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夜の旅人

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 月が天空に眩いばかりの輝きをもって浮かんでいる。
 すり鉢状にせり上がっていく観客席は地鳴りのような歓喜と興奮に満たされている。明々と燈された松明の灯りが、醜い人間たちの本性を暴くように彼らの顔に濃い陰影をつけている。
 私はその中央、闘技場の円盆の真ん中で月に向かって剣を掲げた。3フィート半のその鋼鉄の塊は今しがた吸ったばかりの鮮血に塗れて、蒼い光の下で黒曜石から削り出したように黒く光って見える。
 レンドルの街の太守の御前試合。
 遠い東の異国の地より砂漠を越えて運ばれてきた絹や珍しい香辛料、珍しい酒や珍味、そして象牙色の肌と黒髪の女奴隷。王国の東の果てにあって東方との交易の拠点であるレンドルは豊かな街だ。
 火の季が終わり風の季が始まる最初の節に、レンドルの人々は3日3晩に渡って酒と踊りと馬鹿騒ぎに明け暮れる。その祭りの最後を飾るのが街の豪商たちが金にあかせて買い付けてきた剣闘士によるトーナメントだ。御年80歳を越えると言われる太守の唯一の楽しみであるとも言われる。
 その太守は薄い布を幾重にも重ねた太守の套を纏い、わざわざこの祭りのためだけに設えられた玉座に腰を下ろしている。しわの中に隠れた目が勝者を祝福しているのかなど、ここからでは確かめようがなかったが、そのしなびた手はかすかに私のほうに向けられていた。
 円盆の縁の台座に立った暗い目をした男が、勝ち名乗りをあげるように私に言った。ついさっきまで慎重な戦い方をする私を腰抜け呼ばわりしていた男だ。
 男の言うままに私は雄叫びを上げてみせた。我こそは裏切りの騎士、リュストゥ・バシュトゥルク。屍の上で剣を振るう者。

 エムレ・ガラムサリが太守の近衛兵長から恩寵の品を賜っている間、私は円盆の真ん中で二人の屈強な衛士に挟まれながらその様子を見ていた。
 剣は取り上げられていた。
 昔から試合が終わった瞬間こそが剣闘士の反逆の絶好のチャンスだと言われている。普段の興行ならいざ知らず、太守のいる場で万が一にも間違いがあってはならないのだろう。
 3週間前、私は絹糸の買い付けから一代で身を起こしたというガラムサリに買われて、このレンドルに連れて来られていた。
 彼ら豪商たちにとって御前試合でお抱えの剣闘士が勝つということは、莫大な懸賞金や掛け金が手に入ることと同時にレンドルの社交界での発言力を強めることでもある。
 だから彼らはあらゆるつてを通じて国の内外から剣闘士を買い集めるのだ。
 目の前では私と同じように何処かで買われた剣闘士が、長さ6フィートはあろうかという大剣の傍らで息絶えている。北方沿岸地方の出身者に多い血管が透けて見えそうな青白い肌と彫りの深い顔立ち。その目は小さくて鋭いのが特徴なのだが、彼の目はもはや何も見ることはない。
 やせこけた男たちが粗末な麻布で北方の剣闘士の遺体を包んで荷車に載せた。
 引き手の力がないのか、その荷車に載せられた数え切れない剣闘士の魂の重さか、荷車がよたよたと蛇行しながら円盆から退場していく。
 それを見て観客たちは思い出したようにどよめきと罵声を浴びせた。そこには敗者への労りなど欠片ほども存在しない。彼らにとって敗者とは自分の掛け金をドブに捨てさせた犯人でしかないのだ。
 やがてすべてのセレモニーが終わり、私はガラムサリとともに退場口へ向かった。観客は手のひらを返すように私へ賞賛と歓喜の入り混じった言葉を投げ浴びせた。
 彼らの興奮とは裏腹に、私はそれほど派手な試合をしたわけではなかった。大剣のものとは思えない旋風のような切っ先を受け流しながら、私は彼のスタミナが切れるのを待つという戦法を選んだ。
 大剣は確かに当たれば一撃必殺の威力を持っているし、彼の膂力を生かすには絶好の武器には違いなかった。しかし、もともとが甲冑に身を固めた相手を殴り倒すための武器で、素早く動き回る相手を捕らえるのは無理なことだった。
 私は彼の動きが鈍くなるのを辛抱強く待ってから、側面に回り込んで防具のない脇腹に剣を突き立てた。
 剣闘士に許される防具は胸当てとないよりはマシという程度の兜、左手に留められた円形の小さな盾だけだ。革の具足や籠手、腰当などもあるが力任せに振り下ろされる剣を受け止める役には立たない。だから少しでも身軽になろうとそれらを身に着けない者すらいる。
 防具を少なくするのはひとえに闘技場の主催者の都合だ。
 彼らは抱えている剣闘士の血が流れることで収益を上げている。そういう意味では、本当は防具など一つも着けさせたくないのが彼らの本音だった。
 とは言え、毎回のように剣闘士が死んでいては彼らも都合が悪い。補充が追いつかないからだ。だから最低限の防具だけは認められている。ないよりはマシだという程度のものを含めて。
 単なる殺し合いだけで良いのなら、辺境の戦場から連れて来られた捕虜同士を戦わせれば済む。彼らならどれだけ損耗しても補充はいくらでもきく。南方の国境地帯ではもう10数年に渡って小競り合いが続いていて、そこからは身代金を取れそうな騎士以外はすべて国内に奴隷として連れて来られることになっているからだ。
 しかし、爛熟した文化の象徴とも言うべき剣闘士の試合では、それでは観客は満足させることは出来ない。磨き抜かれた剣技の応酬があって、その上で死力を尽くした剣士のどちらかが命を落とす。そのときにこそ観客の興奮は最高潮に達するのだ。

「いやあ、よくやった、リュストゥ。お前を見込んだ俺の目に間違いはなかった」
 控え室に現れたガラムサリは気持ち悪いほど相好を崩していた。
 無理もなかった。さっき彼の取り巻きの一人に聞いたところでは来年から取り扱える交易品目の枠が二つ増えて、そのうちの一つが彼が手を出したくて仕方のない代物だったらしいのだ。
「俺は自分の仕事をこなしただけだ。それに生きて帰らなきゃならない理由がある」
「そうだったな。――まあ、だからってすぐに帰してやるわけにはいかんがな。分かっているだろう?」
 私はうなづいた。
 そういう約束ではあった。一つには御前試合の勝者には当分の間、太守が催すパーティへの出席が義務付けられているから。もう一つは主に公式の場でのガラムサリの身辺警護の契約をしていたからだった。
 ガラムサリが二つの利権を手に入れたということは二つの利権を失った男が一人、または一つの利権を失った男が二人いるということに他ならない。
 彼らが腹いせに暗殺者を放つことは充分にあり得ることだったし、そうでなくても何かと難癖をつけてくることは想像に難くなかった。
 一番考えられるのが、何かと理由をつけてガラムサリに決闘を申し込む輩が増えることだった。
 王都や西方の街のように気障で格式ばっているわけではないが、決闘のしきたりというのは東方のこの街でもちゃんと生きている。生まれてこのかた剣など握ったことのないガラムサリには、代わりに申し出を受ける腕の立つ代理人が必要なのだ。
 もちろん他にも考えられる面倒ごとはある。
 そのすべてを私一人で排除できるわけではないが、何にしても盾は一枚でも多いほうが都合が良いのは間違いない。やり手のガラムサリの考えそうなことだった。
「とにかく今日は祝宴だ。最高の葡萄酒と南方の海で獲れた魚でパーッとやろう」
 ガラムサリは私の想いなどには気づく風もなく、肩を手のひらで叩いて控え室を出て行った。その声や仕草には確かに親愛の情があったが、それは良く走る馬や獲物を咥えてくる猟犬に向けられるのと同じ情だった。
 私は剣闘士に与えられる襟元に黒い帯線の入った套をまとった。
 それはかつて剣闘士には首輪が架せられていたことの名残りだった。二代前の国王を守って戦った剣闘士を讃えて、首輪の習慣が廃止されたことを受けてのものだ。
 今は興行主に借金を背負ったものだけが首輪をつける慣わしになっている。しかし、戦争捕虜でもないのに剣闘士になろうという者は大抵は借金を抱えている。
 つまり、大半の剣闘士は今でも首輪をつけているのだ。私もガラムサリに買われるまではつけていたのだから。
「バシュトゥルク様、馬車が待っております。ご支度を」
 私の世話役としてついているハシェミという老人が言った。私は分かったと言って、返してもらった剣を腰に佩いた。


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