近くのコンビニの公衆電話から、リダイヤルに残されていたケイタイの番号に電話をかけた。
一コールがひどく長く感じられる電話だった。受話器のダイヤルでヴォリュームが調整できるタイプだったので、アタシはそれを音が割れる直前まで上げた。
六コールが鳴り、そろそろ留守電に切り替わるなと思ったとき電話は繋がった。
「……はい、徳永ですけど」
アタシは耳を疑った。しかし、その暗く沈んだ声は間違いなく徳永麻子のものだった。
まったく予想外の相手にアタシは慌てていた。
「えー、あのー」
「もしもし?」
怪訝そうな声が受話器から聞こえてきた。アタシは我に返った。
「すいません、間違えました」
作り声でそう言って、指で受話器をかけるフックを押し下げた。ケイタイ相手だからと大目に入れておいた小銭が返却口からジャラジャラと音を立てて落ちてきた。アタシは上の空でそれを掻き出した。
「誰だったんすか?」
背後で梅野が言った。
「由真のお母さんでした」
「はあ!?」
梅野は素っ頓狂な声をあげた。
「何で、また……」
「アタシにだって分かんないですよ」
「まあ、そりゃそうでしょうけど」
一味には元敬聖会のシステム・エンジニアの小宮がいるし、宮田史恵も熊谷の秘書として徳永邸に出入りしている。そういう意味ではまったく繋がりがないわけじゃなかった。熊谷の抱えるスタッフとして全員と顔を合わせていてもおかしくはない。
だからと言って、熊谷の頭越しに連絡をとるような関係にも見えなかった。
「熊谷が何か、伝言でも頼んだんじゃないっすか?」
「そうなんですかねぇ……」
アタシは釈然としないまま、その場を離れた。
何かを勘繰るような梅野の友人の視線を無視して、アタシは梅野のエリミネーターに駆け寄った。
「後ろに乗るの、あんまり慣れてないんですけどね」
アタシはヘルメットを受け取りながら言った。
「前でも構わないっすよ?」
梅野はニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべた。アタシは梅野を横目で睨んだ。タンデムシートならともかくミニスカートでバイクのフロントシートに跨るほどアタシははしたなくはなかった。
「いいです、後ろで」
「りょーかい」
梅野はシートに跨るとキックスターターを蹴り込んでエンジンに火を入れた。アタシよりも年配のこのバイクはとっくの昔にセルモーターが壊れてしまっているのだ。
アタシは一段高くなったタンデムシートに跨った。
「んじゃ、しっかりつかまっててくださいね」
梅野はアタシの返事を待たずにエリミネーターをスタートさせた。
赤坂から警固を抜けて高宮通りに入った。梅野は前を走るクルマをローリングで煽りながら、明らかなオーバースピードでブッ飛ばした。
「ちょっと、飛ばし過ぎですってば!!」
アタシは梅野の耳元で怒鳴った。
別に飛ばすのが怖いわけじゃない。警察に停められるのがイヤなのと、後ろにレディを乗せているという自覚がない無神経さがちょっと気に食わなかっただけだ。
返答はなかった。やかましいエンジンの音にかき消されてアタシの声は届いていないようだった。
アタシはスピードを落とさせる代わりに梅野の胴に腕を廻し直した。
梅野の身体に緊張が走るのを感じた。
アタシが怖くてしがみついてきたのだと思ったのか、梅野はアクセルを緩めてクルマの流れに乗ったクルージングに切り替えた。これでいいですか、という感じでちょっとだけアタシのほうを振り返った。
まあ、いいだろう。少しくらいなら勘違いさせておくのも悪くはない。
アタシは小さく頷いて見せた。
エリミネーターは高宮通りを進んだ。このまま日赤通りとぶつかる井尻の六ツ角から、筑紫通りのほうへ入れば目指す雑餉隈だ。
後方へふっ飛んでいく夜の景色を眺めながら、アタシは事件の構図が見えてくればくるほど頭から離れない疑問について考えていた。
それは由真が百道浜のマンションを飛び出して一ヶ月以上経つというのに、彼女の両親は何故、彼女の行方を捜そうとしていないのかということだった。
熊谷が自分宛てに送られた脅迫メールを流用して、由真が両親と兄に対して恐喝を働いているように見せかけているのは徳永祐輔の話から明らかだった。
熊谷が話を込み入らせるような偽装をした理由は分からないけど、とりあえず今はそれはいい。
徳永麻子は「事実を明らかにするべきだ」と迫った由真を殴った。そして多分、相当に激烈な言葉を投げつけた。
彼女の論理からすれば、実の息子を犯罪者として糾弾しようとしている由真の行為は育ててやった恩に対する裏切りに映っただろう。しかも、それだけでは飽き足らずに五千万円もの大金を要求されるに至っては、彼女の怒りが頂点に達したのは想像に難くない。
両親が由真に対して”縁を切る”というような感情を持ったとしても不思議はなかった。
しかし、そうだとしても(というか、だからこそ)徳永夫妻は由真を放ってはおけないはずではないだろうか。
自分に都合のいいことだけを信じたがる人間は多いものだ。しかし、自分たちを破滅させる材料を持っていて(理由はどうであれ)それを表沙汰にする意志を鮮明にしている由真を無視してやり過ごそうとするほど、由真の両親が愚かだとは思えなかった。
最初の頃、高橋に重傷を負わせた連中のことを”敬聖会の手の者”だと思ったのは、MOディスクの中身が敬聖会のスキャンダルであり、彼らはそれを放っておかないと思ったからだ。
ここにきてだいぶ配役や筋書きは違ってしまったけれど、敬聖会――徳永夫妻にとってMOディスクの阻止が最優先なのは変わらないし、そうであれば未だに由真を捕捉出来ていない熊谷たちに任せきりということもないはずだ。
にも関わらず、徳永夫妻は何も行動を起こそうとしていない。
アタシは徳永邸でのやりとりを思い起こした。
徳永麻子はアタシに対して昔の話などはしてくれたけど、由真の家出については触れようとせず、まるでそんな事実は存在しないかのように振舞った。
まるで不安も心配も感じていないかのように。
愛する家族の一員としてであれ、家族に仇なす恩知らずとしてであれ、あの時点で由真の行方は徳永麻子の最大の関心事であったはずだ。
アタシが何も知らずに訪ねてきたのなら家出を隠そうとしたという可能性もある。でも、アタシは由真が家に帰っていないことを承知の上で訪ねてきている。
だとすれば、普通は親のほうから娘の友人に何かの探りを入れるはずだった。家出の理由は適当にでっち上げればいいのだから。しかし、彼女は由真のことを何一つ訊こうとはしなかった。
その理由は一つしかない。そして、それこそが徳永麻子とFBRの間に連絡がある理由でもある。
徳永麻子は由真が熊谷たちによって拘束されていることを知っていたのだ。
エリミネーターを西鉄雑餉隈駅の裏のコンビニに停めて、アタシと梅野は歩いて雑餉隈に戻ることにした。
普通はそういうことをすると”無断駐車厳禁!!”とか貼り紙をされたりするのだけれど、そこの夜間店長が梅野のかつてのお仲間らしく、ガラス越しの目顔のやりとりだけで交渉は成立してしまっていた。
「ホント、梅野さんってお友だちが多いんですね」
アタシは言った。
「ま、それくらいしか取り得がないっすからね。真奈さんはどうなんすか?」
「友だちが多いタイプに見えます、アタシ?」
梅野は何と答えていいか分からずに口ごもった。正直な男ではある。
盆休みの最終日ということもあってか、飲み屋街はそれなりに人出もあって活気にあふれていた。
いわゆる雑餉隈といわれて誰もが思い浮かべる地域は実際には寿町や銀天町のことで、ざっしょのくまという地名は西鉄の駅名と近くの小さな区画の名前としてしか残っていない。区名と駅名にしかその名前は残ってないのに、全国ネットのテレビや雑誌などで福岡のことを総称して博多と呼ぶのにちょっと似ている。
西鉄の駅とJR南福岡駅に挟まれていて、真ん中を筑紫通りが通り抜ける大して広くもない地区に百軒近いスナックやパブ、そして(名物でもある)風俗店が立ち並んでいる。昔からある盛り場で中洲のようなケバケバしさや胡散臭さはあまり感じられない。
すぐ近くが陸上自衛隊の駐屯地で、そのせいか客層もよくいえば元気がいい、悪くいえば気性の荒い連中が多い。
ただしそれはお店側も一緒で、中洲のような悪質なボッタクリ店がない(少ない?)代わりによく客と店員が揉めている光景にも出くわす。
以上は空手道場の重鎮の一人で、結構大きな会社の社長なのに中洲へ進出することなくこの街で飲み続けているオジサンから聞いた話だ。アタシの夜遊び時代のテリトリではないので、この辺りの店は知らないし顔見知りもいなかった。
ガラパゴスは筑紫通りを渡って寿町に入ったところにある、五階建てのテナントビルの四階だった。
もしここが高橋が暴行を受けた現場であるとしたら、ガラパゴスは熊谷たちが自由に使えるような事実上の彼らの店であるか、あるいは最初からスナックなのは表向きだけかのどちらかということになる。
ビルの入口に掲げてある看板には営業中を示す灯りは点っていなかった。
梅野は様子を見てきます、と言ってビルに入っていった。アタシは筑紫通りまで戻って待つことにした。盛り場の暗がりに女一人で突っ立っていられるほどアタシは怖いもの知らずではなかった。
筑紫通りでは暴走族とパトカーの追いかけっこが繰り広げられていた。
全国的にはどうなのか知らないけど、福岡では改造バイクに二人乗りでけたたましくホーンを鳴らしながらローリングを繰り返す阿呆がしっかり生息している。そういう連中の中にも大排気量のスクーターを飾り立てた軟弱者が増えてはいるけれど、気質としては同じなのだろう。
その光景を面白半分に眺めながら、アタシは移動中に考えていたことをもう一度頭の中で繰り返した。
徳永麻子が由真が熊谷たちに拘束されていることを知っていたとして、それにおとなしく同意している理由は分からなかった。
もちろん村松俊二殺害の事実を握られているというのはあるだろう。
しかし、それまで徳永夫妻と熊谷は(祐輔の話ではいろんな確執はあるようだけれど)足並みを揃えて歩いてきたはずだし、徳永夫妻が失脚するのは熊谷にとっても利益にはならないはずだ。更に言うなら熊谷自身も隠蔽工作に一枚噛んでいる”共犯者”である以上、それだけで優位に立てるとは思えなかった。
つまり熊谷の手にはそれとは別に徳永夫妻、とりわけ、徳永麻子の頭を押さえつけるだけの材料があるということになる。
そう考えると、熊谷が由真による脅迫をでっち上げた理由も浮かび上がってくる。
自身の”表沙汰に出来ないファイル”の回収のカムフラージュだ。あるいはそれが由真の手から徳永夫妻に渡って、立場がイーヴンになるのを恐れたのかもしれない。脅迫者の立場に貶めておけば夫妻が由真の言葉に耳を貸すことはないし、彼女を拘束しておく理由にもなる。事が済んだ後に由真の口から脅迫の事実がなかったことが知れても、ファイルの回収が終わっていれば何とでも言い逃れることは可能だ。
アタシは自分の想像に嫌気が差して思わず身震いした。
ウソと駆け引き。弱みの握り合い。それが彼らの世界で生き残る術だということは理解できても、嫌悪感は少しも薄くはならなかった。
ちょっとと言った割りに、梅野はなかなか戻ってこなかった。
アタシは近くの自販機でいつもとは違う甘い缶コーヒーを買った。何となく口の中に感じる苦々しさを洗い流したくなったからだ。
プルタブを起こしてその中身を口に含んだ。最初はいいかもと思ったけれど、結局は人口甘味料のイヤらしい甘みが広がっただけで、気分は良くなるどころか更に悪くなった。アタシは周囲を見回してから、道端の暗がりにそのコーヒーを吐き捨てた。
通り沿いのファッション・ヘルスから出てきた二人連れが、アタシに遠慮のない視線を投げかけながら通りを渡っていった。こんな時間に派手な格好をした女が道端に立っていれば、どんな目で見られるかは考えるまでもなかった。
睨み返してやろうかと思ったけれど反応すれば相手を喜ばせるだけだ。アタシは無視を決め込んだ。
ふと、その二人連れを何気なく追っていった視線の先にBMWのステーション・ワゴンが停まっているのに気がついた。だだっ広い有料駐車場の隅のほうに少し斜めに突っ込んである。
灯りが貧弱なせいでボディ・カラーはハッキリしなかったけど、暗い色調のものだということは分かった。ブラック、またはダークブルー。
福岡市内でもBMWはそんなに珍しいクルマではない。でも、ほとんどはセダンかクーペでステーション・ワゴンはそれほど見かけるわけじゃなかった。
嫌な予感がした。
アタシは吸い寄せられるように歩き出していた。赤信号を無視して通りを渡ってBMWに駆け寄った。
予感は的中した。それは徳永祐輔のクルマだった。
車内には誰も乗ってはいなかった。
助手席にはラブ・サイケデリコのCDと「マトリックス」でキアヌ・リーヴスが掛けていたような形のサングラスが放ってあった。ドアロックはしっかり掛かっている。
ボンネットは冷たかった。エンジンが熱を失ってからそれなりの時間がたっているようだった。
アタシは周囲を見回した。この辺りで祐輔が用事がありそうな場所を考えてみた。敬聖会系列のクリニックがあるのだろうか。
そんなはずはなかった。仮にそんなものがあったとしたらそこの駐車場に停めるはずだ。
飲みに来ているとも思えなかった。だったらクルマでは来ないだろうし、今の彼にそんな精神的な余裕があるとも思えない。同じ理由プラス恋人の存在を考えると風俗店は論外だった。
アタシはガラパゴスが入っているビルのほうを振り返った。
祐輔の中に熊谷に対する疑念が生まれているのは間違いなかった。少なくとも何かがおかしいことには気づいたはずだ。ただし証拠もなしに熊谷を問い詰めるほどバカではないだろう。彼は何かを確かめようと雑餉隈までやってきたのかもしれない。
ただ、短時間でよくここを突き止められたものだけれど。
ケイタイが鳴った。
「――あ、すんません、俺っす!!」
梅野の声は嫌な感じに弾んでいた。
「どうしたんですか、ずいぶん時間がかかったみたいですけど?」
「いや、鍵を開けるのに予想外に時間がかかっちゃったんすよ。ロータリーディスクタンブラーっていって、ピッキング対策がされてるやつだったんで。L字ピックってので奥のディスクから順番に回していくんすよ。いや、これが結構難しくって――」
梅野は早口でまくし立てるように言った。心ここにあらずという感じだった。
「何があったんですか!?」
アタシは強い口調で梅野の言葉を遮った。梅野はふっと我に返ったように弱々しい息を吐いた。
「どうしたんですか?」
アタシはもう一度訊いた。梅野は普段の彼からは想像も出来ないような震える声で言った。
「真奈さん、この店ヤバイっす。だって、人が死んでるんすよ……?」