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  第 15 章  

 葉子と和津実のそれぞれの静止画のアップを印刷してもらって、ボニー・アンド・クライドを後にした。
 雨足は弱まっていて、コンビニの小さなビニール傘でも何とかしのぐことができそうだ。とは言っても、七分丈のデニムの裾はしっかり濡れてしまっている。由真に頼んで着替えを持ってきてもらわなくてはならない。
 鉛色の雲で蓋をしたような空をため息混じりに眺めながら、親不孝通りを南に歩いた。
 酒屋のトラックが開店前の居酒屋の前に横付けされて、タオルをバンダナのように巻いた男たちが大急ぎでビール・サーバー用の金属製の樽やビンの入ったプラスチックのケースが運び込んでいる。通りは夏の五時過ぎにしては薄暗かったけど、口開けにはまだ時間があってネオンサインや看板の灯りは点っていない。
 その代わりと言っては何だが、アタシのイメージにある夜の街とはまるで相容れない二人連れが何事かを真剣に討論しながら雑居ビルから出てくるのと出くわした。ケミカルウォッシュのデニムにポロシャツ、帽子、セルフレームのメガネ、用途がよく分からないオープンフィンガーの手袋。背中にはナイロン生地のリュックサック。色こそ違ってもまるで制服のようなそれらをまとった彼らは、道を譲ったアタシを珍獣でも見るように一瞥すると、再び熱い討論に戻っていった。
 ビルを見上げると予想した通り、メイドカフェがあった。親不孝通りのある北天神は十数軒もあるというクラブのメッカという顔の他に、この手のサブカルチャーのメッカという顔も持っている。
 そう言えばメイドカフェはよその土地では飲食店扱いなのに、福岡では何故か接客業として風営法の対象になっているという話を聞いた覚えがある。
 それと関係があるかどうかは分からないが、この街にだって他と変わらない程度にはオタクと呼ばれる人たちが住んでいるはずなのだが、その割に福岡のオタクはあまり市民権を得ていないような気がする。基本的に博多っ子というのは見栄っ張りの気質で、いわゆる”イタイ”ものには冷淡に振舞ってみせるところがあるせいかも知れない。まあ、どうでもいいことではあるが。
 とは言いつつ、アタシはモデルのバイトに引っ張り込まれる前に、高校のときの同級生から「メイドカフェに一緒に面接を受けに行かない?」と誘われたことがある。
 求人情報の時給の欄に心が揺らがないこともなかった。
 が、しかし、アタシは丁重に辞退させてもらうことにした。理由は簡単――似合うはずがないからだ。百七十三センチの大女に合うサイズのメイド服などないだろうし、客の男性だって見るからに威圧的なアタシが相手では癒されないだろう。何より、まかり間違って採用などということになったら由真に一生モノの笑えるネタを与えることになる。
 ヤツのことだ、そんなことになれば一番乗りで店にやってくるに違いない。そして、当然のようにお決まりの台詞のサービスを求めてくるだろう。赤面するアタシを見ながら邪悪な含み笑いを浮かべる由真を想像するだけで身震いするような思いがする。
 幾ばくかのカネで魂を売るには、アタシには失うものが多すぎる。
 
 そんな馬鹿なことを思いながら、ふと、自分がまとまった金額を必要としていた理由を思い出した。
 モデルの仕事で得た分とそれまでの貯金をはたいたヒューゴ・ボスのスーツは、アタシの部屋のクローゼットにぶら下がったままだ。祖母の知り合いの洋裁師に持ち込んで、事前に村上の他のスーツから計っておいた寸法に直してはある。しかし、それは補正の予約を入れてあったからで、そうでなければ何もせずに放っておいただろう。
 返品しようという気にならなかったのは我ながら不思議だった。
 アタシはそういうやり取りが苦になるほうではないし、二十数万円というのは「面倒だからいいや」と諦めるには金額が張り過ぎている。それだけあればロードスターのタイヤを新しいものに換えることができるし、CDだって好きなだけ買える。ちょっとバッテリーが弱ってきているiPodを新しく買い換えることもできる。由真と二人で美味しい物だって食べにいけるし、その気になればちょっとした旅行だってできるだろう。そうしたところで誰からも文句を言われる筋合いはないはずだった。
 なのに、アタシにはそうすることができないでいた。

 由真からは<もうすぐ終わる>という短いメールが届いていた。
 昭和通りと明治通りを相次いで渡ると、親不孝通りはそのまま天神西通りに繋がっている。由真と合流するまではすることがないので、アタシはブラブラと大名の路地に入り、特に当てもなくプロダクションが入っているビルに向かった。
 由真が呼び出されるくらいだから経理の人以外は誰もいないだろうが、スタジオにはいつも誰かいて鏡を見ながら自主トレ――という表現が正しいのか自信はないが――をしているはずだ。
 改めて見ると、ビルの入口の上には”第三上社ビル”という文字が刻まれていた。テナントの表示板には三階のウチのプロダクションの隣に”上社総合企画”という名前が出ている。
 思わずため息が洩れた。アタシも少しは世慣れてきて「何々企画」とか「何々観光」とかいう会社に何をしているのか分からない怪しいものが多いことは知っている。熊谷幹夫の会社も”熊谷総合企画”といった。だからと言って、こんなところまで同じじゃなくてもいいような気がする。わざとそうしているんじゃないかとさえ思えた。
 エレベータで三階に上がってプロダクションの前を通り過ぎた。通路の突き当たりに何の表示もされていない白いドアがある。ずっとそこは倉庫か何かだと思っていた。
 小さく咳払いしてから、そのドアをノックしてみた。返事はなかったが中から音楽が聴こえる。松田優作の〈探偵物語〉のテーマ曲だ。テレビ放送は見たことがないが父が借りてきたビデオで見たことがある。
 もう一度ノックしてみたが、やはり返事はない。ドアノブを回してみると鍵はかかっていなかった。
 ゆっくりドアを押して中に入った。
「……あれっ?」
 中には誰もいなかった。
 部屋の主が言った通りの何もない殺風景な事務所だった。六坪ほどのスペースにあるのは異様に大きなウッドデスクと、柔らかそうな革張りの椅子がそれを挟んで一脚ずつ、アイヴォリーのファイルキャビネットとロッカー、作り付けのオモチャのようなキッチンくらいだ。しゃがれたソウルフルな歌声を披露しているのはデスクの上のコンピュータだった。
「――何をしている?」
 唐突に背後で冷たい声がした。
 頭が真っ白になりそうな驚きに声を出せないまま、反射的に後ろを振り返った。アタシは決してビビりではないが、さすがに何の気配もない状態からでは慌てるしかない。
「えっ、あ、その」
「おいおい、落ち着けよ」
 自分がしどろもどろにさせたくせに、上社は悪びれる様子もなくニンマリと笑った。
「な、何してるのよ?」
「それは俺の台詞だと思うが……。トイレに行ってたんだ。おたくの社長との取り決めで、俺は二階まで降りなきゃならない。三階は女性専用になってるからな」
 上社は入口に突っ立ったままのアタシに中に入るように促した。
 一昨日会ったときとは打って変わって、ブルーの生地にパームツリーの絵をあしらったアロハシャツとオリーブ色のハーフパンツというラフな出で立ちだった。”SRIXON”のロゴの入ったゴルフキャップと首からチェーンで吊るしたレイバン、日灼けした太い腕に光る緑色の文字盤のロレックス。これにゴルフバッグを抱えていれば、ホールアウトしたばかりのゴルファーにしか見えない。
 上社はアタシに椅子を勧めて、キッチンの小さな冷蔵庫から缶コーヒーを取り出した。それをアタシの前に置くと自分のプルタブを起こしながらデスクを回って、同じ造りの肘掛け椅子に深々と腰を下ろした。音楽を止めると取ってつけたような静けさが戻ってきた。
「どうしたんだ、いきなり?」
「ちょっと時間があったんで事務所に寄ったの。それで、ひょっとしてお願いしてたのが分かったかもと思って」
「あの電話番号か。ちょっと待ってくれ、返事が来てると思う」
 上社はマウスに手を伸ばした。
「お、来てる来てる。えーっと、こいつは個人名義の電話だな。名義人はヨシヅカマサヒロ。住所は博多区の吉塚六丁目。――何かの冗談かな?」
 上社はアタシを見やって小さく笑った。何と言っていいのか分からなかったので、何も言わなかった。
「これは市営住宅だな。新幹線の線路沿いだが、分かるか?」
「多分、行ってみれば分かると思うわ。友だちが土地勘があるはずなんで」
 由真はほんの一時期、吉塚のマンスリー・マンションに住んでいたことがある。彼女の性格からして、それなりに近所をウロウロしたはずだ。
「何者だ、この男?」
 何と答えるべきか、少し迷った。それ以前にアタシにもこの男が何者かは分かっていなかった。
「さあ、アタシにもさっぱり。ちょっと気になって、調べてることがあるんだけど」
「ほう……。良かったら聞かせてくれないか?」
「そのうちに」
 隠し立てすることでもないけれど、何も分からないのに中途半端なことを話したくはなかった。礼を言って事務所を出ようとして料金を払う約束を思い出した。
「あ、いくらかかったか教えて」
「デートしてくれるんならロハで構わんが?」
「払うってば」
 デジャヴュのようなやり取りのあと、上社の言った二千円を支払ってその場を後にした。

 由真が事務所に戻ってきたのは午後六時を少し回った頃だった。
「お疲れさん」
「……お疲れ。はい、これ」
 仏頂面の彼女が差し出したのは大きな紙袋だった。家に寄って取ってきて欲しいと頼んだアタシの着替えだ。以前はこういうときには由真が適当に見繕ってくれたのだけれど、最近は「ちょっとは自分でコーディネートしなさいよ」というお達しがあって、今日の服はすべて自分で選んだものだ。
 アタシが着替えている間、由真は撮影で使った機材を片付けていた。後の作業は正規のスタッフでやれるので由真はそれでお役御免になった。由真は事務所の中に向かって、朗らかな調子で「お疲れさまでしたぁ〜」と作り声の挨拶を放り込んだ。
 ドアが閉まった途端に舌打ちをしたのは内緒だ。
 とりあえず、お腹がペコペコだという由真のために腹ごしらえをしに行くことになった。一昨日から海鮮料理、焼肉と十九歳の小娘には考えられない豪華(プラス高カロリー)な夕食が続いているので、目的地の中州を一度通り越して「かろのうろん」で夕食を済ませた。店名だけ聞くと胡乱な響きがあるのだけれど、ネイティブな博多弁では”ど”はうまく濁らず”ろ”と発音されるので、直してみると「かどのうどん」になる。確かに店は櫛田神社の参道から国体道路に出る脇道の角にある。
 豚骨ラーメンが今ひとつ苦手だという由真は好んでうどんを食べる。ただし、博多のうどんは讃岐と違って唇で噛み切れるコシのなさで、うどんというよりも細長い団子を食べているような気分になる。アタシは何となく物足りないのだが、由真に言わせると「うどんにコシはいらない」のだそうだ。
 由真はごぼう天うろんといなり寿司、アタシは肉うろんとかしわおにぎりを胃袋に収めながら、姪浜駅で別れたあとのことを順を追って話した。
「ふえ、ほのひふぉ……、ほんなにひゅうめいひんなんら」
「口にモノ入れたまましゃべらないの」
 半分はわざとだと思うが、お嬢様育ちの割に彼女はあまり行儀が良くないことをよくやる。由真はコクリと可愛らしい仕草で麺を飲み込んだ。
「……ふ〜んだ。で、その吉塚の吉塚さんとこ、行くの?」
「アクエリアスに行った後にね。千原和津実が吉塚さんちにいるかどうかは分かんないけど」
 先に食べ終えて、麦茶を飲みながら由真を待っているとケイタイにメールが届いた。知り合いの”中洲の生き字引”からだ。
「ふぁれ?」
「トモミさんから。いいから早く食べちゃいなさいよ。子供じゃあるまいし」
 文面は簡潔で<話は通ってるから、マネージャーのイケガミさんに私の名前を言いなさい>とだけある。件名すら入っていない。彼女のメールがひどく短いのは長々と文字を打っていると親指が攣るからだ。
 葉子の身辺を訊き回るに当たって何の権限も後ろ盾もないアタシたちが会い難い相手というのはかなりいて、メンバーズラウンジ・アクエリアス(というのが正式な店名だった)のホステスやマネージャー、スタッフはそれに含まれる。いきなり行って「話を聞かせて欲しい」といっても相手にはされないだろうし、女の身では客として店を訪ねるわけにもいかない。
 アタシがとった方法は誰かに仲介してもらうことだった。幸いアタシにはそれ向きの知人が二人いて、今回は中洲で二十年近く高級クラブを経営している”生き字引”にツテを探してくれるように頼んでいたのだ。
「どうだって?」
 ようやく食べ終えた由真は人心地つくように冷たい麦茶を啜っていた。
「オッケーみたい」
「じゃ、行こっか」

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