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  第 18 章  

 B棟一〇二号室の表札に住人の名前は出ていなかった。
 正確に言うと、かつては出ていたようだ。表札入れのスリットに挿し込まれていたプラスチックの板には文字の跡がある。インクが薄くなったのではなくて、文字を消そうとシンナーか何かで拭かれたように見える。
 周囲と比べるとその部屋は荒みきっていた。郵便受けには封筒や葉書が入りきらないほど溜まったままだし、一階にだけある玄関脇の箱庭のようなスペースは雑草と誰かが投げ込んだゴミだらけだ。どの窓にも分厚そうなカーテンが架かっていて中の灯りが洩れてくる様子はない。窓枠に填め込まれたウインドクーラーが回っているので中に誰かいるのだろうが、単に点けっぱなしで出かけただけかもしれない。 
 あまりの荒れっぷりに、和津実がここに住んでいたのは思い過ごしじゃないかとさえ思った。
 ここで警官なら隣人に様子を訊いてみるのだろう。あるいは探偵もそうするのかもしれない。見せるのが手帳か名刺かの違いはあるにせよ。アタシにはどちらもない。
 耳を澄ませて中の様子を窺っても何の気配も感じられない。隣の一〇一号室のバスルームの窓からエコーの効いた鼻歌が聞こえてくるだけだ。どうやら井上陽水の〈メイクアップ・シャドウ〉のようだ。
 和津実の友人を装って隣人から話を聞くのは悪くないアイデアのような気がした。しかし一〇二号室の様子からすると、それはかえって反感を買うかもしれない。
 思い切って呼び鈴を押してみたが鳴らなかったので、ゆっくりとドアノブに手を掛けた。ドアのロックはかかっている。ピッキングの道具は着替えた服と一緒にBMWの中だし、こんな人目につくところで鍵穴を覗き込むようなリスクは冒せない。
「……さて、どうしたもんかな」
 郵便受けからいくつか適当に郵便物を引き抜いてみた。月明かりの届く外階段の踊り場に上がってそれらをざっと眺めた。
 差出人にはどれも金融関係の会社を思わせる”信販”とか”クレジット”という名前がついている。テレビのCMで見かけるメジャーどころのものもあれば、聞いたこともない会社のものもある。宛名は吉塚正弘宛てと和津実宛ての両方があった。どちらかといえば正弘宛のものが多い。物によっては表書きに堂々と督促状と書いてある。書いてなくてもおそらく全部そうなのだろう。
 中に一枚だけあった和津実宛のシール式の葉書(剥がすと中が読めるヤツだ)を引っ剥がしてみた。表題には”審判申し立ての決定に関するお知らせ”とあった。その下には<あなたが借金を返さないから裁判の手続きに入る>という内容のことが持って回った言い回しで書かれていた。
 これらが和津実が葉子にカネの無心をしていた理由なのは間違いないだろう。この量だとかなり切羽詰っているに違いない。一〇一号室の居留守を使う気満々の佇まいも、そう考えると納得できた。カネをつかめなかったヤクザは哀れなもんだ、というシュンのセリフが脳裏をよぎった。
 不意にカチャンという音がした。とっさに身を屈めて音がした階下のほうを見やった。
 一〇二号室のドアが三〇センチくらいの幅だけ開いていた。その隙間から明るい色の髪の女性が、いかにも恐る恐るといった感じで顔を覗かせている。
 岸川にもらった防犯カメラの静止画像と同じ女性――吉塚和津実だった。周囲を見渡して人影がないことを見て取ると、和津実は身体がようやく通るくらいの隙間から滑り出てきた。
 胸元が大きく開いたパープルのロングニットをワンピースのように着ている。手には大振りなシャネルのハンドバッグ。足元はストラップで留めるサンダルだ。ストッキングは履いていない。メイクはやり過ぎなほどきっちり施してあって、濃すぎるルージュが街灯に照らされた青白い顔の中で不自然に浮き上がって見える。
 静けさの中にヒールの足音を響かせて、和津実は何かから逃げ出すような速さで歩き始めた。
 声をかけるかどうかで迷った。しかし、彼女の行先を確かめたほうがいいような気がして、彼女の後を尾行することにした。アタシのショートブーツは底がラバー加工になっているので足音は響かない。
 和津実は駐車場ではなく敷地の外に向かって歩いていた。バッグからケイタイを引っ張り出すと歩きながらメールを打ち始めた。おかげでこっちに気づく様子はない。アタシもケイタイで時刻を確認した。午後九時四十二分。
 和津実はこんな時間から何処へ行くのだろう。
 水商売関係の出勤にしては遅すぎるような気がするし、真っ当な夜勤の仕事に行くには非常識な出で立ちだった。一番考えられるのはこれから何処かに遊びにいくことだが、それにしてはあまり楽しそうな足取りには見えない。
 市営住宅の敷地を出て、そのまま大通りに向かう路地に出た。
 その瞬間、脱走者に向けられるサーチライトのように、和津実に向かって強烈な光が浴びせられた。
「――っ!!」
 和津実は目を庇うために両手を顔の前にかざした格好でその場に硬直した。何が起こったのかよく把握できないまま、アタシはとっさに身を隠せそうな暗がりに飛び込んだ。
 光源は敷地の外の路地に停まっていたワンボックスのヘッドライトだった。
「いそいそとお出掛けか。何処へ行くんだ?」
 クルマから降りてきた男が言った。静かな口調だが、そのほうが相手を威圧できることを知っている人間の静かさだった。口の端に咥えたタバコの火口が闇の中の目印のように光る。長身ではないけれどバランスのいい体つきで、目を細めてポケットに手を突っ込んで立つ姿がやけに様になっている。歳は四十代半ばといったところだ。腕まくりしたダークグレイのドレスシャツに細い臙脂色のネクタイ、ゆったりしたシルエットのスラックス。ポマードかワックスで撫で付けたオールバックと夏だというのにやけに白い貌。
「……な、なによ、あんたたち。お、大声出すわよっ!!」
 和津実が喚きたてる。葉子と同じならまだ二十一歳のはずだけど、それにしては老けた声だった。喉に引っかかるようなガサガサした声は肌触りの悪い布を連想させた。
「オトコから連絡でもあったのか?」
「ち、違うわよ。仕事に行くの。そこまで迎えが来てるんだから」
「仕事? ああ、デリヘルで働いているとか言ったな。そいつはいい。早く稼いで、吉塚の借金を返してくれ」
「だったら、邪魔しないでよ。タチバナさん、だったっけ?」
 和津実の口調と表情の両方に剣呑なものが戻ってきていた。生来の気性か荒んだ生活のせいかは分からないが、どんな相手にもまずは牙を剥いてみせるタイプなのだ。
 タチバナは一歩踏み出すと、いきなり手の甲で和津実の頬を打ち据えた。パシッというスナップの効いた小気味のいい音が響く。
「痛っ!!」
 倒れはしなかったが、和津実はバランスを崩してたたらを踏んだ。
 遠目にも分かるほどニンマリと微笑みながら、タチバナは打った手の甲をさすった。その一発で和津実からさっきの虚勢は消え去っていた。
 いつの間にかクルマから二人の男が降りてきていて、タチバナの背後に付き従っていた。片方はタチバナと同じような姿の若い男で、もう一人はブカブカのTシャツとブカブカのジーンズを着た大男だ。二人ともやはり、真っ当な仕事をしているようには見えない。
「何よ、あんたたち――」
 和津実は目を大きく見開いて、その言葉を吐き出すまでに何度も荒い息を繰り返した。頬を張られたときに切れたのか、口の端から血が滴っている。
 アタシはだんだんと胸が悪くなるのを感じた。
「まあ、いい。オンナだって何でもハイハイって言うこと聞くより、少しくらい反抗的なほうが面白いってもんだ。だからって踏み越えちゃいけない線ってのもあるがな。それより、吉塚のヤロウはどうした?」
 タチバナは短くなったタバコを足元に投げ捨てて、苛立ったような仕草でそれを踏み潰した。
「知らないわよ。一昨日から帰ってこないし、連絡だってとれないし。ケイタイだって繋がんないんだから」
「ほう……。つまり、何だ。吉塚はお前さんを置いて逃げたってわけか」
「わかんないけど。あたしこそ、あんたたちが何処かへ連れて行っちゃったのかって思ってたくらいだもん」
「そうしたほうが良かったかもしれん。東南アジアに行けば、あんなヤツの内臓でもそれなりの値段で売れるからな」
 タチバナが下卑た微笑を浮かべると、和津実はまた後ずさった。もともとそんなに広くもない路地だ。彼女の背中はすぐにブロック塀に突き当たった。
「ま、逃げちまったんなら仕方ないか。――オイ、ハル」
 タチバナが顎をしゃくると、後ろの上下ダブダブの大男がすうっと前に出た。百九十センチはあろうかという長身で、横幅と厚みもそれに相応しいだけある。顔の中で最初に目が行くのは世の中への不満を表明するように突き出した下唇だ。顔の下半分や首の周りにたっぷりと肉がついていて、頤はそれに埋もれてしまっている。クスリでもキメているようなトロンとした目が不気味だ。
「どうするんすか?」
「クルマに載せろ」
「うっす」
 ハルと呼ばれた大男は小さくうなずくと、意外に素早い動きで和津実の腕をつかんだ。
「来いよ」
「ちょっと、何すんのよっ!!」
 和津実は声を荒げた。しかし、その声は哀れなほどに擦れてしまっている。手を振り払おうとしても大男はびくともしない。
「仕方ないだろ、旦那が逃げちまったんなら女房に払ってもらわなきゃならない。――それに、あるんだろ、払えるアテってヤツが?」
「それは……」
 和津実は口ごもった。それ以上下がることはできないのに、まるでそのうちに抜け穴が開くと信じているように必死に壁に向かって身体を押し付けている。
 塀の向こうは民家なのだから大声を出せば助かりそうなものだけれど、実際はそうでもないのが住宅地というところだ。アタシの父親に言わせると地域住民は後になって目撃証言をすることはあっても、その場でしゃしゃり出てきて揉め事に関わったりはしない。障らぬ神に祟りなしというやつだ。それでなくてもこの辺りはガラの悪い若者や中高生が多いことで悪名高い土地柄だ。その傾向は一段と強いはずだ。
「おいおい、あるって啖呵きっただろうが。お前さんの昔の男の置き土産がよ。そいつを捌けばいいんだろ?」
 タチバナが舌なめずりしそうな近さで和津実の顔を覗き込んだ。
「払えるんなら払えるって言ってくれよ。そうすればこっちも手荒な真似をせずに済むんだ」
「それは……」
「どうしたんだ?」
「払え……ないの」
 まるで自分に死刑を宣告するような口調だった。その場に取り返しのつかないような沈黙が満ちた。

 芝居がかった仕草で肩を窄めて、タチバナはオーバーなため息をついてみせた。
「つまり、何だ。お前さんは俺に嘘をついてたってわけか」
 タチバナはメタリックのケースからタバコを振り出して、口の端に咥えていた。火はつけていない。そのまま顎をしゃくると、後ろに付き従っていた同じような身なりの男がライターを差し出した。
 和津実はその場にへたり込んでいた。顔に翳が下りて表情は見えなかったが、さっきまでの怯えた感じではなかった。もはやこれまでと開き直っているのかもしれない。ハルは手持ち無沙汰な様子でその姿を見下ろしている。
「……嘘をついたわけじゃないわ。ジュンが隠してたクスリとカネが残ってるっていうのは本当なの」
「ほう。だったらそいつを捌けばいいじゃないか。何だったら、俺たちのほうで引き取ってやってもいいぜ」
「でも、それを隠してある場所が分からなかったのよ。ジュンはカネとドラッグの隠し場所だけは誰にも教えなかったから」
「なるほどな。しかし、それって何年も前の話だろ。とっくに誰かがパクっちまっているんじゃないのか?」
 和津実は首を横に振った。
「当時の仲間の誰もそれを手に入れていないことは間違いないわ。だから、あたしはずっと――もう三年近くもそれを探し続けてきたのよ」
「大した執念だな。お前さん、さそり座のA型か?」
 和津実の目に侮蔑の光が宿った。しかし、それはすぐに消えてしまった。タチバナは気づく様子もなくタバコを吹かしていた。
「それで、そいつは見つかったのか」
「なかなか見つからなかったのは事実よ。でも、ようやくそれを知ってる女にたどり着いたわ。だからこの前、返せるアテがあるなんて言っちゃったんだけど。でも――」
「……でも、なんだ?」
「死んじゃったの、その女。一週間前に交通事故で」
 和津実は姪浜でホステスがひき逃げに遭ったことを知っているかと尋ねた。タチバナは返事をせずに後ろの男を振り返った。男は必要最小限の動きで小さくうなづいた。
「その女がブツを隠し持っていたというわけか」
「持ってたんじゃなくて、隠し場所を知ってたはずなの。でも、どうしても訊き出せなくて。面と向かって訊くこともできなかったし」
「どうして?」
「ジュンの遺産を狙ってるのはあたしだけじゃなかったから。ジュンがいきなり殺されたもんだから、あたしたちには手持ちのカネとクラブとかで捌く分として用意してあったドラッグしか残らなかった。おかげでグループはバラバラになっちゃったのよね。それでってわけでもないんだろうけど、あたしたちはあんまり仲が良くないの」
「つまり、その女から露骨に隠し場所を訊き出そうとすれば、他のお仲間にチクられるかもしれないってわけか」
 和津実はうなづいた。
 話が途切れるとタチバナは小さく顎をしゃくった。ハルは和津実が悲鳴をあげるのも構わずに無造作に腕をつかんで立たせた。
「しかしまあ、いずれにしてもカネが払えないってことには変わりはないわけだ。そうだろ?」
「それは――」
「嘘は聞き飽きた。とりあえずウチの事務所に行って今後のことを話そうじゃないか」
「ちょっと、あたし、仕事があるんだってば!!」
 その場の誰も和津実の抗議を気に留める様子はなかった。タチバナは白い顔に酷薄な微笑を浮かべて、二本目のタバコも足元に落とした。今度は雨上がりに残った水溜りに落ちて、踏み潰す必要はなかった。

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