Left Alone

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  第 3 章  

 慣れというのは恐ろしいもので、デビューであれほど自己嫌悪の地獄に叩き込まれる思いをしたというのに、それからおよそ一ヵ月でアタシはこの仕事に順応してしまっていた。
 散々だった最初のステージの翌日から、時間を作ってはレッスンスタジオに通いつめた。そこで歩き方や目線の置き方といった一挙手一投足を教わり、家に帰ってからは講師の先生よりも毒舌な由真のダメ出しを受けながらトレーニングに励んだのだ。慣れないパンプスで歩くのは結構きついものだった。足にマメを作ったのは久しぶりのことだ。
 ただ、その猛特訓の甲斐あってまだ粗削りではあるけれど、それなりにポージングやウォーキングも様になるようになってきていた。
 上達するのに比例して、少しずつ仕事を回してもらえるようにもなった。すっかりマネージャー気取りの由真は何処の現場にも着いてきてくれて、甲斐甲斐しくアタシの世話を焼いてくれていた。
 問題があるとすれば福岡のモデルプロダクションには九州中から仕事が舞い込む関係で、かなり遠くまで行かなくてはならない場合があることだった。副店長を勤めるもう一つのアルバイトと、そして本分である大学の授業との折り合いをつけるのは大変だった。
「ねぇ、由真。一つ訊いていい?」
 鹿児島のデパートで行われたショーの帰り、リレーつばめ(九州新幹線つばめと博多駅間を結ぶ特急のことだ)の車中で由真に言った。
「なぁに?」
「絶対、アタシって優遇されてるよね」
「どういうこと?」
「だって、どうせ長くやる気はないってハッキリ面接で言ったんだよ。……今だから言うけど、そう言えば”ヤル気のない奴はいらない”って不採用になるかなって思ったから」
「そうだったね」
「でも、他にも所属してるモデルさんはいるのに、アタシみたいな新人に仕事を回してくれるのはなんでだろ?」
「目標のお金が溜まっても、真奈がこの仕事を辞めないって分かってるからだよ」
 由真は事も無げに言う。思わず座席から身体を起こした。
「どうして?」
「適当にやってお金稼ごうって思ってる人の練習量じゃなかったもん。だからだよ、社長が真奈を買ってるのは」
「そんなもんかな」
 アタシは自分が、由真に半ば騙されるように始めたこの仕事に熱中している理由がよく分からなくなっていた。
 確かに明確な目標はある。プロダクションのスタッフは優しく気を使ってくれて居心地も悪くない。昔のように由真との間の齟齬を怖がっているわけでもない。
 由真はアタシのほうを見やって、少し意地の悪い微笑を浮かべた。
「あたしも今だから言うけどさ。最初のブライダルの仕事、ホントは他のモデルさんでも代役はできたんだよ。でも、社長が真奈にやらせろって。そこで大恥をかいたらあの子は絶対に伸びるって」
「……マジで?」
 そう言われても絶句するしかない。由真は言葉を続けた。
「負けず嫌いだもんね、真奈は。そこでへこんだままじゃ終わらないって分かってたのよ」
「見透かされてたってわけ?」
「相手はあたしたちが遠く及ばない海千山千の商売人だよ。特にこの仕事は人を見る目だけが頼りなんだって」
 由真は可笑しそうに小さく笑っていた。
「このまま続けるかどうか、約束はしないよ?」
「いいよ。真奈の好きなようにすれば」
 言葉とは裏腹に、アタシがこの仕事を続けるという自信が口調から窺えた。アタシとしてもそれを否定するだけの材料の持ち合わせはない。
 それからしばらく、お互いに黙ったままで車窓からの風景を眺めていた。
 由真がポツリと口を開いた。
「真奈は何に対してでも一生懸命だし、こうと決めたら絶対に諦めないよね。――二年前だって普通なら途中で逃げ出しててもおかしくないのに、あんな怖い思いをしてあたしを助けてくれたし」
 それはアタシに言っているようでもあり、独り言のようでもあった。
 一昨年の夏、アタシは行方不明になった由真を捜して、それまで出会ったことのないような連中を相手に大立ち回りをやらかした。
 今思えば何と命知らずなことをしたのだろうと思うけれど、そのときのアタシは”絶対に由真を連れ戻すのだ”という強烈な想いに衝き動かされていた。そして、それを諦めようという考えは一度も脳裏をよぎらなかった。
 それがモデルの仕事を辞めないことと関係があるのかどうかは分からなかったけれど、話はそこで途切れた。リレーつばめが博多駅に着いたからだ。
「あ〜、やっと着いたね。ねえ、ご飯どうする?」
「食べて帰ろうか。お店は任せるよ」
「そう、じゃあねぇ……」
 由真は心当たりを探るように指折りをし始めた。そんなに当てがあるのだろうか。
 車窓に流れるホームの光景を眺めながら、アタシはコンパートメントから中身のぎっしり詰まったボストンバッグを下ろし始めた。

 さんざん迷った挙句に由真が選んだのは、博多口(博多駅の市内側出入口)から少し歩いたオフィス街の中にある洋食屋だった。
 店に入ると由真はいつもやるように、その店の看板メニューだというスコッチエッグ(デミグラスソースが美味しかった)や他のサイドディッシュをあれこれとオーダーした。どちらかというと無難に定食やコースメニューを頼むアタシには真似のできないやりかただ。
「何でこんなとこ知ってるの?」
「えへへ。結構、授業の空き時間なんかにこの辺をウロウロしてるんだよね。今まで天神一辺倒だったから」
「クルマで?」
「そうだよ。それがどうかしたの?」
「……いや、いいんだけど」
 中学に上がるまで剣道とクラシックバレエをやっていたというのが信じられないくらい運動神経の存在を感じさせない由真も、通学やその他の事情からこの春に運転免許を取っていた。”ヘタクソ”以外で由真の運転を表現しようとすると、相当に激烈な言葉を選ばざるを得なくなるので、基本的にそのことについて考えないことにしている。
 一方、アタシは高三の夏の誕生日と同時に学校に内緒で免許を取っていて、しかもそれ以前から無免許で、元彼の友人たちのコーチを受けていた。今では四輪ドリフトくらいはできるようになっている。バイク乗りだったころから飛ばし屋だったアタシは、スピードに対する恐怖心というものが欠落しているらしい。
 どちらが先に事故を起こすかと、祖母はヒヤヒヤしているらしいのだけど、今のところ二人とも事故の経験はない。由真のクルマには無数の傷がついているが。
 食事を終えると博多駅まで戻り、駅舎の屋上にある駐車場からロードスターを出して、大名のオフィスに立ち寄るために住吉通りに出た。距離的には駅前通りから国体道路に入ったほうが圧倒的に近いのだけれど、クルマで夕方の中洲界隈に近づくのは自殺行為以外の何者でもない。
 ラッシュの中を走るときに幌を下ろしていると由真が文句を言うので、幌はあげたままで住吉通りを走った。ブルーグレイのフィルターを掛けたような夕暮れの街並みに、少しずつネオン広告の灯りが点り始めていた。そろそろ日が長くなってきていて、七時を過ぎてもまだ真っ暗にはならない。
 大名のオフィスに戻ると、こんな時間だというのに七人いるスタッフはみんな仕事に勤しんでいた。モデルのエージェント業だけではなくてイベントの企画やインターネットでの通販事業もやっているので、傍目から見ていてもこの会社は殺人的に忙しい。六法全書があっても労働基準法のページだけは破かれているに違いない。
「お疲れ様です、ただいま戻りました」
「戻りましたー」
 笠原社長はノートPCの画面から顔を上げると、目尻にシワを寄せてニッコリと微笑んで迎えてくれた。
「お帰りなさい。遠くまで大変だったわね」
「いえ、ちょっとした旅行みたいで楽しかったです。あ、これ、先方のクライアントさんから預かってきました」
 何やら書類の入った封筒を社長に手渡す。中身が何なのかは連絡がいっていたようで、社長は中をあらためる様子もなくそれを受け取った。
「わたしもあなた宛のものを預かってるわ。はい、コレ」
 社長はアタシのほうに四角い封筒を差し出した。一瞬、現金かと思ったけれどそんなはずはなかった。このプロダクションではギャラはすべて銀行振り込みだし、経費の計算は由真に一任されていた。
「……何ですか、これ」
「いいから。受け取りなさいよ」
 それは初夏に相応しい薄いラベンダー色で、隅のほうに小さく花びらの絵柄をあしらった可愛らしい封筒だった。表書きには少しクセのある、でも、できるだけ丁寧に書こうとしたことが見て取れる字で”佐伯真奈様へ”と記されていた。
 先輩モデルの一人が同じ榊原姓(向こうは芸名だが)なので、混乱を招かないようにアタシは芸名を使うことになった。
 とは言っても、そう簡単に良い名前が思い浮かぶはずもなく、なかなか決まらなかった。由真は「いっそのこと下の名前だけ」とか「アルファベット表記でMANAにしよう」とか無責任にアイデアを出してくれたけど、特に後者は知り合いに見られたときの反応を考えるとそれだけで顔から火が出そうだったので、結局は旧姓である父親の姓を名乗ることにしたのだ。
 裏返して差出人の名前を探した。宛名よりはすこし崩れた字で”白石葉子”とあった。記憶にない名前だ。
「へえ、ひょっとしてファンレター?」
 経費清算の書類を書いていた由真がいつの間にやら傍にいて、アタシの手元を覗いていた。
「……まさか、そんなんじゃないと思うけど」
「ねえ、開けてみてよ」
 そのままにしているとひったくって開けかねない勢いなので、ペーパーナイフを借りて封を切った。
 中身の文面はひどく短かった。

 ブライダルのショー、見ました。
 応援してます。がんばってくださいね。

 追伸 キレイになりましたね。

「知ってる人?」
「ううん、記憶にはないけどなぁ……」
 しかし、最後の一文は昔のアタシを知っているようにしか取れなかった。祖父の家で暮らす様になってからの三年間は榊原姓で通している。知り合いだとすればそれ以前ということになる。
 もう一度封筒の表を見た。切手も貼られておらず消印もない。今朝の出発前には何も言われなったということは、時間外に郵便受けに放り込んであったわけでもなさそうだった。
「これを持ってきてくれたの、どんな人だったかご存知ですか?」
「そうねえ、けっこう派手なメイクをした子だったわ。ほら、中洲とかで働いてる感じの」
「ホステスさんですか?」
「声が酒ヤケしてたし、多分そうじゃないかしら。あなたとそんなに違わない歳に見えたけど、その割にはお肌とかずいぶん荒れてたわね」
 さすが見るところが違うと思いながら、もう一度記憶を探ってみた。けれど、やはり白石葉子なる女性に思い当たるところはなかった。

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