「――着きましたよ」
運転手のオジサンが遠慮がちに声をかけて起こしてくれた。
「あぁ、すいません。いくらですか?」
メーターに表示された金額を払ってアタシはタクシーを降りた。
由真の実家はアメリカ合衆国領事館に程近い、幹線道路から奥に入ったところにあった。
レンガ色の外壁の洋風の建物で、アタシでも上に手が届かない高さの塀に囲まれていた。敷地の関係だろうけど予想していたよりはこじんまりしていた。それでもおカネはしっかりかかっていて門扉にはカメラつきのインターホン、ガレージには灰色がかったシルバーのAMGメルセデスとホワイトのセルシオが停まっていた。
通りの少し離れた街灯の下に黒っぽいステーション・ワゴンが停まっていた。
エンジンはかかっていないし誰も乗っている気配はなかった。住宅地では(ウチの近所でも)来客が違法駐車している光景はよく見かけるので、特に不審なわけではなかった。
それが気になったのは、やはり工藤さんの無言の問いかけが頭に残っていたからだ。
ふと、それが由真の兄のクルマじゃないかと気付いて、アタシは近寄ってみた。
ステーション・ワゴンはダーク・ブルーのBMWだった。
雪の日に由真を送ってきたときに見かけたのもこのタイプのBMWだった。ボンネットに触れてみるとエンジンを切ってそれほど経っていないようだった。
アタシは予定を変更して百道浜のマンションに行こうかと考えた。
室内に入ったことはないけれどマンションの駐輪場やエントランスなんかで駄弁ったことが何度かあって、マンションの造りは概ね頭に入っていた。一階のオートロックさえ突破できれば部屋に入るのは難しいことじゃなかった。由真はよく鍵を忘れて部屋を出ることがあるので、玄関のドアの周辺にカギを隠していると言っていたからだ。
でもカギを捜しているところを住人に見つかったら大事だし、それ以前に空き巣の真似事(というか空き巣そのもの)をやる意味がなかった。
何か探すものが分かっているのなら、やっても良かったけど。
門扉の前に立つと威嚇するような勢いで塀の上のサーチライトが点灯した。動くものに反応するセンサーがあるのだろう。
アタシはちょっと驚きながらインターホンのボタンを押した。横の郵便受けには徳永圭一郎、麻子、祐輔、由真と記されている。
一度目では返答はなかった。
中の灯りは点いているようなので不在ではないはずだった。
アタシはもう一度、インターホンの呼び鈴を鳴らした。
やはり三十秒ほど応答がなくて三回目にチャレンジしようかと思ったときに、スピーカーから女性の誰何する声が聞こえた。
「……どちら様ですか?」
「あのー、ワタシ、由真さんのクラスメイトで榊原といいます。実はちょっとお話したいことがあって――」
「お昼に電話をくれた子ね。由真はいませんよ」
声の主はアタシを遮って言った。相手は由真の実母の姉であり、養母であり、アタシの母親の友人でもあった人――表札によれば徳永麻子という女性だった。
「分かってます。だから来たんです」
アタシは声に力を込めて言った。
賭けだった。ディスクのことはおいそれとは話せないし、しかし、アタシは他に相手を納得させるような理由をもっているわけでもなかった。警察のように「ご協力をお願いします」と言える立場でもない。
アタシの賭けを支えているのは義理の娘による機密事項の流出で医療法人敬聖会――つまり徳永家も混乱し、情報不足に陥っているはずだという読みだった。
由真がディスクを持ち出し、その友人が不在にも関わらず訪ねて来る。過剰な期待はしないまでも何か情報が得られるんじゃないかという興味を持たせることが出来れば、第一ゲームはアタシの勝ちだ。
由真の母親は沈黙した。
これで帰れと言われたらそうするしかない。
恐ろしく長い――でも実際は数秒の沈黙の後「どうぞ」というボソリとした声と共に、門扉のロックが外れるカチリという音がした。
通されたのは玄関の横にある十二畳ほどの豪奢な応接間だった。
庭に面したフランス窓には薄いレースのカーテンがかかっていた。あまり使っていない部屋なのか空気が澱んでいて、どこか埃っぽかった。エアコンがせっせと冷たい風を吐き出しているにも拘らず室内はムッとするような暑さだった。
アタシは徳永夫妻だけでなくこの家からも歓迎されていないような錯覚を覚えた。
「ごめんなさいね。お客様がいらしたときしか使わない部屋なんだけど、父が亡くなってからはここにお客様が見えること自体がほとんど無くなったものだから」
徳永麻子――由真の育ての母親は、いかにも形だけという調子で侘びを口にした。
ふっくらした全体的に造作の大きな顔立ち。アップにまとめた豊かな黒髪。縁なしの細めのメガネ。半袖のオリーブ色のアンサンブルとベージュのロングスカート。落ち着いた声音と物言いがいかにも医師という感じだった。
彼女は探るような眼差しでアタシのことを眺めていた。
「主人はちょっと仕事の打ち合わせをしているから、少し待ってて貰えるかしら?」
「あ、はい」
「お茶でいいかしら。それともコーヒー?」
「すいません。じゃあ、コーヒーで」
恐縮したような振りをしながらアタシは革張りのソファに腰を下ろした。彼女は部屋を出て行った。
アタシは立ち上がって部屋の中を眺めた。
壁には亡くなった当主(祖母の話では存命中のはずだったけど、OG会の情報もタイムリーさには欠けるようだ)の厳めしい写真と繊細なタッチで霞に覆われた海を描いた油彩画が掲げられていた。
油彩画はプロの作品のようには見えなかった。おそらく徳永家の(絵心ゼロの由真以外の)誰かが描いたものなのだろう。
壁際に置かれたアンティーク調のサイドボードの上にあるフォトスタンドと赤い小さな箱が目にとまった。
それは由真が見せてくれた彼女の二人の母親の若かりし日の写真だった。改めて見るとちょうど同じ年頃というのもあるのだろうけど、由真と実の母親は生き写しと言っていいほど良く似ていた。
赤いビロード貼りの箱のほうは金色のモールドで縁を飾った、この部屋には不似合いな安っぽい代物だった。傷み具合などから見てあまり新しいものではないようで、アタシは子供の頃に”宝物”と称するガラクタを入れていた小箱を思い出した。
蓋を開けてみると内張りは半ば剥がれてしまっていて、その隙間からオルゴールの機械が覗いていた。アタシは箱を手にとって裏側に出ているネジを巻いてみた。
流れてきたのは「テネシー・ワルツ」だった。
アタシはしばらくオルゴールに聞き入った。ノスタルジックなスロー・テンポのメロディとオルゴールの金属的な澄んだ音色は意外なほどよく合っていた。
”I was dancin' with my darlin' to the Tennessee Waltz,When an old friend
I happened to see,I introduced her to my loved one,And while they were
dancin',My friend stole my sweetheart from me”
(愛しい人とテネシー・ワルツを踊っている時、幼馴染と偶然出会ったの。私は恋人を彼女に紹介したわ。そして二人はワルツを踊り、彼女は私の愛する人を奪ったの)
「――あら、その曲を知ってるの?」
徳永麻子が驚いたように言った。アタシはいつの間にか小声で歌詞を口ずさんでいた。彼女はカップを載せていたトレイをテーブルに置いた。
「好きな曲なんです」
「あら、そう。若いのにね。まだ貴女が生まれるずっと前に流行った曲よ」
「父が好きだったんです。その父も、母から何度も聞かされるうちにそうなったと言ってましたけど」
「なるほど、そういうことね。確かに、わたしも奈緒美がピアノでこの曲を弾くのを聴いたわ」
アタシは彼女の顔を見た。
「ご存知だったんですか? アタシが榊原奈緒美の娘だって」
「もちろんよ。OG会とかPTAでお祖母様ともお話しするから。覚えていないでしょうけど、奈緒美のお葬式にも参列してるのよ。貴女が懸命に泣くのを堪えて母親の遺影を見つめてるのを見て、胸がつぶれるような想いだったわ」
気恥ずかしくなって、アタシは「そうですか」とだけ答えた。
あまり多くネジを巻かなかったので「テネシー・ワルツ」は途中から調子外れにゆっくりになって、やがて止まった。
アタシは蓋を閉じてオルゴールを元の場所に戻した。ソファに戻って徳永麻子と向かい合うように座った。
「おかしな曲だと思わない?」
彼女が言った。
「どういうことですか」
「だって、メロディは優しくて綺麗だけど、歌詞は”恋人を友達に紹介したら、その友達に盗られた”っていう内容なのよ」
確かに原詩はそういう内容だった。日本人から見てメロディ・ラインと歌詞のギャップがある洋楽というのは意外と多いものだ。日本では甘い曲調でクリスマス・ソングの定番のワム!の「ラスト・クリスマス」も歌詞の内容はかなり情けない。
「……母は何故、この曲が好きだったんでしょう?」
「さあね。こう言っちゃ悪いけど、奈緒美は洋楽が好きだって言ってた割には英語はからっきしだったから。歌詞は丸暗記だった筈よ」
「叔母さまはお好きなんですか、この曲?」
「嫌いではないけれど、そんなに興味もないわね。そのオルゴールは実は死んだ妹のものなの。その写真の右側に映ってる子よ。左はわたし。姉妹なのにあんまり似てないのよね」
フォトスタンドのほうを向いて彼女は言った。
「わたしは父親似であんまり外見には自信がなかったけど、佳織は――妹は誰に似たのか、本当に美人だったの。父が反対しなかったら、芸能界に入って今頃は女優になってたかもしれないわ」
「ウチの祖母は姉妹お二人とも、美人で評判だったと言ってましたけど」
彼女は小さく笑った。
「ありがとう。でも、比べ物にはならなかったわ――でも見て、由真にそっくりだと思わない?」
確かにそっくりだった。でも、どう答えていいか分からなかった。似ているのは当然だろう――実の母娘なのだから。
アタシの表情を見て徳永麻子は何かを感じ取ったようだった。
「知ってるのね?」
一瞬、シラを切ろうかと思った。しかしアタシはそうしなかった。
「話は聞いたことがあります。由真から」
「……そう。どこまで話したのかしら」
「お母さんが自殺されたこととか、お父さんが誰か判らないこととか」
「まあ、あの子ったら、そんなことまで話したの?」
徳永麻子は呆れたように目を丸くした。
「ええ。自分がご両親の実の娘じゃないことを知って非行に走ったことも。そして、お兄さんのおかげで立ち直れたことも」
「祐輔のおかげ?」
「警察に迎えに来てくれたときにすっごく怒られたのが、逆に嬉しかったって言ってましたよ。お兄さんにも、ご両親にも感謝してるって」
彼女は「……そう」と呟いて何事が思索するように黙り込んだ。そして思い出したようにアタシにコーヒーを勧めた。戴きますと答えてカップを手にした。ブルーマウンテンの繊細な香りがアタシの鼻腔をくすぐった。
彼女は思い出すように遠くを見つめて口を開いた。
「妹が死んだとき、由真はまだ三歳だったわ。佳織は確かに綺麗で誰からも好かれる子だったけど、どこか精神的に脆いところがあったの。東京で何があったのかは言わなかったけど。由真を抱えて福岡に帰ってきたときにはすでにノイローゼみたいになっていてね」
そして発作的に手首を切った。
「最初は父が――あの子の祖父が引き取るって言ったんだけど、その頃は母が病気がちでね。それで、ウチは祐輔が手が掛からなくなっていたから引き取ることにしたの。男の子一人だったんで娘が欲しかったというのもあるし、たった一人の妹の残した子だものね」
「そうなんですか」
「だから、あの子が荒れたときには本当にどうしようかと思ったわ。祐輔にはそういう部分では、あんまり困らせられなかったから……。どうすれば良いものか、まるで分からなかった。途方に暮れるっていうのはああいうことを言うのね」
それが偽らざる”義理の”親の気持ちなのだろうなとアタシは思った。
話はそこで途切れた。
彼女は自分のカップを取って口に運んだ。アタシも次の話のとば口が見つからないままコーヒーを啜った。
短い会話の中で分かったことが一つあった。それは彼女が自分の娘が連絡が取れない状態にあることについて、特に不安も心配も感じていないということだ。そこにどんな理由があるにせよ。
ディスクの存在のことも、それをアタシが握っていることも、全部ぶちまけて問い詰めてやりたい衝動をアタシは必死で抑えていた。
徳永麻子は夫の様子を見てくると言って出て行ったきり、なかなか戻ってこなかった。
一人でじっとしていると、否が応でも体の深いところに溜まっている疲労のようなものを自覚させられた。
アタシは眠ってしまわないように大きく背伸びをした。強張っていた首筋や肩の周りをほぐそうとして動かすと、自分の身体が立てたとは思えない不気味な音がした。
ケイタイを取り出して着信をチェックした。
入っていたのは不在着信が一件とメールが一件だった。
電話は三村からだった。彼女は留守番電話にメッセージを残していなかった。
由真に関することで何か話してくれる気になったのだろうかと思ったけれど、誰に訊かれているか分からないこの家でかけ直すのはやめておいたほうがよさそうだった。
メールは梅野からだった。<やりました!!>という件名のあとに妙に漢字の少ない文面が続いていた。
<データのよみとり、メドがつきました。やっぱり電子カルテでしたよ。それとタカハシについてわかったことがあります。おそくなってからでもいいので、れんらくください>
一文の得にもならないのに力を貸してくれる梅野への感謝と、自分に対する好意につけ込むようなやり方に後ろめたさを感じながら、短い文面のお礼のメールを打った。
<ありがとうございます。あとで連絡します>
我ながら味も素っ気もない文面だった。
せめてハートマークくらい入れたほうがいいような気がした。しかし残念ながらアタシは絵文字も顔文字も打ったことはないのだった。
仕方ないのでそのまま送信した。せめて無事に由真を見つけ出して事が丸く収まった暁には、デートくらいなら喜んで相手をさせてもらうことにしよう。
アタシはケイタイをバッグにしまって、足音を忍ばせて応接間を出た。
二階までの吹き抜けになった玄関ホールは重厚な色合いの木材が多用してあって、豪奢というよりは風格のある造りだった。
フローリングの床は磨き込まれていて、天井のアール・ヌーヴォー調のシャンデリアの柔らかい灯りを反射している。
壁際や二階へ上がる階段の下に応接間のサイドボードと同じようなアンティークのチェストやキャビネットが置かれていた。家族の誰かの趣味で集めた物か、あるいはショップの勧めたものをまとめて買い揃えたかのどちらかだろう。
玄関の三和土にはアタシのダークブラウンのローファー(通学用のもの)、普段履きのサンダルが男性用と女性用が一足ずつ、ボルドーの高級そうな革靴が一足、リーボックのハイカットのスニーカー、そしてこの家の玄関にはあまりそぐわない形の崩れた黒い革靴とゴールドのメッシュのパンプスが一足ずつあった。由真のものと思われる靴はなかった。
高橋を襲ったのが敬聖会の関係者である可能性が頭にあって、家に上がるときにも見てはおいたのだけれど、アタシと由真の母親が話している間に誰かが出入りしたような形跡は見受けられなかった。
ふと、壁にさっきの風景画と同じようなタッチの油彩画が掲げられているのに気がついた。
ただしこちらは人物画だった。高い背当てのついた椅子に座る少女を描いたものだ。
喪服を思わせる、ほとんど黒と言ってもいいようなダークブラウンのワンピースと可愛らしいリボンでまとめた長い巻き毛のアンバランス。暗い背景の中で肌の白さだけが際立っていて、一瞬、人形をモデルに描いたんじゃないかと思ったほどだった。
アタシは絵の前に立って女の子をじっくりと眺めた。体つきはまだ少女のものだったけれど、すっと伸ばした背筋と顔を心持ちうつむき加減にしたポーズは奇妙に大人びた感じにも見えた。
絵の下の方には”yusuke”とサインが入っていた。描いたのが由真の兄、徳永祐輔だとすればモデルは由真だろうか。大して似ていないけど、そう思うと何となく彼女に見えてくるから不思議だ。
アタシはしばらくその絵に見入っていた。
――家の中は何の音もなく、しんとしていた。
自分が立てる音以外には、玄関口に置かれた熱帯魚の水槽のポンプの音と、天井埋め込み型のエアコンの微かな駆動音くらいしか聞こえてこない。この家には少なくとも由真以外の徳永家の面々がいるはずなのだけれど、彼らの声も聞こえてはこない。
振り向くとドアが開いて、由真が姿を現した。いつもと同じように屈託のない微笑を浮かべている。
「真奈ってば、何してんの?」
由真はそう言いながら、足音も立てずにアタシの隣に立った。
アタシと彼女は身長がアタマ一つ違っていて、アタシは由真を見下ろすような感じになる。由真はアタシを見上げながら、にっこりと笑った。
その首に奇妙な翳が見える。アタシがそれに気付いたことを見て取った由真は、緩いウェーブのかかった長い髪を掻き上げて、白くて細い首筋を露わにした。
そこには、細い紐のような何かで絞められた、醜い痕が見えた――。
膝が崩れてバランスを失いかけて、アタシは現実に引き戻された。
空調はむしろ応接間より効いているのに全身にじっとりと嫌な汗が吹き出していた。
呼吸が乱れて息苦しかった。アタシは肩を上下させながら呼吸を整えた。
久しぶりのアルコールのせいか、または疲れのせいかと思ったけれど、どちらでもないことは分かっていた。アタシの精神的な平衡を繋ぎ止めていた何かがそろそろ弾け飛ぼうとしているのだ。
アタシはすぐそばにあったアンティークの椅子の一つに腰を下ろした。
正直に言えば、自分がそんなにヤワだったということを認めたくはなかった。
しかし、それくらいこの半日のうちに直面した出来事――由真の失踪、高橋が重傷を負わされたこと、村上との再会、そして村松俊二の死体の写真――は、十七歳の小娘に過ぎないアタシの許容範囲を超えていた。
ディスクをこの場に持ってきていないことはある意味ではラッキーだった。もし持っていたなら、アタシは意気地も何もなくディスクを放り出してこの場から去っていたかもしれない。
激しく打つ鼓動を抑えようとアタシは胸に両手を当てた。
ニットのVネックの中に隠していたドッグタグが生地越しに手に触れた。アタシはほとんど反射的にそれを強く握り締めていた。
薄い金属板のエッジが指に食い込んで痛かった。しかしその痛みがアタシに冷静さと意志の力を取り戻させてくれた。
由真の屈託のないいつもの笑顔が脳裏に浮かんだ。
アタシは目を閉じてもう一度ゆっくり呼吸を整えた。わずかに残っている気力を振り絞って、アタシは立ち上がった。