「――出頭する前に、確証は得られましたか?」
アタシは訊いた。
「えっ?」
「あなたはそのためにアタシを呼んだんでしょう」
アタシはもう一口、ビールを口に含んだ。
「それとも、ただ無駄話がしたかったんですか? 自分が妹と夫と部下を殺したのは、いずれも私欲が原因だってアタシに念を押しておきたかったんですか? ――そんなことないですよね」
麻子はわざとらしいため息をついた。
「何を言い出すかと思ったら……。いい加減なことを言わないで頂戴」
「いい加減なのはあなたのほうです」
アタシはピシャリと言った。
「財産が流出するのが嫌だから夫を殺した? そんな出鱈目、信じられるわけがないじゃないですか」
「出鱈目? だったら、私は何の確証を得たくて貴女を呼んだの?」
「あなたが守りたかった秘密に、アタシが気づいているのかどうか。警察に出頭する前に、あなたはそれを確かめずにはいられなかった。違いますか?」
麻子の目が暗く翳った。この期に及んでも余裕たっぷりだった彼女の表情に、初めて怖れの色が浮かんだ。
「……何のことかしら?」
「祐輔さんが言ってましたけど、由真が佳織さんのお腹に宿ったのは失踪の約半年前だそうですね。よほどの早産で産まれたのでない限り、そうでなければ計算が合わないんだとか。それは間違いないですか、先生?」
アタシは皮肉を込めて彼女をそう呼んだ。
「確かにそうね」
「分かりました。でも、その頃に佳織さんの周りに他の男の影はなかった。祐輔さんの話ではいたはずなんですけどね。まあ、いなきゃ子供は出来ませんけど」
「何が言いたいのか、さっぱり分からないわ」
「つまりこういうことです。そんな男性がいたのなら、佳織さんが熊谷さんのことをいつまでも思わせぶりにキープしていたとは思えないし、その必要もなかったはずです。なのに佳織さんは受け入れるでもなく、断るでもなく、いつまでも答えを出さなかった。と言うか、答えを出せなかった。――何故だと思います?」
「……何故?」
「由真の本当の父親が、佳織さんにとって関係があることを公言出来ないような間柄の男性だったからです。――そう、例えば義理のお兄さんであるとか」
麻子は目を限界まで見開いて、アタシに投げつける罵詈雑言を探しているように口をパクパクさせた。
でも、言葉は出てこなかった。代わりにまるで発作のように呼吸が荒くなった。
「あなたって子は……!!」
「アタシがそうじゃないかって思ったのは、実は昨日の昼間にお話ししたときの、由真のお酒の話の中でのことなんです。あのとき、あなたは言いました。祐輔さんは父親似であんまり飲めないけど由真は佳織さんに似たって。これってそのまま聞けば、血の繋がった兄妹を比較しているように聞こえますよね。それにおかしくないですか? 由真の本当のお父さんがアルコールに弱いかどうかなんて、あなたに分かるはずもないのに」
「ずいぶんと、こじつけがましく聞こえるわ」
「……そうだったらいいなって思ってますけどね」
アタシは言った。麻子はおこりのように、何度も肩を上下させていた。
「ご主人と佳織さんがいわゆる愛人関係にあったことは、もちろんあなたには内密だったんでしょう。だから佳織さんが福岡に戻ってきたとき、あなたは熊谷さんに由真の父親のことで詰め寄ってますよね。でも、父親は熊谷さんではなかった」
アタシは言葉を切ってバドワイザーを飲み干した。いつもよりしゃべっているからではなくて、他の理由で口の中がカラカラだった。
「佳織さんが父親が誰なのかを明かさなかったために、由真は”佳織さんが何処の馬の骨とも知れない男との間に作った娘”ということで落ち着くことになった。ある意味では、それはそれで良かったのかも知れません。しかし、精神を病んでいたという佳織さんがある日、あなたにすべてをぶちまけたのだとしたら。たった一人の妹が自分を裏切っていたのだと知ったあなたが、カッとなってナイフに手を伸ばしたのだとしても、何の不思議もありませんよね」
「……何も認めないわ」
麻子はようやく、肺の中の空気を搾り出すようにそう言った。
「何も証拠はないわ。熊谷くんも佳織も、もちろんあの人も、もう何も言えない。貴女の戯言を裏付けるものは何もないのよ」
「確かにそうです。DNA鑑定でもすれば別ですけど」
「そんなことはさせないわ!!」
ホッチキスの音に似た安全装置の音が、何かを噛みちぎる顎の音のように響いた。
麻子は吊り上がった目でアタシを睨みつけていた。火の出るような視線というものに本当に熱があったら、アタシは焼き殺されていたに違いなかった。
「アタシも鑑定する必要なんてないと思ってます。そんなことをしたって、由真に余計な重荷を背負わせるだけですから。でも、どうしても知りたいんです。殺してしまうほど憎んだ妹の娘を、あなたはどうして、あんなに素敵な子に育てることが出来たんですか?」
持ち上がろうとした銃身がピタリと止まった。
「どういう意味?」
「由真は父親の事件で荒れてたアタシに、あれだけ学校中で鼻つまみ者になってたアタシに、本当に屈託のない笑顔を向けてくれました。自分にも同じように荒れてたことがあるから、アタシの気持ちが分かるって。今のアタシの前に当時のアタシのような相手がいても、同じことが出来るとは思えません。でも由真は本当に当たり前のことのように、アタシに向かい合ってくれたんです」
麻子はフンと鼻で笑った。
「あの子が傷ついた中から、自分でそういう人間になったのよ。私が育てたわけじゃないわ。そうでなければ、佳織にでも似たんでしょうよ」
「バカなことを言わないでください」
アタシはキッパリと言った。
「そんなことはあり得ません。さっき、あなた自身が佳織さんのことを、昔から面倒ごとばっかり起こして尻拭いばっかりさせられたって言いませんでしたか? 外見はともかく、それじゃあのしっかり者の由真とは似ても似つきませんよ。由真はあなたに似たんです」
「……私に?」
「熊谷さんたちに拘束された前の日、由真はアタシの家に泊まりに来ていたんです。ちょっとだけ仲違いをしてたんですけど、その仲直りのためにわざわざ。彼女は初めて自分の出生のこととか中学生のころの話をしてくれました。その中で、由真はご両親への感謝を口にしていました。子供って本当に敏感なものなんですよ。自分が愛されてるのか、親は自分のほうを向いてくれているのか――そういうことには本当に。どれだけぎこちなくても、表面ではどれだけ反抗していても、愛情を注いでくれる人のことは分かるんです」
だから由真は自分の居場所を捨てる覚悟をしたのだ。愛する母親を救うために。
「そう……。だとしたら、由真はがっかりするでしょうね」
麻子は皮肉っぽく口許を歪めようとした。しかし、それは寂しげな微笑にしかならなかった。
「いずれにしても、もう遅いわ。私があの子の実の父親と母親を手にかけたことには、変わりはないんだもの」
「何故、今になってご主人を殺したんです? 確かにご主人もあなたを裏切ったんでしょうけど、それから十四年も経ってるじゃないですか。ご主人のことに関してはさっきの話は本当なんですか?」
「……逆よ」
麻子はポツリと呟くように言った。
「あの人はこれ以上、事態が泥沼になる前に逃げ出そうとしていたの。熊谷くんたちに現金を用意して、事件の揉み消しを図ろうとしたりね。何処からそんなお金が出てきたのかと思ったら、あの人、長いことかけてしっかり溜め込んでいたのよ。院長の権限を最大限に悪用してね。他にも、いつの間にか徳永家の資産も自分の名義に変えたりしてたわ。あの人にそんな才覚があるなんて思ってなかったから、ちょっと驚いたけど」
「出て行ってどうするつもりだったんですか?」
「あの人にはもう、医者を続けていくつもりなんかなかったの。あの人は罪に問われたとしてもせいぜい証拠隠滅と医師法違反。殺人の従犯までは問われないし、すべて妻を庇おうとしてやったことだと主張すれば、充分に情状酌量が見込めるわ。ちょっと腕のいい弁護士を雇えば、執行猶予で済む可能性だって低くない。自由の身にさえなってしまえば、あとは溜め込んだ資産でのんびり暮らせる。そういう目論見だったみたい。こんな人を夫として愛してきたのかと思ったら、本当に自分が情けなかったわ」
それまで抑え込んでいた感情が溢れたように、彼女の頬を涙が伝った。しかし、それ以上崩れる様子はなかった。
「あの人が佳織とそういう関係だったとしても、私はあの人を憎みきれなかった。貴女にはまだ分からないかも知れないけど、女ってそういうものでね。悪いのは愛する人じゃなくて誘惑した相手の女。身勝手だけどそう思い込みたくなるものなの。そうじゃないと、自分があまりにも惨めだから」
そんなものかと思ったけれど、返すべき言葉はなかった。
「昨日、貴女が帰ったあと、あの人はもう限界だ、とりあえず別居するって言って出て行こうとしたわ。あの人がそうしたいのならそれを止める気はなかった。でも、その前に私にはどうしても訊いておきたいことがあったの。由真があの人の子供だって知ったときから頭を離れなかった疑問がね。――”貴方は佳織のことを愛していたの?”って」
「答えはどうだったんですか?」
「簡潔だったわ。遊びに過ぎなかった――その一言よ。本当にそれだけ。佳織は精神的に不安定で、依存症じゃないかっていうくらい人に頼りきりになったりする子だったわ。あの人にとっては、佳織はそうやって自分に擦り寄ってくる都合のいい玩具に過ぎなかったのよ」
麻子は吐き捨てるように言った。
「佳織は自分なりに、あの人とそうなったことを悩んでいたみたい。私はまるで気づいてあげられなかったけどね。由真を身ごもったことを誰にも言えずに家を出て、東京で本当に苦労したみたい。なのにあの人は――」
「だから撃ち殺したんですね」
「背後から引き金を引いた瞬間、あの人が何が起こったのか分からないままベッドに倒れこむ姿を見て、本当にスッとしたわ。身体を捩って私のほうを見て、あんなにハンサムだった顔を情けなく引き攣らせたところにもね。弾がなくなるまで引き金を引き続けても、何の感慨も湧かなかったわ」
彼女は何とか笑おうとした。しかし、代わりに堰を切ったように涙がこぼれただけだった。
アタシはかけるべき言葉を探した。しかし、アタシのような小娘に彼女を慰めることなど出来るはずもないのだった。
「……真実を伝えるべきかどうかなんて、アタシには分かりません。ここにこうやって呼び出されなかったら、たとえ自分の考えに確信があったとしても、それを口にしたりはしなかったでしょう。でも、あなたと話して考えが変わりました。本当のことを話してください。こんな嘘で塗り固めた終わりじゃ由真も祐輔さんも可哀そうです」
「冗談言わないで。今さらどんな顔して、あの子たちに会えばいいのよ」
「それでも――」
麻子は目顔でアタシを遮った。
「私が佳織を殺したあの日、あの人と熊谷くんがそれを佳織の自殺に見せかける工作をしている間、私は自宅に連れ戻されていたわ。何もする気が起きなかったし、何も考えられなかった。自分がしたことの意味さえピンとこなかった。まるで悪い夢でも見ているような……。でも、部屋に入ってきた由真が何の疑いも持たずに近づいてきて、私の顔を覗き込んで、どうしたの?って訊いたとき、自分がしたことの罪深さを思い知らされたわ」
空いているほうの手が、そこに小さな手があるかのように、慈しむように空中を探っていた。
「せめて、この子を立派に育てよう。それが罪滅ぼしだと思ったわ。もちろん、それは自分に都合がいいように思い込もうとしたに過ぎないけれど。自分の罪とちゃんと向かい合ったわけじゃなかった。だからでしょうね、私はまた十四年後に同じ過ちを繰り返した」
「村松医師のことですね」
「祐輔を守ろうと思ったの。でも、私がやったことはあの子を余計に苦しめただけだった。村松先生には本当に申し訳ないことをしたわ」
「それはアタシじゃなくて、法廷で語ってください」
麻子は弱々しく首を振った。銃口がゆっくりと上がって彼女のこめかみに押し当てられた。
「バカな真似はやめてください」
「そんなことには耐えられないわ。いいえ、世間の糾弾だとか、そんなものが怖いわけじゃないの。死刑だって怖くないわ。そうなって当然なのだから。――でも、由真に知られることだけは耐えられない。あの子に恨まれることにだけは耐えられないの」
「そうやって逃げるんですか?」
アタシは少しずつにじり寄るように歩を進めた。しかし、麻子はさらに銃口を頭にめり込ませんばかりに押し付けるのを見て、それ以上近寄れなかった。
「だったら貴女から伝えてくれないかしら、由真に本当のことを。ごめんなさいって」
「お断りします。代わりに下げようにもアタシには頭は一つしかないし、それには熊谷さんの先約が入ってるんです」
「そういう話し方、本当に貴女のお母さんにそっくりよ」
アタシは焦れた。一気に飛び込むには距離がありすぎる。いくら非力な女性の手でもアタシが走るよりは早く引き金を引くことが出来る。
仮に近づけたとしても麻子のほうが看板の土台にいる分だけ高い位置で、手を挙げられたら銃そのものに掴みかかるのは難しかった。いくら座っているといっても左の前蹴りもそこまでは届かない。身体に一撃を加えることも考えたけどそれで銃を離さなければ揉み合いになる。
それまで頑なに見ようとしなかった隣のビルの屋上に視線を飛ばそうとしたそのとき、耳に突っ込んだイヤホンからジッという雑音が聞こえた。
『――援護する。突っ込め』
村上の声が聞こえた刹那、アタシと麻子の間でバドワイザーのビンが立て続けに爆ぜた。破裂音と飛び散る破片で怯みそうになるのを懸命に堪えた。
「キャアッッ!!」
悲鳴を上げて麻子はとっさに耳を押さえようとしていた。銃口がこめかみから外れた。
アタシは一足飛びに駆け寄った。それに気づいた麻子は銃口を戻そうとした。しかし、驚いた拍子に彼女の手はグリップの安全装置を離していた。
アタシはとっさの判断で彼女の正面に踏み込んだ。
左脚を軸に身体を半回転させながら、上段回し蹴りの要領で右脚を振り上げる。それが一杯まで上がったところで一気に腰を返すと、横回転の蹴りの軌道が上からの縦方向の軌道へと変化する。
アタシの決め技、ブラジリアン・ハイ・キック。
相手のガードの上を飛び越える要領で麻子の頭を掠めて、耳元の拳銃をめがけて思いっきり脚を振り下ろした。クリーンヒットではなかったけれどそのままの勢いで彼女の身体をも引きずり倒した。
麻子の手を離れた拳銃が放物線を描いてコンクリートの地面に落ちた。ゴトッという音を何故かハッキリと聞き取ることが出来た。
麻子はくぐもった呻き声をあげながら右手の指を反対の手を握りこんでうずくまった。拳銃ごと蹴ったときに指が折れたのかも知れない。
『真奈、ケガはないか?』
隣のビルを見ると屋上の貯水槽の上に村上がいた。右手には麻子のものよりもっと小振りな拳銃が握られていた。ビンが爆ぜたのは村上が陽動のために狙い撃ったのだ。
村上はこのビルにアタシを送り込んでから急いで移動して、アタシが麻子と話している間、そこでじっと様子を窺っていたのだ。会話の内容は無線機で筒抜けになっていた。さっきの電話は本当にかけたのだけれど村上は声を出せないので、ずっと生返事を返していただけだった。
鋼鉄の塊を蹴ったせいか右足が少し疼いたけれど、ケガというほどのことはなさそうだった。
「大丈夫。もう普通に声出していいわよ。早くこっちに来て」
『オーケイ』
アタシは足元の拳銃を隅に蹴りやった。
麻子はじっとアタシを見上げていた。すべての感情を投げ込んでも浮かんでこない井戸のような暗い眼差しだった。
「すいません、大丈夫ですか?」
自分でやっておいて大丈夫もないものだけれど、他にかける言葉は見当たらなかった。
「どうして? これ以上、私にどうしろというの?」
「さあ。それは自分で考えてください。ただ、あなたには由真に本当のことを話す義務があります。直接が無理なら裁判を通してでも」
「貴女が由真に話してくれるわけにはいかないのね」
「他の人にならそれでもいいかも知れません。でも由真には、あなたの口から真実を聞かされる権利があるはずです」
「……被害者の遺族として?」
アタシは少しだけ考えて、ゆっくり首を振った。
「いいえ。あなたの娘として、です」
麻子はしばらく押し黙ったままで顔を伏せていた。そして、搾り出すような小さな声で一言、ありがとうと言った。