Left Alone

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  第 28 章 

 それから少し時間をかけて、一昨日の夜に由真と別行動をとって以降のことを話した。
 宮下徹と話した内容。その宮下から紹介された人物が千原留美だったこと。彼女の友人で、当時の渡利のグループを知っている大石夫妻と会ったこと。昨夜、吉塚和津実に呼び出されて、白石葉子との昨今の経緯や若松郁美なる人物の情報と引き換えに彼女の夜逃げの手伝いをしたこと。
 由真は途中で何度か、話の筋道を確かめるような質問をしただけで、あとはずっと話に聞き入っていた。
「……救いようのないお人好しだとは思ってたけどさぁ」
 由真はわざとらしいため息をついた。
「そんなにしみじみと言わないでよ。自覚症状はあるんだから」
「ま、そこが真奈のいいところなんだけどさ。で、和津実はちゃんとその――」
「タチバナ?」
「そうそう。その街金融の男から逃げられたのかな?」
「多分ね。見送ったわけじゃないけど」
 アタシが二杯目のコーヒーを淹れている間、由真は真剣な表情でメモに何かを書き散らしていた。
「何やってんの?」
「うん、ちょっと考え事。そっか、そういうことか……」
 由真は一人ごちた。アタシはカップをテーブルに置いて、彼女の向かいに腰を下ろした。
 資料の綴りを手に取った。よく見るとデジタルカメラで接写したものをコンピュータで処理してあるらしく、字が歪んだり、かすれて読みづらくなっている部分もあった。そうしたところは由真が上からなぞり書きをして補っていた。閲覧はできてもコピーはもらえなかったのだろう。
 内容は捜査報告書のほか、当時、警察が――正確に言えば父の弁護人が――提出したとされる証拠書類だった。それらをざっと眺めてみて、すぐにじっくり読むのを諦めた。書いてあることには激しく興味があったけど、いかにもお役所っぽい回りくどくて堅苦しい文言は酔った頭にまるで入ってこなかったからだ。
 綴りの後半には丸っこい可愛らしい文字で”ゆまメモ”と書かれたページが綴じられていた。
「ナニ、これ?」
「とりあえず、あたしが一通り読んでまとめてみたの。ぜんぶ読むのは大変だし、法律用語が多くて真奈には難しいと思ったから」
「あんた、本当に芸が細かいよね」
 手先が器用ということは決してない(それはどれだけ練習しても千切りが短冊切りになることが証明している)彼女だが、やることは本当に、しかも無駄に細かい。大学入試のときには本番一〇〇日前から使う日めくりカレンダーを作ってくれたこともある。それぞれのページに諺や格言が書いてあるという代物で、最初のページは”千里の道も一歩から”、最後の一枚(テスト前日)が”光陰矢の如し”だった。ユーモアなのかどうか、未だに理解に苦しんでいる部分だったりする。
 かるく欠伸をしながら由真のメモに目を通し始めた。そのとき、バッグの中でケイタイが鳴った。
「誰だろ、こんな時間に」
 六時半。サブ・ディスプレイには”村上恭吾”と表示されている。
 一瞬、由真を見やった。何も言わないのに、それだけで由真は誰からの電話かを感じ取ったようだった。
「村上さんから?」
 うなずきながら電話に出た。一体なんだろう、こんな時間に。
「もしもし?」
 返事はなかった。かすかにガサガサという布ずれのような音がするだけだ。
「もしもし? アタシ、真奈だけど」
 村上が寝入ったまま電話に触れて、間違ってかかってしまったのだろうか。しかし、そのためには履歴にアタシの番号があるか、せめて短縮ダイヤルに登録されていなければならない。
 履歴の線はない。村上から電話がかかってきたのは六月のあの土砂降りの夜、濡らさないようにクルマに残してきたケイタイに向かって「……さっさと家に帰れ」という録音を残していたのが最後だからだ。記憶にある限りでは短縮ダイヤルも怪しい。アタシが彼の部屋でケイタイを探すのに目の前で村上にワンコールさせたことがあるが、あのとき村上は「メモリから呼び出すのが面倒」とブツブツ文句を垂れていた。
「もしもし、ねぇ――」
「……雑餉隈のJRの機関区。今すぐ来い」
 ボソボソとした押し殺したような声。村上の声ではない。
「ちょっと、あんた誰?」
「早くしろ。村上が死にかけている」
「……はぁ?」
 思わず素っ頓狂な声が出た。
「ちょっと、なにバカなこと言ってんのよ!?」
「敷地の奥。南側だ」
 それだけ言うと電話は一方的に切られた。慌ててリダイヤルをかける。横で由真が驚いた顔をしているが説明している暇がない。
 電話は数回、呼び出し音がなったところで切られた。着信拒否されたか、電源を切られたか。もう一度かけてみたが<電源が入っていないか、電波が届かないところにあるので――>というお決まりのメッセージを聞かされただけだ。
 相手が言ったことが頭に染み込むのにちょっと時間がかかった。あまりにも馬鹿げている。何で朝方のJRの機関区で村上が死にかけていなくちゃならない?
「どうしたの、真奈?」
 由真が身を乗り出してアタシの肩を揺さぶった。アタシはそれで我に返った。
「ねえ、雑餉隈にJRの機関区なんてある?」
「車両基地のことなら南福岡駅の裏がそうだけど。あそこに入る列車のせいで、九州で一つだけ開かずの踏み切りがあるって有名だよ」
 滅多にあっちへは行かないので――和津実と会ったのは夜だった――実際に待たされた経験はないが、そういえばそんなものがあると聞いたことがある。
 いや、そんなことを考えている場合ではない。
 由真に電話の内容を話した。彼女も最初は意味が分からないような表情をしていた。しかし、すぐにBMWの鍵を取りに自分の部屋へと駆け出していった。アタシも急いで着替えて、一足先にガレージに降りて由真を待った。
 早朝の澄んだ空気の中に、早くも真昼の気が狂ったような暑さの予兆が漂っていた。今はまだ柔らかさを残す陽射しも、すぐに灼けつくようなものへと変わってしまうのだろう。普段は滅多に意識することのない緑の匂いや蝉の鳴く声がやけにはっきりと感じられる。
 酔いも眠気もどこかへ去ってしまっていた。

 ヘタクソとしか形容しようのない由真の運転とアタシの飲酒運転を比べた場合、事故の確率が低いのがアタシであることには実はかなり自信がある。
 とは言え、当たり前のことだが法律的にはアタシが運転するのは許されない。道義的にもそうだ。去年のことだが、福岡ではとても痛ましい事件が起きていて、飲酒運転への風当たりは確実に強くなっている。
 由真は事件当時、自分のことでもないのに本気で怒っていた。そのせいか、彼女は自分も絶対に飲酒運転はしないし、アタシにも「やったら絶交だからね」と宣言している。もし今朝、ロードスターで帰っていたらどんなことになっていたのか、想像するだけでも身が竦む。
 そんなわけで南福岡駅へ向かうBMWのハンドルは由真が握っている。走るパイロンの異名をとる(アタシが名付けた)日頃のノロノロ運転が嘘のようにブッ飛ばす彼女の隣で、アタシはしっかり足を踏ん張って猛スピードで後方へ飛んでいく景色を眺めた。いつ、誰を撥ね飛ばしてもおかしくない運転を規制する法律はないものかと思いながら。
 ケイタイが鳴った。藤田警部補からの電話だ。五分ほど前にかけたときに出なかったので、コールバックをくれるように留守番電話に吹き込んでおいたのだ。
「――夏休みの割にはずいぶん早起きなんだな」
 いつもの無駄に朗らかな口調ではなかった。おそらく起きたばかりなのだろう。
 現場に向かうのはそれとして、とりあえず警察の誰かに話をしておくべきだと由真は主張した。それに、もし本当に村上の身に何かが起きたのなら、一刻も早く誰かをその場に行かせる手配をする必要がある。そして、できればその役は村上に好意的な誰かであったほうが都合がいい。藤田はいずれにも打ってつけの人物だった。
「すいません、朝っぱらから。藤田さん、今日の予定は?」
「予定も何も普通に仕事だけど。どうかしたのかい?」
 かかってきた電話のことを話した。
「死にかけてるって……村上が?」
「そうなんです。事情がよく分かんないんですけど……」
「で、真奈ちゃんは?」
「とりあえず、言われたところへ向かっている途中です」
「分かった、すぐに近くの誰かを行かせる。俺も行くから、駅で待ち合わせよう」
 藤田はアタシの返事を待たずに電話を切った。
「どうだって?」
「とりあえず、現場に誰かを行かせてくれるって」
「そう。あたしたちが到着してから救急車を呼ぶより、そっちのほうが良いもんね」
 しかし、事態はまだ何も良くなってはいない。時計を見た。最初の電話がかかってきてからすでに二〇分が経とうとしている。
 男が口にしたことは、本来なら文字通り一笑に付されるような内容だった。誰が明け方にかかってきた電話で「知り合いの誰それが死にかけている」などと言われて真に受けるだろう。呆れ顔で「……寝言は寝てから言え」と吐き捨てて終わりなのが普通だ。
 ある事実に気づくまではアタシもそうだった。
 先のリダイヤルも短縮ダイヤルもない以上、電話の主はケイタイのメモリからアタシの番号を選んでいる。それはつまり、アタシと村上の繋がりを男が知っていることを意味する。しかし、少なくともアタシにはこんな悪趣味な真似戯をする知り合いはいない。
 村上の身に命に関わるような何かが起きたなんて嘘だ、手の込んだ性質の悪い悪戯だ――そう思いたかった。村上からは誰かに担がれたことを馬鹿にされ、藤田からは余計な手間をかけさせたことのお詫びにデートに付き合わされる。そんなオチであって欲しかった。
 しかし、そう思おうとすればするほど鳩尾のあたりが硬く締めつけられていく。
 気を紛らわせようとラジオのスイッチを入れた。流れていたのはアヴリル・ラヴィーンの〈When You’re Gone〉だった。爽やかな朝にはいくぶんメロウでテンションが上がるような曲ではない。だからといって、朝っぱらからノリノリで〈Girl Friend〉を聴かされても困るが。
 サビに差し掛かろうとしたところで急に音量が小さくなった。アナウンサーの低いトーンの声がそれに重なる。
<番組の途中ですが、ニュースをお伝えします。今朝、JR鹿児島本線の南福岡駅で人身事故があり、現在、JRは上下線ともダイヤよりも遅れて運行しています。繰り返します――>
「……えっ?」
 思わず呟いた。由真も険しい顔をしている。
「関係あるのかな?」
「分かんないけど……。とにかく急ごう」
 BMWは奇跡的に事故を起こすことなく、南福岡駅前のロータリーに辿り着いた。
 昨夜――というかほんの数時間前、この場所で和津実を待っていたのが遠い昔のように感じられた。まさか、こんな形でここへ戻ってくるとは思ってもみなかった。

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