「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 11 章  

「――姉ちゃん!!」
 ボクは大声で叫んだ。ガランとした倉庫の中でその声が奇妙に反響する。
「……亮太?」
 姉貴の弱々しい声。L字型のソファの前、さっきは赤毛の子がいたぶられていたその場所に、今は姉貴とその子が座り込んでいる。身体を拘束するようなものは見当たらないけど、恐怖心がそれ以上に二人を縛り付けていたようだった。
 ボクは姉貴に駆け寄った。後ろからついてきていた真奈は赤毛の子の怪我の様子を確かめている。
 どこか痛いところはないかと訊いても、姉貴はボンヤリと首を振るだけだった。顔を殴られて頬と目の周りが腫れているだけで、目に見えるような大きな裂傷や出血は見当たらない。服はかなり派手に破れているけど暴行されたような形跡はなかった。そんな時間もなかったはずだ。
「もう大丈夫だよ。あいつらは全員、逮捕されたから」
 ぶちのめされた三人を始め、降参した真ん中分けとトサカ、金髪女の三人は駆けつけたあいつ――村上とかいう真奈のウチの半居候とその他の数人の刑事さんに取り押さえられていた。
「……ホント? ホントにあたし、助かったの?」
「そうだよ。もう、あいつは姉貴に近寄ってきたりしない」
「助かったんだ……」
 姉貴は俯いて、呆けたように長い息をついた。
 まだ気持ちの整理がつかないんだろう。付き合い始めたばかりの彼氏が実はとんでもないやつで、自分が酷い目に遭わされそうになったことは頭では理解できても、それをすぐに憎しみや怒りに転換することは難しい。信じられないという気持ちのほうがまだ強いのかもしれない。
「そっちは?」
 真奈が訊く。ボクはそっちを見やった。赤毛の子の服は姉貴よりも数段酷くて、ほとんど上半身を隠す役には立っていなかった。真奈がボクをキッと睨んだので、慌てて彼女から目を逸らした。
 わざとじゃないんだから怒らなくてもいいのに。と言うか、見ちゃまずいんなら呼ぶなよ。
 姉貴はボクと目を合わせようとしなかった。
 理由は何となく想像がついていた。殴り込みのときのやり取りで影でいろいろと言っていたことを古閑に揶揄されて、姉貴はボクから目を逸らした。まだそれを引きずっているんだろう。
 姉貴をソファに座らせて隣に腰を下ろした。ゆっくりと背もたれに身体をあずけると、緊張でまぎれていた全身の痛みがぶり返してくる。
「いててて……」
「ちょっと、亮太。大丈夫なの!?」
「大したことないよ。骨は折れてないし、目の焦点もちゃんと合ってる。言葉だってちゃんと呂律が回ってるだろ」
「そうだけど……。まるでフランケンシュタインみたいだよ?」
 鏡はまだ見てないけど、顔の腫れ具合からすると言いえて妙なのかもしれない。縫い目をマジックで書けばなお似ていそうだ。
「ひどいよな。それが我が身を犠牲にして助けに来た弟に言うせりふかよ?」
「……ゴメン」
「いいよ、気にしてないから」
 しばらく沈黙。真奈が目顔で先に赤毛の子を連れて行く合図をした。救急車が都合で二台しか来られない関係で先に彼女と姉貴が一台、表でぶっ倒れてる三人が一台という割り当てだった。あとから来る追加の一台でボクは運ばれることになっていた。
「救急車を呼んだから。早く病院に行って手当してもらいなよ」
「……うん。ゴメンね、亮太」
「だから、いいって言ってるだろ」
 堂々巡りの予感のするやり取り。やがて姉貴は肩を上下させながら嗚咽を洩らし始めた。
「怖かった。すっごく怖かったの。まさか、あんな人だったなんて……」
 だから言っただろ、と心の中で突っ込んだ。
「そうだね。でも、もう大丈夫。だから……次からはもうちょっと男を見る目を養ってくれよ。じゃないと、そのたびにこんな目に遭わされるんじゃ身体が持たないからね」
 姉貴が驚いたように目を丸くする。やがて、泣き笑いのような表情でボクを睨んだ。
「あんたって……どうして、そう生意気なのよ?」
「誰かさんの弟だからに決まってんだろ?」
 わざとおどけて言う。
 姉貴は子供のように泣きじゃくりながらボクの胸に顔をうずめてきた。正直、かなり痛いんだけど、だからって押し返すこともできない。仕方がないので少しだけ身を捩って痛みをやわらげながら、ボクは姉貴の背中をポンポンと叩き続けた。
 だいじょうぶだから、だいじょうぶだから、と心の中で呟きながら。

「……まったく、自分の娘に犯人との立ち回りをやらせるなんて、何考えてんですか」
 村上刑事は怒っていた。
 当然と言えば当然だった。真奈のお父さんは一回り以上年下の部下に叱られてしょぼくれていた。
「だってよ、俺は酔っ払ってたし、真奈は自分にやらせろって言うし――」
「それでも、犯人確保の危険を冒すのを民間人に任せていいわけないでしょう?」
 お父さんは素知らぬ顔でそっぽを向く。真奈が取り成すように口を挟む。
「まあ、いいやん。結果としては上手くいったんやしさ――」
「お前が言うな」
 村上刑事はピシャリと言った。
「結果が上手くいったからいいようなものの、そうじゃなかったらどうするつもりだったんだ? 第一、あそこに停まってるバンディットは誰が乗ってきたんだ?」
 真奈がお父さんに倣ってそっぽを向く。お父さんは飲んでるのでライダー役を押し付けるわけにはいかない。
 村上刑事は盛大なため息をついた。
 お父さんは腰掛けていたパトカーのフェンダーから立ち上がった。
「村上、すまんけど報告書のほうは適当にごまかしとってくれ」
「分かりました。そこの三浦くん、だったかな。彼のお姉さんに対する未成年者略取で通報を受けて現着したところ、彼が古閑誠たちに暴行を受けていたので全員を確保。そんなところで?」
「よかろうな。俺と真奈はいなかったことにしといてくれると助かるけどな」
「やつらの供述調書はどうします? 真奈はともかく佐伯さんがいなかったことにするのは難しいですけど」
「そこを何とかするのがお前の腕やろ。薬物対策課のインテリの文章力に期待しとうぜ」
 村上刑事は不満そうに鼻を鳴らした。お父さんは苦笑いを浮かべた。
「実際のところ、俺の名前まで覚えちゃおらんだろ。偽名のほうがインパクトがあったやろうし」
「越後のちりめん問屋がどうこうってやつ?」
 真奈が口を挟む。
「貧乏旗本の三男坊の徳田新之助でもよかとやけどな」
「子供には通じらんって」
「まったくこの親子は……」
 村上刑事がぼやいた。ボクも同感だった。初めてこのハンサムな半居候に同情したくなった。
 制服姿の警察官が村上刑事に駆け寄った。一瞬、地面に座り込むボクを見てギョッとしたような視線を向けてきた。少しでも安静にしておけと言われて、ボクはそうさせられていたのだ。
「どうした?」
「あ、いえ――。えーっと、古閑誠のグロリアから覚せい剤のパケが見つかりました。小分けしたものが十二袋、仕分けしてないのが二袋。ざっと二〇グラムってとこですね」
「そうか。村上、奴さんたちを現行犯逮捕だ。時刻はえーっと、午前零時十二分」
「ハッピー・バースデー」
 真奈が言う。
 ボクの中でようやくパズルのピースがすべて埋まったような気がした。
 古閑の体力を時間をかけてそぎ落としたのも、何かを待っていたように時間を気にしていたのも。そもそもあんな一対一の勝負を飲ませて事の成り行きを引っ張ったのも、すべては時間稼ぎだったんだ。

 村上刑事は制服警官と一緒に、古閑たちが載せられるのを待っている救急車のほうに向かった。
「あいつが二十歳の誕生日を迎えるのを待ってたんですか?」
 ボクはお父さんに訊いた。
「そういうことったいね。法律ってのはやっかいでな。犯行時年齢が未成年やったら、逮捕したときが何歳でも未成年扱いになってしまうとさ。ま、君への暴行とかお姉さんへの未成年者略取はどうしようもなかが、薬物事犯については所持ば確認したのが成人後なら、大手を振って家裁やなく地裁に送れるってわけさ」
「なるほど……」
「販売目的ってことになれば、初犯でも執行猶予はなかけんな。地獄に落ちるぜ」
 お父さんが呟く。真奈が顔をほころばせる。
「良かったね、亮太。これでお姉さんも安心って」
「うん……」
 自分がやったことがもたらした結果に、ボクは少しの間、呆然としていた。
 ボクは古閑がいずれは姉貴に暴力を振るうだろうと思って、何とか遠ざけようとしたに過ぎない。まさかそれが人を一人、刑務所へ送る手伝いになるとは思ってなかった。
 もちろん、悪いのは古閑とその仲間たちであって、ボクが何か気に病まなきゃならない理由はない。むしろ、その運命に姉貴が巻き込まれそうになったことに怒るべきだし、その危険が去ったことを喜ぶべきだった。それは分かっている。
 それでも、ボクの周りには幾重にも重なったヴェールが覆い被さっているような気がした。何かの拍子に大きな音がしたらパッと目を覚ましてしまいそうだ。
 要するにボクは、この夜の出来事にまだ現実感を抱けていなかったのだ。
 うっそうとした山間の木々の間を縫うように、救急車のサイレンが聞こえてきた。
「お迎えだ、坊主。お前さんもとっとと病院で手当してもらって来い。せっかくのハンサムが台無しだぞ。彼氏がそげんやったらウチの跳ねっ返りが悲しむ」
「……はい」
 ハンサム呼ばわりは照れ臭かったけど、からかわれているだけだと思って変な否定はしなかった。傍にいた真奈が口を挟んでこなかったのが、ちょっとだけ嬉しかった。
 ボクは救急車が入ってこれるところまで歩いた。真奈が隣を着いてくる。
「ホントは病院まで着いていってあげたいとやけど、まだ、こっちで片付けなきゃなんないことがあるけんね。バイクも運ばんといけんし」
「そっか。最後まで迷惑かけるね」
「別にいいけど。バイク屋さんのトラックが来るとば待っとるだけやけん。さすがに警察の目の前で乗っては帰れんもんね」
「だね」
 ボクらは静かに笑いあった。
「――真奈、ホントにありがとう。感謝してるよ」
 真奈は少しだけ頬を赤くした。
「ちょっと、やめてよ。そんなん気にせんでよかって。アタシたち、友だちやろ?」
 友だち、か。
 今はそれでもいい。でも、いつか真奈を守れるくらいに強くなりたい。
「でもさあ、こっぴどくやられたよね。アタシの特訓、役に立たんかったとやないと?」
 真奈が言う。照れ隠しのようでもあり、本当に不満そうでもあった。
「そんなことないさ。最後のほうは目も慣れたんで、避けようと思えば避けられたんだ。今なら真奈の手だって捕れるかもよ?」
「言ったな? よおし、構えて」
 本気かよ。ボクは慌てて半身に構える。真奈は短く息を吐いて鋭いジャブを放った。
 まったく反射的としか言いようがないけど、ボクは見事に真奈の腕をつかんでいた。ひょっとしたら神経が昂っていて、いつもより集中力が高かったのかもしれない。
「……あれっ?」
「捕れちゃったね」
 何とも言えない気まずい沈黙。やがてボクはニンマリと、真奈は引き攣った笑みを浮かべた。
「あの約束って月曜日だったよね? 今日は日曜日だからタイムリミットの一週間以内だ」
「えーっ、ちょ、ちょっと待って。今のはナシ。ほら、練習時間中やないし」
「構えろって言ったのは真奈だろ。それに一昨日だったっけ、帰り道に不意打ちでやっといて、ボクが文句言ったら”いつ何時も練習”って言ってたじゃないか」
 真奈は露骨にそっぽを向いて答えなかった。
「さて、どんなこと聞いてもらっちゃおうかな」
 ボクは言う。真奈はイーッと歯を剥いて顔をしかめる。さすがにその顔は可愛くない。
「ふーんだ、亮太のイジワル。なんね、ホントに”福岡高いところ巡りツアー”とかするとね?」
 それも悪くはない。真奈が――あの勇ましい真奈が怖がって震えるところなんて、見たくても見られるものじゃないからだ。
 でも、ボクは違うものにすることにした。
「だったら、写真を撮らせてくれないかな。今度はちゃんとしたのを撮りたいんだ」
 真奈が不意に真顔になった。
「……今度は?」
 全身が総毛立った。失言に程がある。
「そう言えば、さっきの二人組ってアタシの写真を見とったみたいやけど……。あれ、亮太の財布を漁っとったんよね?」
「えっ、あ、その……あはははは」
「笑ってごまかすな。いつ、アタシの写真とか撮ったとッ!?」
 言い訳が脳裏を駆け巡る。でも、真奈に納得してもらえそうなものは一つとして浮かばなかった。嘘はつきたくなかったので、正直に自供することにした。
「……ゴメン。実は昼休みにこっそり撮ったんだ。その……頼んでも断られると思ったから。写真、あんまり好きじゃないって言ってたよね」
「そうやけど……」
 真奈は憮然とした表情だった。無言で手を差し出す。ボクはおずおずと自分の財布ごと真奈の手のひらに置いた。生活指導の女の先生にエロ本を没収されたって――いや、そんな経験ないけど――ここまで気まずくはないに違いない。
 真奈は財布から写真だけを引き抜いた。
 そのまま破って捨てられるのかと思ったら、真奈は自分の写真をじっくりと眺めていた。
「……ふん、まあまあ、よう撮れてるやん」
「でも、それロングショットだから小さいし、正面向いてないしね。できれば笑ってるところが欲しいんだ」
「やだよ。アタシ、写真写りが悪いもん。どれもすっごく目つきが悪そうに見えるとよね」
「緊張するからじゃないの?」
「かもね。――とにかく写真はお断り。これはまあ、没収はせんけど」
 真奈は財布に写真を入れてボクに寄越した。
「しょうがないなあ。じゃあ、やっぱり一日ツアーか」
「ちょっと待った。今の盗撮写真でおあいこやろ?」
「それとこれとは話は別だよ」
 ボクはほくそ笑む。真奈はいよいよ頬を膨らませる。
「なんでアタシの写真とか欲しいと?」
 真奈が訊く。ボクは彼女を見据えて、大きく息を吸い込んだ。
「好きな子の写真を欲しがったらおかしいかい?」
 ……うわあ、言っちゃったよ。
 内心のドキドキを押し隠すように、ボクの表情は硬くなっていく。鼓動がとんでもない速さに駆け上がっていくのが分かる。何よりも耳が熱い。
 断られない自信なんてまるでなかった。なのに、不思議と嫌われたらどうしようとか、これで友だちでいられなくなったらどうしようとか、そういうネガティブな考えは浮かばなかった。それよりも、このチャンスを逃したら後はないという想いのほうが強かった。
 真奈はプイッとあさっての方向を向いた。
「……まったく、弱虫のくせにそんなとこばっかり度胸があるとね、亮太って」
 お互いにその後の言葉が続かない。
 救急車がバックで敷地に入ってきた。制服の警察官が降りてきた救急隊員と話をしている。こっちを見て、ボクのことを運ぶ患者だと説明しているようだ。
 救急隊員のおじさんが駆け寄ってきて、ボクに身体の状態のことを尋ねた。ボクは訊かれたことに淡々と答えた。
「じゃあ、乗って。ちょっと遠かけど、設備が整った市内の病院に行くから」
「そうなんですか?」
「見た目はそうでもなかけど、頭を殴られとるからCTとか撮ってみないといけんからね。意外と多いんよ、ピンピンしてたのに次の日の朝に亡くなる人って」
 おじさんは怖いことをにこやかに言う。
 ボクは救急車のリアハッチから中に乗り込んだ。真奈はボクの後ろに立っていた。
 気まずいわけじゃないけど、言葉が浮かばない。ボクは「……じゃあ、行くから」とだけ呟いた。
「――亮太」
 真奈が言った。俯き加減でボクの目を見ようとしない。
「なんだい?」
「写真、綺麗に撮ってくれる?」
「……もちろん」
 真奈は顔を上げた。
 そこには照れ臭そうにはにかむ、今までで一番の微笑が浮かんでいた。
 おそらくカメラのレンズを向ければ、真奈は表情を固まらせるだろう。それはそれで可愛らしいのだけれど、今、目の前にある笑顔は写真に残すことはできない。
 だからボクは、それを懸命に脳裏に焼き付けようとした。ブラジリアン・ハイ・キックなんて物騒な技を持っている、ボクだけの天使の笑顔を――。

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