Left Alone

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  第 40 章 

 早朝のロードワークから帰ってくると、由真がいつものように庭で打ち込み稽古を始めようとしていた。
「ただいま」
「あれっ? 真奈ってば寝てたんじゃないの?」
「このところ稽古サボってたから、ちょっと走ってきたの」
「ちょっとって?」
「大濠公園を二周走ったから、往復した分を入れると一〇キロくらい」
「……ぜんぜんちょっとじゃないし」
 確かに三日ぶりにしては飛ばしすぎだという自覚はなくもない。
 由真が放ってくれたミネラルウォーターのペットボトルをキャッチして、半分ほどを一気に飲み干した。チラリと見やると彼女は別のボトルを指して、全部飲んでしまっていいと目顔で答えた。お言葉に甘えて残りのミネラルウォーターも飲み干す。
 由真はそんなアタシを尻目に竹刀を構えると、ゆっくりと正眼の構えから素振りを始めた。ヒュン、と竹刀が空気を切る意外に大きな音がして、しばし由真の真剣な横顔に見入った。
 率直に言って、この光景には未だに馴染むことができない。白い道着に袴姿、手には竹刀という凛とした佇まいは剣道雑誌の表紙を飾れそうなくらい――そして、その号が空前の売上げを上げることも間違いないけど、アタシが知っている由真のイメージとはかけ離れているのだ。
 芝生の上に寝転がって息が落ち着くのを待ってからストレッチに取り掛かる。
 全身の筋肉と筋を伸ばしてから、基本の型のいくつかを意図的にゆっくりとこなした。深くしっかりと呼吸しながら身体をスローモーションのように動かすのは、見た目とは違ってけっこうしんどい。最後の壱百零八手が終わったころには引きかけていた汗が体中から吹き出していた。
「アタシ、先にあがるけど。あんた、まだやんの?」
 返事の代わりに帰ってきたのは短く繰り返される息遣いだ。そのリズムで後ろに下がっていきながら竹刀を左右交互に袈裟懸けに振る。由真がやっているそれは簡単そうに見えるけど、やってみれば意外と難しいしきつい。出会った頃の由真は筋金入りの運動嫌いで、アタシの中では今でもそうなのだけど、こうやって見ると華奢なだけではない均整の取れた体つきに変わってきているような気もする。
「ん……もう少し」
「あっそ」
 返事を待たずに自分の部屋に上がると、ケイタイに藤田警部補から着信が入っていた。直ちにコールバック。
「よう、昨日はどうだった?」
 いつもと同じ朗らかな声の向こうは何となくざわざわしていた。
「どうって?」
「誘われなかったかって訊いてるんだよ。あのオッサン、ちょっと気に入った娘がいると、すぐに口説きにかかるからな」
「……特に何もなかったけど」
 上社が女ったらしなのは間違いないだろうが、アタシなんぞに「モデル仲間を紹介しろ」と要求するこの男に言われたくはないだろう。
「どうしたの、こんなに朝早く?」
「ノートパソコンの中身を訊いとこうと思って。やばそうなものは見つかったかい?」
 ざっと見た限りでは警察のデータベースから盗み出されたような代物は見当たらなかったことと、村上が進めていた調査の対象者のリストが出てきたことを話した。
「って言うか、なんでアタシに? 由真に直接訊けばいいじゃない」
「彼女のケイタイの番号を知らないのさ。何度訊いても教えてくれないんだよな」
「ああ、なるほど」
 由真は意外とその辺のガードが固い。しつこく訊かれた場合には滅多に電源を入れないPHSの番号を教えるらしい。それすら知らないということは、由真がいかにこの男を胡散臭く思っているかという証明だった。
 一瞬、アタシが教えてやろうかと思ったけどくだらないのでやめた。いくら冷戦中でもやっていいことと悪いことはある。
「で、真奈ちゃん、リストをどうするつもりなんだい?」
「重要度の高そうな連中から辿ってみるつもり。そっちにもコピーを回したほうがいい?」
「そうだな。直接もらうのもなんだからオッサンに渡しといてくれるかな」
「了解」
 いずれにしても、上社にはリストの人物を一通りチェックしてもらわなくてはならない。手間が省けるというものだ。
「じゃあ、そういうことで――」
「ちょっと待って。一つ、教えて欲しいことがあるの」
「何だい?」
「警察はどうして和津実の親に、娘が殺されたことを説明してないの?」
「そのことか。正式な発表の前だからだろう。遺族へのインタビューから洩れるのを警戒したんじゃないかな」
「意味が分かんないんだけど。だって、突き落とされたのはハッキリしてるんだし、容疑者だって権藤さんってことで間違いないんでしょ?」
「それが問題なんだよな。実は捜査本部の中でちょいと意見の対立があってね」
 藤田はそこで言葉を切った。
「どういうことなの?」
「捜査一課の管理官は、権藤のオッサンを吉塚和津実殺害の容疑者として指名手配するべきだと主張してる。ところが、まだそう決め付けるには早いと主張する捜査員がいるのさ。ホームのカメラの映像で権藤だと確認できたわけじゃないからね」
 警察の”権藤康臣犯人説”の根拠は、ホームで和津実を突き飛ばした男とよく似た格好の男が改札のカメラに映っていて、それが権藤だったからというものだ。そのときはアタシも疑問には思わなかったが、それだけで権藤を犯人と断定するには根拠薄弱の誹りを免れない気がする。
「ちなみに管理官に逆らう捜査員って誰?」
「桑原警部に決まってるだろ」
「でもあの人、アタシには権藤さんが犯人で間違いないって言ってたわよ」
「あのオッサンが何を考えてるかまでは俺にも分からないさ。ただ、あの時点ではそういう認識だったし、ひょっとしたらいい加減な気休めを言って、真奈ちゃんに妙な期待を持たせたくなかったのかもしれないな」
「そんな気遣いをしてくれるような人には見えなかったけど」
「違いない」
 藤田は可笑しそうに喉の奥で笑った。
「時間が早かったせいもあって目撃証言もないし、犯人がホームに入る手段は何も改札だけじゃない。仮説としては、和津実が博多駅から南福岡に移動するのを尾行していた可能性だってある。そこがハッキリする前に先走った発表をしたくなかったんだろうな」
 それでも娘の死が自殺でなかったことくらい遺族に告げるべきだと思うが、そこは警察の論理なのだろう。まして、現段階での一番の容疑者は彼らの元同僚なのだ。事件の取り扱いに慎重になってもおかしくはない。
「ところで今、和津実がJRで南福岡に来たって言ったわよね?」
「確証はないがおそらくな。少なくとも和津実が南福岡駅の改札を通った形跡はない。あれだけ目立つ金髪と爆乳だ、通ってれば駅員の誰かが覚えてるはずだ」
 ……まぁ、そうだろう。
「それともう一つ、疑問に思ってることがあるんだ」
「なに?」
「権藤のオッサンは拳銃を持ってた。Cz75っていうチェコ製のモンらしい」
「桑原警部も同じこと言ってた。中国製のコピーとも言っていたけど。それで?」
「何故、ホームから吉塚和津実を突き飛ばさなきゃならなかったかってことさ。銃で撃てない理由はどこにもなかった。事実、オッサンは周りのマンションから丸見えの場所で村上を撃ってる」
「……自殺に見せかけようとしたんじゃないの?」
「だったらカメラの目の前でやらないよ。警官っていうのは商売柄、防犯設備の設置場所には敏感な生き物でね。気づかなかったとは到底考えられない」
 推論混じりとは言え、藤田が言っていることには一応の筋が通っている。
「じゃあ、犯人は権藤さんじゃないってこと?」
「まだ、可能性の段階だけどね」
 しかし、その可能性はアタシにほんの少しだけ安堵の気持ちを起こさせた。アタシの父親の親友は、少なくとも誰かを背後から襲って殺してしまうような卑劣漢ではなかったことになるからだ。
 ただ、それはまだ疑問の半分を氷解させたにすぎない。
 和津実はアタシと駅近くのジョイフルで別れた後、そのまま何処か遠くへ行ってしまう予定だったはずだ。そのためにアタシに荷物と逃走資金を運ばせたのだから。新幹線で本州方面に向かうつもりだったのか、鹿児島本線で南へ向かうつもりだったのかははっきりしないが、いずれにしても南福岡に舞い戻るというのは予想外も甚だしい。
 直前まで一緒にいたアタシでさえそうなのに、権藤が和津実の行動を見越していたとするのはかなり無理がある。博多駅からJRで尾行してきていない限り、あの場所に権藤が現れることは不可能なはずだ。しかし、権藤は駅の改札を通過している。
 それが示す可能性は一つしかない。吉塚和津実と権藤康臣は連絡を取り合って、南福岡駅の一番ホームで待ち合わせをしていたのだ。

 ただ、それはまだアタシの推論に過ぎない。権藤に協力者がいたのなら、和津実の動向を監視をすることもまったく不可能ではないからだ。なので、藤田には自分の考えは話さないでおくことにした。いずれにしても、推論をどれだけ並べ立てたところで権藤の行方を追う助けにも、真実に近づく足しにもならない。
 他に藤田に訊いておかなくてはならないことは思いつかなかった。何か分かったらお互いに連絡をとることを約束して電話を切った。
「終わった?」
 唐突に背後から声をかけられて思わず振り返った。稽古を終えた由真は勝手に上がりこんで、汗だくになった道着を脱ごうとしていた。
「ごめん、シャワー使わせて」
「母屋にいけばいいじゃない。着替えはあっちにあるでしょ」
「いいじゃん、ケチ。母屋のお風呂って大きいから、シャワーだけで使うの勿体ないんだもん」
「関係ないと思うけど。まあ、好きにしなさいよ」
「サンキュ。あ、真奈も浴びたほうがいいよ」
 だったら部屋の主よりも先に入るなよ、と言いたかったが由真にそんなことを言っても無駄だ。
 いくら女同士でも目の前でどんどん服を脱がれていくのは気恥ずかしいものだ。アタシは由真から目を逸らして、テーブルの上の村上のノートパソコンを見やった。
「ねえ、由真。ちょっと訊いていい?」
「なあに?」
「昨日、どうしてアタシに先にこのパソコンを見せようとしたの?」
「んー、別に深い理由はないよ。ただ、村上さんがあのパソコンを預けたのは真奈だからね。最初に見る権利は真奈にあるって思っただけ」
「そんなもの?」
「あたしは後でも見られるし、それ以前に昨日は眠くて仕方なかったんだもん。ところで何か見つかった?」
 アタシは村上が作っていた関係者らしき人物のリストがあったことを話した。
「へえ、それってかなりの手掛かりなんじゃない?」
「だと思う。ところでそのリスト、印刷したいんだけど」
「後でやっといてあげるよ。真奈はこの後、何処か行くの?」
「上社さんのところ。リストのチェックしてもらわなきゃなんないし」
 由真はそれなら上社のオフィスにメールで送っておく、と言った。いつの間に渡したのか知らないけど、由真は上社の名刺を持っているらしかった。
「あんたは?」
「やることあるんだよね。いろいろと」
「……そう」
 何をやるのか、話すつもりはなさそうだった。アタシもそこまで根掘り葉掘り訊くつもりはない。由真ならちゃんと役に立つ調査をしてくれるだろうという信頼が半分、彼女が何をやろうと知ったことかという反感が半分といったところだ。
 ユニットバスに入っていく由真の後姿を何とはなしに見ているとケイタイが鳴った。桑原警部からだ。朝っぱらから立て続けに刑事からの電話が入るのは何とも言えず奇妙なものだ。
「もしもし?」
「おう、昨日はお疲れだったな。今いいか?」
 ダメだと言ったらどんな反応が返ってくるんだろう、という疑問が脳裏をよぎる。
「いいけど。どうしたの?」
「一つ、確認しときたいことがある。吉塚和津実のことだ。彼女は大阪に住んでたことがあるか?」
「大阪!? ……ううん、聞いたことないけど」
 和津実が渡利の死後、ゴタゴタを避けるために避難したのは北九州だか下関だか、とにかくその辺りの親戚の家だったはずだ。
「みてえだな、その反応からすると」
「大阪がどうかしたの?」
「いや、知らねえならいい。じゃあな」
「えっ? ちょっと、どういう――!?」
 質問を跳ね返すように電話は切られた。ケイタイをベッドに投げつけた。
「まったく、なんだっていうのよ」
 事件の関係者に大阪出身者がいるのだろうか。渡利と葉子、和津実は間違いなく福岡出身だけど、他の面々についてはよく分からない。しかし、それと和津実が大阪に住んでいたかなんて何の関係があるのか。
 リストを見るために村上のノートパソコンの電源を入れた。
 ざっと眺めてみても、載っている住所は全員が福岡市とその近郊で、県外は佐賀県に一人いるだけだった。大阪どころか九州から出ている人物もいない。
 ……待てよ?
 だったら、村上はどうしてあんなにあちこちのホテルに予約を入れていたのだろう。事件の関係者のほぼ全員が福岡にいるのに、泊りがけで出かける必要などなかったはずだ。
 メールボックスを開いてホテルの予約票の一番新しいものを呼び出した。
「……ビンゴ」
 思わず呟きが洩れた。それは今年の五月に大阪市内のホテルに予約を入れたときのものだった。
 他の予約票も一通り確認した。大阪市内が三回、堺市が二回、高槻市、羽曳野市がそれぞれ一回ずつ。大阪近辺の地理にはほとんど予備知識はないが、あちこちを訪ねていることは間違いない。いずれも二泊で部屋はシングル。条件らしきものをつけている様子はない。大阪の二回と高槻の一回で喫煙の部屋を指定しているくらいだ。
 しかし、一連の予約票にはおかしな点が二つある。一つは最後の予約票の日付が五月だという点だ。
 その頃、アタシはまだ村上の部屋で通いの家政婦をやっていた。当時、村上が泊りがけで何処かに出かけたことはない。アタシも村上の行動をすべて把握していたわけではないが、もし二泊三日で旅行に行っていれば洗濯物の量が変わってくるので分かる。ついでに言うなら、村上とて旅支度くらいは自分でやれるだろうが、帰ってきてからの荷ほどきを何の痕跡も残さずにやるなどあの家事オンチには不可能だ。
 もう一つはタバコだ。再会した二年前には村上はまだタバコを吸っていた。彼の好みはキャメルの両切りという珍しいもので、しかも何年か前のリニューアルの際に味が変わったという理由で輸入物を通信販売で取り寄せていた。しかし、それが手に入らなくなったのを機に禁煙したはずだ。
 アタシは頭は悪いが五感の良さ、とりわけ鼻の良さには自信がある。村上は間違いなくタバコを吸っていない。それなのに喫煙可能な部屋をわざわざ選ぶ意味がない。
 これらが何を意味するか――答えは一つ。村上は誰かのために代わりに部屋を予約していたのだ。そして、村上がそんな面倒なことをしてやる相手は権藤康臣以外には考えられない。桑原も権藤が頻繁に大阪に行っていたことを示す別の痕跡から和津実との繋がりを推測したのだろう。
 しかし、それが和津実と関係ないとしたら権藤は何のために大阪へ行っていたのだろうか。

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