砕ける月

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  第 10 章  

 夏季合宿は予想していた通り、言い訳のしようもないほど完全にサマー・キャンプだった。
 由真の見立てのターコイズ・ブルーの水着は、実際に着てみると思っていたよりも身体のラインを強調するようなシルエットだった。参加者の半数以上が男性(オジサン)という中ではかなり恥ずかしかったけれど、現地で替わりのものなど手に入るはずもなく、アタシは開き直ることにした。
 そしてこれも予想していた通り、誰も空手の練習などする素振りを見せなかった。
 まあ、アタシも遊ぶのがキライなわけじゃないし、そう割り切ってしまえば楽しい三日間だった。荷物になっただけのバンテージやTシャツは普段の練習で使えばいいだけだ。
 アタシは島を離れる定期船の後部デッキで、遠のいてゆく能古島と後方に流れていく船の白い航跡を眺めていた。
 真昼の日差しは肌を灼くように照りつけていて、日よけのないデッキにアタシの濃い影を作り出している。海面に反射する光は眩しくてサングラスをかけていないと目が疲れそうだった。
 梅野が忍び寄るように隣にやって来て、恐る恐るという感じでアタシの顔を覗き込んだ。
 この男は二日目の夜に催されたバーベキューの席でビールと焼酎とウイスキーとテキーラを(本人の言によればムリヤリ)飲まされて泥酔した挙句、素っ裸で女の子たちの目の前を走り回ってアタシに金的を蹴り上げられるという失態を演じていた。
「――真奈さん、まだ怒ってるんすか?」
 声にバツの悪そうな響きがあった。
「別に怒ってませんよ」
 我ながら素っ気ない言い方だった。
 悪いのは飲ませたオジサンたちであって梅野を責めるのは酷な気がしないではない。
 アタシの父親は年頃の娘の前にパンツも履かずに風呂から出てくるような無神経なヒトだったので、男性の裸を初めて見たわけでもない。
 でも、それはそれなりにショックだったのだ。
「オレ、もう酒やめるっすよ」
「そんな、梅野さんが気に病むことじゃないですよ」
「……そうっすか?」
「ええ。そういうのが好きだっていう女の人がいるかもしれませんよ。――アタシはゴメンですけど」
「キッツぅ」
 梅野は顎が胸板にめり込みそうなほどうな垂れて、とぼとぼと船室に戻っていった。
「……ヒドイなぁ、真奈ちゃん。そんなに邪険にすることないんじゃない」
 工藤さんが読んでいたスポーツ新聞を畳みながらアタシに缶コーヒーを放った。アタシはそれをキャッチしてプルタブを起こした。
「真奈ちゃんはああいうタイプは嫌いかい?」
「ヘッ!?」
「梅野くん。どう見ても真奈ちゃんに惚れてるよ、アレは」
 アタシはコーヒーを吹き出しかけた。
「あのー、冗談は顔だけにしてもらえませんか」
「冗談なもんか。結構、似合ってると思うけど?」
「いい加減にしてください。昨日のこと、お店でバラしますよ」
「……それだけは勘弁して」
 このオッサンはオッサンで、パーティの余興でアコースティック・ギターを持ち出して、何を思ったのか浜田省吾の「ライジング・サン」(ま、時期的にはハズシてはいないけど)をやり始めて場を一気にしんみりさせてしまうという大失態を演じていた。
 それがせめて聴けるものだったらまだ救われたのだけれど、ギターはともかく歌のほうの音程が致命的にハズシまくりだったのだ。
 誰かがそろそろ姪浜港に着くと知らせてきた。梅野に負けず劣らずうな垂れている工藤さんを残して、アタシは荷物を取りに船室に戻った。
 どうしてアタシの周りにはこんなオトコしかいないんだろう?


 荷物を詰め込んだリュックを担いで家に戻った。
 世間はお盆の帰省客がどうとか騒がしいけれど、祖父母にはアタシの母親しか子供はなく、したがってお盆だからといって寄り合うような親族は存在しない。おまけに祖父の郷里は七月にお盆をするという変わった風習のところなので、アタシにとってはお盆というのは文字通りの他人事だった。
「ただいまー」
「はいはい、お帰りなさい。――あら、まあ。しっかり灼けちゃったわねぇ」
 テーブルに麦茶のグラスを置きながら、祖母は感嘆とも呆れ声ともつかない口調で言った。
「そう言えば、留守中にあなた宛に電話があったわよ」
「えー、誰から?」
「高橋さんって男の子よ。携帯にかけても繋がらないからって。能古島は電波は入らないの?」
 アタシは首を振った。
「そんなことないよ。邪魔になるから持っていかなかっただけ」
「そうなの。帰ってきたら連絡して欲しいそうよ」
 何の用件だろうか。
 アタシは麦茶を飲み干してから自分の部屋に戻った。ケイタイの電源を入れて高橋拓哉の番号を呼び出した。
 通話ボタンを押そうとした瞬間、呼び出し音が鳴った。
 相手の表示は非通知になっていた。アタシは通話ボタンを押した。
「もしもし、榊原ですけど」
「ああ、良かった、やっと繋がったわ」
「――ああ、部長」
 電話の相手は三村美幸という高校の同級生だった。
 彼女はウチの学校の空手部(あるのだ、そんなモノが)の部長で、インターハイの演舞の部の県代表にもなった逸材だ。
 アジア系の女優のような美貌と長い黒髪、凛とした佇まいで歳の上下を問わず人気がある。生徒会でも書記を務めていて次期生徒会長の呼び声も高い。
 空手部の幽霊部員であるアタシは彼女から電話がかかってくるのが苦手だった。ちゃんと部活に顔を出すように求められるか、あまり得意ではない寸止めルールでの試合に出るように求められることがほとんどだからだ。
 率直に言って学校の部活動などまるで興味のないアタシが、名前だけとはいえ空手部に籍を置いているのは由真のせいだった。

 一応、文武両道を奨励する校風ではあるのだけれど、正直言ってウチのようなお嬢様学校には空手をやろうかというような物好きは少ない。
 人数の少ない部に向けられる目というのは何処の学校も同じのようで、存続にギリギリの人数しかいなかった空手部にも廃部の危機が迫っていた。
すると、その話を聞きつけた由真が(二人は旧知の間柄だった)アタシを半ば無理やり入部させたのだ。もしアタシが入らないなら自分が入る、というよく意味の分からない脅しによって。
「ねぇ、由真に連絡取りたいんだけど、一緒にいる?」
「アタシ、空手の合宿から帰ってきたばっかりなんだけど」
「合宿? ああ、あなたが通ってる空手道場の?」

 アタシはそうだと答えた。空手の練習など毛の先程もやっていないので、ウソをついているような後ろめたさを感じないこともない。
「由真とは合宿の前の日だから……一昨日の前の日に会ったけど、何処かに行くとか、何にも聞いてないよ」
「そうなんだ。ケイタイにかけても繋がらないのよね。あなたのも繋がらなかったし。だから、二人一緒じゃないかと思ったのよ」
「アタシはただ、ケイタイを持っていってなかっただけだよ」
 三村は「……そっかぁ」と呟いて、もし由真と連絡が取れたら自分に電話をくれるよう伝えて欲しいと言った。アタシは了解と答えた。
 電話を切って改めて高橋の番号にかけた。四コールで繋がった。
「はい、高橋ですけど?」
 電話に出たのは年配とおぼしき女性だった。声に不信感――こちらの様子を窺うような響きがあった。
 アタシは一瞬、番号を間違えたのかと思ってディスプレイを見た。でも、この番号は高橋がかけてきた着信履歴を登録したもので間違えようがなかった。
「あー、アタシ、じゃなくてワタシ、榊原というものですけど、高橋拓哉さんのケイタイですよね」
「そうです。わたし、高橋の母ですけど……。お友達の方ですか?」
「ハイ、共通の友達がいるんです」
「そうですか。どういったご用件でしょう?」
「ええと、拓哉さんからお電話を頂いてまして、連絡して欲しいと伝言をされていたものですから」
 アタシは努めて丁寧な物言いを心がけた。母親の声音に神経質な女性特有のピリピリしたものが感じられたからだ。高橋の友人であり尚且つカノジョの類とは思われないように話すのには、なかなかの高等技術を要求された。
 母親は「いつも息子がお世話になってます」と言った。その声音からは最初の緊張感は薄れていた。アタシは母親の警戒心を解くことに成功したようだった。
「実は、拓哉は昨日から入院しているのよ」
「入院?」
 アタシは驚いて、つい大声を出した。
「――ええ。警察から電話があったのよ。拓哉が暴行されて病院に担ぎ込まれたって。命に別状はないんだけど、まだ、意識が戻らないの」

 高橋の母親はそこまで言って、言葉を詰まらせた。

 興奮して要領を得なくなった母親から高橋が担ぎ込まれた病院を聞き出して、アタシは電話を切った。
 暴行されたと母親は言った。
 高橋と会ったのは一度だけだし決して近しい間柄でもないのだけれど、アタシは肩の辺りから力が抜けていくような薄ら寒い思いにかられた。
 アタシもケンカで相手を病院送りにしたことはあるし、道場で怪我したことになっているけれど、実はケンカで蹴りを避けそこねて肋骨にヒビを入れられたこともある。相手の攻撃をブロックすれば腕や脚には打撲の痕がイヤでも残る。ただそれは殴り合えばケガをすることを、お互いに分かってやっていることだ。
 アタシが見た高橋拓哉は、誰かを殴ったことがあるかすら疑わしかった。意識が戻らなくなるほどの暴行を、おそらく抵抗することすら出来ずに受け続けたのだろう。
 アタシはそれを情けないとは思わない。暴力というのはそういうもので、どれほど技を磨いたところで一人では二人には敵わないし、素手で武器を持った相手を相手にするのは相当に難儀なことなのだ。言い換えればケンカにおける強弱というのは、相手に勝つためにどこまで非道なことをやれるかというその覚悟の強弱にすぎない。
 アタシは気を取り直して由真の自宅に電話をかけた。一つは三村のことを伝えるため、もう一つは高橋のことを知らなければやはり教えてやる必要があるからだ。
 誰も電話に出る気配はなく八コール目で留守番電話に切り替わった。
 どこか澄ました由真の声で”只今、留守にしています。御用の方は云々――”というお決まりのメッセージが流れてきた。アタシは大至急、連絡をくれるように吹き込んだ。
 アタシはケイタイのメモリから由真のもう一つの自宅の番号を呼び出した。
 学校の名簿や普段、自宅の電話番号を書く必要があるときに由真が書いているのは百道浜のマンションのものだ。
 しかし実際には由真とその兄だけで、由真の両親は大堀公園の近くの奥まったところにある邸宅に住んでいる。由真の自宅番号を調べたときに祖母のPTA名簿を見たので、アタシはこっちの番号を知っているのだ。以前、由真が学校をサボったことを知らずにかけた(そしてこっぴどく説教された)番号でもある。
 こちらの番号もなかなか繋がらなかった。
 しつこく十五コールまで待ったところで年配の女性が出た。記憶は定かじゃないけど以前に話した由真の母親のようだった。
「はい、徳永でございます」
 女性にしては深みのある落ち着いた感じの声音で、アタシは何だか職員室に呼び出された劣等生のような気分になった。由真の話では母親も医師ということだった。
「もしもし、ワタシ、榊原といいますけど。――由真さんのクラスメイトです」
「あら、由真はこちらの家にはいませんよ。百道のマンションの番号はご存知?」
「あっちにかけても由真さんが出ないんで、そちらにかけたんです。お盆だから実家にいるんじゃないかと思って」
 短い沈黙があって彼女が言った。
「ええ、そうよね……。こっちに来てなきゃいけないのに、あの子ったら」
「ケイタイも繋がらないんですよ」
「そうなの? 珍しいわね、由真がケイタイに出ないなんて。電池が切れてるのかも。どういったご用件か、伝えておきましょうか?」
 アタシは共通の友人がケガで入院したのでそれを知らせようと思っただけだと説明した。
 由真がボーイフレンドのことを両親に隠している可能性がある以上、下手なことは言えない。由真が帰ってきたら連絡をくれるように伝言を頼んで電話を切った。
 こういう一致は気に食わなかった。
 もちろん由真と連絡が取れないことと、高橋が暴行を受けて入院したこととを繋ぐものは――少なくとも説明できるようなものは何もない。由真は親に内緒で何処かに出かけていて、高橋はたまたま虫の居所の悪かったヤンキーの餌食になっただけかもしれない。
 アタシは自分の胸騒ぎの理由を確かめようと自問した。
 答えはすぐに浮かんだ。例のMOディスクだ。アタシの脳裏には二人の逢引きに出くわしたあの夜に見た、ある情景が浮かんでいた。
 ディスクを手に高橋と話し込んでいる、これまでに見たことのない由真の深刻な横顔。
 アタシはMOディスクを鍵のかかる抽斗から取り出してヒップバッグに突っ込み、祖母に「友達の見舞いに行く」と言って家を飛び出した。







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