砕ける月

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  第 47 章  

 徳永邸のガレージには予想していた通り、真紅のフォルクスワーゲン・ゴルフが停まっていた。
 それが徳永麻子のクルマだということは事前に靖子から聞いていた。この前来たときには停まっているのに気づかなかったけれど、ガレージが暗かったのと熊谷のAMGメルセデスの影で見えなかったのだろう。医者にはベンツとゴルフの愛好者が多いと誰かに聞いたことがあったけど、裏づけのある話かどうかは分からない。
 アタシはインターホンのボタンを押した。
 スピーカーは沈黙したままだった。
 アタシは爪先立って高い門扉の向こうに見える建物のほうを窺った。
 夜だったこの前と違って中の様子を窺い知ることは出来そうになかった。二階のベランダに面したフランス窓に分厚そうなカーテンが引かれているのが見えただけだ。洗濯物のような白い布が干されているのも見えたけど、不在かどうかを見分ける役には立たなかった。
 アタシはもう一度インターホンのボタンを押した。
 やはり返答はなかった。
 徳永麻子が勤務先にも息子の入院先にも姿を見せていないことは、”訳あり”という言葉が三度のご飯より好きそうな靖子の同僚に確かめてあった。祐輔が特別病棟に収容されたというのを靖子に教えたのもその同僚だった。
 理事長はショックで体調を崩している。院長――徳永圭一郎は訝る周囲にそう説明したのだそうだ。問題はそのショックが何を原因にしたものであるか。
 アタシはそれを直接確かめるためにここへ来たのだった。
 この前は三回目だったなと思いながらボタンを押そうとしたときに、この前と同じようにスピーカーから声が聞こえた。
「……うるさいわねぇ、何時だと思ってるの?」
 どこか気だるそうな不機嫌な声だった。女性にしては低く威厳のある声が徳永麻子のものであることは間違いなかったけれど、蓮っ葉な物言いはまるで別人のようだった。
 酔っている。
 アタシは直感的にそう思った。
「もう二時を過ぎてますよ。こんにちは、榊原です」
「カメラに映ってるから、見れば分かるわ。――何の御用?」
「昨日、祐輔さんがケガして入院されたそうですね」

「どうして、それを?」
 徳永麻子が言った。感情の抜け落ちた平板な物言いだった。インターホンのカメラが彼女の代わりにアタシをじっと見据えていた。
「……そういえば昨日、祐輔が運ばれた病院にいたそうね。主人が貴女を見たって言ってたわ。――それで、それがどうかしたの? 祐輔だったらウチの病院に転院させたわ」
「知ってます。アタシ、愛宕の病院までお見舞いにいったんです。でも、面会謝絶で会わせてもらえなくって。でも、せっかくお菓子を買ったんで、せめてご家族に食べてもらおうかと思って」
 アタシはカメラの前に姪浜のケーキショップで買ってきたケーキの小箱をかざして見せた。
 よそ様のご家庭を訪ねるときには必ず手土産を。我が名門女子校で教えられる麗しい慣習の一つだ。高校生に求めるものではないと思うけど。

「そう、ありがと。でも結構よ。持って帰って自分で食べてちょうだい」
「そうですか? でもアタシ、甘いもの苦手なんですよね。それに、他にも祐輔さんに届けて戴きたいものがあるんですよ」
「だったら、郵便受けに入れといてちょうだい。入らないんなら、門扉の足元に置いといてくれてもいいわよ」
「いいんですか? 無くなったりしたらお困りになると思うんですけど。――アタシじゃなくて、祐輔さんが」

 彼女はこれ見よがしに芝居がかったため息をついた。
「もったいぶった言い方しないで。何なの、届けて欲しいものって?」
「由真からの手紙です」
 プツンとスイッチが切れたような沈黙が漂った。辺りの蝉の鳴き声のヴォリュームが二段階ほど跳ね上がったような錯覚を覚えた。
「……よく意味が分からないんだけど?」
「アタシにもよく分からないんですけどね」
 ウソではなかった。高橋がこれをアタシに寄越した理由は分かっていない。ただ、何のメッセージもなかったのならどう使おうがアタシの勝手なはずだった。
「アタシ宛てに届いたものなんですけど、内容がどうも祐輔さんに知らせたほうが良さそうなものだったんで。あ、長ったらしいタイトルもついてますよ。えーっと――”医療法人敬聖会福岡中央病院における医療事故、及び、隠蔽工作に関する告発書”だそうです」
 徳永麻子は再び沈黙した。聞こえるはずのない息遣いがスピーカーから洩れてくるような沈黙だった。
「……そう。じゃあ、郵便受けに入れておいてもらえる? 今、ちょっと手が離せないから。すぐに取りに行くわ」
「いえ、手が離せないんだったらいいです。自分で届けますよ。――アタシの知り合いに」
「知り合い?」
「アタシの父親のことはご存知ですよね? そのツテで警察には知り合いが多いんです」
「脅すつもり!?」
 彼女の声が唐突に気色ばんだ。
 アタシはカメラに向かって、逆転のロイヤル・ストレート・フラッシュを引き当てたギャンブラーのような満面の笑みを浮かべて見せた。
「中に入れてもらえませんか。日差しが強くて熱射病になりそうなんです。アタシ、警察の人に貰った名刺とか持ってますし、こんなとこで倒れたら連絡がいっちゃうんで」
 返事はなかった。代わりに門扉のロックが外れるカチリという音がした。


 アタシが通されたのはこの前の客間ではなくて、奥にあるキッチンと間続きの広々としたリビングだった。

 とは言っても、迎えに出てきてくれたわけではない。鍵のかかっていない玄関を開けたら中から少し呂律のあやしい大声で呼ばれたのだ。
 カーテンが閉め切られているせいで部屋の中は薄暗く、タバコと酒の退廃的な匂いに満ちていた。
 空調が効き過ぎていて鳥肌がたつほどだった。日差しが照りつける灼熱地獄からやってきた身にはありがたかったけど、ずっといたら間違いなく体を壊してしまうだろう。
 リビングの真ん中にはカーキ色の大きなソファ・セットとクローム仕上げのテーブルが置いてあった。麻子は同じ色のクッションを背当てにして、それに埋もれるように体を預けていた。
 彼女の目の前にあるのはフィリップ・モリス・メンソールのパッケージ、ガラスのタンブラー、ビーフィーターのボトルだった。灰皿には押し潰されて捻れた吸殻が縁からこぼれるほど積み上げられている。ボトルの傍らには封を切ったばかりを示す金属片付きのキャップが転がっていて、それにもかかわらずボトルの中身は半分も入っていなかった。
 その光景だけでアタシの疑問の半分は答えてもらったようなものだった。
 彼女の正面の壁際にはアタシの祖父のものと同じくらい大きなテレビがあって、画面にはいかにもホーム・ムービーらしい映像が映し出されていた。
 それはピンクのワンピースを着た小学生くらいの由真が、祐輔と手を繋いで満開の桜並木を歩いている様子だった。ポニー・テイルの由真はいかにもませた感じで、人目を引く容貌は当時からだった。

 それに比べれば祐輔は垢抜けないニキビ面の高校生(だろう、多分)で、スエードのような質感の黒っぽいジャケットにVANのトレーナー、ベージュのチノパンといういかにも良家のお坊ちゃんらしい格好だった。背景に映っているのは古民家風の土産物屋の並びで、看板や並べられている品物からそこが”福岡の小京都”と呼ばれる秋月城址だということが分かった。
 撮影しているのは父親で、フレームにはチラチラと母親の顔もカットインしていた。声がうまく拾えてなくて何を話しているのは分からなかったけれど、そこに映っているのはどこにでもある幸せな家庭の姿だった。
 アタシが見ているのに気づくと、麻子はテレビのスイッチを切ってリモコンを無造作に放り出した。床に落ちたリモコンの裏蓋が外れて乾電池が軽々しい音とともに転がりだした。
 アタシは一応、礼儀正しく頭を下げて挨拶した。彼女は手でアタシに座るよう勧めた。
 かなり険悪な雰囲気であることを覚悟していたのだけれど、意外にも彼女は生気の感じられない微笑を浮かべて、アタシを迎えた。
 アタシは買ってきたケーキの小箱をテーブルに置いた。この様子では麻子の口に入ることもないだろうと思いながら。
「祐輔さんの容態はいかがですか?」
 アタシは訊いた。

 彼女は少し驚いたように目を見開いて、またそれを細めた。
「どうして私に訊くの? 貴女は祐輔の搬送先にいたんでしょう。あの、何ていったかしら」
「浦上脳神経外科ですね」
「そう、そこよ。あの生意気な若造が院長のところ。あそこじゃ教えてくれなかったの?」
「額を強打して脳震盪を起こしていたそうですね。側頭部にも大きな瘤があったそうです。頭蓋骨骨折、硬膜外出血の心配はなし。脳内出血は見られるけど軽微。意識はほぼ正常に戻っているし、後遺症の心配もないって話でした」
「それだけ知ってれば、私に訊く必要はないんじゃないの」
「そうでもないです。アタシが聞いた限りじゃ、わざわざ転院させるほどのケガじゃないはずなんで。しかも警備員付きの特別病棟なんかに。ひょっとして何か別の症状でも出たのかと思って」
「若いのにずいぶんと皮肉が上手なのね。祐輔が特別病棟にいることなんて誰が教えてくれたの? ウチの外来受付はそんなこと言わないはずだけど」
「知り合いです」
 彼女は小さく鼻で笑ってみせた。
「人が言う”知り合い”と”友だちの友だち”は実在しないっていうけど。――あ、貴女も飲む?」
「結構です。バイクなんで」
 訊いてみただけだと言わんばかりの表情で麻子はビーフィーターのボトルを引き寄せた。グラスの半分ほど中身を注ぐとそれを口に運んだ。不味い水道水を我慢して飲んでいるような感じだった。
「由真の手紙とやらを見せてもらえるかしら」
 手渡した告発書は昨夜、梅野に見せたコピーだった。原本は同封されていたCD−ROMと一緒にアタシの机の抽斗にしまいこんであった。
 文書の注釈にCD−ROMにはカルテのデータと文書自体が収められていることが書かれていた。靖子にCD−ROMを調べてもらわなかったのは、アタシ宛のものじゃないのでメッセージは入っていないと思ったからだけれど、同時に彼女が恋人を告発する文書の存在を目の当たりにして、冷静でいられるかどうか分からなかったからだ。

 それが存在しなければ恋人を告発する材料がなくなる。靖子がそう思えばCDを破壊しようとしても不思議ではない。アタシが村上に――それが正しくないことは分かっていても――父親を庇う証言をして欲しかったと思うのと同じだ。
 斜め読みなのか元々読むのが早いのか、読み終わるのにはそれほど時間はかからなかった。彼女は無造作にそれをテーブルに放った。
「――これだけ?」
 麻子は意外そうに言った。
「どういう意味ですか?」
「他に同封されているものはなかったのかって訊いてるの。貴女へのメッセージとかは?」
「ありませんでした。入っていたのはその告発書だけです」
「いつ届いたの、これは?」
「昨日です。誰かがウチのポストに放り込んだらしいんです」
「誰か?」
「投函するところを見てないんで、誰かは分かりません。まあ、予想はついてますけど」

 彼女は新たなタバコに火をつけた。気だるそうに白い煙を口の端から吐き出した。酷薄な微笑が彼女の顔に貼り付いていた。深刻になる一方の事態を他人事のように楽しんでいるかに見えた。
「もったいぶるのが好きみたいね。それは私には言えない誰か?」
「そんなことないですよ。由真の彼氏です。高橋さんっていうんですけどご存知ですよね」
「――どうして私が知ってるの?」
 麻子の笑みが深くなった。
「由真がこの告発書を使ってやろうとしていたことの関係者の一人です。熊谷さんは把握されてましたから、当然、ご両親には報告がいってるんじゃないですか?」

 由真がやろうとしていたことという言葉に、麻子はかすかに反応を示した。
 しかし何も言わなかった。アタシがどの程度まで知っているのか興味がないわけではないだろう。単に問い質すのが、あるいは反論するのが面倒だったのかも知れない。
「彼が知ってることを全部、私が聞いているわけじゃないわ。何をしようとしているのかもよくは分からないし、何がしたいのかも分からない。もう二十年近い付き合いなのに」
「由真のお母さんとお付き合いされてたんだそうですね」
 麻子はキョトンとした顔をした。アタシがそれを言い出した意味が彼女には分からないようだった。
「どうして貴女がそんなことを?」
「熊谷さんが話してくれたんです。警察でアタシの父親の同期だったそうなんですけど、今のお仕事をされるようになった経緯の話の中で」
 端折った説明ではあるけれど嘘ではなかった。
「そう。熊谷くんがそんなにお喋りだとは思わなかったけど。でも、二人の間柄はお付き合いって言えるのかしらね」
 あのヒゲ面に”くん”付けはかなりの違和感があった。もちろん口には出さなかった。
「どうなんでしょう。本人もプロポ−ズしたわけじゃないとはおっしゃってましたけど」
「そんなことができる人じゃなかったわ、彼は。主人も私も何度もけしかけたのに」
「ご主人は熊谷さんの同級生なんだそうですね」
 麻子は頷いた。
「高校が一緒なのよ。社会に出てからもずっと友だち付き合いは続いててね。ウマが合うっていうのかしら。熊谷くんが警察を辞めて自分でコンサルタント業を始めたときに、敬聖会として契約することを決めたのも主人よ」
「それで、事務長に?」
「そういうわけでもないけど。まあ、彼がそういう仕事に向いてたのは確かね。ウチの病院がここまで大きくなったのが彼のおかげであることは認めざるを得ないわ。主人は医者としては優秀なんだけど経営者には向いてなかったから」
 祐輔の話によれば、この辺りのことについては麻子と熊谷の間にはかなりの確執があるということだったけど、彼女はあっさりと熊谷の功績を口にした。それが”事実は事実として認める”という姿勢によるものか、単に声を荒げるだけの気力がないのかは彼女の口ぶりからは判断出来なかった。
「由真のお母さんは、熊谷さんのことをどう思われていたんですか?」
「さあね。二人で一緒に出かけたりしてたくらいだから、嫌いじゃなかったとは思うけど。でも、他に好きな人がいたのかもしれないわね」
「そんな人が?」
「あ、いや、私がそう思ってただけよ」
 麻子は突然、慌てたように言い足した。アタシは釣り球を投げた。
「でも、由真のお父さんは福岡の人なんでしょう?」
 麻子はその言葉が時間差で耳に届いたように、ゆっくりとアタシを見た。
「……誰がそんなこと言ったの?」
「祐輔さんから聞きました。そうでないと計算が合わないって」
 麻子はグラスにジンを注いで、それも一息に飲み干した。ボトルはそれで空になった。酔うために飲んでいるというより自分の体を痛めつけるために飲んでいるようだった。

「……それは貴女には関係のないことよ。それで、これをどうするつもり? 祐輔に見せるの? それとも警察に持って行くの?」
「アタシがこれを見せたかったのは祐輔さんでも警察でもありません。――あなたです」
「どうして私に?」
「あなたはその告発書にあるはずのものがないことに気づいているんじゃないですか?」
 彼女はたっぷり一分は沈黙したままだった。アタシはその間ずっと彼女の様子を眺めていた。やがて麻子は大きく息をついて口を開いた。
「そう。それが何だか聞いてみたいわね」
「医療事故の後に起こったもう一つの事件。村松俊二医師の死の真相です」
「安手のサスペンスドラマみたいなタイトルね」
 彼女はせせら笑った。アタシは何も言わず、じっと彼女の目を覗き込んだ。アタシと麻子は薄暗い部屋の中で見えない目の色を探り合った。
 やがて彼女は力なく視線を外した。
 アルコールで言うことを聞かない脚を宥めながら立ち上がって、サイドボードに並ぶボトルの中からグレンリヴェットを取り出した。
 ジンの後にシングルモルトの味が分かるとは思えなかったけど、もはやアルコールでさえあれば味などどうでもいいのだろう。彼女はそれとタンブラーを一個持って戻ってきた。
 彼女は椅子に倒れこむように座って、そのグラスをアタシに差し出した。
「――貴女も付き合いなさいよ。由真の友だちなら飲めるんでしょ?」
 あまりに甚だしい論理の飛躍に苦笑しながら、アタシはグラスを受け取った。麻子はアタシのグラスになみなみと、まるで表面張力の実験でもするかのようにグレンリヴェットを注いだ。
 用心しながらグラスを持ち上げて、こぼれる心配をしなくていいくらいまで琥珀色の液体をすすった。
 祖母に見つからないように祖父の晩酌のご相伴をするときを除けば、今の家に来てからはほとんど飲まなくなった――グレてた頃だってそんなに飲んではいなかった――のだけれど、ここ数日でずいぶんとアルコールに親しんでいる。しかも目の前にいるのは親友の母親で、しかも祖母と同じOG会の役員だ。
 麻子は自分のグラスも同じように満たして口に運んでいた。手元があやしいのか滴が垂れて指を濡らしている。
「由真はばれてないと思ってるみたいだけど、あの子がお酒が好きで、今でもこっそり飲んでるのは知ってたわ。血は争えないものね」
 麻子が言った。
「ご家族、皆さんお酒好きなんですか?」
「そうじゃないわ。ウワバミ揃いなのは徳永家の血筋ってこと。私も妹の佳織もね。祐輔は父親似であんまり飲めないけど由真は佳織に似たのね。――あの子が中学生の頃、非行少女だったことは知ってる?」
「話は聞いたことがあります」
「親不孝通りのクラブ、踊るほうのやつだけど、そこで由真が補導されたことがあるの。誰かの誕生日だか何かで騒いでたら、そのうちの一人が急性アルコール中毒になっちゃってね。未成年の飲酒ってことで一同全員お縄ってわけ。夜中に身元引き受けにいったら刑事さんに言われたわ。お宅のお嬢さんが一番飲んでるのに一番平気な顔をしてるって。あの子、グラッパのボトルを一本、ほとんど一人で空けちゃったらしいの」
「そんなに!?」
 アタシは思わず声をあげた。
 麻子は苦笑しながら新しいタバコに火をつけて、グラスをまた口に運んだ。アタシはその時、グラスを持つふっくらした左手の薬指に指輪が見当たらないことに気がついた。
 麻子は話を続けた。
「あの頃、あの子は自分の本当の身の上を知らされて、どうしようもないくらい荒れてたわ。私は血の繋がらない由真に、どう接していいのか分からなかった。時間が解決してくれるのを待つしかないのかなって思ったりね」
「殴ったりはしなかったんですか」
「手を上げかけたことはあるわ。でも、それはできなかった。佳織を……あの子の母親を助けてやれなかった負い目みたいなものかしら。だから、祐輔が由真を殴ったのがきっかけで二人が関係を修復したって聞いたときは、驚くのと同時にちょっと情けなかったわ」
「そんなものですか。あんまりピンときませんけど」
「今はそうかもね。貴女も母親になれば分かるわ。ずいぶん先の話でしょうけど――いえ、今の子は早熟だからそうでもないかもね。由真が付き合ってる男の子、高橋くんっていったかしら。貴女が知っていることを教えてもらえるかしら」
 アタシは話した。
 高橋拓哉に関する話は彼の人となり(アタシだってそれほど彼のことを知っているわけではなかったけれど)から始まって、由真との馴れ初めが彼女の非行少女時代まで遡ること、今は両親が経営する会社を手伝っていること、コンピュータとラップ・ミュージックが好きでホンダのライトウェイト・スポーツに乗っていること、見た目はちょっと――いや、かなり――ハンサムとは言い難いこと、でも実は由真のほうがベタ惚れなことなど、あまり脈絡もなく続いた。由真との間柄が今どき珍しいくらいプラトニックなことも付け加えておいた。
「……そう。いつまでも子供じゃないのね。特に女の子は」
 過ぎ去った日々を思い出すような遠い目をして、麻子は口許を弛ませた。

「本題に戻りましょうか」
 アタシは言った。
 麻子は言うことを聞かない不良患者を見るような冷たい視線を向けた。目の前の小娘が自分にとっていい知らせを持ってきたわけではないことを思い出したようだった。
「本題?」
「そうです。村松医師を殺したのがあなただっていうのは、本当なんですか?」
「……ずいぶんと単刀直入な質問ね」
 麻子はせせら笑おうとして皮肉っぽい表情を浮かべた。いや、そうしようとした。彼女の顔はだらしなく歪んだだけだった。アルコールで溶け崩れた顔の筋肉が、まともな表情を維持することが出来なくなり始めているのだった。
「そうだったらどうなの? 警察にでも通報する?」
「アタシが由真だったら、そうしたかもしれませんね。あなたもそう思っていたんじゃないですか」
「そうね。あの子は祐輔と一緒に自首しろって言ったわ」
「そしてあなたは、由真を引っ叩いた」
「ホント、あなたって何でも知ってるのね。ウチには監視カメラでもついてるのかしら」
「知りたくて知ったことじゃありません」
 アタシはピシャリと言った。
 麻子は酷薄な微笑を浮かべたままグラスを手に取ろうとした。グラスは一度は浮き上がったけど、支えになる力を失ってテーブルに倒れた。中の液体が流れ出す血のようにテーブルの上に広がった。
 アタシは話を続けた。
「あなたに自首する意志がないことを知ると、由真は自責の念で苦悩する祐輔さんを救うために、事件を告発することにしました。自分の居場所を捨てる覚悟で。彼女は証拠となり得る偽造された二通の電子カルテを手に入れ、この告発書を作った。これが世に出れば、捜査のメスが入ることになる。医療事故の時には、遺族の訴えで警察が来たんですよね?」
「通り一遍のことを調べただけよ。こっちは少なくとも、ミスの存在は認めていたしね。――ビビる必要なんか、どこにもなかったのに」
 最後の一言は今はこの世にいない男へのものだった。
「しかし、この告発書には医療事故のことは書かれているけれど、あなたが犯した殺人のことは触れられていません。どうしてだと思います?」
「さあね。そっちの証拠は手に入らなかったからじゃないの?」
「アタシが由真から受け取ったMOディスクには、首を締められて殺されたオジサンの死体の写真が入ってましたよ」
「……ああ、やっぱりそういうことなのね」
 アタシが首を突っ込んできた理由に合点がいったのか、麻子は大きく頷いた。
「由真が本気で告発するつもりだったら、こっちのほうが、告発書なんかより効果的だったと思うんですけどね。警察の捜査と心臓発作のタイミングがあまりにも良すぎるんで、関係があるんじゃないかって勘ぐっていた職員は多かったみたいですよ。緘口令が敷かれてたんで、何も言う人はいなかったそうですけど」
 河村靖子は当時のことを「まるでお役所で働いているようだった」と評した。
 ついでに言うと、このことがそれほど(というかまったく)取り上げられなかったのは、その直後に西方沖地震が起こっていたせいで事件性があるかどうか分からないことへ人手を割くほどマスコミがヒマではなかったことが原因の一つらしかった。
「あなたは一体、何が言いたいの?」
 麻子は嘆息した。
「由真にはあなたを告発する意思なんかなかったし、ましてや家族を脅迫するつもりなんか、さらさらなかったってことです。それどころか、彼女はあなたの殺人を隠すために、熊谷さんの事務所から彼の弱みになりそうなファイルを盗み出して、あなたから手を引かせようとさえしているんです」
「……知ってるわ、そんなこと」
 麻子はプツン、と言い放った。


 手で触れそうなほど濃密な沈黙がアタシと麻子の間を漂った。
「……今、なんて言いました?」
「知ってるって言ったの。あの子があたしが村松を殺したことを知ってるのも、祐輔が追い詰められていく姿に心を痛めてたことも。熊谷の事務所からカルテと村松の写真を盗み出したことも。あたしを告発する気なんてないことも。そのために熊谷と取引しようとしたことも」
 いつの間にか熊谷は呼び捨てに格下げされていた。
「じゃあ、脅迫のメールは?」
「もちろん、あれが熊谷相手に送られたものであることも知ってるわ。実はあれは編集されててね、不都合なところはカットしてあるの」
「何のためにそんなことを?」
「主人と祐輔を騙すためよ。そうじゃないと、由真が行方をくらましてる――まあ、本当は熊谷が身柄を押さえてるんだけど、それが不自然になっちゃうじゃない」
 アタシはわけが分からなくなってきていた。しかし、とりあえず話を続けた。
「だったら、由真の居所をご存知なんですね?」
 麻子は首を振った。いよいよ力が入らなくなってきているようで、首振り人形のように頭がグラグラと揺れていた。
「さあ。それは熊谷が教えてくれないから知らないわ。あ、ついでに教えておいてあげるわ。由真が彼のところから盗みだしたのは、彼がこれまでやってきた汚れ仕事の記録と、いろいろと工作した政治家や警察関係者の一覧表、それと彼らと取引するための材料よ。スキャンダルとか、そういうもの。由真のいうとおり、絶対に表沙汰に出来ないわね、その三つのファイルは」
 麻子はライバルの没落を見てほくそ笑む政治家のような底意地の悪い微笑を浮かべた。
 目許がとろんとしていなければさぞ邪悪に見えたに違いなかった。声のほうは今のところ少し語尾が不明瞭な以外はしっかりしていたけど、いつ堰を切ったように崩れ始めるかは分からなかった。
「だったら、何故、あなたは熊谷さんの言いなりになっているんですか? 確かに彼はあなたの弱みを握ってるけれど、あなただって由真からその三つのファイルを手に入れれば、同等の立場に立てるじゃないですか。いえ、それ以上に優位かもしれない。熊谷さんの事務所のコンピュータは由真の彼氏が壊しちゃってるし、実家に隠してたオリジナルもその彼氏が盗み出してる」
「実家?」
 アタシは高橋が熊谷の久留米の実家に空き巣に入って、オリジナルと称する何かを盗み出したことを説明した。オリジナルが何であるかはいまだに推測だけれど、おそらくは村松俊二殺害の証拠のことだと思われることも付け加えた。
「ああ、そんなところにあったのね。道理でこっちにはなかったはずだわ」
「こっち?」
「福岡にってことよ。熊谷の事務所とかマンションとか。あと、隠れ家に使ってる雑餉隈の潰れたスナックとか」
 一瞬、彼女の目に苦痛の色が走るのが見えた。
 やはり、そうだったのか。
「祐輔さんをガラパゴスに呼び出したのは、あなたなんですね」
「……祐輔が、これ以上は我慢できない、自首するって言い出したの。それは別にどうでも良かったわ。本当にそうなの。自首して罪を償うことであの子が救われるんなら、それでも良かった。私も逮捕されようが、それもどうでもよかった。でも、今はそういうわけにはいかなかったの。だから、あと少しだけ待ってくれって言ったのよ」
「でも、祐輔さんは聞き入れなかったんですね」
「もう待てない。自分が自首すれば由真は隠れている理由がなくなる。祐輔はそう言ったわ。あの子は由真が監禁されてることは知らないから」
 アタシは吉塚のマンションや病院での祐輔の言動を思い起こした。アタシが言わなかったのもあるけれど、確かに祐輔は由真が自分の意思で身を隠していると思っているフシがあった。
「どれくらい言い争ったのかしらね。気がついたら、私はガラスの灰皿であの子を殴り倒していたわ。自分にそんな重いものを振り上げる力があるなんて信じられなかった。同じことを、村松の首を締め上げたときにも思ったんだけど」
「そのまま、祐輔さんを放置したのはどうしてですか?」
「放置する気なんかなかったわ。主人に連絡して、ウチの病院に運ぶ気だったの。でも、なかなか連絡がとれなくって。そこにずっといるわけにもいかないから、ちょっとだけその場を離れたわ。そしたら、その間に誰かがスナックに来て、警察を呼んじゃったのよ」
 その誰かがアタシであることは黙っていた。
 麻子は唐突に大きなあくびをした。アルコールが肝臓の限界を超えつつあるようだった。
「――ああ、そろそろ眠くなってきちゃったわ。アルコールがないと眠れないのよね。このところ、ずっとそうなのよ。人並みに罪の意識ってやつがあるのかしらね」
 麻子は目を細めて自虐的に笑った。アタシがこれまで見た中で一番、彼女に似合わない笑い方だった。
「そろそろ帰ってもらえるかしら。主人ももうすぐ帰ってくるし」
「まだ質問に答えてもらってません」
「えーっと、なんだったっけ……、ああ、何で私が熊谷の言いなりになってるか、だったかしら?」
 アタシはそうだと言った。
「そうね、あなたの知らない、大人の事情ってことにしておいてくれないかしら。別に洗いざらい話さなきゃならない理由はないはずよ」
「話したくないということなんですね。いや、話せないような事情が、まだあるってことですかね」
「どっちでもいいわ。――帰ってちょうだい」
 麻子は犬を追い払うように手を振った。もはやその高さまで手を上げるのも億劫な感じだった。これ以上は何を言っても無駄だった。
 アタシはその場を辞するために立ち上がった。
「――おい、どうしたんだ、昼間から」
 背後で声がした。
 ドアが開いて徳永圭一郎が入ってきていた。声には微かに怒気が含まれていたけれど、アタシの存在に気づくと彼はキョトンとした顔をした。
「あ、いや、いらっしゃい。君は――」
「お邪魔してます。昨日は浦上先生のところでお会いしましたね」
「あら、ずいぶんとお早いお帰りねぇ。中洲で接待でもあるんじゃないかと思ってたけど」
 麻子はそう言ってケラケラと笑った。さっきと言っていることが違っていた。その粘着質の物言いは、親しげに絡みつきながら見えないところで脇腹をつねる性質の悪い悪女を連想させた。
「馬鹿なことを言うな。こんなときに接待なんか受けるわけないだろう。――えっと、榊原さん、だったね。何の用事だったのかな」
「ケーキを持ってきて下さったのよ。祐輔のお見舞いに」
 アタシを遮って麻子はケーキの小箱をつまみ上げて見せた。しかしそれは彼女の指先から滑り落ちて床に転がった。わざとやったのかどうかは分からなかった。
「ああ、何をやってるんだ。おい、しっかりしろよ」
 徳永圭一郎は大股で妻に近寄って、彼女の身体をまっすぐにソファの背もたれに押し付けた。ケーキを取り上げてテーブルの上に置き、その間にまただらしなく崩れそうになった妻を支えた。
「じゃあ、アタシはこれで失礼しますね」

 アタシは言った。
「ああ、すまなかったね、こんなところを見せて」

「いえ。お邪魔しました」
 アタシは二人の傍を離れてドアの前に立った。振り返ると夫は懸命に妻の身体を支えようとして、妻はそれに抗うように身体の力を抜き続けていた。立場こそ逆だけれどまだ母親が生きている頃にはアタシの家でも見られた光景だった。
 それは一見、仲睦まじい夫婦の姿に見えた。
 しかし、妻を見る圭一郎の目に浮かぶ色がその微笑ましいはずの光景を台無しにしていた。それは明らかな侮蔑の眼差しだった。
 アタシは何も言わずにリビングを出た。
 吹き抜けの玄関ホールは明かり取りの窓から差し込む陽光で満たされていた。今までずっと薄暗い部屋にいたせいで、その中に踏み出すのには奇妙な勇気が必要だった。
 アンティーク調の家具も天井から吊られたシャンデリアもそのままだった。しかし、あの夜にアタシが眺めていた祐輔の油彩画は取り外されていた。代わりに掲げられていたのは何の面白みもないクリスチャン・ラッセンのポスターだった。
 アタシはふと思い立って、玄関ホール脇の応接間のドアを開けた。
 そこもカーテンは締め切られていて、室内にはむせ返るような熱気がこもっていた。アタシはサイドボードの上を見た。この前はあった、若かりしころの徳永姉妹を写したフォトスタンドとオルゴールはなくなっていた。
 そこには代わりになるものは何も置かれていなかった。







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