第 13 章
梅野はMOドライブを貸してくれた友人のところに行って、ムリヤリにでもファイルを開く方法を探してみると言った。病院専用のシステムと同じアプリケーションを入手出来る可能性は低いけれど、開いてさえしまえば読める形に構成するのはそんなに難しいことじゃないらしい。
梅野の家を出たころには日は傾き始めていて、空はかすかにオレンジ色の色彩を帯びていた。それでも辺りはムッとするように暑くて空気は肌にまとわりつくような湿気を伴っていた。
アタシはメッシュのライダーズ・ジャケットを羽織ってバンディットのエンジンをスタートさせた。本当はTシャツ一枚で風を切って走りたいのだけれど、万一、転倒したときのことを考えるとそういうわけにもいかなかった。
高宮通りを北上して自宅に戻った。
由真の実家の電話番号はケイタイに登録していたけど、正確な住所までは控えていなかったからだ。大濠公園の周りは福岡でも指折りの高級住宅地で、あまり「誰々さんの御宅はどちらですか?」と訪ね歩きたくなるようなところではない。
ガレージにバンディットを突っ込んで母屋に上がった。
老眼鏡をかけて何やら本を読んでいた祖母に「PTAの名簿を見せて」と言うと、祖母は何も訊かずに自分の部屋から名簿を持ってきてくれた。
アタシのすることに対して祖母が理由を問い質すことはほとんどない。もちろんアタシとしても干渉して欲しいわけじゃないので、それは別に構わないのだけれど。
一度「何故、何も訊かないのか」と訊いてみたことはある。祖母からは「アナタの母親もそうだったから」という簡潔な答えが返ってきた。
信用されているのだとは思うけれど、放任主義も度を越すと返ってプレッシャーになるものだ。
「ねぇ、お祖母ちゃん。PTAで徳永さんの両親と話したことある?」
祖母は読みかけの本から視線を上げた。
「奥さんとは会えば世間話くらいはするわね。徳永さんのところは姉妹揃ってウチの卒業生で、お姉さんが奈緒美と同級生だったから。ウチにも何度か遊びに来たことがあるわよ」
由真に見せてもらった二人の母親(実の母親と育ての母親)である姉妹の写真には、確かにウチの学校がバックに写っていた。しかし由真の養母がアタシの亡き母親、榊原奈緒美と同級生だったとは驚きだった。
「そうなんだ」
「ええ。あそこの姉妹は二人とも可愛らしかったけど、特に妹さんは芸能事務所からスカウトが来るほどの美人だったわね。徳永姉妹といえば、それは父兄の間でも評判だったのよ」
祖母は「あなたのお友達は叔母様似なのね」と付け加えた。それは実は逆なのだけれど、口外するような事情ではないので訂正はしなかった。
「……ちょっと待って。徳永姉妹って言った?」
「ええ、そうよ。どうして?」
「だって”徳永”って、お父さんの苗字じゃないの?」
「入り婿だからよ。徳永家は戦前から続くお医者様の家系なの。今の当主はアナタのお友達のお爺様で、大学病院とか医師会なんかにも影響力のある方だそうよ。名前は何とおっしゃったかしらね――」
祖母は微かに眉根を寄せて天井を仰いで、やがて小さく首を振った。思い出せなかったようだった。
「――とにかく、跡継ぎの男の子が生まれなかったんで婿養子を取ったの。お姉さんの方が九大の大学病院にいて、そこの同僚だったんじゃなかったかしら」
「ずいぶん詳しいのね」
「長いことOG会の役員やってれば、そのくらいの噂話は耳に入ってくるわ。それに、その披露宴に奈緒美が出席してるのよ」
「お母さんが?」
「そうよ。あのときの着付けはわたしがしたの。ああ、そう言えば今度、アナタの振袖を作ろうと思ってるんだけど。いい反物が入ったって、呉服屋さんから勧められてるのよ」
「ふーん。また今度ね」
話がおかしな方向に向かう前に席を立った。
アタシだって和服を見て「キレイだな」とは思うけれど、自分が着るとなれば別の話だ。それに祖母の見立ては例のイブニングドレスでこりごりだった。
アタシは自分の部屋に戻って、作り置きしてあるアイスコーヒーをグラスに注いだ。
コンポにダリル・ホール・アンド・ジョン・オーツのライブ盤をセットした。
アタシが持っているCDの半分以上は父親のコレクションで、このアルバムに収録されているライブもアタシが生まれる前のものだ。
アタシは父親の隣で七十年代後半から九十年代のポップスやロックを聴いて育った。
おそらくそのせいだと思うけど、アタシの選ぶ曲は「テネシー・ワルツ」に限らず全体に古臭いと由真に指摘されたことがある。ラップ・ミュージックが好きじゃないのもこの時代のメロディアスな曲が好きなことの裏返しだろう。
ケイタイの着信履歴から三村美幸の番号を呼び出して電話をかけた。四コールで繋がった。
「……もしもし、榊原さん?」
死んだはずでは?とでも言いたげな三村の声が聞こえた。そこまで驚かなくてもと思ったけど確かに電話してくるのはいつも彼女のほうで、アタシは自分から電話をかけたことはなかった。
「いきなりゴメン。今、いい?」
「いいけど驚いたなぁ、そっちから電話くれるなんて。雪でも降るんじゃないの?」
「大雪かもね。――由真から電話、あった?」
「えっ? ああ、ないけど」
「やっぱりそうかぁ」
「そっちは……って、連絡取れたんなら、あたしに電話かけて来ないか」
「まぁね。自宅にも帰ってないみたいだし。あ、自宅って実家のほうね」
由真が兄と二人暮らしなのは、付き合いのある人間なら誰でも知っていることだった。
「どこ行っちゃったんだろ、ホント」
「そうだね」
何かを期待していたわけじゃないけど、本当に何も得るものがなくてアタシは落胆していた。もっともそれは三村も同じだったようで、電話口を挿んでアタシと三村は盛大なため息を吐いた。
それからしばらく三村が九月に行われる北九州の高校との交流戦のことを話し(言外にちゃんと練習に来いと言われているようだった)アタシが生返事を返すというやりとりが続いた。
自惚れるつもりはないけど同年代の部活レベルの女子に負けるような鍛え方はしていない。もし負けるとしたら師匠譲りの反則負けを喫するくらいだ。以前に一度、顔面攻撃禁止の試合でフェイントのつもりで出した前蹴りを見事にガラ空きの顎にヒットさせて失格処分になったことがある。
時計を見ると、そろそろ七時にさしかかる頃だった。
「あのさぁ、出過ぎたことかもしれないけど」
「えぇ、何?」
「由真に何の用事だったの?」
一瞬の沈黙があった。
「……あー、うん。別に大したことじゃなかったんだけど」
三村の声は微妙に上ずっていた。
アタシは空手部の練習に顔を出したときには、いつも彼女と組手をやる。
フェイントや駆け引きを重視し必要なら軽微な反則も厭わない戦い方のアタシに対して、三村は正直と言うか、性格通りの正々堂々というスタイルだった。本人に言わせると駆け引きなど無用ということになるのだけれど要は嘘が下手なのだ。
アタシは彼女を詰問したくなる衝動に駆られた。
出来れば今は由真について一つでも多くのことを知っておきたかった。三村にとっては大したことじゃなくても由真を捜す手がかりになるかも知れないからだ。
でも、彼女が嘘をついてまで隠そうとしていることをアタシが問い質す権利はなかった。
「そう、じゃあいいや。そっちの方でも、由真と連絡が取れたらアタシに電話しろって伝えてね」
三村は何となく申し訳なさそうに「……そうする」と答えて電話を切った。
そのタイミングを待っていたように、間髪いれずにケイタイが鳴った。
ディスプレイには”ムラ”とだけ表示されていた。
さっき病院で交換した村上のケイタイの番号だった。何となくフルネームを打ちたくなくて、そんな名前で登録してしまったのだ。
ちょっとだけ迷って、アタシは通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
「ああ、村上だ。今、いいかな?」
さっきと同じ静かな物言い。仏頂面が目の前にないとなんだか柔らかい感じに聞こえるから不思議だ。
「いいけど、何なの?」
「高橋拓哉のことさ」
「意識が戻ったの?」
「いや、そっちはまだだな。医者の話じゃもう少し時間がかかりそうだということだ。実はさっき、東署の捜査課から電話があってね。高橋家がやってる通販会社が香椎にあるんだけど、知ってるかい?」
「聞いたことはあるけど。それが?」
「会社に空き巣が入ったんだ。いや、空き巣という言い方は適切じゃないかもしれないな。部屋の中はメチャクチャに荒らされていたんだから。まるで何かを探してたみたいにね」
もう少しで驚いた声を出しそうになった。やはり高橋を襲った連中の狙いはこのディスクなのだ。アタシはおかしくなりそうな声のトーンを必死でコントロールした。
「……へぇ、大変ね。何でそんなことをアタシに?」
「いや、真奈の大事なお友達の一大事だからな。知らせておいた方がいいかな、と思って」
村上は見え透いた嘘を言った。
警官の台詞は相手から反応を引き出す為の誘導尋問になっているということを、アタシは経験から知っていた。ダテに何度も補導されているわけではない。
おそらくそう知らされたアタシの反応を見ているのだ。
受話器を離して小さく息を整えた。
「そう。で、犯人の見当は?」
「まだだよ。息子の方が襲われたのと関係があるかどうか、検討しているところさ」
「関連があるということになったら?」
「捜査本部までは立たないが、捜査の人員は増えるだろうね」
「良かったじゃない。一人でやらなくてよくなるんだから」
「そうだと助かるんだけどな」
お互いの声音を探り合うような会話はそこで途切れた。わざわざ知らせてくれてありがとうと答えて、一方的に電話を切った。
アイスコーヒーを飲み干して、ベッドに仰向けにひっくり返った。
ディスクの中の画像はどう考えても敬聖会にとって世に出てはならないものだ。
梅野の推測が当たっていれば開けなかったファイルもそうだ。由真がどうやってそれを手に入れて何のためにそれを持ち出したかは置いておくとしても、両親や一族に対して敵対的な行動であることは否定のしようがない。
高橋が重傷を負わされた上に会社まで荒らされたことを考えれば、流出の事実は発覚しているはずだった。
当然、敬聖会はディスクを回収するべく躍起になっているだろう。村上によれば、高橋を痛めつけたのは”人をいたぶることに慣れたヤツの仕業”という話だった。そんな危ない連中を動員してまでやる用意と覚悟があるということだ。
今のところ、そういう連中がアタシの前に現れていないということは、高橋はアタシにディスクを送ったことについて沈黙を守ったということになのだろう。だからこそあれだけの暴行を受けたのかもしれないけど。
好きになれないオトコではあるけれど、折れなかったという点では見直さざるを得なかった。
可能性は二つあった。
一つは由真は何処かに軟禁されていて、外部との接触を断たれているという可能性。
もう一つは、由真自身の意志で身を隠している可能性だ。
もしもアタシが探偵や警察だったとしたら、ディスクの中身が何であるのかが分かるまでは動かないだろう。そのほうが効率的だし、捜査というのが外堀を順に埋めていく作業であることは、父親やその同僚たちの話を聞いて知っていることでもある。
問題はアタシがそんなに気が長くはないことだった。
アタシはベッドから飛び起きた。
警察のように悠長に構えている余裕はないのかも知れない。アタシは由真の両親に会いに行くことにした。
由真の家に上がりこむ口実を考えながら、アタシは手持ちの服の中から名門女子高の生徒に見えそうなものを探した。いつものダメージ・ジーンズにTシャツかタンクトップでは、由真の友達だということすら信用してもらえないかもしれないからだ。
結局、キャナルシティで由真の見立てで買ったものの中から選ぶことにした。
ライトグレイのティアードスカートに黒のVネックの半袖ニット、ターコイズ・ブルーの細いベルトを合わせてダークグレイのストッキングを履くと、大柄でどちらかと言うと老け顔なアタシは生徒というよりもむしろ女教師に見えた。
髪はもともとウルフカットの出来損ないのような中途半端な長さなので丁寧に梳かすだけだった。メイクは迷った末にしないことにした。そこまでは必要ないだろうし、第一、アタシは自分でメイクしたことなどないのだ。
出来上がった自称”名門女子高の生徒”を鏡を見て思わずため息が洩れた。アタシに可愛らしい感じを求めるのは肉屋でダイコンを買い求めるようなものだ、と諦めることにした。アクセサリは持っていないのでドッグタグを提げるだけにした。プレートの部分を胸元に隠せばネックレスに見えないこともなかった。
出かける準備が出来上がった頃にはアルバムはずいぶん先へ進んでいて、「ウェイト・フォー・ミー」から「プライベート・アイズ」へと変わるところだった。ソニーのデジタルカメラのCMで使われた曲で、このアルバムを聴かせたときに由真が知っていた唯一の曲だ。
ポップなメロディの割には歌詞が変だというのを知ったのは、英語の歌詞をある程度読めるようになった中学生の頃だった。プライベート・アイが私立探偵のことを指す通称のことだというのも、そのときに知った。
由真を探すことに奔走しようとしている今の自分にはピッタリなテーマソングなのかも知れない、などと馬鹿な考えが浮かんで、アタシは思わず苦笑した。
”Private eyes,they're watching you,they see your every move“
本当にそうだったら良いのだけれど。