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Left Alone

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  第 1 章  

「……ありえないから」
 アタシはようやく、その台詞を吐き出した。
「ぜぇっっったい、ありえないから!!」
「何言ってんの。バイトを紹介しろって言ったのは真奈だよ?」
 由真は「何を今さら?」と言わんばかりの澄まし顔だ。去年の秋にイメージチェンジとやらで自慢の縦巻きのロングをバッサリ切っていて、それ以来、ふわふわした感じのショートボブになっている。
「そりゃ確かに言ったけどさ。でも、まさかモデルだなんて……」
「ほら、さっさと入って。社長さんが待ってるんだからさ」
 由真はさらりと言い残してドアの中へ入っていく。大名にあるモデルプロダクションのオフィスの前でアタシは呆然と立ちすくんだ。

 五月の半ば、何とか滑り込んだキャンパス・ライフというやつにもようやく慣れ始めた今日この頃。
 大学生になったから物入りというわけじゃない。由真のようにコスメティックやファッションに凝るわけでもないし、通学はほとんどがトレーナーかシャツにパーカーとジーンズだ。金のかかる趣味と縁遠いのは高校生の頃と変わっていない。大学の空手同好会に入っても、部費と言うのはそう大した金額じゃない。
 高校生のときは隠れてやっていた居酒屋のアルバイトも、大学生になって堂々とやれるようになった。西通りにあった店の二号店がキャナルシティの近くにできて、アタシはそこの副店長を任されている。稼ぎもアルバイトとしては悪くない。強いて言えばエンジンが逝ってしまったバンディットに代わって乗り始めたクルマが予想以上のガス喰いで、昨今のガソリン価格の高騰が痛いくらいだ。要するに、そんなに金のかかる生活はしていない。
 にもかかわらず、アタシは早急に――というほど慌ててはいなかったけど――まとまった金額を必要としていた。
 そんなわけで、アタシは今のアルバイトと掛け持ちでやれそうな短期の仕事を探していた。
 問題は今の時期は同じようにアルバイトを探している学生が多くて、競争率が高いことだ。当然、仕事はなかなか見つからなかった。幼い頃から空手をやっていて体力には少々(いや、かなり)自信があるのだけど、さすがに日雇いの力仕事を選ぶのは憚られた。
 そんなときに由真が「いいバイトがあるけど、面接に行ってみる?」と声をかけてくれたのだ。まぁ、今思えば、その時にそれが悪魔の囁きだということに気付くべきだったのだけれど。

 アタシと由真が通された応接室の隣はレッスンスタジオになっていて、そこでは若いモデルの卵(だろう、おそらく)たちがウォーキングのレッスンに励んでいた。
 優雅なリズムでフロアを叩くヒールの音が自分への恫喝のように聞こえるのは、アタシが場違いな雰囲気に飲まれている証拠だった。
「いや、やっぱり無理だって。あんなに練習してる人たちと一緒にやるなんてさ」
「彼女たちはプロだからね。真奈にあそこまでやれっていうつもりはないよ」
「へっ?」
「ショー・モデルを全員、彼女たちみたいなプロで揃えられればいいけど、クライアントさんの予算の都合でそうはいかないことも多いし。それにモデルの仕事ってああいうショーばかりじゃないしね」
「どういうこと?」
「モデルの仕事って言ってもいろいろあるってこと。広告とかポスターとかみたいなのもあるし、美容室のヘアカットのモデルもあるし。あと、雑誌の企画とか」
「ああいうのは読者モデルっていうんじゃないの? よく募集広告とか出てるよね」
「大きな声じゃ言えないけどああいうのって本当の素人じゃなくて、ちゃんとプロダクションに所属してるセミプロみたいな娘が多いんだよ。で、プロダクションとしては、そういうオファーにも対応できるようにいろんなタイプのモデルさんを抱えておく必要があるの。例えは悪いけどお店の品揃えの幅みたいなものかな」
 なるほど、そういうことか。
「でもさ、だからってそれをアタシみたいなド素人で埋めていいの?」
「もちろん、アルバイトって言っても事務所の看板背負うわけだし、仕事の種類によってはそれなりにレッスンを受けてもらうけどね」
 ……ちょっと待て。何でコイツはモデルを雇う側の立場で話をしているのだろう?
「由真、あんた、ここで何してんの?」
「バイトだよ。ただし、裏方だけど」
 そんな話は聞いていない。いや、由真がバイトするのをいちいちアタシに報告する義務はないが、それにしても……。
「いつから?」
「えっと、今年の二月だったかな。ここの社長に声かけられて、その時は学生だからダメですって言ったんだけど、何となく気に入られちゃってね」

 由真はイベント時の裏方や普段でも雑用のような仕事をしているのだと付け加えた。
「でも、あんたアルバイトなんかする必要ないでしょ? ――その、お金ならあるわけだしさ」
「それは遺産だもん。学費とか生活費はそれで賄わせてもらうけど、遊ぶ分くらいは自分で稼がないとね」
「へぇ……。意外としっかりしてるんだ」
「あ、すぐそうやってあたしを子供扱いするよね、真奈って」
 由真は大げさに顔をしかめて舌先を出した。元が良いとどんな表情をしても可愛らしく見えるから得なものだ。アタシが同じことをしても多分本当に怒っているようにしか見えないだろう。
「でもさ、何であんたが裏方なのよ?」
 応接室にはこのプロダクションに所属しているモデルの写真が飾ってある。もちろんどのモデルもハッと人目を惹きそうなオーラを漂わせている。けれど、由真なら彼女たちと比べてもまったく遜色はないはずだ。
 由真は呆れたように大きなため息をついた。
「あのさあ、冷静に考えてよ。あたしが人前に出られると思う?」 
 それは確かに彼女の言うとおりだった。

 一昨年の夏、彼女は両親が経営する福岡市内有数の大病院を舞台にした事件の渦中にいた。
 跡取り息子である彼女の兄、徳永祐輔が医療事故を起こした。
 両親は横領事件を起こしていた村松という医師に、その告発と引き換えに身代わりになることを迫った。一度はそれに同意した村松医師だったのだけれど、単なる行政処分で済むはずの話が刑事事件に発展しそうになったことから急に叛意して、逆に脅迫者に成り下がった。そして由真の母親、徳永麻子が村松を殺害してしまった。
 徳永夫妻は医師の職権を悪用して死亡診断書を偽造し、村松を心筋梗塞による病死として処理した。
 一度はそれで闇に葬り去られようとした事件だったのだけれど、自責の念に駆られる兄を救おうと由真が事件を告発しようとしたことから、話は思わぬ展開を見せ始める。
 由真は一連の事件を、そして十四年も前に起こった別の殺人事件をネタに由真の両親を強請り続けていた熊谷という男と取引するために、彼のもとから一枚のMOディスクを盗み出した。そのディスクの中には熊谷の生命線とでもいうべき情報が収められていたのだ。
 熊谷は由真と、その協力者だった高橋という男の身柄を押さえてディスクの奪還を図った。ところがそのディスクは高橋の手によってアタシの下へ送られていた。そのために事件は露見することとなり(まあ、由真を連れ戻そうとしたアタシがいろいろと事態を引っ掻き回したせいなのだけれど)徳永麻子は警察に逮捕されることとなったのだ。
 ただ、この事件ではあまりにも多くの人間が死にすぎた。医療事故で亡くなった老人。村松医師。熊谷とその手下。そして十四年前に徳永麻子を裏切り、今回も彼女を見捨てようとした由真の父親。
 それは哀しいという言葉では言い表せないほど、後味の悪い事件だった。

 未成年である彼女の実名がマスコミに登場することはなかったが、そこはそれ、世の中というのは狭いものだ。どこで事件のことを知っている人物に出くわすか分かったものじゃない。
「でもさ、それを言ったらアタシだって同じだよ? ウチのバカ親父も結構、有名人だもん」
「真奈はお父さんとは苗字が違うから気付かれないよ。アルバイトのモデルの身の上まで詮索しないしね」
 アタシと由真の共通項の一つに”二人とも親が事件を起こしている”というのがある。福岡県警の刑事だったアタシの父親、佐伯真司も捜査中に事件を起こして北陸の別荘に入っている。
「そんなもんかな」
「そうだよ。――ということで、これが登録の書類なんだけど」
 由真はA4の紙を引っ張り出した。表題には”自己申告書”とある。身長やらスリーサイズなどを書くところがあるのはともかく、芸名を書く欄まであるのにはちょっと驚いた。”榊原真奈”というアタシの名前や平尾浄水の住所がすでに書き込まれていたのには更に驚いた。
 由真はアタシの目の前にペンを差し出した。
「はい、コレ。あ、サインだけでいいからね」
「ちょっと待ってよ。まだやるなんて言ってないでしょ」
「えー、いいじゃん。真奈だったら大丈夫だって」
「でもアタシ、モデルやれるほど痩せてないし」
「そんなことないよ。この頃、ずいぶん細くなったじゃない。この二ヵ月で三キロは落ちたでしょ」
「まぁね。何でか知らないけど」
「夜食しなくなったからだよ。それにヨガも始めたし。お風呂もゆっくり入るようになったし。あ、あとお酒も控えてるかな」
「ああ、そっかぁ……ってちょっと待った」
 それはどれも由真がやれと言い出したことだった。二ヵ月ほど前から。
「……ひょっとして?」
 由真は返事の代わりに、今度は悪戯っぽく舌先を覗かせた。
 アタシは顔を右手で覆った。眩暈がしそうだ。
「だってさ、社長が絶対に真奈を連れて来いって言うんだもん。街であたしと一緒のとこ見かけたらしいんだけど、あの子は磨けば絶対に光るからって。あたしとしては親友をそこまで褒められちゃ、そうしないわけにいかないじゃない。だからさ――」
 まくしたてる由真を手で制した。
「あー、つまり最初からワナだったってわけね?」
「人聞きが悪いなぁ。真奈だって割りのいいバイト探してたんでしょ?」
 その話をしたのはダイエットを始めさせられたよりも後のことだ。由真は最初からアタシを丸め込んでモデルをやらせるつもりだったのだ。アルバイト探しの話は渡りに船で、コイツは思わぬ追い風にさぞかしほくそ笑んだに違いない。
 何と言っていいのか分からなくて、代わりに深々とため息が洩れた。
「……怒ってる?」
「呆れてんの」
 由真は口を尖らせて、バツが悪そうな上目遣いでアタシを見やった。
「……ごめん。真奈が嫌なら断っていいよ。社長にはちゃんと言っとくから」
 叱られた子犬のような眼差し。アタシが男だったらさぞ保護欲を掻き立てられることだろう。いや、それは女のアタシにも充分に威力を発揮していた。ファム・ファタールに魅入られて滅びる男の気持ちというのはこんなものなのだろうか。
 もう一度、盛大なため息をついた。どうしたものか、困惑は尽きない。けれど、まあ、雇う側だって自分のところの信用があるのだから無茶な仕事は回してこないだろう。
「……分かった、やるわよ。アタシもバイト代が要るのは事実だしね」
「ホントっ?」
 由真はさっきの凹み具合が嘘のように表情を輝かせた。
「その代わり、必要なことはちゃんと教えてよ。恥かきたくないから」
「だーいじょうぶだって。あたしがちゃんとフォローしてあげる」
 それが一番心配なんだけどな、という言葉を、アタシは寸でのところで飲み込んだ。


 元は自分もモデルだったという笠原さんという女社長(……悪いけどそうは見えなかった)の面接を終えて、二人で連れ立って天神界隈を歩いた。
 お互いに今日は授業もなかったので街をブラブラすることにした。昼下がりの穏やかな陽射しと肌寒さのなくなった柔らかい風が心地よい。街路樹の鮮やかな緑が目に眩しかった。博多どんたくの騒々しさはとうに過ぎ去っているのにどこか浮わついた祭り気分が抜けないのは、アタシのDNAにもこの街の住人の気質が刻まれているからかもしれない。とはいってもアタシの血筋で古くからの福岡在住者は祖母だけなのだけれど。
 祭り好きなこの街は七月になれば今度は博多祇園山笠が控えている。櫛田神社の奉納行事というからあれは正真正銘の町内行事なのだけれど、初夏とはいえ陽も昇らない朝っぱらから街中が浮き足立ったような空気に包まれて、クライマックスの豪快な曳き回しは見物人でさえアツくなってしまう。
 考えてみればおかしな話で、ずっと福岡に住んでいるのにアタシはお祭りになど興味も示したことがなかった。なのに去年、当時付き合っていた彼氏と見に行って以来、アタシは何となくお祭りが好きになっていた。物事の好き嫌いなんてその程度のもので、要はきっかけというか、そこに楽しみがあるかどうかなのだろう。ただ、今年は一人ということになりそうだが。
 由真が見に行きたいショップがあるというので天神の南のはずれ、渡辺通り沿いのBivi福岡のほうへ歩いた。事が自分の思い通りに進んだせいか由真はご機嫌で、何やら鼻歌でサンバっぽい曲を歌っていた。
「あのさあ……」
「なあに?」
「お願いだから水着のモデルだけはやめてよね」
 女社長はアタシに「そういうのも大丈夫か?」と打診してきていた。とんでもないと断ろうと思ったけれど、最初から仕事の選好みをするのも失礼かと思って曖昧な返事で逃げていた。
「大丈夫だって。あたしが社長にちゃんと言っとくから」
「本当?」
「でも、あれは意外とギャラいいんだよ? これから仕事も多くなるし」
「それでもダメ」
 向こうが連れて来いと由真に持ちかけただけあって、面接は終始スムーズに運んだ。
 本来ならファッションモデルというのは志望者が事務所を訪ねてくるケース(街角でのスカウトもあるらしいけど)がほとんどで、それもモデルが所属料を払う形態のほうが圧倒的に多いのだそうだ。アタシのような短期アルバイトなどというふざけた形での採用はない。大体、真面目にレッスンに取り組んでいるプロ志望の彼女たちに失礼だ。
 にもかかわらず採用になったのだから、よほどアタシは女社長に気に入られたのだろう。
 自分のどの辺りがモデル向きかは皆目検討がつかなかった。強いて言えば身長が百七十三センチもあることくらいだけど、世間で思われるほど身長というのはモデルをやる上で重要なファクターではないらしい。顔はとてもじゃないけど向いているとは思えない。以前に比べればよく笑うようになったとは言われるけど、自分の笑顔がそんなに魅力的だとは思えなかった。
「でも、宣材の写真はよく撮れてたよ」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。でも、ちょっとビックリしちゃった。真奈って写真映りいいんだね」
「なんだかそれ、実物はよくないように聞こえるんですけど?」
「イイエ、ソンナコトナイデスゥ〜」
 由真はおどけて奇妙なイントネーションで言った。アタシは思わず吹き出した。


 買い物のあと、Biviの中にあるトンカツ屋で遅めのランチ(もちろん、由真のオゴリ)を済ませて、キャナルシティ博多まで国体道路を歩いた。別にもっと買い物がしたかったわけじゃなくて、アタシのクルマが近くにあるバイト先の駐車場に停めてあったからだ。
「これからどうするの?」
 由真はカップルの彼女のほうがやるようにアタシの腕に手を絡めていた。明らかに相手を間違えているけどしたいようにさせておいた。彼女を相手に細かいことを議論しても始まらない。
「どうって……。まあ、用事はなくもないけど」
「ひょっとして、また村上さんちでお掃除オバサン?」
「誰がオバサンよ」
 由真を軽く睨んだ。けれど、用件はその通りだった。
 村上というのはアタシの父親の元パートナー、村上恭吾のことだ。捜査中に父が起こした事件が内々で揉み消されそうになったときに、罪を償いたいと言った父のために県警上層部に刃向かって事件を告発し、結果としてそれまで積み上げた経歴と幸せだった結婚生活を台無しにしてしまった気の毒な男だ。
 二年前の事件でもアタシの無理な頼みをきいたばかりに謹慎処分を喰らっている。優秀な刑事であることは誰もが口を揃えるけれど、もはや出世は見込めないという点でも皆が口を揃える。
 彼の境遇に対して、原因となった男の娘として責任を感じている部分は少なからずある。でもアタシがこの男の部屋の掃除や洗濯などをやるのは、それとは違う理由だった。竹下の村上のワンルーム・マンションを訪ねたときのショックがあまりにも大きかったのだ。


 ――あんたがこんなダメ人間だとは思わなかったわ。

 茫然自失の状態からようやく吐き出した言葉がそれだった。もともとがボンボンな上に学生時代から後に奥さんとなる女性と同棲していて、まったく家事というものに手を染めたことのない村上の部屋は、言ってみればそれ自体が大きなゴミ箱だった。
 良妻賢母という言葉の体現者である祖母と、その娘である亡き母の教育のおかげでアタシは無類の掃除魔だったりする。アタシはバツの悪そうな顔をしている村上を部屋から叩き出して、その日の予定をすべてキャンセルして掃除に取り掛かった。
 以来、定期的に村上の部屋を訪ねては通いの家政婦のようなことをしているというわけだ。でないと奴はすぐに部屋を元のゴミ箱に戻してしまう。
 そして、そうやって村上の部屋に入り込んで見たものがアタシのアルバイトの理由なのだった。


 バイト先の駐車場にはオーナーである工藤さんのポルシェ911カレラRSとアタシのユーノス・ロードスターが停まっていた。マツダ・ロードスターではないことに特にこだわりがあるわけじゃない。ブリティッシュ・グリーンのスタイリッシュなデザインに一目ぼれしてしまっただけだ。
 前のオーナーが大事に乗っていてくれたおかげで状態も良く、それでも傷みの見られる部品はすべて交換してリフレッシュしたロードスターはきびきびとよく走る。マニュアル・シフトなのでAT限定免許の由真には乗られないのもアタシとしては安心なところだ。駐車するときにいちいち幌を閉めなくてはならないのが面倒といえば面倒だけれど、それくらいは我慢の許容範囲だ。
 手早く幌を畳んで駐車場からロードスターを出した。平日の昼間ということでキャナルの周りも交通量は少なく、それほど時間もかからずにアタシは駅前通りに出た。
 由真がカーコンポのパネルに指を滑らせると、スピーカーからエルディッサの〈ステイン・アライブ〉が流れ始めた。ドライブ・ミュージックにボサ・ノヴァは向かないような気がするけど、ゆったり走るのなら悪くはない。
「――ところで、学校はどう?」
「うん、ボチボチ。真奈は?」
「こっちもボチボチかな」
 アタシは城南区にある福岡大学人文学部に、由真は早良区にある西南学院大学法学部に進学していた。
 由真が医学部に進まなかったのは意外なような気もするし、当然のような気もする。彼女の家は曽祖父の代から医師の家系で、二年前の事件がもとで経営権を手放したとは言っても、未だに西区に本拠を置く医療法人の理事であることには変わりはない。彼女が医師の道を選んでもおかしくはないからだ。
 しかし一方で、彼女が医師という仕事を敬遠する気持ちも理解できた。
 博多駅のガードをくぐって竹下通りに出た。ビール工場の敷地を左に見ながら進んでJR竹下駅前から路地に折れた。そこから少し進んだ裏手に村上のマンションがあるのだが、駐車場に村上のフェアレディZはなかった。非番と聞いていたけど、何処かへ出かけたらしい。
 そのスペースにロードスターを突っ込んだ。トランクから掃除に必要なものを詰め込んだバッグを引っ張り出して、エントランスに向かう。
「よくやるよねぇ、真奈も。いくら村上さんが家事が一切ダメだからって」
 由真が呆れ声を出した。
「しょうがないじゃない。他にやってあげる人もいないしさ」
「わかんないよ? ドアを開けたらベッドに他の女の人がいたらどうする?」
「あの部屋に平気でいられる人がいたら見てみたいわ」
 由真はアタシの前に回りこんで、ニヤニヤと笑いながらアタシの顔を覗き込んだ。
「だったらさ、真奈が押しかけちゃえばいいのに。――好きなんでしょ、村上さんのこと?」
「バ、バカなこと言ってんじゃないのっ!!」
「あ〜、赤くなったあ」
 可笑しそうに笑う由真の頭をアタシは軽く小突く真似をした。由真は頭を手で押さえてペロリと舌を出した。

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