Left Alone

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  第 27 章 

 平尾浄水に帰りついたのは、またしても東の空が白み始める明け方だった。
 ぬるい夜気が明け方になると急に清浄に感じられるのは不思議な感覚だった。シンとした他人行儀な静けさの中で、自分の足音がやけに大きく聞こえる。祖父が家にいた頃は本当に足音を忍ばせて忍び込んでいたが、祖母は年寄りの割に朝が遅いので朝帰りを見咎められることはない。低血圧気味で朝があまり強くない由真も同じことだ。二人とも今頃はまだ夢の中だろう。
 なのに、アタシの離れには灯りが点いていた。
 点けっ放しだったかと思ったがそんなはずはない。家中の灯りを点けっ放しにする父親に文句を言うのが役目だったせいで、アタシは消灯にはうるさい。酔って帰ってきて化粧を落とし忘れることはあっても、灯りを消し忘れて寝ることはないくらいだ。
 ドアに耳を近づけてみた。B’zの〈Liar! Liar!〉のデジタル・ロックらしいメロディが微かに聞き取れる。
 できるだけ静かに鍵を開けて部屋に入った。予想通り、ソコンデスクの前の高い背もたれのついた椅子の上で、由真が静かに寝息を立てていた。
「呆れたぁ……」
 思わず呟いた。ボリュームが低めだからといって、よくこんな派手な曲を聴きながら眠れるものだ。
 由真がアタシの部屋に勝手に入るのはいつものことだ。見られて困るものがあるわけでもないし、話し相手が欲しいときに母屋の彼女の部屋まで行くのが面倒なので、アタシも普段は文句は言わない。
 ただ、今の状況でいつもと同じように振舞える彼女の神経が、アタシには理解できなかった。
「……ん、オハヨ、真奈」
 起こすかどうか迷っていると、気配を感じたように由真が薄目を開けた。それほど深く寝入っていなかったらしく、目はすぐに焦点を結んだ。口元には起き抜けのあどけない微笑が浮かんでいる。
「オハヨ、じゃないわ。ひとの部屋で何やってんのよ」
「なにって、真奈が帰ってくるのを待ってたに決まってんじゃない。――今、何時?」
「五時を少し回ったとこ」
 由真はうなずいて目の周りを手でこすった。椅子から立ち上がって、気まぐれな猫のように小さく伸びをする。
「あれっ? シャッターの音、しなかったよね」
「タクシーで帰ってきたから」
 バッグをベッドの上に放った。音楽を止めようとコンポに手を伸ばして、アタシはボタンを押しそこなった。空を切った指先を何事もなかったようにもう一度ボタンに伸ばす。今度はちゃんと”STOP”を押すことができた。
 由真は鼻先をひくつかせると僅かに顔をしかめた。
「真奈ってば、お酒呑んでるの?」
「そうだけど。何か文句ある?」
「文句はないけど。ああ、だからタクシーなんだね」
 ロードスターは親不孝通りの北側、長浜の倉庫街に路上駐車してあった。キャナルシティでの非礼を謝るためにボニー・アンド・クライドを訪ねたのに、肝心のシュンが「急に具合が悪くなった」と言って店を休んでいて、仕方なく閉店まで岸川と他愛もない話をしながら差し向かいで呑んでいたというわけだ。
 駐車違反なんかでせっかくの無事故・無検挙が途切れるのが嫌なので、本当は飲酒運転で帰ってこようと思ったのだ。
 そうしなかったのはギリギリで順法精神の歯止めが掛かったからではなく、三回連続でクラッチ・ミートに失敗して運転は無理だと悟ったからだった。アルコールでいうことを聞かなくなった足で、前のオーナーが突っ込んだレース用の重いツインプレート・クラッチを繋ぐのは至難の業だった。
「で、何の用?」
「うん、まあ、ちょっと話したいことがあるんだけど……。その前にシャワー浴びてきたら? 汗かいてるし、タバコのニオイもすごいよ?」
 一瞬、彼女を無視してそのままベッドに倒れ込もうかと思った。アルコールはまだアタシの体内を駆け巡っていて、今ならうまく眠りに落ちていけそうだ。それに朝の五時半は素面の女と酔っ払った女が難しい話をするのに向いているとは思えない。
「ゴメン、疲れてるから――」
 そこまで言って、思わず息を呑んだ。
 由真は有無を言わさない毅然とした表情でアタシの顔を覗き込んでいた。決して睨まれているわけでも怒られているわけでもないのに一言も返せない。まるで母親に叱られているような居心地の悪さだった。
「……何よ」
「いいから、早くシャワー浴びておいでよ。コーヒー、淹れといてあげるから。飲むでしょ?」
 仕方なく無言でうなづいた。

 和津実と別れてからボニー・アンド・クライドへ行くことを思いつくまで、あてもなく夜の街をブラブラした。いくらでもやることがあるようで、真夜中にできることは何もなかった。村上が一日に三、四時間しか寝ないことは知っていたが、だからといって訪ねていく気にもなれなかった。
 第一、彼に会って何を話せばいいのだろう。
 アタシが自分の父親が起こした事件の背景を調べていると知っても、村上はいつものように仏頂面で「好きにしろ」と言うだけだ。刑事ではなくなった今でも何かを調べ続けている理由を訊いたところで、やはり「お前には関係ない」と言われるのが関の山だ。
 やることがあるとすれば由真に電話をすることくらいだ。ときどき呆れるほどくだらないメールが届くこともあるが、由真は基本的に無意味な電話やメールを送ってきたりしない。彼女が連絡をくれと言うときは本当に連絡を待っているのだ。
 通話ボタンを押そうとして、思い直してケイタイを折り畳む。そんなことを何度となく繰り返した。
 一体、何を話そうというのか――アタシにこんな想いをさせておきながら。村上がアタシにとってどんな存在であるか、知らないわけではないだろうに。
 自分が村上恭吾に対して特別な感情を抱いていることを、そろそろ認めないわけにはいかないだろう。まだ子供だったころの憧れではなく、一人の男性として意識していることを。だから由真の言動に揺り動かされているのだということも。
 他人から見ると、アタシは強い女に見えるらしい。
 物理的に強いという意味じゃない。母が亡くなって以来、ずっと二人で暮らしてきた父とあんな形で離れ離れになっても挫けなかった。由真を救い出すために何度も危ない目に遭っても絶対に諦めなかった。そうしたことを指して、アタシは他人から「あなたは強い娘だね」と言われる。
 でも、それは買いかぶりというものだ。本当のアタシは自分のために踊ってくれないという理由で相手の向こう脛を蹴り続ける、意気地なしの裏ぶれた子供に過ぎない。他人に弱いところを見られるのが怖くて、恋敵に変わってしまった親友と正面から向かい合うのが怖くて、大切な人に本心をぶつけて拒まれるのが怖くて仕方ないのだ。

 タオルで髪を拭いながら出てくると、由真がおっかなびっくりな手つきでコーヒーを淹れていた。どうすればポットの湯をドリッパーの中にゆっくり注ぎ落とすというだけのことを、あそこまで危なっかしくやれるのだろう。
 アタシはベッドに、由真はさっきの椅子に腰を下ろした。ちょうどサイドテーブルを挟んで向かい合う格好になる。気だるげな緊張としか表現しようのない微妙な空気がその場に漂った。
「最初に言っとくけど、怒ってるんだからね、アタシ」
「真奈を怒らせるようなこと、した覚えないよ?」
「よく言うよね。アタシが父さんの事件を調べるのを手伝うって言っときながら、自分のレポートを優先させてるじゃない」
「何のこと?」
「とぼけないで。昨日の昼間、検察庁に行ってたでしょ。法学部のあんたが他に何の理由があってあんなところに行くのよ」
 由真はその前にシュンとすれ違ったことを思い出したようだった。
「ああ、そのことね。別に真奈に非難されることじゃないと思うけど。それにあたしがいろいろ付き合うよって言ったって、さっきみたいにグズグズ言って真奈のほうが避けたんじゃないの?」
「……そんなことない」
 これ以上ない図星だ。
 由真は涼しい顔でコーヒーをすすった。アタシもカップを手に取った。
「ねえ、もし――もしだよ。アタシがあいつのこと好きだから、あんたは手を引いてって言ったらどうする?」
 なけなしの勇気を振り絞って訊いた。しかし、由真は一欠片の慈悲もない表情で首を横に振った。
「残念でした。口では何とでも言えるもんね」
「アタシが嘘ついてるって言うの?」
「そうは言ってない。でも、そうだとしても関係ないよ。だって、あたしも村上さんのこと、本当に好きなんだもん。真奈も好きだって言うんなら正々堂々と勝負するだけだよね」
 不思議と感情は波立たなかった。由真のほうが圧倒的に筋が通っているからだ。出会ったのも好きになったのもアタシが先だった、なんて馬鹿げた理屈が通じないことくらい、恋愛経験の乏しいアタシでも分かってる。
「もう一度訊くけど、本気なの?」
「あたしは最初から本気だよ」
 由真はキッパリと言い切った。
 そうか、そうならもう何も言うことはない――そう覚悟してしまうと不思議と自分の心が落ち着くのを感じた。
「わかった。それじゃ、父さんのことを調べるのは手伝ってくれないのね」
「そうも言ってない。村上さんのことと、真奈を手伝うって言ったのは別だよ」
 由真はデスクの上から綴じられた紙の束を取った。先頭から何ページかをめくってアタシの前に置く。
「現に昨日だっていろいろ調べてたんだから。自分の用事を片付けてたわけじゃないんだよ」
「どういうこと?」
「とりあえず、それ見て」
 紙の束を手に取った。A4横書きの用紙に硬筆書道のお手本のような字でびっしりと書き込みがしてある。文字の大きさも定規を当てて測ったように揃っている。
「……どうして?」
 それはアタシの父親、佐伯真司の字だった。アタシにとっては見覚えどころか、夢でうなされてもおかしくない文字。悪筆な母親に似て字が下手だったアタシは、トレーシング・ペーパーを重ねたこの字をなぞって練習させられたのだ。
 食い入るようにその文字を目で追った。
 先頭に平成十六年二月十八日の日付があって、続いて<福岡県中央警察署派遣 福岡県警察生活安全部薬物銃器対策課>という所属名、<司法警察員 警部補 佐伯真司>の署名と捺印がある。提出先は中央警察署の署長。表題は<捜査報告書>となっている。
「これ、一体なんなの?」
「そこに書いてあるでしょ。真奈のお父さんが渡利純也のドラッグ密売グループを内偵してたときの捜査報告書だよ」
 由真は事も無げに言ったが、それは誰にでも手に入れられるものではないはずだ。
「どうしたのよ、これ」
「実はあたしには警察に送り込んでるスパイがいてね――っていうのは冗談だけど、違法な手段で手に入れたものじゃないよ。それは真奈のお父さんの訴訟記録の一部なの」
 由真は薀蓄を傾けるとき、まるで講義をしているような気取った口調になる。もし眼鏡をかけていたら蔓を指先でつまんで押し上げてみせたことだろう。
「判決が確定した刑事裁判の訴訟記録っていうのは、原則としては誰でも閲覧できるの。刑事確定訴訟記録法っていうので決まっててね。その事件がまだ他の裁判に関わっていたり、公開にそぐわない理由がある場合とかはダメなんだけど」
「これを手に入れるために地検に行ってたの?」
「そういうこと」
 由真は二人で葉子のアパートに行った一昨日の午前中――アタシは二日酔で寝ていた――に福岡地裁に出向いて、アタシの父親の事件番号(というのがあるらしい)を調べていた。その番号に基づいて福岡地検の検察官に資料の閲覧を申請して、その後、家に戻ってアタシと合流していたのだ。
「ホントはもうちょっと待たされるかなって思ってたんだけど。こういうのにもいろいろと洩れちゃいけない情報があったりして、そこを黒塗りしたりするんだよね」
「なのに、昨日には見られたんだ。どういうことなの?」
「そこがこの報告書を読んで、あたしが疑問に思ったことなんだけど――それについては後で話すよ」
 由真は「……冷めるよ?」と言いながらアタシのカップを覗き込んだ。アタシはカップを持って呆然としたまま、コーヒーに口をつけるのを忘れていた。慌てて飲んだコーヒーは予想していたよりも美味しかった。
「でも、どうして裁判の記録の中にこんなものがあるの――っていうか、こんなものがあるって思ったの?」
「別に不思議でも何でもないよ。あって当然だもん。だって、そのとき弁護側は――って言うか警察はマスコミに対して、事件は”捜査中の不幸な出来事”だったという線を主張していたわけだし、情状酌量の材料ってことでもないんだろうけど”渡利純也がかなり嫌疑の濃いドラッグの密売人だった”ってことも主張してた。例のスクラップブックにもそのへんの警察の対応を揶揄したものがあったよね」
「そうね」
 週刊誌はそれを”警察が事態を自分たちの有利な状況にしようとするためのリーク”だと何の根拠もなく断罪していた。
「警察としては、今さら事件が真奈のお父さん個人の問題だとは言えない以上、法廷においても少しでも渡利の非をアピールしておきたかったはずなの。こういう比較はしたくないけど、被害者がただのいたいけな不良少年であったか、被害者もまた社会の秩序を害する犯罪者であったかは裁判官の心証に大きく影響するから」
「だろうね」
「でも、まさか法廷にそれまでに掴んだ証拠を提出して、渡利の非を正面から追求するわけにはいかない。渡利がその場で抵抗したとかそういう事実関係ならともかく、渡利が売人だったことを情状酌量の材料にするのは道義的に許されないし、第一、それは別件だからね。じゃあどうするか。表向きはそれが捜査中の出来事だったことの証拠として、担当の捜査員――真奈のお父さんと村上さんが提出した報告書に、ありったけの証拠を添付して出すしかなかったはずなのよ」
「へえ……」
 間が抜けた嘆息の声を上げながら、目の前のアイドル顔負けのルックスを持つ同い年の女の子が法律用語や法廷の駆け引きを得々と語る様子を不思議な思いで見た。もちろん、それは由真がハッキリと自分の進路を定めていることと無関係ではないだろう。しかし、いくら彼女でも半年足らずでそこまでのことを学んでいるはずはない。
 アタシが知らないところで、何か手立てがないかと知恵を絞ってくれていたのだ。
「でも、よくそんなこと考え付くよね」
「これでも弁護士志望だもん」
 由真はニンマリと得意げな微笑を浮かべた。

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