Left Alone

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  第 9 章  

 テーブルの上には、全部あわせるとアタシの一ヶ月分のバイト代が吹っ飛びそうな皿が並んだ。
 時価の商品がすべて高価なわけではないが――相場もので値段が不安定だというだけのものもあるからだ――どうやらバイト生の彼はアタシのオーダーを拡大解釈したらしく、出てきたのは思っていたよりも数段豪華なものだった。
 その彼と一緒に料理を運んできた店長は、さすがに顔中の筋肉を総動員して不安を表していた。それがアタシと上社の会談の行方に対するものか、上社が支払いのときになってゴネることへの危惧かはよく分からなかった。
 そんな店側の心配に気づく様子もなく、上社はヒュウと短い口笛を吹くと、ビールの追加とアタシの分のグラスを持ってくるように店長に言った。決して恫喝めいた態度を取ったり威圧的な雰囲気を漂わせているわけではないのに、相手に自分の言い分を呑ませてしまう貫禄のようなものが上社にはあった。アタシが本来の業務を離れて自分の相手をすることを、彼はその静かな物言いで店長に納得させてしまっていた。
 再び二人だけになると、上社は表情をほころばせてアタシのグラスにビールを注いだ。
 自分で注文しておいて何だけれど、とても一人で食べきれる量ではないので責任をとって(?)ご相伴にあずかることとなった。食べ残せば捨てることになる。見ず知らずの怪しい中年にご馳走になるのは不本意でも食べ物に罪はない。
「さあ、喰おうか。このハマグリは地物?」
 上社は酒蒸しのハマグリの身を殻から剥がしながら言った。アタシは「熊本産です」と答えた。
 日本で流通しているハマグリのほとんどは中国や朝鮮半島から輸入されたり国内の干潟に撒かれたシナハマグリで、日本古来のハマグリはほぼ絶滅状態にある。そのため有明海の一部でわずかに採れる本来のハマグリは貴重品で、他の数倍という価格で取引されている。ウチの店にもいつもあるというわけではない。ちなみに茨城や千葉産のものも地ハマグリとして売られているけれど、これはチョウセンハマグリという別種なのだという。
 以上はアタシの「たかがハマグリが何故こんなに高いのか?」という疑問に、板長が苦笑いしながら教えてくれたことだ。別に吹っ掛けているわけではないらしい。
 上社はしばらくの間、出されたものの産地や調理法について興味深そうに質問して、アタシは板長仕込みの知識で答えられる範囲でそれに答えていた。話の調子からしてそれがどの程度のもので、どれくらいの相場なのかは分かっているようだったけど、伝票に視線を飛ばしたり顔色を変えたりする様子はなかった。
 由真曰く、奢ってもらうときは遠慮せずに一番高いものを頼んで、その代わりに精一杯の感謝の意を示すのが奢られる側の礼儀らしい。いつものアタシならとてもそんな鉄面皮な真似はできないが、この男相手なら遠慮は無用だろう。
 アタシは迷わず一番値の張るアワビのステーキに箸を伸ばした。

「――ところで」
 上社が言った。さっきから彼は肝しょうゆに浸したカワハギの刺身をせっせと口に運んでいた。
「何よ?」
「熊谷って誰だい?」
 思わず箸の動きを止めた。
「……何のこと?」
「姪浜のアパートの階段ですれ違ったときのことさ。俺の顔を見てそう言っただろう」
 あの時、思わず声に出してしまっていたのだろうか。
「アタシ、そんなこと言った?」
「声には出してないけどな。知ってるかい? 人は考え事をしたりするとき、声を出さなくても無意識に口の中で発音の形を作ってるって。特にとっさのときは唇が動いてるものなんだ」
 さっき、この男は唇が読めると言った。
「ずいぶん便利な特技ね」
「まあね。ときどき、飲み屋のオネエチャンがこっそり悪態ついてるのが読めてげんなりすることもあるが」
「白石さんとも中洲で?」
 ここまでくれば構図はある程度見えてしまっていた。
 目的は何にせよ、上社にアタシのことを調べさせたのは白石葉子に間違いない。上社はアタシの経歴や近況などを調べて葉子に報告した。そして、その中にアタシが先輩モデルの代役でステージに立つことも含まれていたのだ。同じフロアに事務所を持つ上社がそれを聞きつけたことは充分にあり得る話だった。
 とぼけても無駄だと悟ったのか、上社はニヤリと相好を崩した。
「中洲のアクエリアスってラウンジだ。ラウンジって分かるかい?」
「だいたい。要するにキャバクラでしょ」
「よく知ってるな」
 知り合いの”生き字引”の話によると、福岡では女性が席について接客する飲み屋はクラブ、ラウンジ、スナックに分けることができる。その境界線はアタシにはよく分からないが、高級店がクラブ、大衆店がスナック、その中間がラウンジだと思っておけば間違いないようだ。全国的にキャバクラ(何の略かは知らないけど)と呼ばれるのは福岡ではラウンジに分類されるらしい。
 ちなみにアタシの知り合いというのはクラブの経営者で、アタシの父の恋人(自称)だったりする。

「葉子さんとは、そのアクエリアスってお店で知り合ったの?」
「そんなところかな。で、誰に聞いたのか知らないが俺が人捜し専門の探偵だってことを知って、ウチの事務所を訪ねてきたのさ。――あ、言っとくが俺はそんなにしょっちゅう、そういう店に行くわけじゃないからな」
 上社は何故か弁解するような口調で言い足した。アタシとしてはどうでもいいことだが。
「それで?」
「佐伯真奈という女の子を捜して欲しいという依頼を受けた。何でも三年ほど前に彼女の父親に命を救われたんだが、それが元でその娘にかなりの迷惑をかけたんだそうだ。ようやく自分の置かれた状況も落ち着いてきたんで、逢って謝りたいと思ったらしい」
「……へえ」
「彼女は君に逢いにきたのか?」
 上社は訊いた。アタシは首を振った。
「短い手紙をもらったわ。何て言うのか、ファンレターみたいな」
「事件のことには触れてなかったのか」
「それっぽいことは何も。ただ、アタシのことを応援してるからって」
「そうか……」
 上社は天井を見上げると、大きく鼻から息を吹き出した。そのまま、何かを思い巡らすような表情でグラスのビールを飲み干した。アタシはお替りを注いでやった。
「ひょっとして、それを確かめに来たの?」
「ん、まあな。そんなところだ。気になっていたんだ。調査の過程で君の身の上や周囲で起こった事件のことも知ることになったが、普通に考えれば葉子が何を言ったところで、君に聞き入れてもらえるはずはないからな」
「……それはそうだけど」

 白石葉子が置かれていた状況というのがどういうものかは知らないが、正直に言えば「何を今さら……」という思いのほうが強かった。もちろん、彼女には彼女の事情があったのだろうと思う。しかし、それですべてを水に流せるほどアタシは人間ができていない。
「でも、上社さんって親切なのね。そんな、終わった調査のアフターフォローまでしてるなんて」
「そうじゃない。先月の終わりに彼女がひき逃げされたことは知ってるかい?」
 アタシはうなずいた。
「やっぱりそれで、あの姪浜のアパートに来てたのか」
「ええ、まあ。――上社さんはどうしてあそこに?」
「君と似たようなところだ。もっとも、俺は彼女の住所として把握してたのがあそこだったから、行ってみただけなんだが」
「何か調べてるの?」
 上社はキョトンとした様子で目を瞬かせた。
「何かって、何を?」
「だから、その……ひき逃げのこととか」
「それは警察の仕事だろ。気にならないわけじゃないが、一般人に出来ることなんかたかが知れてる」
 上社は可笑しそうに目を細めると、小さな七輪の上で香ばしい匂いをたてているサザエの壷焼きに手を伸ばした。すっかり熱くなった殻をおしぼりで包み込むように持ち上げて手元の小皿に載せた。
「依頼人だからというより、一応は馴染みのホステスだったからな。せめて焼香くらいあげとこうかなと思っただけさ。この店に来たのは半分は俺が調べたことが葉子の役に立ったのか、それが知りたかったからだ」
「そういうことね」
 アタシが葉子のアパートを訪ねたのは、彼女がどうやって現在のアタシのことを知ったのか、そしてどうしてあの手紙を寄越したのか、その理由を知りたかったからだ。しかし、それはどちらも上社が答えてくれていた。
「オーケー、ありがとう。おかげでだいぶスッキリしたよ。……まあ、本当にスッキリするのはひき逃げ犯が捕まったときだろうけどな」
 それはまったく同感だった。
 
 他愛もない話をしながら二人がかりで出された料理を平らげて、上社は席を立った。
 アメリカン・エクスプレスのゴールド・カードで支払いを済ませた彼を店の外まで見送りに出た。外はムッとする夜気に包まれていて、上社は少し迷って麻のジャケットを羽織るのを諦めた。
「そういえば、この店にきた理由のもう半分って何?」
「半分?」
 上社は意外そうな顔をして、それから自分が言ったことを思い出して得心したような笑みを浮かべた。
「言っただろ。君のファンだからって」
「冗談は顔だけにして」
「おいおい、冗談なんかじゃないさ。俺はね、君みたいな背が高くてすらっとした女性が好みなんだ。それにどっちかというとお友だちみたいな可愛らしい子よりも、君みたいに凛々しい顔立ちのほうがいい。強いて言うなら、もうちょっとスカートは短めのほうがいいし、ヒールはせめて九センチ以上にしたほうがいいと思うけどな」
「そしたらアタシ、百八十センチ越えちゃうけど」
「いいじゃないか。それに”ハイヒールは本当は背の高い女性のためにある”って北方謙三も言ってるぜ」

「……へぇ」
 本人を目の前にしてよくもまあ、ぬけぬけとこんな歯の浮くような台詞が言えたものだが、不思議と上社にはそれが嫌味にならないところがあった。おそらく、そこに下心が見え隠れしていないからだろう――実際はどうであれ。

 アタシは心の中で一つ訂正していた。この男は武骨だった熊谷幹夫とは、少なくとも女性に関することではまるで似ていない。熊谷は愛した女性に、その気持ちを伝えることさえできなかったのだから。
 別に深い意味もなく、これから何処へ行くのか訊いた。上社は葉子が勤めていたラウンジに行って、彼女の実家を訊いてみるつもりだと言った。疑問に答えてくれた礼というわけでもないが、彼に周船寺の葉子の実家を教えた。
「今度、ヒマなときに遊びに寄ってくれ。何もない殺風景な事務所だがコーヒーだけは美味いのが揃えてあるから。コーヒー、好きだろ?」
「どうしてアタシがコーヒー党だって知ってるの?」
 訊いてから、彼がアタシの身上調査をしていたことを思い出した。そして思い至った。調査の過程で二年前の事件のことも調べているはずだし、そうであれば当然、アタシと熊谷幹夫の関わりも知っているはずだ。アタシが熊谷と上社を見間違えたのは事実だが、あのとっさのタイミングで唇を読めたという話はちょっと疑わしかった。
 あれはブラフだったのだ。
 思わず上社を睨んだ。引っ掛けられたことはもちろん気に入らなかったけれど、それよりも、いったい何処までアタシのことを知られているのかがひどく気になった。視線の意味に気づいたのか、上社は曖昧な笑みを浮かべてから、鞄から取り出した大判の封筒をアタシに手渡した。
「調査報告書だ。葉子には口頭で報告したんで渡しそびれていてね。俺は必要ないからそっちで処分してくれ。心配しなくてもコピーは取ってない」
「本当?」
「嘘なんかつかないよ。まあ、俺の記憶は消せないけどな。口外はしないから安心してくれ。これでも口が堅いことで有名なんだ。――何だよ、その疑わしそうな眼差しは」
「どうだか。他に何か変なもの持ってないでしょうね?」
「ああ、そうだ。葉子からこいつも預かってた」
 上社がポケットから取り出したのは、スクラップ・ブックに入っていたものと同じ”ザ・ビースト”の写真だった。
 顔がとんでもなく熱くなるのを感じた。そりゃアタシのことを調べるのにアタシの顔写真は必要だったろうけれど、よりによってコレを使うことはないじゃないか。
「ちょっと、寄越しなさいよっ!」
 トーマス・ハーンズのフリッカー・ジャブ並みの速さでその写真を奪い取った。上社は驚いたように小さな目をいっぱいに見開いていた。

「そんなに怒らなくてもいいだろ。可愛らしい中学生じゃないか」
「うるさいっ!! もしこの写真が他にあったらタダじゃおかないからねっ!!」
「おお、怖っ。心配しなくても写真はそれ一枚だけだよ」

 上社は苦笑混じりに「じゃあな」と言って踵を返した。軽く挙げた手をヒラヒラさせながら夜のネオン街へ消えていく後姿を、アタシは鼻息荒く睨み続けた。

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