Left Alone

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  第 79 章  

「……んっ」
 スイッチを入れたテレビのように意識が甦った。
 恐る恐る、目を開けてみたが暗くて何も見えなかった。何となく地面が揺れているような気がするのはアタシの平衡感覚が麻痺しているからなのだろうか。
「――ここ、何処?」
 当然、訊いても誰も答えてはくれない。
 頭の中に薄ぼんやりとかすみがかかったようになっていて、考えも今一つはっきりとまとまらない。そのせいか、自分が置かれた状況を理解するのに少し時間がかかった。
 ゆっくりと深呼吸をしてみた。
 埃っぽくてむせ返るようなぬるい空気が鼻孔に流れ込んでくる。湿度は相当に高そうだが、真夏の割に温度はそうでもない。それでも、体中にびっしょりと不快な汗をかいているのが分かる。
 意識がはっきりしてくるのと同時に体中に鈍い痛みとだるさを感じた。水を吸った砂袋のように四肢が重い。右手の指先から左手、脚の順番に一つ一つ、ゆっくりと動かしてみた。身体の痛みは主に後ろ手に手錠をかけられて床に転がされているせいだ。擦り傷や打撲くらいはあるだろうが、骨折などの大怪我はしていない。
 思わず盛大なため息が洩れた。
 どうやらアタシはまんまと立花の策略にはまったらしい。おそらく、西鉄に乗った時点でアタシは監視されていたのだろう。そこへ立花が電話をかける。アタシは深夜の邂逅の約束をした後、つい例のコピーをバッグから取り出してしまった。立花の目的は最初から、アタシが目当ての物を手元に持っているかどうかを確認することだったのだ。
 迂闊だったと言われればそれまでだが、同じ状況なら誰だって証拠を気にしてしまうだろう。人間の心理をうまく突いた立花が一枚上手だったということだ。そして、その一部始終を監視者が立花に報告する。立花は別に用意していたに違いない拉致担当の部隊を差し向け、天神地下街の女子トイレで実行に移した。遠のく意識の中でアタシの身体を抱きとめた男の顔がはっきり記憶に残っている。この世のすべてに不満を訴えるように突き出た下唇。アタシが上段後ろ回し蹴りで仕留めた大男は、確かハルと呼ばれていた。
 問題は、拉致されてからどのくらいの時間が経っているか、だった。
 勘の域は出ないにしても、そこ一、二時間しか経っていないということはないだろう。奴らがどんな口実でアタシを地下街から運び出したかは謎だが、衆目の集まる中を――昼間の天神地下街は天神で一番人通りが多いところだ――荷物を担ぎ出すように無造作に運んで行ったとは思えない。女子トイレで拉致に及んだからには拉致部隊には女がいたはずだし、実際にアタシがいたブースをノックしたのは女だった。急に具合が悪くなった連れを気遣うふりでもしたに違いない。そこから一番近い駐車場は天神地下駐車場だが、そこへ運んで行くにしてもそれなりの時間は必要だったはずだ。
 そこから今いる場所への移動時間と、運び込まれてからの経過時間は推測する材料に欠けていた。
 GPS発信機はバッテリーの関係で三〇分に一度しか位置情報メールを送らない。そのため、上社は座標が固定されてからしか行動を起こせない。逆を言えば、アタシがここに運び込まれてから一時間以上経っていればアタシの居所は確認されていることになる。その間、アタシにできることは由真の居所を確かめることと救助を待つことだけだ。
 だが、心配事がひとつあった。意識を失っている間に身体検査をされてGPS発信機を奪われているかもしれない。
 ゆっくりと身体を動かして腹這いになってみた。腹を床に押し付けるまでもなく、あるべき硬い感触がちゃんとあった。今度は安堵のため息が洩れた。
 その時、耳障りな金属的な軋みと共にドアが開いた。
「――おっと、スリーピング・ビューティーのお目覚めだ」
 立花正志の声だ。アタシは首を起こして声の方向を見た。眩しく差し込む光を予想して目を細めていたのだが、ドアの外も薄暗くて光は弱々しいものだった。それよりも鼻孔に入ってくる匂いにアタシは気を取られた。
 潮の匂いだ。
 福岡市がいくら海に面しているからといって、海のすぐそばでもなければここまではっきり匂いはしない。アタシがいるのは海岸線沿いの建物か、あるいは埠頭の倉庫か。
「起きてるんだろ、返事くらいしろよ」
「……アタシ、寝起き悪いの」
「お目覚めのキスでもして欲しいのか?」
「ぶちのめすわよ」
 薄笑いを浮かべて立花がアタシに近づいてきた。一瞬、キス云々がジョークじゃなかったらと思い怖気が走ったが、立花はアタシの身体を起こして壁に寄り掛からせただけだった。
「ここ、何処?」
「船の中だ」
 立花はあっさり答えた。パチッという音がして天井の蛍光灯が点った。
 言われてみれば、いかにも船室という感じの造りだった。天井も低いし、のっぺりした壁やボルトだらけの鉄骨の梁は緑がかったクリーム色の塗装が施してあるだけだ。そんなに広くはない。せいぜい六畳間程度だ。家具の類は何もなくて、プラスチックのコンテナのような箱がテーブル代わりに置いてあるだけだ。それと床に直置きのポータブルDVDプレイヤー。
 いくら警察官僚がバックにいるからといって、船まで持っているとは意外だった。なので、アタシはそう言った。立花は「まさか」と言って鼻で笑った。
「クルーザーならともかく、キャリアの給料がどれだけ高くたって、貨物船なんか買えるわけないだろ」
「じゃあ、この船どうしたの?」
「借り物だよ。東南アジア船籍の貨物船だが、ボスと船主がお友だちなんだとさ。日本に停泊している間は自由に使えるらしい。どういう経緯で知り合ったのかは知らんがね」
「ボス? ああ、新庄のことね」
「何をどこまで知ってるのやら。福岡県警も惜しいことをしたもんだ」
「……どういう意味?」
「大学卒業まであと三年だったか? それまで生きてれば優秀な刑事が手に入ったのに、って言ってるのさ」
 さらりと言ったつもりだろうが、この男の根底にある酷薄さは隠せなかった。分かってはいたがアタシを生かしておくつもりはないということだ。もとより、そうでなければこんなにペラペラと喋ったりはしないだろう。
「玄界灘に投げ込むつもり?」
 立花はメールを打つ手を止めてアタシを見た。
「目当てのものを回収した以上、すぐにそうするべきだと俺は言ったんだがな。ボスが待てとさ」
「新庄が?」
「話したいことがあるらしい」
「アタシにはないわよ」
「そう、邪険にしないでやってくれ。カネで買わなきゃ女一人モノにできないお坊ちゃまなんだ」
「そういうあんたは、そんな男に養ってもらわなきゃ生きていけないんでしょ?」
「この状況でよくそんな強気な態度がとれたもんだ」
 背筋を這い上ってくる恐怖に耐える方法を、アタシは他に知らない。
「由真は何処?」
 立花はアタシの顔にトカゲのような冷めた目線を向けた。
「この船に乗ってる」
「会わせて」
「心配しなくても危害は加えちゃいない。傷をつけるなって馬渡が言うんでね」
「あのサディストが?」
 アタシの声が余程驚いたようなものだったせいだろう。立花は目を丸くした。
「そんなに驚くことじゃないだろ。本人はあれで結構、フェミニストのつもりらしいぜ?」
「フェミニストは女の子を特急列車めがけて突き飛ばしたりしないわ」
「違いない」
「……ずいぶん、あっさり認めるじゃない」
「あれは馬渡の仕業じゃないって言ったら信じるか?」
「信じないわ」
「だろ?」
 例の他人事のような笑みが戻った。
「由真のところに連れて行って」
「嘘はついてないぞ」
「誰もそんなこと言ってないわ。無事かどうか、自分の目で確かめたいだけ。それとも、アタシたちを会わせるなって馬渡に言われてるの?」
「……本当に、根性が据わってるというか、怖いもの知らずというか」
 一発くらい殴られるのは覚悟して挑発してみたのだが、立花は忌々しそうな視線を向けてくるだけだった。ボス――新庄の言うことが絶対なのはともかく、上下関係があるかどうか分からない馬渡の言葉にも従順なのはちょっと意外だった。
「立て」
 立花はアタシの腕を掴んで強引に立たせようとした。少しよろけながら、アタシは何とか立ち上がった。そのまま廊下に連れ出された。
 貨物船といってもそんなに大きなものではないようで、廊下に面した船室のドアはアタシが囚われていたものともう一つしかなかった。廊下にはちゃんと窓がある。アタシがいた部屋が真っ暗だったのは目張りがしてあるからだった。外はすでに夜の帳が下りていた。
 エンジン音が聞こえないから動いてはいないと思っていたが――立花も使えるのは停泊している間と言っていた――停まっている場所には少々度肝を抜かれた。船体の右側に見える港湾施設は長浜の魚市場のものだったからだ。頭上には高所恐怖症のアタシが一番苦手とする都市高速の荒津大橋が美しいアーチを描いている。
 つまり、アタシは博多港のど真ん中にいることになる。須崎埠頭と荒津埠頭の間の漁船やプレジャーボートなどが停泊している一画に小規模ながら造船所が並ぶ区画があるが、どうやらそこらしい。
「ずいぶん立派なアジトね」
「俺はあまり出入りしないがな。何が気に入ったか知らないが、馬渡はよくここにいるらしい」
「そんなに長いこと停まってるの、この船?」
「エンジンの不調で修理中ってことになってるからな。本当のところはどうだか知らんが」
「へえ。それで一つ合点がいったわ」
「何のことだ?」
「別に。大したことじゃないから気にしないで」
 いくら馬渡が権藤康臣の行動を監視していたとしても、冷泉町での銃撃事件の逃走経路まで把握できていたとは考えにくい。なのに、どうして須崎埠頭のラブホテルにタイミング良く現れることが出来たのか。
 アジトが目と鼻の先にあったからだ。
「逃げようなんて思うなよ」
「これで?」
 アタシは腕を揺すってみせた。脚ならともかく、腕が使えない状態で海に飛び込むのは自殺以外の何物でもない。立花は短くフンと鼻を鳴らしただけでもう一つの船室のドアを開けた。
 こちらの部屋もアタシのところと大きさは変わらなかった。殺風景な内装も同じ。違うのはテーブルと二脚の椅子、簡易な造りのベッドがあることだ。こっちの部屋にも目張りはしてあって、外に明かりが洩れないようになっている。
 由真はベッドにぐったりと横たわっていた。
「――由真ッ!!」
「おい、待てッ!」
 駆け寄ろうとしたアタシを立花が身体で遮った。反射的に膝でかち上げようとしたが読まれていてあっさり避けられた。さすがに我慢できなかったのか、立花の平手が一閃した。
「痛ッ!!」
「……このアマ、あんまりナメんじゃねえぞ」
 立花の白い顔は怒りに引き攣っていた。目は大きく見開かれて血走り、三白眼どころか四白眼になっている。余裕があれば鷹揚な態度を取っていられるが、一皮剥けばこの程度なのだ。こんな状況だというのにアタシは笑い出しそうになった。
「部屋に戻れ」
「分かったわ。でも、せめて声だけでもかけさせて」
「駄目だ。てめえは何するか分かんねえ」
「いいの、そんなこと言って?」
「……んだと?」
「由真の様子がおかしいわ。この暑さだもの、脱水症状を起こしてるかもしれない。あんた、馬渡から由真に傷をつけないように言われてるんじゃなかったの?」
「だったら、俺が見てくる」
「その間に逃げてもいい? この場所はもう分かったわ。すぐに警察引き連れて戻ってくるわよ?」
「てめえ……」
「声をかけるだけでいいの。お願い」
 おそらく、由真だったらもっと上手に男心をくすぐってみせるのだろう。だが、アタシにそんな芸当はできない。アタシはただ声に真摯な響きを持たせることに全力を注いだ。
「……チッ、しょうがねえな。入れ」
 立花がドアのところから身体を外した。
 アタシは足元を探りながら部屋に入った。立花は着いてこなかった。アタシが逃げ出さないようにドアのところを塞ぐことにしたらしい。恐る恐るベッドに近付く。
「由真?」
 返事はない。
 一瞬、不吉な想像が脳裏をよぎった。ひょっとしたら由真はすでに動かなくなっていて、触ったら冷たくなっているんじゃないだろうか。
 しかし、それは幸いにも杞憂だった。由真は薄目を開けて小さく身じろぎをした。
「……真奈?」
「アタシが分かる?」
「嘘……真奈なの?」
「アタシよ。嘘なんかじゃないよ」
 由真はゆっくりと身体を起こそうとした。しかし、力が入らないのか、少し首を持ち上げるのが精いっぱいのようだった。
「助けに来てくれたんだ。本当にあたしなんかを助けにきてくれたんだ……」
 今の状況を考えると助けに来たとは言い難い部分はあった。しかし、せっかくの希望を打ち砕く必要はなかった。
「当り前でしょ。アタシがあんたを見捨てるわけないじゃない」
「真奈ぁ……」
 由真の顔がくしゃくしゃに歪んだ。額を撫でてやりたかったが、後ろ手に手錠を掛けられていては何もできない。アタシはベッドサイドに腰をおろして、由真の手をしっかりと握った。

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