがどがんした?」
「だとすっと、坊主が訴えるかどうかに関わらず傷害罪は成立するったいな。よく勘違いしとうガキがおるとばってんが、親告罪なのは過失傷害罪だけなんよ。こん場合、警察が事件ば認知した時点で捜査は行われる。坊主がお前の処罰ば望むかどうかは関係なかとよ。――あ、ウチの跳ねっ返りがそこん二人ばぶちのめしたのは、ちゃんと緊急避難が成立するけんな」
 お父さんは落ち着いた声音で淡々と説明した。真奈が満足そうに微笑む。

 古閑の顔が初めて不安に歪んだ。
「貴様、警察か?」
「俺か? 越後のちりめん問屋の隠居で光右衛門――」
「それ、子供には分からんって。お願いやけん真面目にやって」
 打って変わって、真奈は冷徹に突っ込んだ。
 さっきまでのカッコよさが台無しだった。というよりも、あれだけ整然とした法律説明だったのにわざわざ「警察か?」と訊かれるあたり、この人、よっぽど警察官に見えないんだな。
 お父さんはニヤリと笑った。
「県警薬物対策課の佐伯っちゅうんやけど、まあ、そげんこつはどがんでもよかやなかか。――ところで少年。ひとつ、提案があるとやけどな」
「提案?」
 ……このオッサンは何を言い出すんだ?

「俺としては、君たちにはこんまま大人しく警察が来るとば待っとってて欲しかばってんが、君らとしてはそうもいかんやろう。そうなっと、こっちは実力行使に及ばなきゃならん。ところが生憎と俺は酔っとってな。手加減ができそうになかとよな」
「……なんてや?」
「できればケガ人は最小限に抑えたい。そっちも痛か目には遭おうごとなかろう。そこで、少年。ここはひとつ、タイマンで勝負といこうやなかか。そっちは君、こっちはウチの娘が相手するよ。君が勝ったらそこん女の子二人ば残して、あとは行ってよか。ウチの娘が勝ったら全員大人しくお縄についてもらう」

 なんだ、そのあり得ない条件は?
 どこの刑事が容疑者とそんな賭けをするというんだ。第一、賭けに負けたからって刑事が犯罪者を見逃していいはずがないじゃないか。
 古閑も同じ結論に達したようだった。苛立ちと嘲りが混じった視線が向けられた。
「貴様、バカか。なんで俺らがそがん条件ば飲まにゃならんとや?」
「ダメか、やっぱり?」
「当たり前やろうがって。傷害罪って言ったって、そんガキが告訴状ば出さなきゃ始まらんのは同じやろうが。俺たちは帰るぜ。文句があるなら、あとで逮捕状持ってウチまで来いや」
「さすが、ケンカ慣れしとうとそん辺の事情に詳しかな。……じゃあ、しょうがなかな。真奈。俺ば思いっきり殴れ」

 お父さんは真奈に向き直った。
「その手でいくと?」
「あんまり気が進まんけどな」
 古閑たちは意味が分からずにキョトンとした顔をしている。もちろん、ボクもそうだ。
「よかや、筋書きはこうだ。未成年者略取、及び、少年への暴行事件の通報を受けて来てみたら、事件の関係者と思しき少年たちが立ち去ろうとしていた。そこで本官が事情聴取のためにそれを押し留めようとしたところ、その少年たちは本官に暴行を働いた。やむを得ず、本官は少年たちを公務執行妨害で緊急逮捕という判断を下した。――どがんや? これなら逃げてもすぐに緊急配備がかかるぞ」
「汚ねえ……」
 真ん中分けが吐き捨てた。
「そうか? 暴力団相手のガサ入れで使われよるポピュラーな方法なんばってんな」
 古閑はジットリとした視線をお父さんに向けた。
「……しょうがねえな。ただし、娘の顔が二目と見られんごとなって文句言うなよ」
 古閑が着ていた上着を脱ぎ捨てる。白いタンクトップからは大きく盛り上がった肩の筋肉が剥き出しになった。状況が飲み込めているのかどうか怪しい仲間たちは、事の成り行きをジッと見守っている。
「マコト……大丈夫だよね?」
「バカいうな、チヒロ。どうせお嬢ちゃんの道場空手やろ。そげんもんで俺に勝てるわけねえやん。こっちはストリートの実戦で鳴らしとうとやぜ」
 古閑は得意げに言い返した。お父さんは面白がるようにクックッと笑った。
「だってよ、真奈。負けそうだなって思ったら言えよ」

「助けてくれると?」
「バカ言え。子供のケンカにしゃしゃり出るほど、俺は行儀悪うなかよ。こっちでこの坊主と二人、精一杯声援を送ってやるから」
「声援だけね? ホント、冷たい父親を持つと苦労するわ」
 これから殴り合いに臨むとは思えないお気楽な会話だった。真奈はボクのほうを見やって、小さくウィンクした。
「亮太、あんたの頑張りは無駄にせんからね」

「へっ!?」
「まあ、見とってよ。――アタシの友だちに手を出したこと、後悔させてやるんやけん」
「真奈……」
 ようやくボクは理解した。このムチャクチャなタイマンの申し出は、実は真奈が望んだことなんだ。
「ブザマな真似すんなよ」
「誰に向かって言いよるとねって?」
 真奈はお父さんにそう言い返して、片頬に凄味のある笑みを浮かべた。それは初めて道場で会ったときに見せてくれた、獲物を前に舌なめずりするライオンの微笑だった。

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