Left Alone

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  第 17 章  

「ちょっと真奈、何怒ってんの?」
「……別に怒ってない」
「もう、子供みたいにふくれないでよ。村上さんだって男なんだもん。ラウンジに飲みにくらい行くよ」
「別にいいよ。行ったって。アタシには関係ないし」
「だったら何でそんなに怒るの」
「だから怒ってないって言ってるでしょ」
 言ってはみたが、我ながら口調にまったく説得力がない。
 BMWは国道三号線の上に架かる都市高速の橋脚をくぐって、妙見通りに入っていた。由真の運転がおっかなびっくりになるのは知らない道を走るときだけで、土地勘のあるこの辺りではそれほど恐ろしくはなかった。
「だいたいさ、最後のページに入ってるからって、最近行ったとは限らないでしょ。ずっと前に渡した名刺かもしれないじゃない。たまたまそこが空いてただけとかで」
「それはない」
 キッパリと言い切った。名刺に記された階級が警部補で、しかも所属が博多署の刑事課ではなく県警の警務課になっているからだ。最後に話した六月末のあの夜の時点では、村上はまだ警察学校で警部補の講習を受けていた。まだ配属されていない部署の名刺を持っているはずがない。
 つまり村上は警務課に配属された後に中洲に繰り出して、ラウンジなんかで楽しく飲み歩いていたというわけだ。こっちはもう一ヵ月以上も腹の中に鉛の塊でも飲み込んだような想いをしているというのに。
 そこまで考えて、猛烈な自己嫌悪に襲われた。それが何だというのだろう?
 女性が接客するお店に酒を飲みに行くのは犯罪でも何でもない。妻帯者の場合は相手次第では許されないことかもしれないが、村上はずっと前に離婚しているし、アタシは彼を咎めだてする立場にはない。会って話す勇気を奮い起こせずに悶々としているのも、全部アタシの勝手だ。
 名刺をひっくり返してみた。裏には”〇八〇”で始まる携帯電話の番号が、村上の几帳面な字で書き付けてあった。
 自分のケイタイを引っ張り出して村上のケイタイの番号を呼び出してみる。番号は記憶の通り”〇九〇”で始まっていた。一瞬、番号を変えたのかと思ったけれど、仕事でも使うケイタイの番号をあの男がそう簡単に変えるとは思えない。ナンバー・ポータビリティでドコモからソフトバンクに乗り換えようとしたときも、メールアドレスのドメインが変わると不都合があるという理由で止めたくらいだ。
「何だろ、これ」
 信号待ちのところで、由真に名刺の裏を見せた。
「ケイタイを二つ持ってたんじゃないの?」
「何のために?」
「さぁ? でも、村上さんって仕事用とプライベート用を使い分けたりしてなかったんでしょ。あ、意外と白石葉子の恋人って村上さんだったりして。で、この番号は二人の秘密の連絡用とかさ」
 ……唐突に何を言い出すのだ、コイツは。
 唖然として由真を見やった。由真の口許には皮肉っぽい微笑が浮かんでいる。しばらくの睨みあいの後、由真は弾けるように笑い出した。
「ちょっと真奈ってば、そんなマジな顔しないでよ。冗談に決まってるじゃない」
「……どうしてそう言えるのよ?」
「だって、村上さんは真奈のお父さんの事件のときに、写真でだけど葉子の顔を見てるんでしょ。メイクしてるからお店では気づかなかったかもしれないけど、深い関係になる段階で葉子のことが分からないなんてことはあり得ない。そこまではいい?」

 アタシはコクリとうなづいた。
「本人たちの本当の心情は分かんないけど、村上さんにとっては葉子は結果的にだけど自分の人生を狂わせた元凶なんだし、葉子にとっても村上さんは命の恩人を刑務所に送った張本人なんだよ。彼女は真奈と違ってホントのことを知らないからね。つまり、二人がそういう関係になるってことは考えにくいってわけ。いくら村上さんがハンサムでもさ」
「そうなのかなぁ……」
 別にそうであって欲しいわけではないが、由真のように「ない」と言い切れるほど単純な話でもないような気がする。とにかく、アタシは毒気を抜かれて大きく息をついた。
「二人が会ったのは偶然なのかな。それとも、あいつが葉子に会いにいったのかな」
「どうだろうね。――そろそろ着くよ」
 話に夢中になっている間にBMWは目的地の市営住宅の前に到着していた。
 ミュールを脱いで、代わりに由真に持ってきてもらったショートブーツを履いた。腰の後ろに回したウェストポーチから指の部分を切り落とした革のグラブを取り出して手にはめる。
「そんなに気になるなら、直接本人に訊いてみればいいじゃない。いつまでもウジウジしてるのは真奈らしくないよ」
「……うん」
 そうするべきだというのは分かっていた。しかし、まだそれだけの勇気は湧いてこなかった。

 敷地の入口にある背の低い塀には”福岡市営吉塚東住宅”という何の面白みもないプレートが嵌め込まれていた。
 辺りは水銀灯のギラギラした灯りに照らされていて、その分だけ光が届かないところに深い闇を作り出している。街中とはいっても少し奥まったところにあるので、逆に不気味なくらい静まり返っていた。
 モスグリーンと呼ぶにはちょっと醒めた色合いの建物が並んで二つ。各階に六世帯分の長さを確保するために、建物は敷地に対して斜めに建てられている。そのせいで逆にデッドスペースが多いのだが、そこを何とか有効利用しようとするかのように半ば無理やりに駐車スペースの区割りがしてあった。入口の脇に入居者向けの掲示板があって、風雨を避けるための透明なプラスチックのカバーの下に”ゴミ出しのマナーを守りましょう!!”とか”ペットを飼うのは禁止されています!!”といった手書きのポスターが貼られている。よく見るといずれも同じ人物の筆によるようで、それは語尾にやたらとエクラメーション・マークがついていることからも窺えた。
 掲示板の端には入居者案内があって、A棟の一〇一号室からB棟の四〇六号室までびっしりと名前が書かれた札が下がっている。ヨシヅカマサヒロという名前はなかったが、代わりに奥のB棟の一〇二号室に吉塚和津実という名前があった。どうやらご結婚されているらしい。

「なんで、彼女の名前なんだろうね」
「そうだね。……真奈、ケイタイがなってるんじゃないの?」
「へっ!?」
 ポーチの中でケイタイのバイブが振動していた。引っ張り出すと、サブ・ディスプレイには”武松俊”と表示されていた。ボニー・アンド・クライドのバーテンダー、シュンの本名だ。
「もしもし」
「……あ、――――シュ――聞こえ――」
 どんなメロディが乗っているのか見当もつかない重低音にかき消されて、声はほとんど聞き取れなかった。
「もしもーし」
「――ちょっ――ああ、聞こえるか?」

「聞こえますよ。すごい音ですね」
「店の中だからな。今日は特にトランスがかかってるから、余計にそうなんだ」
 あまりそっち系の音楽は好きじゃないような口ぶりだった。
 隣の由真はほとんど頬をすり寄せるような近さでケイタイの会話を聞こうとしていた。押しのけようかと思ったけど(嫌だからではない。他人に見られたらどんな誤解を受けるか分からないからだ)、どうせ会話の内容は説明させられる。アタシは受話音量を最大にして彼女にも聞こえるようにした。
「どうしたんです、いったい?」
「いや、アヅミのことで分かったことがあるから知らせようかと思って。ウチのもう一人のバーテンが、あのときのアヅミたちの会話を聞いてたんだ。ちょっと代わるよ」
 またしばらく重低音を聴かされて、シュンよりも年嵩のような感じの男が出た。
「ああ、俺、ヨウジってんだけど。あんた、アヅミのことを捜してるんだって?」
 別に和津実を捜しているわけではないが、説明が面倒なのでそうだと答えた。
「ヨウジさんが彼女たちの相手をされたんですか?」
「相手したっていうか、俺の立ち位置が彼女らの前だったってだけだがな。で、二人がしゃべっていることも何となく聞いてたってわけさ」
「どんなことを話していたか、覚えてますか?」
「細かいディテールは消えちゃったけど、アヅミがもう一人の娘にカネを巻き上げてたんだ。その場でってんじゃなくて、最初から話はついてた感じで、相手の娘もまあ、怒ってる感じだったけどグズグズ言わずに払ってたしな」
「そのお金って、何かの対価として払ってるって感じだったんですか?」
「対価ぁ!?」
 ヨウジは唐突に爆笑した。アタシはそれが収まるまで辛抱強く待った。

「……いや、ゴメンゴメン。あんたがいきなり難しいこと言うもんだからさ」
 まだ笑いは収まらないらしく、ヨウジは言葉の間に引き笑いを交えながら何度もゴメンと謝った。
「あのな、アヅミにカネで売れるようなものなんか何もないよ。身体以外はな。ありゃ間違いなく、相手の弱みを握っててカネを要求してたんだ。昔っから得意技なんだよ。あいつのね」

 ヨウジは吐き捨てるように言った。シュンにしろヨウジにしろ和津実のことをずいぶん前から知っているようだが、いずれもあまり良い評価はしていないようだった。
 再びシュンが電話に出た。
「ところで俺もさっき知ったんだけど、アヅミのやつ、結婚してたらしいんだ。ヨシヅカとかいうヤクザ――といっても末端のチンピラらしいんだけど、そいつのガキを身ごもって結婚して、生まれてすぐに離婚したらしいんだ」
「そうなんですか? その割には未だに吉塚姓みたいですけど」
「何でそんなこと知ってんだ?」

 アタシは今、ヨシヅカマサヒロ名義の電話がある市営住宅にいることを話した。しかし、入居者の名義は和津実になっている。公営住宅なので他人名義では借りられないはずだ。離婚後でも夫の姓を名乗ることはできるだろうが、そういう事情であれば普通は旧姓に戻るのではないだろうか。
「……ははぁ」
「どうしたんですか?」
「多分、離婚したってのは表向きだな。聞いたことないか、”お父さんのいる母子家庭”ってやつ」
 隣で由真が大きくうなづいている。アタシにも何となく言わんとすることは理解できた。要するに形だけ離婚して生活保護だとかその他の手当てを不正受給しているのだ。役所は相手がヤクザ者ということで腰が引けてしまって、何も言うことができないでいるのだろう。

「せこいですね、やることが」
「ヤクザってのは本来、せこいもんだよ。あいつらはカネをつかみたくてヤクザになるんだが、実際には大半のヤクザはそうはなれない。そういうシステムになってないからな」
「シュンさんってそっち方面に詳しいんですね」

「ウチの親父がそうだったからな。まあ、ダメだったクチだけど。ホント、カネをつかめなかったヤクザは哀れなもんだぜ。その息子もな」
 シュンは自虐的にせせら笑った。
「親父といえば、さっきは悪かったな。知らなかったとはいえ、あんたの親父さんのことをペラペラしゃべっちまった」
 何のことだか分からなかったが、すぐに父の事件のことだと思い当たった。正直に言うと意識はあさっての方向を向いていたので、ちゃんとは聞いていなかった。
「話はオーナーに聞いたよ。話してくれれば良かったんだ」

「自分が人殺しの娘だって言いふらして回れっていうんですか?」
「そんな言い方するなよ」
 会話はプツンと途切れた。気まずい沈黙に思わず電話を切りそうになった。それをつなぎとめるように、シュンがわざとらしい咳払いをした。
「ところであんた、今夜は空いてるか。店が終わる時間だから夜中だけど」

 時計を見た。八時半を少し過ぎたところだ。和津実の家にどんなに長居してもそこまで遅くなることはないだろう。
「特に予定はないですけど」
「だったら、店に来てくれ。実は渡利のダチだったヤツと連絡が取れたんだ。会いたくないか?」

 少し考えて、必ず行くと答えた。
「じゃあ、待ってる。ところで一つ訊いていいか?」
「何です?」
「あんた、今は彼氏いるのか?」
「……フリーですけど、それが何か?」
 シュンは「……いや、いい」と言い残してそそくさと電話を切った。
 しばらくケイタイを見つめていると、由真がアタシの脇腹を小突いた。どんな表情をしているのかは見なくても分かった。
「ホント、真奈ってばヤンキーにもてるよね〜。そういうフェロモンが出てんじゃないの?」
「……バカなこと言わないでよ」
「いやいや、絶対そうだって。バンドのときも周りはみんな元ヤンなのに、まったく違和感なく溶け込んでたし」
 ニヤニヤと笑う由真を無言で見返して、ケイタイをポーチに放り込んだ。アタシは別にヤンキーが好きなわけじゃない。好きになった相手がたまたま元ヤンキーだっただけだ。彼らといても物怖じしないのは認めるけど。
「さてと、じゃあ、行ってくるわ」
「くるわって、あたしは?」
「クルマでお留守番」

「えーっ、どうして!?」
「だって、あんなとこにクルマ停めっぱなしにしとくわけにいかないでしょ」
 仕返しとばかりに、ニヤけた微笑を浮かべてやった。
BMWは通りから奥まったこの住宅に入る路地の途中に停めてある。歩道ギリギリまで寄せてあるので往来の邪魔にはならないはずだが、お節介な住人に通報されたりしたら目も当てられない。
「こんな時間に警察なんて来ないよ」
「切符切られるのはアタシじゃないから、別にいいけど。あんまり点数ないんじゃなかったっけ?」
「……真奈のイジワル」

 アタシと由真では絶対に飛ばし屋のアタシのほうがより多く違反行為をしているはずだが、どういうわけかアタシは無事故・無検挙(無違反ではない)で由真はそろそろ免許センターにお参りにいかなくてはならないという状態に陥っている。つまりは要領の問題だと思うが、言うと由真がいじけるのでアタシたちの間では運の問題だということにしてある。
「ま、それは冗談だけど。千原――じゃなくて吉塚和津実はヤクザの情婦だって言ったでしょ?」

「だから?」
「ひょっとしたら、ヤクザ相手に揉めるかもしれないってこと。何かあってもアタシ一人ならどうにでもなるけど、あんたまで守れる自信はないの」
「それって、あたしは足手まといだってこと?」

「はっきり言えばね」
 遠回しな言い方をしても同じことなので率直にそう言った。

 由真はしばらくアタシをじっと見詰めていた。しかし、アタシの言わんとするところは伝わったらしく、少し拗ねたように頬を膨らませただけでそれ以上は言わなかった。
「やっぱりね。その靴を持ってこいって言ったときにヘンだって思ったんだ。それ、最初に中洲で会ったときに履いてたヤツだよね」
「よく覚えてるわね」

「そりゃそうだよ。目の前でそんなもの振り上げられたんだから」
 中洲のゲームセンターで性質の悪いホスト崩れに絡まれていた由真を助けたのが、アタシと彼女の馴れ初めだった。アタシはそのとき、このショートブーツを履いてその男の鎖骨を蹴り折っている。
「それ、ずっと封印してたのに。また、あの頃みたいにケンカする気なの?」

「そういうわけじゃないよ。単なるお守りみたいなもの。――じゃあ、行ってくるね」
「ムチャしないでね」
 由真は目を伏せてアタシの腕に手を置いた。どういうわけだか急にドキドキして、アタシは目を逸らした。

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