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砕ける月

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  第 32 章  

 由真が帰ってきたのかも?というような楽観的な発想は、何故か欠片ほども浮かばなかった。
 アタシは全身が総毛立つのを感じた。思わず梅野を振り返った。恐怖に大きく目を見開いて情けない表情をしているのが自分でも分かった。

 唐突なことにパニックに陥りそうになったアタシの口を、梅野はとっさに大きな手で塞いだ。
(――大丈夫っすよ、落ち着いて)
 梅野が小さな、でも力強い口調で言った。
 普段のアタシならこんなことを許しはしないのだろうけれど、今はその強引な仕草が逆にアタシに落ち着きを取り戻させていた。頷くと梅野は口を塞いでいた手を放した。
 数秒置いて再びチャイムが鳴った。アタシは梅野と顔を見合わせた。
(……でも、えーっ、誰!?)
(見てみましょうか)
 梅野はアタシの体をよけると、玄関のドアのレンズから外を窺った。
(若いニイチャンっすよ。丸顔のボンボンっぽい顔してますけど)
 さらにもう一度、チャイムが鳴った。
「――由真、いるんだろ。僕だ。開けてくれないか」
 外から声が聞こえた。聞き覚えのある徳永祐輔の声。ただしあの時のような刺々しさは感じられなかった。どちらかと言えば、ケンカした彼女に許しを乞う男のような哀れさがにじんでいる。
 この男が由真にしたことを考えれば、そんなものでは済まないのだけれど。
 ついさっきまでビビッてていた反動からか、アタシは明白な不法侵入者というこの場での自分の立場を忘れて、怒りをぶつけてやりたい衝動に駆られた。
 とは言っても本当に出て行くわけにはいかないし、アタシにだってそのくらいの理性は残っていた。

 さっきから何度もチャイムが鳴るばかりでロックが外れる気配はなかった。徳永祐輔はこの部屋のカギを持っていないということだ。部屋に誰かがいるのは外に洩れた灯りで分かったのだろう。
 声を潜めてやり過ごすか。
 それはダメだ。管理会社の人間を呼ばれたらアウトだからだ。ここが誰の名義であれ、徳永祐輔にはもう半月以上も家に帰らない妹を捜しているという大義名分がある。アタシは何と説明したところで警察に突き出されることは避けられない。

 方法はひとつ。徳永祐輔を言いくるめることだけだ。
 そうと決まればしなければならないことはハッキリしていた。アタシは玄関の三和土から梅野の靴と傘を拾い上げた。
(すぐ、ベランダに出てください。アタシが話します)
(えーっ、そんな……。大丈夫なんすか?)
(ええ、知り合いですから)
 梅野はドアとアタシの間を何度も視線を行き来させた。もう一度チャイムがなった。
 細かい説明をしている時間はなかった。アタシは手にしていたトートバッグを梅野に押し付けてドアの前に立った。灯りを消して素早くドアチェーンを掛けてから、大きく深呼吸してロックを外した。
 ドアはチェーンロックの余裕の分だけ開いた。
「……誰ですか?」
 アタシは演技力の許す最大級のオズオズした口調で言った。
「あれっ、えーっと、ここは徳永由真の家じゃないんですか?」
 徳永祐輔は事情が飲み込めない様子で、ドアの隙間からアタシの顔を覗き込んだ。驚いたようにあんぐりと口を開いた。
「君は由真の友達の、えーっと、榊原さんといったよね」
「ええ、そうですけど……。あ、由真のお兄さん、ですよね?」
 アタシは初めて気付いたように白々しく答えた。暗いのとアタシの大きな図体が邪魔で、廊下の様子は見えないはずだ。背後で奥の部屋へ続くドアを音を立てないように閉めているのが感じられた。
「君は何をしてるんだい、こんなところで」
「えっ、あの、由真から、吉塚に部屋を借りてるから、あっちに行ったときは使っていいよって言われてたんです。カギも預かってたし」
 アタシはメーターボックスの中から拝借したカギを見せた。この場は「由真が良いと言ったから」で乗り切るつもりだった。
「それで、こっちに遊びに来たってわけ?」
「というより、この部屋のことはキレイさっぱり忘れてたんですけど、由真がひょっとしたらいるんじゃないかと思って。――いませんでしたけどね」
 祐輔は落胆したように「そうか……」と呟いた。
「分かった。でも、ちょっと中を見たいんで、開けてもらっていいかな?」
「あ、ハイ。ちょっと待ってください。チェーンを外しますから」
 アタシは一旦、ドアを閉めた。
 目の前に立つ男は昨夜、大濠の家で見たときとは別人のように穏やかで、まさに由真が語っていたような”理想的なお兄ちゃん”だった。いくら精神的に追い詰められていたといっても、妹の心を傷つけるような人間には見えなかった。
 しかし心の闇というのはそういうものなのかも知れない。誰の心の中にでもそういう闇は巣食っているのだろう。そして、それは本人すら予想しないようなタイミングで表に出てきて、周囲や自分自身をも驚かすようなことをしでかすのだ。
 それを弱さと切って捨てるのはたやすい。しかし、だとすればこの世に強い人間などいるのだろうか。
 アタシはチェーンロックを外して、再びドアを開けた。祐輔は少しきまずそうな表情をアタシに向けていた。おそらく自宅での母との間の醜態を恥じているのだろう。
 アタシは身体を避けて、奥の部屋へ祐輔を通した。アタシは後ろから彼に続いて部屋に入った。
 家具らしいもの一つない殺風景な部屋を見回しながら、徳永祐輔は激しく落胆しているようだった。そこには少なくとも由真の行方を知らせるようなものは何もなかった。
「……せっかく、由真の手掛かりが見つかったと思ったんだけどな」
 祐輔はポツリと言った。腰を下ろそうにもこの部屋には椅子もなかったので、アタシと祐輔は突っ立ったままだった。
「どうやってここのことを?」
 アタシは訊いた。
「これだよ」
 麻のジャケットの内ポケットから、折り畳んだ封筒を取り出した。
「二日ぶりに百道のマンションに帰ったら、郵便受けに突っ込んであった。このウィークリー・マンションの管理会社から僕宛にね、そろそろ二ヶ月めに入るんでその分の家賃を振り込んでくれってね」
「……意味がよく分かんないんですけど」
「実は僕にもよく分からないんだ。少なくとも、僕はこんなマンションを借りた覚えはないんでね」
 アタシは書類を見せてもらった。名義は確かに徳永祐輔で一ヶ月単位の契約、支払いは銀行振込(先払い)になっている。連絡先はケイタイの番号になっていた。
「コレ、お兄さんのケイタイの番号なんですか?」
「いや、そんな番号じゃない。最近、新しくしたばっかりで、アタマは”〇八〇”なんだ」
 祐輔は自分のケイタイを見せてくれた。ドコモの新しい機体だった。
「君は? この番号に心当たりはあるかい?」
「……いえ。でも、かけてみれば分かるんじゃないですか?」
「かけてみたよ。おかけになった番号は電波の届かないところにあるそうだ」
「または電源が切れているか?」
「そういうこと」
 アタシは自分のケイタイでかけてみると言った。番号をプッシュして通話ボタンを押す。ディスプレイには”タカハシタクヤ”の文字が浮かんだ。
 予想したとおりだ。
「やっぱり繋がりませんね」
 アタシは素早く発信履歴を消した。
 事情が見えてきた。由真はこのマンションを借りるのに徳永祐輔の名義を無断借用したのだ。諸々のチェックをどうやってクリアしたのかは謎だけれど、ウィークリー・マンションというのは短期滞在型ホテルのようなものだから、支払いの面さえしっかりしておけば煩いことは言わないかも知れない。
「入居日は先月の十六日ですね」
「ああ。一ヵ月前のことだよ。由真が家を飛び出してから、そんなになるんだな」
「正確にはその一週間前じゃないんですか。由真が家を出たのは」
 アタシの言葉の意味が分かるのに少しだけ時間がかかった。祐輔は表情を歪めた。目には悔悟と屈辱の入り混じった複雑な色が浮かんでいた。
「……由真から聞いたのかい?」
「まさか。現場に出くわした子に誰にも言わないでくれって口止めしてたのに、自分でペラペラ喋るわけないじゃないですか」
「じゃあ、一体誰から?」
「熊谷さんからです」
 一瞬、その名前を出すのを迷った。しかし沈黙を守る理由はなかった。
「何故、あの人がそんなことを君に……?」
「話せば長くなるんですけどね」
 話の通りを良くするためにアタシがこの件に関わった経緯も説明してから、昨夜、熊谷がしゃべったことをかいつまんで話した。
 目の前の本人が起こした医療事故とそのカルテのすり替え工作。それに伴って起こった村松俊二とのやりとり。徳永麻子による殺人事件についても躊躇わずに話した。その後、カルテの工作に関わった小宮が脅迫者に成り下がったこと――もっとも、彼は熊谷の手で放逐されているけれど。その後、小宮の手から一旦は回収されたMOディスクを由真が再び持ち出したこと。現在、それをネタに彼女が徳永家に対して五千万円を要求していること。高橋拓哉がその協力者であること。そしてそれとは別のもう一組の脅迫者が敬聖会を強請ろうとしていること。最後の一つは祐輔も知らないことのようだった。
「その脅迫者と由真の間に繋がりがあるのかどうかは分かっていません。ただ、彼らがMOディスクの存在を知っているけれど持ってはいないこと、そしてそれを手に入れようとしていたことは間違いないようですね」
「そのために由真の彼氏――高橋くんっていったかな。彼は襲われたのかい」
「熊谷さんはそう見ているようですね。でも事情を訊こうにも彼は病院に入院してたんで、熊谷さんたちでは近づくことが出来なかった。そこでアタシに話を聞き出すことを期待して、事情を説明してくれたんです」
 高橋のことを彼氏だと言った覚えはなかったけど、訂正して話をややこしくしたくなかったので何も言わなかった。アタシの葛藤になど気づかず、祐輔は大きな息を洩らした。
「そういうことか……」
「あなたが由真を殴った上にひどく罵ったことは、彼女の動機は何なのかって話の過程で言わざるを得なかったから、熊谷さんは話したんだと思います。出来れば言いたくなさそうでしたから」
 熊谷幹夫が由真とその実の母親に対してどんな気持ちを抱いているかは話さなかった。それはアタシに話す権利があることは思えなかったからだ。
 徳永祐輔は大きく肩を落とした。
「僕や、僕の家族がやったことは何と言い訳しても許されることじゃない。由真のことにしてもそうだ。最初から自分のやってしまったこととキチンと向かい合っていれば、こんなことにはならなかったんだ」
「今からでも遅くはないんじゃないですか?」
 アタシは言った。
「……どういう意味だい?」
「今からでも向かい合うことは出来るんじゃないかって言ってるんです。事件が明るみに出れば、それはもう脅迫の材料じゃなくなるでしょう?」
「それはそうだ。しかし、それじゃ僕はともかくお袋は刑務所行きになってしまう。人を殺してしまったんだから」
「確かにそうですね。でも、由真はお母さんにそうするべきだって言ったって聞きました。何よりも、あなたの心を救うために。そうすれば徳永家に自分の居場所はなくなることも覚悟の上で。あなたが本当に由真にしたことを後悔しているんなら、今度は自分の番じゃないんですか?」
 徳永祐輔はアタシの顔をジッと見つめていた。
 やがて彼は目を伏せて、纏わりつく蜘蛛の巣を振り払うかのように激しく頭を振った。
「そうだが――しかし」
「ま、今、ここで結論を出してもらう必要はありませんけど。ただ、今と状況が変わらないのに由真を連れ戻したところで、また出て行っちゃうんじゃないんですかね」
 アタシは項垂れる祐輔に、部屋を出るなら一緒に出ないとカギをかけられないと言った。
 祐輔は無言で先に廊下に出た。アタシは戸締りをするフリをしてベランダを覗いた。雨に濡れないように狭いベランダの隅に体を寄せている梅野に”すぐ戻ります”と合図を送った。
 マンションを出て入口の前で祐輔を見送った。BMWは道向かいの路肩に違法駐車してあった。
 何か分かったら連絡して欲しいという祐輔に、アタシはとりあえず頷いておいた。お互いにケイタイの番号を交換した。
「由真が言ってたよ。高校に入って、初めて親友って呼べる友達が出来たって。君のことだったんだな」
「アタシのことを?」
「ああ。二人でどこに行っただとか、学校で君がどんなことをしただとか、まるで彼氏の話みたいにいろいろとね。話してみて分かった。君が本当に由真のことを心配してくれているってことがね」
「あなたは? 由真のこと、本当に心配してるんですか?」
 祐輔は言葉を選ぶように一瞬、沈黙した。
「……しているさ、もちろん。この世でたった一人の妹だからね」
 祐輔は小走りに道路を渡ってクルマに乗り込んだ。エンジンをかけて窓を開けて顔を出した。
「君が言ったこと、本気で考えてみるよ。僕がやらなきゃ、どうにもならないんだから」
 アタシは頷いて見せた。BMWは降りしきる雨の中を走り去った。








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