砕ける月

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  第 45 章  

 ハンス・ダルファーの「ハイパー・ビート!」の、爆音のようなテナー・サックスでアタシは叩き起こされた。
 目覚ましがわりにタイマーでリピート演奏するようにセットしておいたのだ。これを選んだのは手持ちの中でも指折りの”目が覚めそうな曲”だと思ったからだ。
 ファンキーで耳に残るフレーズと間に挟まったちょっとボソボソッとした感じのラップを、アタシはしばらくボーっとした頭で聴いていた。
 曲が二周目に入ったところでモゾモゾとベッドから抜け出してコンポのストップ・ボタンを押した。
 ジャズとヒップホップを力技で結びつけたダルファー・サウンドはアタシのお気に入りのひとつなのだけれど、ずっと聴いていたらノイローゼになりそうだった。
 時計は九時を指していた。
 ガミさんの病院で長身の刑事と別れてから、アタシは一眠りするために家に帰ってきていた。
 帰る前にこっそり覗いた処置室では、徳永圭一郎がベッドに横たわった息子を見下ろしながら隣に立つ浦上ジュニアと言葉を交わしていた。
 とは言っても喋っているのはほとんどジュニアのほうだった。医師としてのキャリアは徳永圭一郎の方が断然上なのだけれど、口を差し挟んでいる様子はなかった。彼はまるで感情というものが抜け落ちてしまったような硬い表情で説明に耳を傾けていた。残念ながらアタシのところからは祐輔の様子は窺い知れなかった。
 その向かい側では河村靖子が緊張感丸出しのコチコチの表情をしていた。
 無理もないこととはいえ、病院での取り澄ましたメガネ美人とのあまりのギャップにアタシは場違いにも吹き出しそうになり、慌ててそれをこらえた。所在なげに視線を彷徨わせる彼女と目が合ったので、アタシは目顔で帰ることを伝えてその場を離れたのだった。
 アタシは「ハイパー・ビート!」をケースに収めてCDのラックに戻した。代わりにミスター・ビッグの「テイク・カヴァー」をトレイに載せた。
 可愛らしいイラストがジャケットの今はもう手に入らないこの廃盤のCDは、実は由真からもらったものだった。ベースのビリー・シーンがB’zのツアー・メンバーを勤めたことから彼女が珍しくも興味を持ってネット・オークションで手に入れたのだ。
 由真の評価がどういうものだったかは、これがアタシの手元にあることから推して知るべしというところなのだけれど。
 洗面台で顔を洗って歯を磨くと少しは目が覚めてきた。寝癖だらけになった髪を念入りに梳かした。
 鏡を覗き込むと、浅黒く日に灼けた顔の真ん中で底の見えない井戸のような暗い眼差しがアタシをじっと見返していた。もともと由真のような柔らかい顔立ちじゃないのに、頬がこけて一層シャープになったアタシの顔はまるで試合に臨む減量明けのボクサーのようだった。

 いずれにしても女の子らしくはなかった。
 部屋に戻って、普段使っているヒップバッグからクシャクシャになった封筒を取り出した。高橋静香からもらった久住の勤務先の修理工場のものだ。
 電話の子機を取って印刷されている電話番号をプッシュした。シャッターの貼り紙によれば今日、八月十六日は営業しているはずだった。
「はい、坂崎自動車でございますが――」
 電話に出たのは柔らかい声の年配の女性だった。アタシは舞松原の高橋の家の近くで見かけた大手電気店系列のレンタルビデオ屋の店名を名乗った。
「申し訳ございません、レンタル商品の返却期限が過ぎているのですが、携帯電話のほうでご連絡がとれないもので――クスミケンジ様はいらっしゃいますでしょうか?」
「ハァ……少々お待ち下さい」
 女性は大して怪しむ様子もなく、傍にいた誰かに久住を呼ぶように伝えた。
 保留音に切り替わった。曲は「レット・イット・ビー」だった。なるようになるさ。
 久住がちゃんと出勤していることは確認できたので、アタシは受話器を置いた。
 CR−Xは津屋崎の自宅にあって、高橋拓哉には自力で動くためのアシはない。多少は体調が回復していたとしても、まだ長距離を歩いたり公共交通機関で動いたりは出来ないだろう。
 そうであるなら、交友関係からすると久住以外の協力者が考えられない以上、久住の勤務時間中は高橋は何処かにじっと身を隠している可能性が高かった。
 問題はその潜伏先だった。
 アタシはビジネスホテルや旅館の類はないと睨んでいた。理由は主に経済力だ。ついでに言うなら一般のホテルは高橋のような胡散臭いケガ人を受け入れることを嫌がるものだ。
 では他の場所はどうか。
 久住の自宅は考えられる場所ではあるけれど、アタシはこれにも懐疑的だった。高橋の叔母の話では、久住家は身体の悪い祖母と同居している。ということは常に家族の誰かが家にいるということだ。そんなところに大ケガをした赤の他人を匿っておけるとは考えにくい。
 あとはどこかの廃屋を隠れ家がわりにしているか、郊外の安いモーテルに投宿しているか。およそ、そういうところだろう。いずれにせよ久住のあとをつけて、場合によっては多少強引にでも聞き出すしかない。
 アタシは封筒をもう一度眺めた。
 営業時間は午前九時から午後六時までとなっていた。それまではこちらも動きようがなかった。
 梅野に電話すると「三時くらいまでは用事で手が離せない」との返事が返ってきた。そのころにまた連絡を取り合うことにした。
 それまでの間にいくつか調べておきたいことがあった。アタシはパジャマを脱ぎ捨てて出かける支度にとりかかった。

「えっ、退院しちゃったの!?」
 アタシは思わず訊き返した。
 浦上ジュニアは”院長室”とは名ばかりの小部屋で、机に堆く詰まれた書類に目を通しているところだった。
 いつもにこやかな彼には珍しく憮然とした表情で、角砂糖とミルクを大量に放り込んだもはやコーヒーとは呼べない飲み物をチビチビと啜っている。
 同じものを勧めてくれたので、アタシは丁重にお断りして普通のブラックにしてもらっていた。
「正確には転院だけどね。俺はまだ動かしちゃダメだって言ったんだけど、お袋さんが自分とこの病院に連れて帰るって聞かなくってさ。彼、敬聖会の跡取りなんだって?」
「うん、まあね。――今、お袋さんって言わなかった?」
「そうだよ。徳永麻子女史。医師会の会合で何度か見かけたことがあるよ。もっと感じのいいひとかと思ってたんだけど、あんなにヒステリックなオバサンだったとはね。まあ、大事な息子のことだから仕方ないんだろうけどさ」
 ジュニアは読んでいた書類を机の上に放ると、椅子の背にどっかりと身体を預けて胸の前で両手の指を絡ませた。

「こっちはいい迷惑なんだよ。警察にだって、まだ聴取が終わってないのにって文句言われるしね」
「まだ、そこまで回復してないの?」
「いやいや、意識の混濁はほぼなくなってるし、普通に受け答えができる状態にはなってるよ。夜中の段階でも事情聴取は可能だったんだ。ただ、本人が気分が悪いって言うからしなかっただけで」
「警察って、そんなに気を使ってくれるんだ」
「被害者だからね。ウチにもちょくちょく傷害絡みの患者が運ばれてくるけど、一般の人が思ってるほど警察って急がないんだよ」
「そんなもんなのね」
 確かに高橋の場合も警察はのんびりと彼の回復を待っていた。殺人事件ならともかく、傷害事件の扱いというのはそういうものなのだろう。
「でも、ずいぶんと徳永ジュニアのことを気にするんだね。ひょっとして歳の離れた彼氏とか?」
 ジュニアはニタリと目尻を下げた。
 人格者である彼の数少ない欠点はすぐに他人の男女関係を邪推したがるところだ。それもかなり無理がある設定のものが多い。アタシは運ばれるのに付き添った門下生の半数近く(しかも全員オジサン)と関係を疑われたことがある。
「友だちのお兄さんだって言ったじゃない。それに第一、恋人が付き添ってたでしょ」
「へっ!? ああ、やっちゃんのことか。へえ、あの二人、付き合ってるんだ」
「やっちゃんって……知り合いなの!?」
「大きな声では言えないけど、僕は彼女の店の常連でね。なんだ、僕はてっきり宿直かなにかで警察の電話を受けて、先乗りしてきたんだと思ってたよ。ほら、彼女、敬聖会に勤めてるし、親御さんへの連絡も彼女がやってたみたいだから」
「警察から彼女に連絡があったのは本当だけどね」
 ややこしくなるので、詳しい経緯は話さなかった。
「道理で二人で言い争いみたいなことをやってたわけだ。あまり患者を興奮させちゃいけないからって、やめさせたんだけど」
「言い争い? どんな?」
「詳しい内容は知らないけど、どうやら徳永ジュニアは彼女にも話をしたがらなかったみたいなんだ。誰にやられたかとか、何で現場に行ったのかとか。それでやっちゃんがキレちゃってね」
「なるほど」
 アタシはコーヒーを飲み干してカップを置いた。ふと、手元にあったカットグラスの灰皿に目が止まった。それは大きさといい見た感じといい、ガラパゴスで見た血のついた灰皿によく似ていた。
 アタシがそれを注視しているのに気づいたジュニアは怪訝そうな顔をしていた。
「……どうしたんだい、真奈ちゃん?」
「えっ、ああ、いえ――。ねえ、先生、ちょっと訊いていい?」
「いいよ。あ、スリー・サイズは秘密だけどね」
 欠点はもう一つあった。ジョークがあまり面白くないことだ。アタシは無視して続けた。
「徳永さんのケガなんだけど、額をぶん殴られてるんだよね。鈍器かなにかで」
「でも、よくそんなこと知ってるね。まだ警察とご両親、それとやっちゃんくらいしか知らないことのはずなんだけど」
「そのやっちゃんに聞いたの」
 そこを突っ込まれることは分かっていた。アタシはポーカーフェイスを貫いた。ジュニアは曖昧な微笑で答えた。
「ま、いいか。それで?」
「正面から殴られそうになれば、普通は手を出したりして受け止めようとするもんだけど、手にケガとかなかった?」
「――そうだな、普通はそうするね。いや、手には打撲も骨折もなかったよ」
 ジュニアは正面から殴られたような身振りをしながら言った。
「ついでに言えば、裂傷の箇所は額のほぼど真ん中だった。普通は首を竦めるとかして、直撃は避けようとするもんだけどね。格闘技経験者なら額で受けにいくこともあるけど」
 確かに空手でも流派によってはそういう受け方をするところはある。タイミングを間違えるとただの自爆になるのであまりお奨めは出来ないのだけれど。
「でも、彼の場合はそれはないね。手には拳ダコもなかったし」
「と言うことは、彼は避けられないタイミングで――不意打ちで殴られたってこと?」
「またはわざと避けなかったか、だね」
「どういうこと?」
「殴れるもんなら殴ってみろ、という意思表示だったのかもしれないってこと。ま、それで本当に殴られてたら世話ないけど」
 ジュニアは冗談めかして笑ったけど、まんざらありえない話でもないような気がした。
 祐輔は正面から殴打されている。当然、自分が誰に殴られようとしているのかも分かっていたということだ。
 にもかかわらず祐輔は近しい恋人にさえもそれを話そうとしていない。
 子供がケンカに負けたことを認めようとしないのとはわけが違う。一歩間違えば死に至るかもしれないケガを負わされていながら、犯人を明らかにしないのにはそれなりの理由が必要だった。
 高橋拓哉の場合は由真が拘束されていることがその理由だった。
 では徳永祐輔の場合は?
 犯人を庇っているとしか考えられない。
 見知らぬ誰かであれば庇う必要はない。つまり、犯人は祐輔の身近な誰かということになる。
 しかし、ガラパゴスに出入りしているメンバーの中に庇う必要のある人物がいるとは思えなかった。いるとすれば熊谷くらいだけれど、熊谷は(芝居の可能性は捨てきれないけど)祐輔が殴られたことを知らなかった。
 そうなるとあとは限られてくる。由真の監禁事件に関わりがあって、祐輔が警察に自分を殴ったとして告発することのできない人物。
「どうしたんだい、そんなに怖い顔して?」
 ジュニアはアタシの顔を覗き込んだ。
「ううん、なんでもない。じゃ、そろそろお暇するね。コーヒー、ごちそうさま」
 アタシは立ち上がった。ジュニアは小さく頷くと机の書類に視線を戻した。








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