Left Alone

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  第 25 章 

 留美さんを七隈のアパートに送ってアルバイト先の居酒屋に向かった。本当はそんな気分じゃなかったし、じっくり考えたいことが幾つもある。けれど、モデルのバイトで休むことが多いアタシはシフトの面で他のアルバイトの子に迷惑をかけることが多い。何の理由もなしに休むわけにはいかない。
 早番の日には午後六時に店に入ることになっていて、それにはまだ時間がある。
 ロードスターを店の裏のスペースに突っ込んでキャナルシティで時間をつぶすことにした。とは言っても見るのはHMVくらいで、あとはいつものようにスターバックスだ。
 店の前に置かれたベンチでカフェラテを啜りながら、これまでに分かったことに想いを馳せる。
 渡利純也はどんなコネを警察に持っていたというのか。奴が残したというドラッグとカネはいったいどこにあるのか。そして、白石葉子はそれとどんな関係があるのか。村上は薬物対策課を外され、いつの間にか刑事課から少年課に回され、ついには刑事の職を奪われるように事務職に追いやられながら、いったい何を調べようとしているのか。
 過去の経緯が見えてくればくるほど、何がなんだか分からなくなってくる。口から漏れるのはため息ばかりだ。
「おーい、真奈っち?」
 不意に頭上から声が振ってきた。顔を上げると、クセのある微笑を浮かべる灼けた顔があった。
「――ああ、武松さん」
「シュンでいいよ。何やってんの?」
「何って……コーヒー飲んでるんですけど」
「それは見りゃ分かるよ。隣、いい?」
「どうぞ」
 彼が座れる分だけ身体を除けてやると、シュンはちょっと迷ってから、アタシとの間を少し空けて腰を下ろした。どこを見ていいのか分からないように、こっちを向いているのに視線が合わない。
 チャラチャラした身なりの割には分かりやすい男だな。
「シュンさんこそ、どうしたんですか?」
「俺? うん、ちょっとHMVにCDを見に来たついでなんだけどさ。さっき、いただろ?」
「ええ、まあ」
 シュンはHMVの袋を提げていた。話の繋ぎに何を買ったのかを訊いてみた。パンクかハードロック系かと思っていたら、出てきたのはストラヴィンスキーの〈「ペトルーシュカ」からの3楽章〉だった。
「あ、似合わねーとか思ってるだろ?」
 そんなことはないと言おうと思ったが、嘘っぽいので素直にうなずいた。シュンは拗ねたように顔をしかめた。
「どうしてそんなの聴こうと思ったんですか?」
「いや、前にマンガで読んでどんな曲か興味があってさ。クラシックもそんなに縁がないわけじゃないんだ。これでも中学のときは吹奏楽部でクラリネット吹いてたんだぜ」
「……へえ」
 まるで想像がつかなかった。まぁ、当時から今のなりだったわけではないだろうが。
 それからしばらく、シュンがそのマンガ――「のだめカンタービレ」のことだった――について熱っぽく語るのを拝聴することになった。正直に言えばそれほど興味のある話題ではなかったし、アタシはマンガはほとんど読まないので、話してくれていることの大半は理解できなかった。
 ただ、それでも一人で悶々と考え込んでいるよりはマシかもしれない。
「ところで、トオルの話は役に立たなかったのか?」
 話が一段落すると、シュンは急に真面目な顔になった。
「どうしてそう思うんですか?」
「さっきはずいぶんシケた面してたからさ。てっきり期待はずれだったのかと思ったよ」
「そんなことないですよ」
 宮下徹が話してくれたことのおかげで疑問の多くが氷解していた。その分だけ新しい疑問が湧いてきてもいたが。
 シュンは昨夜の(と言うか、今朝方の)アタシと宮下の話の中身を聞きたがった。>純粋な興味という部分もあるだろうし、権利とまでは言わないにしても紹介者として知っておきたいらしかった。話せることはあまりないが、宮下が話してくれた渡利純也に関することを一通り話した。しかし、シュンはそれよりも話を終えて一緒に酒を飲み始めたくだりから微妙な表情をし始めた。
「あいつ、ヘンなことしなかったか?」
「……ヘンなことするような人を紹介したんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど、トオルのやつ、手が速いから……」
 笑って、首を横に振った。
「すっごく紳士的でしたよ。渡利なんかの友だちだったにしてはね」
 本当はあまりそうだったとは言えないが――水割りを頼んだはずが出てきたのがほぼロックだったのと、宮下とバーテンダーがやたら目配せを交わしていたのは無関係ではあるまい――何もなかったのだから、わざわざ二人を仲たがいさせることもない。シュンは納得したのかしてないのか曖昧な表情をしていた。
「……ところで、昨日あんたと一緒にいた子だけど」
 気を取り直すようにシュンが言った。
「由真のことですか?」
「そう。昼ごろ、ロードワークの途中に那ノ津通りを歩いてるとこ見たぜ。俺は別に声かける気もなかったんだけど、あっちが気づいたもんだから、昨日はどうも、なんて挨拶したんだけど」
 シュンは軽くジャブを打つ仕草をした。
「あの子、そんなとこで何を?」
「そこまで訊かなかったけど。でも、じゃあまたって言って別れて、ちょっとして振り向いたら地検の建物に入っていってた」
「検察庁?」
「あの子、何やったんだ? 俺、バイクでオービスに中指立てて映って、即日で呼び出し喰らったことあるけど」
 この男ならやりそうな気はする。でも、由真はそんなバカではない。
 由真と検察庁。その組み合わせですぐに脳裏に浮かぶのは彼女の母親の事件だ。あのとき、由真は関係者としてと、結局立件はされなかったが自分自身のことでも取調べを受けている。
 しかし、あの事件の裁判は今年の春先にとっくに終わっていた。高裁でも無期懲役の判決が出て、検察は上告しなかったので刑が確定したはずだ。今さら由真が呼び出されるようなことはない。
「何か、裁判関係のレポートでも書かなくちゃいけないんじゃないですかね。あの子、法学部だし」
「へえ、そうなんだ。あんなに可愛いのに?」
 唐突に、何かがアタシの中で切れた。
「……それって何か関係あるんですか?」
 何に腹を立てているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、目の前が真っ赤になるような怒りがこみ上げてくる。
 由真と知り合ってそろそろ三年が経つ。その間、仲違いをしたことがないわけではない。もちろん、手を上げれば由真がアタシに敵うはずはないし、口が達者な由真も他の誰かに向けるような激烈な一言をアタシには向けないが、それでも互いに遠慮がないのは事実だ。時にそれが行き過ぎてちょっとした冷戦状態になることだってある。
 それでも、他人に彼女のことを褒められてカチンときたのは初めてだった。
 前触れもないアタシの変貌に、シュンは慌てて「あ、いや、そんなつもりじゃ……」などと言い訳をし始めていた。アタシはそそくさとベンチから立ち上がった。
「じゃあ、アタシ、用がありますんでこれで」
 そのまま、彼を振り切るような勢いでその場を離れた。角を曲がるときにちょっとだけ振り返ると、シュンは自分が倒されたことを理解できないボクサーのように立ち尽くしていた。
 急いで戻って、シュンに謝るべきなのは分かっていた。女の前で他の女を褒めるのがデリカシーに欠ける行為なのは間違いないが、由真との関係がおかしくなっていなければアタシは気にも留めなかった――むしろ、誇らしく思ってさえいたはずだ。
 けれど、アタシにできたのは地階のオープンフロアに流れる水路のほとりで、ゆらゆらとうごめく水面を見つめてボンヤリと過ごすことくらいだった。
 ぶつけようのない苛立ちが澱んで溜まっていく感覚が、アタシをことさら不快な気分にさせた。

「――うお〜い、真奈ちゃ〜ん」
 板長の間延びした呼び声に、アタシは我に返った。
「な、何です?」
「何ですじゃないよ。どうしたのさ、ボーっとして」
 板場からフロアに通じる小窓から板長の顔が覗いている。角ばった肉の薄い顔とアンバランスなクリッとした大きな目。眉間に皺を寄せて浮かべられるだけの心配を浮かべた表情が叱られた犬を連想させて、申し訳ないけど吹き出しそうになる。
「何でもないです。すいません、どうかしたんですか?」
「いや、どうもしないけどさ。具合が悪いんなら上がってもいいよ。どうせヒマだし」
 具合が悪いわけじゃない。ただ、何にも考える気がしないのは事実だ。
「ホント、今日はお客さんが少ないですね」
「月曜だし、それじゃなくても物が売れないニッパチだから」
「ですかねぇ……」
 板長はやれやれといった感じで首を振った。所詮はバイトのアタシに売上げ云々はあまり実感がないが、それでもつられて苦笑いした。
「――ちょっと休憩に行ってきますね」
 裏口を出て、羽目板で外からは見えないようになっている休憩スペースに出た。外はムッとするような夜気が立ち込めていて、まるで暑い空気の壁にぶつかったようだ。
 冷蔵庫からくすねてきたウーロン茶を啜っているとケイタイが鳴った。ディスプレイには見覚えのないケイタイの番号が表示されている。
「もしもし?」
「――ああ、あんた?」
 耳に残る特徴のあるハスキー・ヴォイス。たった二つの単語が、声の主がアタシに対して抱いている疎ましげな感情を余すことなく表している。
「和津実?」
「赤の他人のあんたに呼び捨てされる覚えないけど」
 だからと言って、この女にさん付けする気にはならない。
「何の用――って言うか、どうしてこの番号を知ってんの?」
「葉子の親から聞いたんだよ。同級生とか友だちに事故のこと知らせようと思うんだけど、連絡が取れないのが一人いるって。榊原っていう人の連絡先知りませんかって言ったら、この番号を教えてくれたよ」
 何かあったら連絡をくれるように、葉子の両親にはアタシのケイタイの番号を教えてある。しかし、娘を亡くしたばかりの親に嘘をついて情報を引き出す性根の腐りっぷりには腹が立つのを通り越して呆れるしかない。
「――で、アタシに何の用? 昨日のお礼でもしてくれるの?」
「ハッ!? バカ言ってんじゃないよ。あんたが余計なことしてくれたおかげで、こっちは家に帰ることもできないんだから」
「余計なこと?」
「そうさ。ちょっと大声でも出して、あいつら追っ払えばそれでよかったのに。わざわざ二人もぶっ倒してくれたおかげで、あっちも引っ込みつかなくなってるんだよ」
 アタシは危険を冒してまでこの女を助けたことを本気で後悔した。
「だったら何? ほとぼりが冷めるまで二、三日家に帰れないくらいどうってことないでしょ。それとも新しい督促状が届いてないか、そっちが心配なの?」
 市営住宅に和津実の子供が取り残されていないことは留美さんに確認してある。絶縁状態にある両親に預けっぱなしになっているのだそうだ。
 激烈な文句が返ってくるかと思ったら、和津実は黙り込んだ。気まずそうな沈黙が電波を通じて伝わってくるようだ。
「いや、そういうんじゃないけど……」
「だったら何の用?」
「……その……悪かったよ。あんたには迷惑かけた」
「えっ?」
「いや、だからさ――」
 和津実は電話だというのに、誰かに聞かれるのを避けるように声を潜めた。
「実はあんたに頼みたいことがあるんだよ。これ以上、福岡にいたってロクなことになりそうにないから、しばらくどこか遠くへ行こうと思うんだ。でも、そんなこと考えてなかったから何の準備もしてないしさ。悪いんだけど、あたしんちに行っていろいろ取ってきてもらえないかな」
 即座に断ろうと思った。そうするべきだった。
「あのさ、寝言は寝てから言いなさいよ。どうしてアタシがあんたのためにそんなことしなきゃならないのよ?」
「ムチャ言ってるのは分かってる。でも、あんたにしか頼めないんだよ」
「どういう意味?」
「あたしがあそこに住んでるの、誰も知らないんだ。まあ、店の人は知ってるけどさ」
「じゃあ、そっちに頼めばいいじゃない」
「その……昨日で店、辞めちゃったんで」
 理由を訊こうかと思ったが、何にもならないのでやめておいた。
「それに持ってきてもらうの、貯金通帳とかだからさ。ヘンなヤツに頼んで持ち逃げされたら困るし」
「アタシがネコババしないってどうして言えるの?」
「そんなことするような人間だったら、あたしを助けてくれたりしないだろ?」
 なるほど、そういう解釈もあるわけだ。
 アタシはいろんな人から――特に由真から――バカがつくほどお人好しだと言われる。それに対して特に反論できる材料を持っているわけでもない。昨夜のヤクザ相手の大立ち回りが何よりの証拠だ。
 それでも、人並みに危機察知能力は持ち合わせている。この手の輩が改悛の情を見せるときに必ず裏があることは深夜のバーで酒を勧める男に下心があるのと同じくらい明らかだ。
「――今、どこにいるの?」
「今? 市内にいるけど。この電話、誰かに聞かれてたりしないよね?」
 そんなわけないだろう、と心の中で突っ込んだ。
「どこにいるのか、教えてちょうだい」
「どうして?」
「場所を訊かなきゃ、持って行けないでしょうが」
「引き受けてくれんの?」
「気は進まないんだけどね。まぁ、あんたには訊きたいこともあるし。とりあえず何を取って来なきゃいけないのか、それから訊くわ」
 注文用の伝票の裏に和津実が言うものを書き留めた。それからいくつかの確認事項と隠れている場所を訊いた。雑餉隈の近くにあるビジネスホテルだと和津実は答えた。クルマに乗れないので、あまり離れたところに隠れるわけにはいかなかったらしい。
「バイトが終わってからだから、遅くなるわよ」
「いいよ、ずっと昼寝してたんであんまり眠くないから」
「ずいぶんと余裕あんのね」
「まぁな、慌てる何とかはもらいが少ないっていうじゃん」
 用例が全力で間違っているが、指摘する気力は湧かなかった。和津実は最初の無愛想さが別人のような明るい口調で「じゃあ、待ってるから」と言って電話を切った。アタシはケイタイを見つめたまま、盛大なため息をついた。
 やっぱりアタシは救いようのないお人好しだ。

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