砕ける月

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  第 59 章  

 健康にはそれなりに自信があったのだけれど、どうやらアタシの骨はあまり丈夫ではないようだった。
 興奮が冷めるのに反比例して右足の疼きは徐々にひどくなっていた。靴下を脱ぐと甲の部分が青黒く膨れていて、足全体がじんわりと熱を持っていた。
 早朝だと言うのにアタシは救急車に乗せられて県警本部の近くの救急病院に運ばれた。
 診断は右足第二指及び第三指中足骨骨折、要するに足の中の骨二本がポッキリ折れているということだった。骨がずれてはいなかったのでとりあえずギプスで固めて様子を見ることになった。
 一体何をやらかしたのかと担当医の先生に訊かれて、拳銃を思いっきり蹴り飛ばしたのだと答えたら何だか頭が気の毒な人のような目で見られたので、それ以上は何も言わなかった。
 抗生剤とその他の薬、それと松葉杖を渡されてアタシは県警本部へと連れて行かれた。
 現れたのは監察官室の片岡警視で、彼はアタシに素っ気なく礼を言った。別に悪意があるわけじゃなくてそういう物言いをする男なのだった。
「本来なら感謝状と金一封くらいは用意するべきなんだが、事情が事情なだけにそういうわけにもいかない。不服かも知れんが理解してもらえるかね」
「分かりますよ。アタシも賞状なんかもらってもしょうがないですから。それに金一封って図書券なんでしょ?」
「よく知ってるな。そうか、君は――」
 片岡はそこでバツが悪そうに言葉を止めた。アタシはちょっとだけ迷ってニッコリと笑って見せた。
 事情聴取は後日ということでアタシは家に帰されることになった。
 祖父母へ警察から連絡がいっているというのがアタシの唯一の心配事だった。
 片岡警視の話によると、アタシが事件に巻き込まれたということで祖父は血管がブチ切れそうなほど興奮していたそうだし、祖母は卒倒しそうになっていたらしい。
 片岡警視が責任を持って対処するということで何とか落ち着きを取り戻したようだった。とは言え家に帰ればそれこそ大騒ぎになるのだろう。
 もちろん心配をかけたアタシが一方的に悪いのだけれど、その騒ぎを想像すると正直ウンザリした。何処かほとぼりが冷めるまで泊めてくれるところはないかと本気で思った。
 アタシがそう言うと、片岡警視は諦めて帰れと冷たく言い放った。
 留置場に泊めてくれと冗談っぽく言ってみたら片岡警視に身が竦むような目で睨まれたので、アタシは大人しく帰ることにした。
 
 アタシを家まで送る役目に選ばれたのは、命令違反や報告義務違反などの理由で謹慎処分になった村上だった。
「……何であんたが?」
「仕方ないだろう、身体が空いてるのが俺だけなんだから。マスコミが来る前に消えろって言われてるんだよ」
 フェアレディZの後部座席に松葉杖を放り込んで助手席に乗り込んだアタシは、オーナーの許可も取らずにグローブ・ボックスを開けた。
 何枚か突っ込んだままのCDケースの中からジャケットの入っていないものを取り出した。中身はその昔、アタシが村上にもらったCD−Rだった。
「何であんたが持ってるの、コレ」
「お前がデルタのコンポの中に忘れていったんだ」
「そうだっけ?」
 思い出した。村上の前のクルマ、ランチア・デルタは何故かラリー仕様にサスペンションが固めてあって、時折、その振動でコンポからCDが出てこなくなることがあった。このCDもその被害にあった一枚で、そのうちに出てきたら返してもらうつもりでそのまま忘れ去られていたのだった。
「……アタシのせいじゃないよね、それ」
 村上は答えなかった。
 アタシはCDを差し込んだ。
 流れ出したのは矢野真紀の「ボクの空」だった。
 スリー・フィンガーの物悲しいギターの旋律が美しいこの曲は、福岡では今年の春にKBCのバラエティ番組が作ったオリジナル・ドラマの主題歌というほうが通りがいい。
 そう思って気づいたのだけれど、このCD−Rは二年前のアタシの誕生日のプレゼントだった。つまり村上はドラマ以前からこの曲を知っていたということになる。
 アタシがそう言うと村上は薄く口許を緩めた。
「別れたカミさんが好きでね。まあ、俺もいい声だなと思って入れたんだ。洋楽かぶれのお前にはどうかな、とも思ったけどね」
「かぶれで悪かったわね」
 アタシはそう言って曲に聴き入った。”人は自分に出来ないことを、神様のせいにするから”
 Zは県警本部の敷地を出て国道三号線を南に進路をとった。都市高速の高架下を流れに乗ってゆっくりと進んだ。
「タバコ、吸っていいか?」
 村上が訊いた。アタシは少し迷って、いいよと答えた。
 クルマのセンターポケットから村上が取り出したのはキャメルのソフト・パッケージだった。
 外側には英語のメッセージが並んでいて、日本のタバコにはもれなく書いてある”健康のために吸い過ぎ云々”という間の抜けたフレーズは入っていない。JT製のキャメルはリニューアルで味が変わったからとわざわざ通信販売で輸入品を買っているのだ。
「まだ、そのタバコなの?」
「まあね。でも最近は品切れが多くてね。手に入らなくなったら禁煙することにしてる」
 一本振り出して咥えてジッポのライターで火をつけた。反復練習でもしているような淀みのない動作だった。
 窓を少しだけ開けると、生暖かい風とともに街の喧騒が流れ込んできた。
 矢野真紀の曲が終わってちょっと古めのバラードに替わった。
 角松なんとかというおめでたい名前のシンガーの曲だ。甘くて伸びやかな声は決して悪くないのだけれどどちらかといえばちょっと疲れたOLさん向けで、女子中学生が喜んで聴くような曲ではなかった。多分、これも奥さん――いや、元奥さんの趣味なのだろう。
 Zは東比恵の交差点で右折して百年橋通りに入った。そのままずっと直進すればアタシの家がある平尾浄水の裏側に出る。特に急ぐわけでもなかったしゆっくり大通りを行くつもりのようだった。
 間が持たないのを誤魔化すようにアタシは村上に離婚後のことを訊いた。
 実は結構良いところのボンボンな上に奥さんとも早くに結婚したせいで、家事はまるでお手上げらしかった。刑事の給料じゃ家政婦は雇えないしなと村上は自嘲気味に笑った。
 村上はいつになく饒舌だった。六本松のマンションは独りで住むには広いので近いうちに引き払う予定なこと。新しく借りるつもりのワンルームの近くにいい感じの定食屋を見つけたこと。クルマと並ぶもう一つの趣味のビリヤードのキューを新調したこと。独身に戻ったからと藤田にやたらと酒席に誘われるのを断る口実に苦労していること。
 アタシは話を聞きながら、病院での話の続きをどう切り出そうかと糸口を探していた。単刀直入に訊けばいいのだけれど、何故かそれが躊躇われた。
 やがてアタシが意を決して口を開こうとしたとき、村上がボソリと「……そう言えば」と言った。
「何よ?」
「いや、病院での話の続き。さっきからそれが言いたかったんじゃないのか?」
「……何でそんなことが分かるのよ?」
「分かるさ。昔から真奈は言いたいことがあるときは口を尖らせるクセがあるからな。――何だ、違うのか?」
 アタシは思わず村上を睨んだ。しかし、ゆっくりと首を振った。おそらく村上もきっかけを探していたのだ。
 村上は何から話すか迷っているようだったけど、大きく息を吐いてから口を開いた。
「佐伯さんが渡利――てのは、例のドラッグ捌いてたガキのことなんだが、そいつを殴り倒した現場に辿り着いたとき、俺が最初に何を考えたと思う?」
「さあ?」
「どうすれば、これを揉み消せるかなって」
「……へえ」
 村上は窓の隙間に向かってフゥッとタバコの煙を吐いた。
「追い詰められた渡利は持っていたナイフで佐伯さんに切りかかった。有名だったんだよ、ヤツがハイカットのスニーカーに飛び出しナイフを忍ばせてるってのはね。やむを得ず佐伯さんは応戦した。ただ、ちょっと当たりどころが悪かった。――とっさに俺の頭に浮かんだのは、そんな筋書きだった」
「それなら悪くても過剰防衛に持っていけるわね」
「警官と犯罪者なら百パーセント、正当防衛に出来るよ」
 アタシは次の質問をするのにたっぷり一分は躊躇った。それはもう一年以上もアタシの中で蟠っていた質問だったからだ。 
「だったら、どうして?」
 村上も同じように言葉を探していた。
「あの時、俺たちはそれまで内偵していた脱法ドラッグの密売グループが、親不孝通りのクラブで大きな取引をするという情報を掴んでいた。佐伯さんと俺はその現場を押さえるべく店を張り込んでいた。忘れもしない、去年の五月二日のことだ」
「……うん」
 あの騒々しい一日。アタシの足元にポッカリと奈落のように穴が開いた日だ。
「密告の内容通り、渡利と買い手の男が店に現れた。二人は同じテーブルで話し始めた。事前に店側の協力を得ていたんで、隠しカメラでヤツらの様子は監視できたんだ。やがて二人の間でカネの受け渡しが行われた。佐伯さんと俺は取引成立とみなして店に踏み入った」
「でも確か、その渡利って男はドラッグを持ってなかったんでしょ?」
「ああ。二人とも身体検査したが何も出てこなかった。密告者の情報では間違いなく持っていたはずだったのにね」
「密告してきたのは誰だったの?」
「渡利に弱みを握られて、いい様に弄ばれた女子高生だ。ほんの遊びのつもりでドラッグに手を出して、自力じゃ浮き上がれない泥沼に引きずり込まれた――まあ、よくある話だけどね」
 突き放したような口調の中にもどかしさに似た響きが混じっていた。何人もそういう少女を見てきたのだ。
「あとで分かったことだが、俺たちが内偵していることは洩れていた。渡利はあの日、俺たちが張り込んでいることは承知の上であの場に現れたんだ」
 村上はプツンと言った。
 裁判を傍聴や人から聞いてアタシが知っている話では、以前からマークしていた人物が現れたことで父は功を焦り、彼を逮捕しようとした。ところが渡利に抵抗されたことでカッとなり手を上げたことになっている。
 そして、殴り倒された渡利は縁石で頭を打って脳挫傷で死んだ。
「でも、現物なしで取引なんて出来るの?」
「それは無理だ。やつらの世界じゃ信用取引なんて成立しない。すべてキャッシュ・オン・デリバリーだよ」
「だったらどうやって?」
「そこが巧妙なところでね。店内にはどう見ても場違いな客が一人いた。垢抜けないトレーナー姿の、メガネをかけた三つ編みの女の子がね。紙袋をしっかり抱えて、一番隅のボックスで震えていた。佐伯さんと俺が踏み込んできたことで、可哀そうなくらい顔が強張っていたのを覚えてるよ」
「まさか、その女の子が!?」
 村上は頷いた。
「ドラッグを持たされていたんだ。取引が成立したらこっそり店を出て、相手方の男についていく手筈になっていたのさ。刑事の尾行を振り切れたことが確認できるまでは、付かず離れずの距離を保ったままでね。まったく上手いやり口さ。もし警察がその店にいた全員を拘束しても、現行犯逮捕されるのはその子だけ。売人も買い手もドラッグには指一本触れちゃいないんだから」
「そんな……」
 アタシは絶句した。
「どうしてその子はそんなことに?」
「彼女も渡利に弱みを握られた一人だろうな。俺が紙袋の中身を確認すると、それは私のものですって泣きながら言ったよ。そう言えと指示されていたんだろう。それが彼女の私物なら、たまたま同じ店内にいただけの渡利を拘束する理由はなくなる。ヤツは大手を振って店を出て行けるってわけだ」
 何となくそこで起こったことの流れが理解できた。ただでさえ強面の父の顔が怒りに歪んでいく様子が脳裏に浮かんだ。
「それで?」
「とりあえず、その場は女の子を補導するしか方法がなかった。佐伯さんは任意同行で何とか渡利を引っ張ろうとしたが、その店自体が取引に関わっていたわけじゃない以上、同じ店内にいたというだけで引っ張るのは無理だった。ヤクザ相手なら刑事が刑事を殴っておいて公務執行妨害をでっち上げるという奥の手があるんだけど、さすがに少年事件でそれをやるわけにはいかないしね。結局、佐伯さんも諦めて渡利を解放することにした。女の子の供述次第では、芋づる式に引っ張れる可能性がないわけじゃなかったからね」
「えっ?」
 意味が分からなかった。そうであれば何故、父はあの事件を起こしたのだろう?
 アタシが訊く前に村上は先を続けていた。
「俺が泣きじゃくる女の子相手に四苦八苦している間、佐伯さんはずっと渡利と睨みあっていた。聞き耳を立ててたわけじゃなかったが、最後に渡利が言った言葉だけは、はっきりと聞こえたよ。ヤツは佐伯さんに”サンキュー、刑事さん。これで穴が塞がったよ”と言ったんだ」
 頭の中で何かがカチッと音を立てたのを感じた。
「それってもしかして――?」
「そうだ。このシナリオにはもう一つ、おまけが付いていたんだ。あるいはこっちが本筋だったのかも知れない。あの日、ドラッグの取引があることを知っていた人間の中で、そのやり口を知らないのは密告した少女だけだった。渡利はこの取引で裏切り者を洗い出すつもりだったのさ」
「……ひどい」
「まったくだ。俺も腹が立ったが、佐伯さんはそれ以上だった。アッと思ったときにはパンチが渡利の顔面にめり込んでいたよ。俺は慌てて止めに入った。その隙をついて渡利はその場から逃げ出した。――その後はお前も知っているとおりだ」
 アタシは知らなかった事実に愕然とすると同時に、激しい怒りを感じていた。
 その時の父も同じだったのだろうか。
 怒りに我を忘れるほどに。
「……何て言うか、そんなにムカついたのかな。渡利ってヤツの手口に?」
 村上はしばらく言葉を選ぶように押し黙っていた。
「どうだかな。警察なんかにいると、本当に人間不信に陥るくらい”心の闇”ってやつを見せられる。この事件だって充分に醜悪なものだけど、言い方は悪いがよくある話さ。もっとひどい話をいくらでも知っている。佐伯さんなら尚のことだよ」
「だったら、どうして?」
「本人は結局、その辺りのことは話してくれなかったから本当のことは分からない。ただ推測は出来る。密告してきた子は警察をと言うよりも、佐伯さん個人を頼ってきていたんだ。彼女の友だちが佐伯さんの助けで、悪い仲間から抜け出せたことがあったらしい。もし渡利をあの場で解放してしまえば、その子が危険に晒される。佐伯さんはそう思ったんじゃないかな。それに――」
「それに?」
「強いて言えば、その子がお前にダブって見えたのかも知れないな。写真で見る限り、そんなに似てはいなかったけどね」

 アタシはしばらく何も言うことが出来なかった。
「……あんたが言うことが本当なら、父さんはその渡利って男を殺すつもりで殴ったってことよね?」
 アタシは認めたくはない、でも、そうとしか考えられない結論を口にした。
「そういうことになるな」
「事故じゃなくて、本当は殺人だったってことよね?」
「渡利の直接の死因は逃げようとして転倒したときに頭部を打ったことによる脳挫傷だ。それは司法解剖でもはっきりしてる。佐伯さんが渡利の襟首を掴んで路面に頭を叩きつけたのなら話は別だけどね。法律的には何もおかしいところはない」
「アタシが言ってるのはそういうことじゃないわ。あんただって分かってるでしょ!?」
 思わず大声が出た。
 村上は大きなため息をついた。
「殺すつもりだったのか、と問われれば俺には分からない。ただ、殺してしまうかもという思いはあったかも知れない。いずれにせよ、それは佐伯さんの心の中のことで、俺には窺い知れないよ」
「でも、父さんがそんな……」
 言葉は続かなかった。悔しすぎて涙も出なかった。
「……人が人を殺すということは、物理的に相手の生命を侵害するというだけじゃない。その人が生きてきた時間や、関わってきた人々の想いをすべて否定することだ」
 村上は言葉を選ぶようにポツリと言った。
「どんな悪党だって、悪党として生まれてくるわけじゃない。人に迷惑をかけるしか能のないヤクザだって、完成したヤクザとして生まれるわけじゃない。赤ん坊として生まれて、子供として育って、大人になって世の中と関わりながら生きてる。年老いたホームレスをガキどもが襲って殺してしまう事件があるけれど、そのホームレスの爺さんだってその長い人生で色んな人と関わり、他人に影響を受けて、また他人に影響を与えてきたんだ。人生っていうのはそういった時間や想いの積み重ねのはずなんだが、それがあまりにも安易に否定されることの意味を考えると、俺はいつも慄然とする」
 村上はそこで言葉を切った。
「でも、人が生きていく上で相手を否定することでしか守れないことがあるのも事実だ。相手が自分を殺そうとしているとき、あるいは自分の大切な人に危害を加えようとしているとき。決して正しいことじゃないんだろうが、そうするしかない場合もある」
「父さんはそうだったって言うの?」
「俺はそう思う。だが、俺たちは未開のジャングルで暮らしているわけじゃない。罪は償われなくてはならない。それは誰よりも、佐伯さん自身が分かっていたはずだ」
 村上はいつの間にか二本目のタバコに火をつけていた。髪に匂いがつくから傍で吸うなと言うアタシに向かってわざとのように吹かしていたキャメルの煙。アタシが煙の匂いで判別できるのはこれと父が吸っていたハイライトだけだ。
 村上はゆっくりと煙を吐き出した。
「事件のあと、連行された佐伯さんは県警の上層部から”これは不慮の事故だった”と主張するように説得されていた。捜査中の刑事が殺人事件を起こしたなんて、本部長以下そっくり首が飛んでもおかしくないスキャンダルだ。隠蔽は無理だとしても、出来るだけ穏当な形で処理したかったんだ。彼らの立場からすれば無理からぬことだろう」
「……でしょうね」
「佐伯さんは、上層部の意向に従うと答えた。自分の身が可愛かったからじゃない。自分のやったことが仲間たちにかける迷惑に想いが及んだからだ。俺にも刑事部長から直々に、口裏を合わせるように働きかけがあった。俺は上層部の作ったシナリオに沿って証言することを受け入れた――最初はね」
 アタシは村上の横顔をジッと見詰めていた。
 村上が何を言おうとしているのか、聞き逃したくなかったからだ。
「その念押しのために開かれる査問会に出る日の朝、留置場の看守が俺を呼びにきた。佐伯さんがどうしても俺に会いたいと言ったんだ。本当は規則違反なんだが、看守は五分間だけ席を外してくれた。佐伯さんと俺は鉄格子を挟んで顔を合わせた。もし機会があれば言ってやろうと思っていたことが山ほどあったが、言葉にはならなかった。それは佐伯さんも同じだったようだ。お互いにほとんど何もしゃべらないまま、五分が過ぎた。看守が戻ってきて俺はその場を離れようとした。その時、佐伯さんは一言だけポツリと言ったんだ。――村上、助けてくれ、とね」
 アタシは、ただコクリと頷いた。
「それは、どうとでも取れる言葉だった。しかし俺は佐伯さんが、人の命を自分の意志で奪った罪を償うことを許されずに一生を後悔して生きていきたくないんだと思った。刑事として誇りを持って生きてきたこの人が、罪から逃れて腐っていくのを俺は見たくなかったんだ」

 家の前でアタシを降ろしてZは走り去った。
 母屋に入ると玄関に祖母が現れた。思いっきり怒鳴りつけられることを覚悟していたのだけれど、アタシの顔をジッと見た祖母は「とりあえず休みなさい」と言ってくれた。
 アタシは自分のベッドに倒れこんだ。
 柔らかい泥の中に埋もれていくような意識の片隅で、村上の言ったことを何度も噛み締めていた。
 本当に見たわけでもない留置場での光景を、アタシはありありと想像することが出来た。そのカットの中で父はやけに晴れやかな顔をしていた。
 村上の決断は誰も救わなかった。アタシを周囲の疎外からも救わなかったし、祖父母を心労と世間の噂からも救わなかった。父の同僚たちも救わなかったし、福岡県警をスキャンダルからも救わなかった。そして、誰よりも彼自身の警官としての経歴と幸せだったはずの結婚生活も救わなかった。
 でも、それでも村上はアタシの父親の、刑事としての最後の良心を救ってくれたのだ。







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