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砕ける月

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  第 60 章  

 目が痛くなるほど真っ青な空に、真っ白な入道雲がムクムクと立ち上がっている。
 プールサイドにはジリジリと音のしそうな陽射しが照り付けていたけれど、パラソルの日陰には爽やかな風が吹き込んできていて意外なほど気持ちがよかった。
 アタシはビーチマットから半分だけ身体を起こしてペットボトルに手を伸ばした。
 ウーロン茶を一口すすって人心地がつくとアタシはまたゆっくりと寝そべった。
 高校生最後の夏休み、その終わり間近の土曜日。
 家族連れが多くて騒がしいのが難点だけれど、海ノ中道サンシャイン・プールはアタシにささやかな夏休み気分を味わわせてくれていた。
 受験勉強に明け暮れる日々にだってこんなゆったりした一日があったっていいはずだ。志望校の合否判定がCだったことも今日くらい頭から追い出すことにした。前回のDからは向上しているのだし、本番にはまだ――まあ、あと少し時間がある。
 小学生たちが歓声を上げながら走り過ぎるのを眺めながらアタシは大きな欠伸を洩らした。
 理由は分かっていた。同行したメンバーの中でまともに料理が出来るのがアタシしかいなかったので、朝五時起きで六人分の弁当を作らされたからだ。
 その連れたちは好き勝手なことを言いながら弁当を片付けてしまった後、何処にいったのか姿が見えなくなっていた。
 まあ、いいか。少しくらい眠らせてもらってもバチはあたるまい。
 サングラスをかけなおして瞼を閉じると、耳が徐々に音を捉えられなくなり、意識がゆっくりと遠のいていきそうになる。心地よさに自分の口許が緩んでいくのが分かった。何故、日本では昼寝という習慣が怠け者のそれのように言われるのだろう。
 
 不意に危険な息づかいを感じて、アタシは現実に引き戻された。
 足音が二つ――いや、三つか。何かプラスチックのようなカチャカチャした音が聞こえる。
 まったく何をやっているのやら。
 あたしは逆に不意を打ってやろうと飛び起きた。次の瞬間、視界に入ってきたのは銃口だった――カラフルな水鉄砲の。
 いつの間にかアタシは完全に包囲されていた。
「撃てえっっ!!」
 ちょっと舌足らずな号令とともに四方から勢いよく水流が浴びせられた。オモチャとは言っても結構な水圧で当たりどころによってはかなり痛い。
「――ちょ、ちょっとっ!! アンタたち、何してんのよっ!!」
 とりあえず顔を庇いながらアタシは怒鳴った。
 一斉掃射はそれぞれの水鉄砲が空になるまで続いた。
 プールに入ってもいないのにずぶ濡れになったアタシを囲んで友人たちが弾けるように笑っていた。今や生徒会長の三村美幸、クラスメイトの立花恵、柳瀬千明、古村慶子の三人。
 そして徳永由真。
 何処で調達したのか全員が半透明プラスチック製の大振りな水鉄砲を手にしていた。美幸に至っては両手でないと抱えられないような大物を構えている。
「もう、信じらんない!!」
 アタシは手で濡れた顔を拭った。
 慶子が手元のタオルを放ってくれた。優しい気遣いのように見えるけど、さっき号令をかけたのは他ならぬ彼女だ。メンバーの中では一番小柄でアタシと並ぶと視線の高さがまるで合わない。
「だって真奈ってば、いくら呼んだって来ないんだもーん。せっかく遊びに来たのにぐうぐう寝てるなんてもったいないよぉ」
「分かってるけどさ。でも、ちょっと寝てただけじゃない」
「ちょっと? すっごいイビキだったよ?」
「そうそう。あんなの彼氏に聞かれたら、百年の恋も冷めること間違いなしだね」
 恵がしたり顔で言った。無口な千明も同感といったふうに頷いていた。
 美幸と由真はアタシの顔を見て苦笑いしていた。アタシはオーバーに顔をしかめてみせた。
 誰が言うともなく、ここの名物であるスライダープールへ行くことになった。水鉄砲を持ったままというわけにはいかないのでアタシと由真はそれをロッカーに置きに行くことにした。
 先に行った四人を見送りながら由真はアタシに「大丈夫?」と訊いた。
「何、言ってんのよ。一番楽しんでたくせに」
「バレた?」
 由真はペロリと舌を出した。
 ワインレッドのビキニに身を包んだ由真は周囲の注目の的だった。
 この一年で由真は――女のアタシが言うのも変だけど――やけに艶かしくなっていた。元からグラビアアイドルでもいけそうなくらいスタイルは良かったけど、目に見えて体型が変わったわけじゃないからそれはちょっとした仕草だとか、そういうものからきているのだろう。
 それが十七歳と十八歳の違いなのかも知れないけど、同い年のアタシにはそんな変化があったとは思えない。由真が特別なのか、それともアタシが相変わらずガサツなのか。
 おそらく両方だろうとアタシは思った。
「でもさ、美幸はともかく、真奈があの三人とあんなに仲良くなるとは思わなかったよね」
 並んで歩きながら由真が言った。彼女たちは由真の中学生のことからの仲良しグループで、由真のブログにも名前が出ていた。
「そうかなぁ?」
「そうだよ。だって去年、あたしが真奈のお友だちを増やそうとしてたときには、あんなに嫌がってたじゃない」
「あー、そんなこともあったっけ?」
 アタシはバツが悪くなってポリポリと頭を掻いた。
 実はそれは自分でも意外なことだった。
 
 一年前の事件のあと、学校に戻ったアタシを待っていたのはそれまで想像もしたことがないようなクラスメイトの温かい出迎えだった。
 事件のことは大々的に報道されていたし、アタシが話したことが美幸を通じて広まったりもしていた。そんな中でアタシは”由真を救うために奔走したヒーロー”ということになっていたのだ。
 もちろん噂には尾ひれがつくのが世の習いで事件のあらましは真相とは似ても似つかないことになっていたし、誤解も甚だしいところではアタシは全身に銃弾を浴びながら犯人に立ち向かった(いくらアタシでもそれは無理だ)ことになっていたりもした。
 だいたいアタシが”ヒーロー”だという時点ですでに間違えている。
 当初、アタシはそれらの声に反応するつもりはなかった。周囲の賞賛が欲しかったわけではないし、事件の真相があまりにも苦すぎてそういう気分になれなかったのだ。
 その気持ちが変わったのは由真の処遇を巡って生徒会が処分軽減のための嘆願運動をすることになったからだった。生徒会の書記だった美幸は生徒たちの協力を取り付けるには旗印が必要だと言った。
 そして、それにはアタシ以上に打ってつけの人材はいなかった。
 アタシは生まれて初めて人前で自分の言いたいことを主張するという経験をすることになった。由真のためだと思えばこそやる気になったことではあったけど、内心は不安で仕方がなかった。
 そんなアタシのサポートをしてくれたのが恵と千明、慶子の三人だった。彼女たちはアタシを励ましたり遠慮なくダメ出ししたりしたし、アタシも少しずつ思ったことを素直に口にするようになった。
 そうやっておよそ一ヵ月後、四週間の停学と冬休みと春休みを返上しての補講という寛大な処分が下りたころには、まるでずっとそうだったかのようにアタシたちはすっかり打ち解けてしまっていた。

「……ぷへー、疲れたぁ」
 ガレージに滑り込んだバンディットのタンデム・シートから由真はひらりと飛び降りた。
 ヘルメットを脱いで頭を振ってまとめていた髪を解き落とした。日焼け止めはちゃんと塗っていたのに顔がほんのりと赤くなっている。おそらくアタシも同じような状態だろう。
 あれから二時間ほどたっぷり遊んでからホテル海ノ中道のティー・ラウンジでお茶をして、それぞれに用事があるからと解散する運びとなった。アタシと由真は少しだけ時間があったので大名の辺りのショップを覗いてきていた。
「はしゃぎすぎなのよ。子供じゃあるまいし」
「子供だもん。――ねえ、梅っちは何時ごろ仕事終わるの?」
「人の彼氏を”梅っち”とか呼ばないの。ねえ、あんた、そろそろ彼氏作んないの?」
 アタシは訊いた。
 由真はゆっくり首を振った。
「まだ、もうちょっとだけフリーでいようかなって。周りにピンとくる男の子もいないし。――あ、でも村上さんだったらいいかも」

「えーっ!?」
 アタシはアングリと口を開けた。
「でもあいつ、一回りも年上だよ?」
 正確には十三歳(アタシたちは十八歳、村上は三十一歳)も違うのだ。でも由真は「それが?」とでも言いたげな顔をした。
「それくらい、ぜんぜんストライク・ゾーンだよ。恋人とかいないんでしょ?」
「そうだと思うけど。でもどうだか。結構、別れた奥さんに未練たっぷりみたいだし」
「えー、そうなんだあ」
 由真はニヤニヤと人の悪い微笑を浮かべて村上の元奥さんのことを聞きたがった。
 アタシも悪いなとは思いつつも知ってることをしゃべった。十八歳の女子にとって他人の恋の話ほど無責任に盛り上がれる話題はない。


 事件後、大きく変わったことがいくつかあった。
 由真がアタシの家に居候することになったのもその一つだ。
 兄の祐輔が医師を廃業してかねてからの希望だったアパレル関係の仕事をすることになり、しばらく福岡を離れることになったのがその理由だった。

 ちなみに祐輔と河村靖子とは近いうちに籍を入れることになっていて、その話になると由真の目尻は下がりっぱなしになる。
 梅野は地元の運送会社に就職が決まって(約束どおり、焼肉を奢ってもらった)アタシとは順調に交際が続いている。
 彼の愛機、カワサキ・エリミネーター四〇〇はあの事件で手荒に扱われたのが原因でダメになり、それを機にバイクからクルマに乗り換えることになった。
 もちろん梅野のセンスに任せていたらとんでもないクルマの助手席に乗せられる羽目になるので、藤田刑事の知り合いの宗像のショップでマツダのMPVを半ば無理やり買わせた。最初のうちこそスピードが出ないとかコーナリングがどうだとかブツブツ言っていたけれど今では結構気に入っていて、休みの日にはアタシと由真をドライブに誘いに来る。
 一方、由真は厳しい失恋を経験していた。
 高橋の母親は由真に対して「今後一切、息子に近づくことは許さない」と恐ろしくヒステリックな口調で言い渡していた。
 息子が二度も重傷を負ってそれが女のためだったとあれば、付き合うことを容認しろというほうが無理なのかも知れない。もちろんそれは高橋が自分で事件に関わることを選んだ、言わば自己責任の範疇に属することなのだけれど、こと息子に関することで母親という生き物にそんな理屈が通用するんだったらこの世に嫁姑問題は存在しなくなる。
 由真は短い手紙を送って高橋との恋に終止符を打った。
 要は自分たちがしたことが周囲に及ぼした波紋が理解出来ないほど由真が子供ではなかったし、だからと言って周囲の反対を押し切って恋を貫けるほど二人が大人でもなかったということだ。
 事件に関わった人々についてはそれぞれに粛々と話が進んでいた。
 徳永佳織殺害についてこそ証拠物件が少なく公判の維持が困難という理由で見送られたけれど、徳永麻子は二件の殺人と証拠隠滅教唆、医師法違反などの容疑で起訴されていた。
 第一審の判決は無期懲役だった。
 死刑判決が下りる要件と言うのは人によって言うことが違うのだけれど、おおむね、複数の殺人を犯していることはその可能性を高めるとされている(のだそうだ)。
 麻子の場合、二つの殺人は情状酌量の余地がないとは言えないにしてもいずれも身勝手な動機による犯行であり、妹の佳織のことを考え合わせるとそういう判決が下りる可能性は低くはないというのが大方の見方だった。
 それが地裁判決とは言え無期懲役という結果になったのは、紛うことなき”被害者の遺族”であるはずの由真が弁護側の証人として法廷に立ったことと無関係ではないだろう。
 当然のことながら検察が控訴したので刑が確定するのにはまだまだ時間はかかるはずだ。でも、今後どんな判決が下るにしても由真が自分のために法廷に立ったことは、麻子にとっては大いなる救いだったに違いなかった。

「あらまあ、そんなに真っ赤になっちゃって。二人とも早くお風呂に入ってらっしゃい。晩ご飯はいらないって言ってたわよね?」
「うん、外で食べるから」
 出迎えた祖母はいつもと同じように慌てるということを知らないのんびりした口調で言った。夕方には梅野が迎えに来てアタシと由真と三人で出かけることになっていた。
 以前から「良くない、良くない」と言われ続けていた祖父がついに入院することになり、祖母もその付き添いで家を空けることが多くなっていた。
 そんな中で由真を引き取るというのも大変な決断だったのだけれど、祖母にしてみればアタシ一人を家に置いておくよりも二人のほうが安心だし、それでなくても問題児の扱いには慣れているとのことだったので、アタシは「そうですか」としか言いようがなかった。
 由真が先に風呂に入っている間にアタシは梅野に<家にいるから>とメールを送った。時計を見るとまだ仕事中のはずなのに<終わったら直行する>という返事が間髪入れずに返ってきた。
 長風呂の由真はなかなか上がってこなかった。
 同居するにあたってアタシがどうしても慣れないことに由真が一緒に風呂に入りたがったり、アタシのベッドに潜り込んできたりすることがある。
 別に女同士だからいいじゃんというのが由真の言い分で、確かに街中で女同士で手を繋いでいる二人連れを見かけることもあるのだけれど、アタシはどうにもあれが理解出来ない。
 ただ、この話題を掘り下げるとろくなことにならないので避けることにしていた。
一度、酔った由真が梅野の目の前で「やっぱり真奈は男の子の体のほうが好きなのよね」ととんでもないことをほざいて、ひどく気まずい思いをしたことがあるのだ。
 三十分ほど夕方のニュースを眺めているとようやく由真が出てきた。入れ替わりに風呂に入った。
 お湯に浸かると肌がやたらとヒリヒリした。アタシは湯船を諦めて冷たいシャワーを浴びた。
 去年まではウルフカットの出来損ないのような中途半端な長さだったアタシの髪は、今では肩甲骨の辺りにまで届くほど長くなっていた。
 途中で一度だけ我慢しきれずに肩口で揃えた以外はずっと伸ばしている。髪質が硬くてなかなか綺麗なストレートにはならないけど、少しでも女の子らしく見えるようにこれでも努力はしているのだ。
 しっかりとトリートメントもして火照った肌に薬用のローションを擦り込んだりしていると、あっという間に由真と同じくらいの時間が経っていた。
 梅野の仕事もそろそろ終わる時刻だった。アタシは慌てて風呂から上がった。

「どうしたんすか、二人とも?」
 一年が経っても変わらないこともある。梅野のアタシに対する言葉使いだ。
 アタシは意識して彼に敬語を使うのをやめていた。それは少しでも距離を縮めたいという想いからだった。
 梅野にも同じように敬語をやめるように言ったのだけれど、どうにもしっくりこなかったらしく、梅野は「いいじゃないっすか」と気軽に諦めてしまっている。おかげで今では傍から見るとアタシが梅野を尻に敷いているような感じになってしまっている。
「どうしたって、何が?」
「その格好っすよ。何か、葬式にでも行くんすか」
「……まあ、似たようなもんだけど」
 アタシはちょっとシックな感じの紺のワンピースを着ていた。由真は喪服というほどフォーマルなものではないけれど漆黒のパンツ・スーツだった。
「何か俺、不釣合いっすね」
 梅野は自分の格好を見下ろしてそう言った。
 それでも定職についたこともあって、梅野は以前のようにパンクロッカーのような身なりをすることはなくなっていた。
 今も髪はほとんどボウズというくらいまで短く刈っていて、アタシが嫌いだからという理由でヒゲも伸ばしていない。ドイツ・ワールドカップの終了後に放出セールで買ったジャパン・ブルーのレプリカ・ユニフォームにスリム・ジーンズという格好だ。もともと金属アレルギーの傾向があってピアスホールなどは開けていなかったので、そういう格好をしていると(目つきがやけに鋭いこと以外は)普通の爽やかな好青年だった。
「ゴメンね、梅野さん。お仕事、終わったばっかりなのに」
「あー、いえ、いいっすよ。どうせ明日は休みっすから」
 由真はニッコリと微笑んだ。
 影では”梅っち”呼ばわりしているクセに、こういう押さえ所はしっかりしている。
 アタシたちは梅野のMPVに乗り込んで、目的地に向かって走り出した。

 都市高速と九州自動車道、大分自動車道を乗り継いで久留米市田主丸町に着いたのは日が暮れた午後八時を少し過ぎたころだった。
 由真は高橋と一緒に、梅野はヤンキー時代のトモダチと一緒に来たことがあるので暗くなったからといっても道に迷うようなことはなかったけれど、熊谷家のお墓の場所を探すのは一苦労だった。
 福岡県警は一連の事件を”敬聖会福岡病院を舞台に起きた殺人事件”と”熊谷幹夫による県警情報漏洩事件”の二つに完全に区別して、主に前者について発表していた。

 もちろん二つの事件には不可分なところがかなりあるのだけれど、後者は影響がどこまで波及していくか分からないのでそうせざるを得なかったのだ。
 そのせいで熊谷は隠蔽の手助けと告発をしようとした由真を監禁した犯人という扱いになっていて、銃撃されて命を落としたことについてはもともとそういうアンダーグラウンドの世界に手を染めていたという報道がなされたに留まっていた。
 それでもこの田舎町で年老いた母親が後ろ指を指されるには充分すぎる内容だった。母親は山口県在住の長女(熊谷幹夫の姉)に引き取られ、実家のあったところには真新しいマンションが建っていた。
 それでもお墓だけはまだ田主丸に残っていると言う話を(どういうルートかは分からないけど)村上から聞かされて、墓参りに行くことになったのだ。


 ムッとする夜気に覆われたお寺の敷地に入った。
 たまたま外にいた住職に案内してもらって隣接する墓地の隅っこのお墓へ連れ立って歩いた。道具を借りて手早く墓の掃除をして、途中で用意してきた花を供えた。
 しっかりと目を閉じて手を合わせると、あの夏の夜、アタシの目の前で起こった出来事が鮮明に甦ってきた。耳の奥底で銃声がリフレインしている。
 すべてが現実感のない幻のようで、それでいてすべてが本当に起こったことだった。
 こうやってお墓の前に立ってみて、アタシは熊谷幹夫という男とは本当に数えるほどしか話していないことに気づいた。
 ちゃんと話したのは博多駅近くの彼の事務所の前で大沢たちに襲われたあとだけだった。須崎埠頭では道の向こう側にいただけだったし、特別病棟では彼はすでに撃たれた後で断片的なことをポツポツと聞かされただけだからだ。
 にもかかわらず、あのむさ苦しいヒゲ面の、今風に言うならチョイ不良オヤジはアタシの人生の一部になっていた。
 復讐のために喉に刺さって抜けない小骨になることを選んだ男の心情を、アタシは理解しようとしてみた。
 人はいずれ何もかもを忘れてしまう。完全には消え去らなくてもディテールは擦り切れたコインの紋様のように摩滅していくのだ。それは人が自分の心を守るために持っている機能の一つなのだろう。
 しかし、忘れ去られる事柄の中には他人にとっては忘れることの出来ないこと、誰かを傷つけてしまったことも含まれる。
 徳永麻子は妹の佳織を刺し殺し、そのときは自分の罪に恐れおののいただろう。
しかし、それもいつかは記憶の辺境に追いやられてしまうのだ。
 忘れさせない。忘れようとしてもまた思い出させる。自分を唾棄すべき存在へ貶めてでも、そうあり続ける。
 それが熊谷の復讐だったのだろう。そしてそれは彼の佳織と由真への愛情の裏返しだったのだ。
 その想いの強さがそういう形でしか表れなかったことが、アタシはたまらなく悲しかった。
 ほんの少し感情のベクトルが違う方向を向いていたら――。

 うっすらと目を開けてみると、由真は神妙な面持ちでそこに刻まれた真新しい戒名を見詰めていた。
 事件が終わって由真と面会が許された際に、アタシは熊谷に頼まれた通りに彼の謝罪を伝えた。
 自分がしたことが、そして、ある意味では自分を守ろうとしたことが熊谷が窮地に陥れる結果になったという事実は由真を大きく打ちのめした。
 もちろん彼女も事件の糸の一端を握っていたに過ぎないし、それは引っ張ってみなければ何処と繋がっているか分からないほど複雑に絡み合う糸だった。
 由真は自分の信じることのためにそれを引いたのだし、それが悲劇的な結果を招いたとしても、その責を由真に求めるのは酷というものだ。

 しかしそう簡単に割り切れるものでないことは、アタシにも想像出来た。
 
 ――あたしがヘンな気を起こさなければ、こんなことにはならなかったのかな。
 
 一度だけ、由真がポツリとそう洩らしたことがある。
 分かんないよとしか答えようがなかった。
 結局のところ、起こってしまったことの前には「たら・れば」は意味をなさないし、彼女がそうしなかったら別の悲劇が起こっていたかも知れないのだから。
 由真に――そしてアタシに出来ることは起こったことをそのままに受け入れて、そこから何かを心に残すことだけかも知れない。
 もし、この悲しい出来事に救いがあるとすれば、それは由真を突き動かしたものが憎しみや嘘、裏切りではなく、優しさや真実、思いやりだったことだろう。アタシはそう思った。


 <了>








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