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砕ける月

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  第 21 章  

 熊谷のクルマは高架線路を挟んだ反対側のコインパーキングに停まっていた。
 徳永邸のガレージで見た二台のうちのシルバーグレイのAMGメルセデス・クーペが熊谷のクルマだった。
 大きなボディと長いノーズ、威圧的なデザインのフロントグリルのせいで、隣のスペースのクラウンがカローラのように可愛らしく見える。
 熊谷は「先に乗っていてくれ」と言ってヴェルサーチの革のキーホルダーを放った。セカンドバッグの中から何か(多分、駐車券だろう)を引っ張り出しながら精算機の方へ歩いていった。
 アタシは助手席のロックを外して外車らしい大振りな造りのレザー・シートに身体を滑り込ませた。
 体を伸ばして運転席のロックを外してキーをイグニッションに差し込んだ。エンジンを始動しても微かなショックが伝わってきただけで静粛性は抜群だった。
 エアコンのスイッチを入れて風量を最大にした。
 コンソールのウッドパネルの真ん中にオーディオのモニタがあって、表示は”CD”になっていた。勝手に聴くのはどうかと思ったけれど熊谷の音楽の趣味に興味が湧いた。これで演歌とかニューミュージックだったりしたら爆笑だな、と思いながら演奏をスタートさせた。
 流れてきたのはピアノの音色だった。
 情熱的な激しさと、それでいて諦めにも似た哀しさを併せ持ったメロディ。どこかで聴いたことのある曲だった。
「――マイケル・ナイマンの曲だよ。「サクリファイス」だったかな。ピアノ・レッスンという映画を見たことはないか?」
 熊谷が運転席側のドアを開けて乗り込んできた。
 その映画ならアタシが小学生の頃、父親がレンタルで借りてきたのをこっそり見たことがあった。
 こっそりなのは、いつもはアタシが興味を示さなくても強制的に鑑賞会を開く父親が珍しく見せてくれなかったからだ。何故、見せてくれなかったかはすぐに分かった。実はこの映画は小学生には難解な上にかなり官能的なラブシーンがあったからだ。アタシはしばらく父親と口を利かなかった。
 それでも映像の美しさと言葉を話さない主人公のセリフの代わりのような音楽が記憶に残っていた。
 アタシはそのことを話した。熊谷は意外そうに目を丸くした。
「へぇ、佐伯にそんな趣味があったとはね。俺が知ってる佐伯と言えば、ローリング・ストーンズと南海ホークスにしか興味のない男だったが。移転先が福岡と知ったときには狂喜していたな」
 そう言えば今日のダイエーはどうだったか知ってるか、と熊谷が訊いた。アタシは静かにソフトバンクと訂正した。試合の結果など知るはずもなかった。
 駐車場を出て、メルセデスは百年橋通りを福岡空港のほうへ走り出した。
 平尾とはまるで反対の方角になる。アタシは自分の住所を言っていなかったことを思い出した。
「あの、アタシの家は平尾――」
「榊原先生の御宅なら知ってるよ。申し訳ないが東区のほうにちょっと寄り道させてもらう。君が来るとは思ってなかったんで、一つ仕事を入れてしまってるんだ」
「こんな時間にですか?」
「書類をポストに放り込んでくるだけだ。これでも社長でね。タイム・カードがないってことは、二十四時間三百六十五日営業ってことなんだぜ」
 アタシは嘆息した。
「スタッフもみんな働き者なんですか?」
「強制はしてないが、ワーカホリックが多いのは事実だな」
「おたくに就職するの、ちょっと考えさせてください」
 熊谷は返事の代わりに忍び笑いを洩らした。
 すでに午前二時半を過ぎていて、街中と言っても走っているクルマはあまり見当たらない。
 AMGメルセデスは百年橋通りに出ると、ストレートをレーシング・マシンのように伸びやかに加速した。前を走るタクシーを流れるようなスラロームでかわして、オレンジ色の街灯に照らされた道路を駆け抜けた。
 このまままっすぐ行けば三号線の博多バイパスに繋がっている。どうでもいいけれど、福岡ではちょっと年配の人と話すと新線・旧線・バイパスの区別が入り乱れて、一口に三号線といってもどれを指しているのか分からなくなることがある。ウチでも祖父と話すとそうなる。
 強力なライトで煌々と照らされた福岡空港の近くをかすめて、メルセデスはそのまま二又瀬のほうへ向かっていた。何処に行くのかと訊くと「流通センターだ」という短い答えが帰ってきた。名前を言われてもピンとこなかったけれど、このまま真っ直ぐ進んだ多々良川と宇美川が合流する辺りに物流センターが集まっている地域があることは知っていた。
 車中の会話はどうにも弾まなかった。
 アタシに自分から話すつもりがなかったのもあるけれど、熊谷もどうやって話を切り出していいのかを図りかねているようだった。
 何か助け舟を出してやれば良かったのかも知れない。でも、熊谷の仕事に関する自慢話を聞かされるつもりなどアタシには更々なかった。
 それでもやがて、意を決したように熊谷が口を開いた。
「君にとって由真は何なんだ? 友情なんて言葉で片付けるには、君は危険を冒し過ぎていると思うんだが」
「……いけませんか?」
「いけないとは言ってない。ただ、変だと言ってるだけさ」
「変?」
「ああ。由真の身を案じているというよりも、まるで君自身が由真を失うことを恐れているようにしか見えない。おかしな喩えで申し訳ないが、去っていく恋人に追い縋る女みたいだ」
「人を対人依存症みたいに言わないで下さい。――そういうあなたこそ、由真のことをどう思ってるんです?」
 アタシは苛立ちを抑えきれずに言った。何故、熊谷の言葉が気に障るのかは分かっていた。――図星だからだ。
「どうって……親友の娘だ」
「親友の娘を呼び捨てにするんですね。自分の娘でもないのに。それこそ変なんじゃないですか」
「……そうかも知れないな」
 熊谷はそう言うと、急に気弱になったように黙り込んだ。
 その変わり様にアタシは困惑した。
 呼び捨てのことを責めたのは、単にそれしか熊谷に言い返すことが思い付かなかったからだ。でもそれは熊谷の何処か弱いところを突いたのかも知れなかった。
 改めて見ると、押しの強そうな強面の容貌にも歳相応のくたびれた感じが漂っていた。今はその上に濃い疲労の翳がべったりと貼りついている。
 メルセデスのコンソールボックスにはJPSのパッケージが入っていた。熊谷はアタシに断ることもなくタバコに火をつけた。
「由真のことをどう思ってるか、と言ったな」
 アタシは頷いた。
「変な意味に取らないで欲しいんだが、彼女は俺にとって娘みたいなものなんだ」
「ヘッ!?」
 アタシは思わず素っ頓狂な声をあげた。熊谷はアタシを睨んだ。
「君は、由真の生い立ちとか境遇については知ってるんだよな」
「由真から聞いたことはありますけど。でもどうして――あ、お母さんが」
 熊谷は小さく頷いただけだった。
「由真が自分の娘みたいなっていうのはどういう意味なんです? まさか自分が実の父親だとか言わないですよね」
「そうだったら良かったのにと思うよ」
 熊谷は力のない微笑を浮かべた。
「俺は佳織に――由真の実の母親に惚れていたんだ。ま、向こうは引く手数多の美女、こっちは武骨なことでは人後に落ちない警官だ。付き合っているような感じではあったが、本当のところ佳織がどう思っていたのかは分からない」
「お二人はどういう繋がりだったんですか?」
「圭一郎――由真の父親とは高校の同級生なんだ。その頃はまだ旧姓の中尾といったんだが。で、アイツの結婚式の二次会で佳織と知り合ったというわけさ。恥ずかしい話だが一目惚れでね。徳永に頼んで一緒にダブル・デートみたいなことをしたのが最初だったな」
「プロポーズとかはしなかったんですか」
 熊谷は首を振った。
「警官っていうのは口下手が相場でね。どうやって言おうかと迷ってる間に、佳織は何も言わずに東京に行ってしまった。理由は分からない。駆け落ちしたという噂もあったが、そんな関係の男はいなかったはずだ」
「はず?」
「……とにかく、四年後に帰ってきたときには佳織は由真を抱えていた。心も体もボロボロだったよ。苦労知らずの女が独りで乳飲み子を抱えて生きていけるほど、都会は甘くはないからな」
「重度のノイローゼだったんだそうですね。由真が言ってました」
 熊谷は頷いた。
「徳永家では佳織と由真を扱いかねていた。佳織の病状が深刻だったのもあるし、世間体が悪いというのもあった。腹が立ったよ。俺はずっと独り身だったから佳織と籍を入れて由真と二人、引き取ろうかとすら思った。しかし佳織はもはや自分の意思で婚姻届にサインが出来るような状態じゃなかった。何とかしてやりたかったが、しかし、俺に出来ることは何もなかった」
「――由真のお母さんは自殺されたんですよね」
「そうだ。福岡に帰ってきて二ヵ月くらい経ったころだったかな。発作的に手首を切ってね。でも、外聞が悪いっていうんで徳永の先代が病死って死亡診断書を書かせたんだ。だから表向きは佳織は病死したことになってる」
 熊谷は小声で「……裏社会の連中だけの話じゃないな」と付け加えた。
「佳織の死後、由真がどうなるのか、本当に気が気じゃなかった。幸いにも姉夫婦が引き取って育てることになったから良かったが。もし、親戚中をたらい回しにされるようなことになっていたら、俺は徳永家に殴り込んでいたかもしれない」
「そう言えば、どうして警官を辞めて経営コンサルタントを始めたんですか?」
「別に深い理由はないよ。自分が警官には向いてないことに気がついただけさ。ただ、辞めるにあたって次の食い扶持を稼がなきゃならなくなった。で、何でも屋みたいなことを始めるつもりだと言ったら、徳永が声を掛けてくれたというわけさ。仕事にありつけてありがたかったのもあるし、由真と会う機会も出来て嬉しかったよ。ただ、両親が本人に事実を告げるまでは、俺も黙ってなくちゃならなかったが」
「あなたと母親の間のことは、由真は知ってるんですか?」
「……いや、多分、知らないだろう。あの子はよくウチの事務所にも遊びに来たが、俺に対してそんな素振りは見せたことはない。由真にとって俺は”家に出入りしている気のいい叔父さん”に過ぎないのさ」
 熊谷が由真を娘のように思う心情を、アタシは理解しようとしてみた。さっきの嫌悪感が薄まったわけではなかったけれど、アタシは少しだけこの男を見直していた。

 松島の流通センターに近づいてきた辺りで熊谷はスピードを落とした。都市高速四号線の高架下を走る流通センター通りの手前で倉庫街のほうに曲がった。
 その中にある土建会社のポストに大判の封筒を放り込んで、熊谷は戻ってきた。
 メルセデスは来た道を折り返した。話しながらのせいか、来たときのように飛ばす様子はなかった。
「由真はどうしてこんなことをしたんだと思います?」
 アタシは訊いた。
「……それを何故、俺に訊くんだ?」
「とりあえず、他に訊く人がいないからですね」
 熊谷はアタシの方を見ようともしなかった。
「心当たりはなくもない。ただ、推測でモノを言うことになるからな。あまり気は進まないが」
「推測で充分。聞かせてもらえますか?」
 熊谷は無言でステアリングを指で叩いていた。やがて根負けしたように大きなため息を洩らして、口を開いた。
「恐喝事件の動機には、大雑把に分けて二種類ある。一つは金品が目当てのケースだ。ま、金品に限らず、物だったり便宜を図ることだったり、或いは何かをすることの場合もあるが、要するにそういう物理的な欲求が元になっているんだ。実際には恐喝事件の大半がこちらだと言っていいだろう」
「由真はおカネを――五千万円を要求してるんですよね」
「そうだが、果たして由真がカネ目当てにこんな真似をしたのかどうかはかなり疑問が残る。五千万円は確かに大金だ。しかし、由真の資産はそんなもんじゃないからな」
「……どういう意味ですか?」
「徳永の先代が亡くなったときに、由真は佳織の――実の母親の代襲相続でかなりの資産を相続してるんだ。今はまだ未成年だから勝手には使えないが、彼女のものであることには違いないし、親権者の徳永夫妻と言えども由真の利害に反するようなことは出来ない。文字通り由真の資産なんだ」
 幾らくらいと訊いてみた。三億は下らないという返事だった。
「それだけあっても今は使えないんでしょう? 何か急におカネが必要だったんじゃ……」
「五千万円もか? 何をすれば、そんな大金が必要になるんだ?」
「まぁ、確かにそうですけど」
 由真の金銭感覚は一般の女子高生とは確かに一桁ズレているけれども、決して金遣いが荒いわけじゃなくて、むしろ無駄遣いはしないタイプだと言えた。アタシのほうが衝動買いをたしなめられたことがあるくらいだ。
「もちろん他人には窺い知れない事情があった可能性は否定できないが、仮にそうだったとしても財産は結局は由真自身のもので、最終的にはどう使おうと彼女の自由なんだ。罪を犯す理由にはならんよ」
「つまり、金銭的な動機は当てはまらないと言うんですね?」
「と、俺は思うがね」
 では何故、由真はそんな大金を要求したのだろう。
「動機の、もう一種類って何なんです?」
 熊谷は言いにくそうにしばらく躊躇った。
「――怨恨だよ。何かを手に入れるためと言うよりも、相手を窮地に追い込むのが目的のケースだ。あんまり聞かないし、厳密には”恐喝”とは言えないのかもしれないが」
「誰に対する怨恨だって言うんですか?」
 熊谷は分かりきったことを、と言いたげにため息をついた。
「脅されているのは徳永夫妻とその息子だ。だとしたら、恨まれる対象も同じじゃないのか」
「まさか――あり得ないわ」
 唐突にアタシを訪ねてきたあの夜、鬼束ちひろの「月光」を聴きながら由真は血の繋がらない兄、徳永祐輔のことを誇らしげに語った。
 ――やっぱアンタのお兄ちゃんだね。
 アタシにそう言われて由真は顔をほころばせた。
 両親に感謝の気持ちを持っていることも同じように語っていた。母親に先立たれた可哀そうな姪ではなく自分たちの娘として育ててくれたと。
 アタシは熊谷を見た。熊谷は小さく肩を竦めた。表情は暗くて見えなかったけれど、何を言いたいのかは伝わっているようだった。
「しかし、由真が徳永家のスキャンダルの証拠を持ち出して、それをネタに五千万円を要求しているのは事実だ」
「それは何か理由があって――」
「理由? どんな?」
 アタシは返答に窮した。
「こういう言い方は気に入らないと思うが、由真が君に自分の気持ちを洗いざらい喋っていたとは限らんだろう」
「それはそうですけど……。あなたはその理由に心当たりがあるんですか?」
「そうだな、知っていると言えば知っているが……」
 熊谷は言い難そうに言葉を濁した。
「君にとっては、かなりショッキングな話になるぞ」
「ここまででも充分にショッキングですよ。これ以上、何を聞いても驚きません」
 メルセデスは三笠川を渡って熊谷の事務所の近くを通った。熊谷はそのまま百年橋通りを直進した。この道はまっすぐ平尾の高台の南側に繋がっている。
 熊谷はJPSに火をつけた。
「……俺がこの話を聞いたのはつい先日のことだ。この四ヶ月、祐輔君は自分が起こした医療事故と母親が起こした殺人事件のことでノイローゼのような状態に陥っていた。本当は彼は患者が死亡した時点で全てを明らかにして、然るべき処分を受けようとしていたんだ。ところが両親はそれを許さなかった。親の心境としては理解できないこともないが、彼にとっては患者への申し訳なさや自分の未熟さへの自責の念と、敬聖会のたった一人の跡取りとしての責任との板ばさみにあって、どうしようもないところまで追い詰められることになった」
「そうでしょうね」
「一連の事件のことを由真がどうやって知ったのかは分からない。おそらく実家で両親と祐輔君が言い争っているのを聞いたのだろう。彼女は日に日にやつれていく兄を間近に見て本当に心を痛めていた。七月の始めのことだ。ついに由真は決心して両親に言ったんだ。全てを明らかにして罪を償うべきだと。それしか兄の心を救う方法はないと」
 アタシは息を呑んだ。
 それがどれほどの勇気を必要とする決心だったか、想像に難くなかった。それを主張することは養女である自分の居場所を放棄することに他ならないのだから。
「両親は――特に麻子さんは激怒した。これまで育ててもらった恩を仇で返すつもりなのか、とね。具体的にどんなやり取りがあったのかは知る由もないが、聞くに堪えない罵声が飛び交ったことは間違いないだろうな」
「お兄さんはどうしたんです?」
「どうもこうも彼は両親に逆らえるタイプじゃないし、ましてや自分がやったことが元で母親が人を殺してしまったんだ。今更、自首したいなんて言えるはずもない。たとえ彼の精神がそのことで押し潰されてしまったとしても」
 大濠の家で見た、病的に憔悴しきった祐輔の表情を思い出した。
「それ以来、由真は実家に顔を出していない。祐輔君は日常の勤務をこなしながら何とか自分を納得させようとしていたようだ。俺も一度、彼の相談を受けて二人で飲んだこともあったが、何とか立ち直れそうな感触だった――表向きは、な」
「どういう意味です?」
「由真の提案は、まだ早い段階だったならば彼の心を救っただろう。しかし、この段階に至ってはある意味では逆効果だったんだ。祐輔君の心は急速に由真から離れて行った。何というか、皮肉としか言いようがないが」
 熊谷は大きなため息をついた。
「そんな中で、二人に決定的な亀裂が入ってしまったんだ」

「決定的って?」
 アタシは敬語を使うのも忘れて訊いた。
 熊谷はしばらく言葉を選ぶように逡巡して、ようやく口を開いた。
「祐輔君が由真に手を上げてしまったんだ。由真に詰め寄られて逆上してしまったんだろうな。ずいぶんとひどい言葉で由真を詰ったらしい」
 ノーガードで顔面に正拳突きをくらったような衝撃がアタシを襲った。
 アタシの目に怒気が篭るのを感じたのか、熊谷は慌てて言い足した。
「何でも、ちょうど由真の友達が訪ねてきたおかげで、その場はとりあえず収まったらしいがね」
「友達? 誰ですか?」
「そこまでは知らんよ。一応、付け加えておくが、由真をこんな目に遭わされて俺だって腹に据えかねているんだ。しかし祐輔君は心から自分のしたことを恥じていた。彼も追い詰められていたんだ」
「でも、だからって許されることじゃないわ」
 アタシの声は自分でも驚くほど震えていた。
 熊谷は疲れとも嘆きともとれるため息をついた。
「だから言っただろう。君にとってはショッキングだって」
 アタシは答えなかった。
 信じていた兄に裏切られた由真の気持ちを想った。それはどれほどの衝撃だったことだろう。
 アタシはブラコンとからかったけれど、由真の兄に対する気持ちは尊敬であり、感謝であり、何よりも愛情だったはずだ。だからこそ彼の心を救うために彼女は自分の居場所を放棄する覚悟を決めたのだ。
 しかし、その兄は自分の弱さに敗けて由真の心を傷つけた――多分、取り返しがつかないほどに。
 暗い衝動に突き動かされて犯罪に手を染めるほどに。
「由真はその日、百道のマンションを飛び出した。祐輔君の不在を見計らって必要なものを取りに戻ったりはしていたようだが。何処か――多分、友達の家にでも転がり込んでいたんだろうな」
「でも、アタシの前ではそんな素振りも見せなかったわ。帰りだって百道方面のバスに乗っていたし」
「君には心配をかけたくなかったんだろう」
 多分、そうなのだろう。
 そんな気遣いはして欲しくはなかった。でも、立場が逆ならアタシも由真に心配をかけたくないと思うだろう。
 真逆なアタシと由真は、実はそういうところは本当によく似ている。アタシたちは二人とも他人に胸襟を開ききれない可愛げのない意地っ張りなのだ。
 メルセデスは平尾浄水のアタシの家に近づいていた。
 時計は三時二十七分を示していた。
 そろそろ、この会談も終わりにしたかった。
 訊かなくてはならないことはまだいくらでもあるような気はしたけれど、もう気力の限界だった。
 それでも、もう一つだけ訊いておかなくてはならないことがあった。
「――質問があるんですけど、熊谷さん」
「何だ、改まって?」
「今日は初対面なのに、ずいぶんと色んなことを聞かせてもらったんですけど、アタシにそれを聞かせた目的は何なんです?」
 ブツンとスイッチが切れたような沈黙が車内に満ちた。
「……そもそも君が俺に疑いをかけたんじゃなかったかな? だから、俺は事件の背景と由真がしようとしていることを教えたんだ」
「そうですけど、だからって村松医師の死の真相まで教える必要はなかったはずです」
 熊谷はアタシをチラリと見やった。それは想像していたような冷たいものではなくて、どちらかというと感嘆したような眼差しだった。
「確かにそうだな。少し喋りすぎたかも知れない」
「少し?」
 冗談ではなかった。そもそも、アタシに由真のやろうとしていることを教える義理さえ熊谷にはないのだ。
「君が好奇心や由真を心配して何かしでかすのを防ぐために話したんだ。俺としてはこの一件が穏便に決着することを望んでいる。由真が無事に戻り、MOディスクが回収され、もう一組の脅迫者が排除されることをね。出来れば無用な出費が抑えられることも、更に言うなら徳永家が元の鞘に納まることも。ま、後の二つは望み薄だが」
「そうだとしても、もっと当たり障りのない話にすることは出来たんじゃありませんか」
「君は本当に頭の良い子だな」
 メルセデスはアタシの家に近づいていた。曲がる角を教えると熊谷はスピードを落としてハンドルを切った。メルセデスはアタシの家のガレージの前に停まった。
「一つ、頼みたいことがあるんだ」
 熊谷が言った。
「何ですか?」
「高橋とかいう由真の彼氏のことだ。さっきはウソをついたが、俺は彼の存在をすでに把握していた。彼が襲われたこともな」
「どういうことですか?」
「由真はディスクを盗んだときに手伝いをしたのが高橋だからさ。二人して忍び込んだのがビルの入口に仕掛けてある防犯カメラに映ってたのさ。我々は直ちに事務所の指紋採取を行った。警察にいる知り合いにちょっと頼んでね」
「それで出たんですね、高橋の指紋が」
 熊谷は頷いた。
「そういうタイプには見えないが、高橋は二、三年ほど前につまらないケンカで挙げられたことがあるんだ。そのときに採られた指紋で身元が知れたというわけだ。ところが彼の家に行ったみたら、病院に担ぎ込まれていたんだ」
「なるほど。それで?」
「俺は高橋拓哉を襲った連中と、由真とは別口で敬聖会を脅迫しようとしている連中は同一だと考えている。そして君が言うように由真が何者かに身柄を押さえられているとするならば、それもそいつらの仕業だと考えて間違いないだろう。してみると、彼らと接触のあった高橋から話を訊くことが脅迫者の割り出しには一番の近道だと言える。しかし、残念ながら我々では彼に話を訊きに行くわけにはいかない」
「どうしてです?」
「一つは彼が警察の保護下にあるということだ。我々は当然のことだが警察の介入を望んでいない。もう一つは俺は由真から見れば何というか……敵対的な立場にある。ということは、由真の側に立っているであろう彼の協力は得にくいと考えられる」
 言いたいことが分かってきた。
「由真の友人であるアタシなら、入院中の高橋に近づくことも彼から話を訊き出すことも出来るってことですね」
「その通りだ。そして、それを頼むのであれば、君に隠し事をしておくのは賢明じゃない。それが君に事件のことを話した理由だ。納得して貰えたかな」
「――そうですね。一応」
 裏づけのない話を丸呑みするほどアタシはお人好しではないけれど、疑うに足る理由もなしに否定してかかっていては話は何も進展しない。
 とりあえず、そのことを頭の隅に置いておくことだ。
「引き受けて貰えるかな?」
「分かりました。ご期待に添えるかどうか、分かりませんけど」
「ああ。それで構わないよ」
 熊谷は満足そうな笑みを浮かべた。何か分かったら連絡して欲しいと言われた。アタシはペンを借りて熊谷の名刺にケイタイの番号を書き付けた。
 アタシはメルセデスを降りた。運転席側に回って半開きの窓越しに熊谷と向かい合った。
「それじゃ、これで。送っていただいてありがとうございました」
「礼には及ばんよ。吉報を待っている」
「上手くいくと良いんですけどね。ところで、一つ訊いていいですか?」
「何だ?」
「アタシがこれから知り合いの刑事に電話して、貴方から聞いたことを全部ぶちまけるって言ったらどうします?」
 熊谷の目に、初めてアタシを疎ましく思うような色が浮かんだ。

「そうするつもりなのか?」
「やだな――例えばの話ですよ」

 熊谷は覗き込んでいたアタシの目から視線をそらして、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「どうもしないよ。証拠がないからな」
「証拠?」
「君が何を言ったところで警察は証拠がなければ動かない。何故だか分かるか? 仮にどれだけ疑わしくても、公判を維持できるだけの証拠がなければ、検察が起訴しないのが目に見えているからさ」
「そんなものですか?」
「そうさ。証拠のない犯罪はもはや犯罪じゃない。それが現実だよ」
 熊谷の口許がシニカルに歪んだ。
「――確かにあなたは警官には向いていなかったようですね」
 アタシはそう言ってニッコリ笑った。
 熊谷は無言で窓を閉めた。短いクラクションを鳴らしてメルセデスは走り出した。アタシはそのテールランプが見えなくなるまでその場で見送った。







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