西鉄薬院駅のドトールでアイス・カフェオレを飲みながら、芳野宗十郎(という名前だと名簿で初めて知った)先生の自宅に電話をかけた。
住所は福岡市の東隣、糟屋郡志免町になっていた。福岡空港の敷地の向こう側の東平尾公園(アビスパ福岡のホームスタジアム、博多の森球技場などがあるところだ)の小高い丘を越えた先のほうになる。結構な距離もあるし、出かけていって不在ではシャレにならない。
電話に出たのは母親と思しき、落ち着いた声の年配の女性だった。
アタシは自分の名前を名乗ってから「芳野先生はご在宅でしょうか?」といつもの五割増の丁寧な口調で言った。
自分で言うのも何だけれど、外面の良いアタシは声だけなら名門女子高の生徒に相応しい気品と雰囲気を出せる自信がある。もし由真が隣にいたら普段とのあまりの落差に腹をよじって笑うに違いない。
アタシの演技は功を奏して、芳野の母親は「息子は行きつけのコンピュータ・ショップに行っている。多分、夜まで帰って来ない」と教えてくれた。
アタシは連絡を取りたいのでその店の所在地を教えてくれるように頼んだ。そういうことがたまにあるのか、母親は疑う様子もなく”PCシステムサプライ”という横文字を並べたありがちな店名と電話番号を教えてくれた。住所は分からないと言った。
教えてもらった電話番号の局番の頭は”六”だった。
福岡市とその周辺ではこの数字でそれが何区の番号かが概ね分かる。”六”は東区の番号だった。
アタシは礼を言って電話を切って、そのまま梅野に電話をかけた。
梅野は二コール目が鳴り終わる前に電話に出た。
昨夜もそうだったけど、彼はケイタイを握り締めて待っているのかと(でなければ予知能力でもあるのかと)思うほど電話に出るのが早い。アタシはいつも外側のパネルで誰からの着信かを確認してから出るので、こんなに早くは出られない。
梅野はまくし立てるような早口だった。
「あ、梅野っす。真奈さん、昨日は大変だったっすね。あれから休めました?」
アタシは「……ええ、まあ」と曖昧に答えた。どんな場合でも自分を心配してくれる相手に嘘をつくのは心苦しい。
それから梅野は昨日のカルテの話の続きや、それを見るかどうかを訊いてきた。
カルテの作られた経緯は分かっているし、アタシがそれに目を通しても何か新しい事実を発見できるかどうかは疑問だった。
それでもアタシは読むと答えた。懸命に調べてくれた梅野に対する礼儀のようなものだ。
自分の言いたいことを言うと、梅野はバツの悪そうな一瞬の沈黙の後、口を開いた。
「――あ、すいません。真奈さんのほうが用事があって、かけてきたんすよね」
「いいですよ。気にしないでください。ところで教えて欲しいことがあるんですけど」
「何っすか?」
アタシはPCシステムサプライの場所を訊いた。梅野はさも知っていて当然のような口調で教えてくれた。住所はやはり東区の九州産業大学の近くだった。
「こう言っちゃ何ですけど、真奈さんとPCショップってイメージあわないっすね」
「そうですか?」
「スイマセン。でも、あそこは特に何と言うか……オタクの行く店っすよ?」
「でも、それを知ってるってことは、梅野さんもその一人ってコトですよね?」
「いや、俺は決してオタクじゃないっすけど。ただ、ちょっと興味があるってだけで……」
言い訳を聞きながらアタシは吹き出しそうになった。
体育会系のアタシはそういうのが嫌いだと思っているのだろう。確かに世間的には女の子ウケはしないだろうけれど。
そんなことはないんだけどな、と思った。それに他人のことを言えた義理でもない。格闘技マニアの女子高生だって世の男子ウケはしないに違いないからだ。
「分かりました、そういうことにしといてあげますよ」
アタシは笑いを噛み殺した。
「はぁ……。真奈さん、あそこに行くんすか?」
「ええ。と言うより芳野先生に会いに行くんですけどね」
「ああ、そういうことっすか。だったら、俺も行きましょうか」
「どうして?」
「だって真奈さんが一人で会いに行ったら、ディスクのこととか一から説明しなきゃなんないでしょ。俺と一緒ならその手間が省けるじゃないっすか」
「……なるほど」
梅野の言うことには一理あった。アタシが直接に芳野から話を訊くには(いくら生徒だと言っても)前提条件を整えるのに時間がかかる。
「でも梅野さん、今日は時間あるんですか?」
梅野は午後からならと言った。アタシにも三村との約束がある。
お互いに用事が終わってから連絡を取り合うことにした。
「でも芳野先生、その頃にも店にいるかなぁ?」
「大丈夫っすよ。あの人、学校が休みの日はあそこでバイトしてるんすよ。……大きな声じゃ言えないっすけどね」
「そうなんですか。じゃ、また後で」
アタシは電話を切った。
予定は未定とはよく言ったものだ。
立て続けに予定変更をさせられたせいで、三村との約束の時刻までまだずいぶんあるのにポッカリと時間が空いてしまっていた。
先にホークスタウンに行ってブラブラして時間を潰すという選択もあったけど、アタシはもう一つ、調べておかなくてはならないことを思い出した。昨夜、アタシを危うく高橋の二の舞にしかけた二人組の片割れ、大沢という男についてだ。
空手の教則本に載せてもいいほど綺麗な中段後ろ回し蹴りがアタシの脳裏に甦った。
アタシをその場に転がすのが目的で胴体を狙ってきたからこそ大怪我をせずに済んだけれど、あれが上段で頭を狙ってきたものだったらアタシはノックアウトされていたに違いない。
しかし、それは彼の出自を大きく限定するものでもあった。あれほどの空手家なら相応に名前が知れていてもおかしくはないからだ。
アタシは工藤さんのケイタイを鳴らした。
「……もしもしぃ?」
いかにも起き抜けといった感じの気だるそうな声だった。おそらくあの後、中洲に繰り出して真夜中まで飲んでいたに違いない。
「おはようございます。朝っぱらからすいません。今、いいですか?」
「んー、いいけど……。そう言えばどうだったの、昨日は?」
アタシはビアガーデンで別れた後のことをざっと話した。
途中まで寝ぼけた声で相槌を打っていたのが、アタシが熊谷の事務所の前で襲われた件になると緊張感を含んだ雰囲気に変わった。それでも話が終わるまでは黙って聞いていた。
「まあ、とりあえず無事でなによりってところだね。ところで、その大男、何て言ったっけ?」
「連れの男は”大沢”って呼んでましたね」
アタシは大沢の外見の特徴を話した。
工藤さんは合点がいかないような呻き声をあげた。
「うーん、一人だけ心当たりはあるけどなあ。でも、そんなことをするような男じゃないんだけど」
「と言うと?」
「警察の人間なんだよ。大沢……隆之っていったっけな」
「何処の部署の?」
「そこまでは知らないけどね。確か大学空手の九州チャンピオンで、国体の選手だったこともある。そう言えば最近は名前を聞かなかったような気がするなぁ」
「工藤さんは戦ったことはあるんですか?」
「試合ではないね。あっちは寸止め、こっちはフルコンだから」
空手は流派や団体でそれぞれにルールが違うけれど、大きく分類すれば相手に攻撃を当てずに型の美しさや技の正確性を競う寸止めルールと、拳による顔面攻撃以外はオーケーというフルコンタクト・ルールに分かれる。前者は柔道における講道館ルールのようにほぼ統一のルールがあって流派による差はそうないけれど、後者は団体によって”OK”と”NG”の境界線の線引きが大きく異なっている。
ちなみにウチの道場は、そういう細かいことを言う人間がいないのと師範代が”何でもアリ”なせいで関節技と絞め技、寝技以外はオーケーというとんでもないことになっている。
「大沢隆之の写真って手に入りませんか?」
アタシは言った。
「えーっと。最近のじゃなければあると思うけど。メールで送ろうか?」
「お願いします。それと住所とかも分かれば」
「調べてみるよ。じゃあ、あとで」
工藤さんは電話を切った。
朝から何も食べていないことを思い出して、カウンターに並びなおしてチーズトーストを注文した。
それを頬張っていると、メールの着信音が鳴った。
工藤さんからだった。文面は簡潔で<写真は三年前のもの。住所は不明。あと、大沢は県警の総務課勤務だったと思うけど……違ったらごめん>というものだった。
添付されている画像は名簿のものをケイタイのデシタルカメラで撮影したもののようだった。画質はあまりよくないけど、そこに写っている男の顔立ちは充分に見て取れた。
昨夜よりはちょっと若いころの”大沢”がそこにいた。
わけがわからなくなってきた。警官がアタシを襲うということがあるのだろうか。
常識的にはあり得なかった。熊谷の話を何処まで信用していいのか分からないけれど、今のところ警察が介入しているのは高橋拓哉に対する暴行事件と、タカハシ・トレーディングに対する襲撃事件だけだからだ。しかも総務課には捜査権はない。
警察の組織的な陰謀などという三文小説のような筋書きでないならば、この三年の間に大沢は警察を辞めていて、今は昨日のような用心棒まがいの暴力仕事をしていると考えるのが適切なようだった。
大沢の蹴りは空手経験者のアタシだからこそ(そして工藤さんに鍛え上げられているからこそ)ガードすることが出来たけれど、まともに食らえば大怪我をしていてもおかしくない威力だった。
あの時点でアタシの素性は相手には知られていなかったはずだ。
にもかかわらず、大沢の蹴りには一片の躊躇もなかった。大沢はアタシが一発目を捌いたことに感嘆していたくらいだ。分かってやっていたわけじゃない。
それは大沢が一般人を相手に平然と暴力を振るえることを意味していた。
競技やスポーツとして格闘技をやっていた人間には、なかなかそういうことは出来ないものだ。
ルールはないはずの路上のケンカであっても、それまでやってきたルールを吹っ切るにはそれなりの場数を踏まなくてはならない。実際に「やる、やらない」の問題ではなくて、精神的な部分でそういう躊躇いのなさを身に着けているかどうかがケンカの強弱だと言ってもいいのだから。
大沢はそれを持っている。つまりアタシのような街のケンカ屋レベルではなくて、れっきとした荒事専門ということになる。
そう思うとうんざりした。しかしそれも悪いことばかりじゃなかった。
大沢が荒事を生業にしているのであれば捜す範囲がぐっと狭まってくるからだ。そしてアタシはそういうことに向いている人物を一人だけ知っていた。
電話をかけると、相手はちょうど目を覚ましたところだった。いきなりの電話を詫びて「今から行っていい?」と訊くと渋々ながら(代わりに常人の一ヶ月分の悪態を聞かされたけれど……)オーケーしてくれた。
アタシは駅の構内にあるスーパーで差し入れを買って、近くのセルフのガソリンスタンドに停めていたバンディットのエンジンをスタートさせた。
改めて昨夜のことを思い出すと、今更ながら「……よく無事だったな」と恐怖が背筋を這い登ってくるような感覚に襲われた。全身が軋むような衝撃はまだアタシの身体にありありと残っていた。
そういう人間を相手にすることにはもちろん怖さも恐ろしさもあった。
でも、それ以上にそういう連中が暴力で自分たちの都合を押し通すこと、弱者を虐げることへの憤りがあった。アタシ自身を地面に這い蹲らせたことへの怒りもあった。
そして何より、そういう連中が由真の身柄を押さえているのかも知れないのだ。
――次は負けない。
アタシは心の中で、そう呟いた。