Left Alone

Prev / Index / Next

  第 56 章 

「――真奈っち?」
 シュンの声で閉じていたまぶたをこじ開けた。
 幌のないフルオープンのジープで眠れていたのだから、アタシは相当に疲れていたに違いない。ゴウゴウという風を切る音と共に山間の景色が猛スピードで背後へ吹っ飛んでいく。
「……ん。ごめんなさい、ちょっとウトウトしちゃって」
「いいさ。疲れてるんだし」
 シュンのジープは八木山バイパスを突っ走っていた。福岡市から飯塚市に向かうにはヘアピンカーブが連続することから”七曲り峠”の異名を持つ八木山峠を越えるか、このバイパスを通らなくちゃならない。シュンは「通行料五二〇円がもったいないから峠越え」を主張したけど、昨夜の乱暴極まりないドライビングを思い出してバイパスを使うことにしたのだ。
「どの辺ですか?」
「そろそろバイパスの出口だ。道案内を頼むよ。ロードマップがグローブボックスに入ってる」
 眠い目をこすりながら引っ張り出したロードマップのページを繰った。
「でも、こんなとこまで着いてきてくれて良かったんですか?」
「夕方まではヒマだって言ったろ?」
「ですけど……」
「いいから気にすんなって」
 郁美の入院先に向かうのにロードスターを取りに帰ろうとしたら「仕事まで時間があるから乗せていく」と言ってくれたのだ。眠気はどこかにいってしまっていたし、かなり気も引けたのだけれど、運転中にぶり返して事故ったらどうするのかと押し切られてしまった。
 ジープは終点のインターチェンジを降りて飯塚市内方面に曲がった。子供の頃に住んでいた東区の郊外に何となく似ていて、炭鉱の街だったことを思わせる古びた建物やボタ山があちこちにある。筑豊の中心都市らしく人もクルマも多いのに町全体が色褪せて見えるのは、おそらくアタシの偏見だろう。
「ところでよ、真奈っち」
「なんですか?」
「やっぱ、敬語に戻ってんのな」
 一瞬、言葉を失った。いつか言われるだろうなとは思っていたが。
「気になりますか?」
「……いや。どっちでもいいことってのは分かってるし、気持ちは分かんないことないけど。でも、昨日はタメ口だったから」
「あれは――」
 昨夜はアタシも興奮していたし、図ったようなタイミングで現れたこの男に親近感を持ったのも事実だ。
 でも、一晩たって冷静になった今、アタシはやはり彼の告白を断わった女でしかない。こうやってアシになってくれるのを断われないことにだって結構な自己嫌悪を感じているのに、親しげな言葉使いなんかできるはずがなかった。
「村上さんっていったっけ、真奈っちの彼氏」
「彼氏じゃないですけど。アタシが勝手に好きだって言ってるだけですから」
「だったな。怪我、ひどいのか?」
「右肩と左脚を撃たれたっていってました。それとどっちかの足の甲。弾丸はどれも急所には当たってなかったらしんですけど。ただ、撃たれてから病院に運ばれるまでずいぶんかかったんで、出血がひどかったらしいです」
「さっきのオールバックのおっさんもそんなこと言ってたな。――早く良くなるといいな」
「……そうですね」
 そっとシュンの横顔を見た。どうしてこの男はこんなに優しいのだろう。
 アタシが村上の心を手に入れられるとは限らない。シュンの態度はそうならなかったときのための布石なのだろうか。ただ、典型的な陸サーファーのようなこの男は、外見に反してそんな計算高い真似ができるタイプではない。
 しかし、だからといって、アタシを口説くのを諦めていないようにも見えない。アタシには彼の気持ちがまるで理解できなかった。

 飯塚市内から陸上自衛隊の駐屯地がある方へ向かった。
 一〇分ほど走ったところに<倉橋病院>という飾り気のない看板があって、その下に<精神科、神経科、心療内科、内科、リハビリテーション科>と診療科目が記してあった。麻薬中毒患者の治療が何科に属するのかはアタシの知るところではない。
 シュンはジープのハンドルを切った。緩やかに曲がる短い坂を上って鬱蒼とした木々に囲まれた敷地に入った。
「見た目は普通の病院と変わらないのな」
「そうでしょうね」
 他に何と返事しようもなかった。五、六階建ての白亜の本棟と大小あわせて三つの病棟があって、他にも何をするのかよく分からない建物がいくつかある。どの部屋の窓も小さくて、棟によっては金網らしきものが掛かってるのが見える。建物の大きさでは由真の実家の総合病院に及ばないが、物々しさは比較にならなかった。
 シュンは外来用の駐車場をやりすごして、敷地の端の木陰にジープを停めた。
「着いてきます?」
「遠慮するよ。俺が来たって何の役にも立たないだろ。それにこういうところは苦手なんだ。ウチの爺さんが最後はアル中の施設で死んだもんでね」
 だったらどうして、という言葉を飲み込んだ。どうせ、まともに答えてくれるはずがない。
 ロビーの入口でスリッパに履き替えて、やわらかい光に満たされたフローリングの広間に足を踏み入れた。クリーム色のクロスとパステルグリーンに統一されたソファやテーブル。受付ホールの奥は一面の大ガラスになっていて、そこからは小さいながらも手入れの行き届いた中庭が見える。テレビはなくて、代わりに静かなクラシック音楽が流れている。病院というよりもホテルかリラクゼーション施設のようだ。
 そんなロビーの一角に黒ずくめの美女が立っていた。
 近頃はあまり見ないワンレングスの黒髪。ブルーのピンストライプが入ったパンツスーツに身を包んで、身体の前で左腕に右の手を絡めている。辣腕の移植コーディネーターからお忍びで通院しているジャズシンガーまで何の職業の人にも見えた。
「八尋先生ですか?」
 アタシが訊くと、黒ずくめの美女は口許に笑みを浮かべてそうだと答えた。深みのある滑らかなコントラルト。テレビで見た記憶と電話で話した印象の通りだった。
「菜穂子が言ってたとおりね」
「……何がですか?」
「とても十九歳には見えないって」
「老けてるってことですか?」
「やぁね。大人びてるって言ってるのよ。初めまして、榊原真奈さん。司法書士の八尋です」
 八尋多香子は名刺を差し出した。彼女の名刺なら権藤から渡されたものを持っているが、そう言って断わるのも変だ。素直に受け取っておくことにした。
「さっそくだけど、あなた、ここへ来ることは志垣先生に言ってあったの?」
「志垣先生?」
「郁美さんの主治医よ。あなたと郁美さんを会わせていいかどうか相談しようとしたら、先生があなたのことをご存知だったから」
「ああ、それは――」
 由真が連絡してくれていたんだろう。てっきりいっしょに行くと思っていたので気にしてなかったけど、アタシの名前を伝えていたということは、由真はひょっとしたら最初から来る気はなかったのかもしれない。
 まあ、それは別にどうでもいい。
「郁美さんには会わせてもらえるんですか?」
「短い時間ならオーケーですって。むしろ、それが何かの刺激になってくれればって、ちょっと他力本願なことをおっしゃってたけど」
 多賀子の声には疎ましさに似た響きが混じっていた。
 アタシが彼女にも郁美との面会に同意を求めたのは、医師の同意を取り付けてから彼女に横槍を入れられるのが嫌だったからだ。しかし、嫌な予感というのは当たるものだ。
 アタシはわざとらしく息をついた。
「八尋先生はどうお考えなんです? あまり、気が進まないような感じに見えるんですけど」
「私が? 先生の許可が下りた以上、私にはあなたの申し出を断る法的根拠はないわよ」
「でも、郁美さんの法的な代理人として、自分が事態をコントロールできてないことを嫌っておられるんじゃありませんか?」
 お互いの次の一手を読み合うような沈黙。
「……それは、あなたが私の立場だったらってこと?」
「ええ。アタシだったら事情がある程度つかめるまで、理由をつけて会わせませんね」
 多香子は目を細めて深い微笑を浮かべた。依頼人の懐に踏み込むときに、彼女はこの自信たっぷりの笑みを浮かべてみせるのだろう。ただしそれは、自分の心は微塵も開いていないプロの微笑だ。
「あなた、面白い子ね。本当に菜穂子が言った通り。でも、自分で自分の首を絞めてるって分かってる?」
「そんなことないですよ。だって今、面会を禁じる法的根拠がないって、自分でおっしゃったじゃないですか。それに、どうしても駄目って言われても手はありますからね」
「どんな?」
「事情を話して、県警の捜査員に来てもらうとか」
 底光りする多香子の視線とアタシの視線が交錯した。多香子は肩をすくめて芝居掛かったため息をついた。
「そんなチャチな脅しに屈したなんて思われたくないから、とことん邪魔してあげてもいいんだけどね。でも、時間の無駄だからやめとくわ。病室に案内するからいらっしゃい」
 多香子は受付の女性に目配せすると、勝手知ったる我が家のような顔で先に立って歩き出した。
「でも、あなたを郁美さんに会わせるのは違う理由で気が進まないの。それは本当よ」
「どういう意味ですか?」
「……彼女に会えば分かるわ」

 三〇分後、アタシは中庭に面した静かなカフェテリアにいた。
 冷房はそれほど強く効いてなかったが」、天井でアンティーク調の大きなファンが回っていて空気がゆったりと循環している。病棟の他の場所と同じように木目を生かした内装と耳に心地よいリコーダーソナタのおかげで、アタシはなんとかロシアンティーを注文してウォッカだけ飲み干すのを堪えることができていた。
 向かいに座った多香子は、胸が悪くなるほど砂糖をぶち込んだ紅茶をティースプーンで丹念にかき回していた。液体に物質が溶ける量の限界のことを何というのか、アタシはぼんやりと考えた。高二に進級するときの追試の詰め込み勉強で由真に教わったことは間違いないのだけれど、肝心の答えは思い出せなかった。
「だから、会わないほうがいいって言ったでしょ」
「そうですけど……。あんなに酷いなんて想像してなかったから」
「……そうでしょうね」
 彼女の声には自分の忠告に耳を貸さなかった小娘への嘲笑と同時に、いくらかの同情の響きも混じっていた。
 スプーンを皿に置くチンという音がやけに大きく聞こえた。

 あれからアタシは多香子の案内で、敷地の中でも一番奥まった場所に建つ病棟に入った。
 怪我を除けば医者要らずのアタシは、もともと病院というものに対してあまり確固たるイメージを持っていない。ドラッグやアルコール中毒患者専門の病棟なら尚のことだ。想像していたのは、たとえば「ターミネーター2」でサラ・コナーが収容されていたような刑務所と研究施設を足して二で割ったような代物だった。
 郁美の病室は外から鍵がかかることを除けば、拍子抜けするほど普通の部屋だった。窓こそ小さくて嵌め殺しになっているが、木々の間から洩れてくる陽光はレースのカーテン越しにパステルブルーの部屋を満たしている。空調がしっかり効いていて病院特有の消毒薬のような匂いはしない。床はフローリングを模したクッションフロアが貼ってあって、柔らかそうな大小のビーズクッションが幾つも床に散らばっている。
 他には清潔そうなシーツを敷いたマットレスだけのベッドが調度品のすべてのこの部屋に”郁美お姉ちゃん”はいた。
「郁美ちゃん、お客さんよ」
 多香子が子供をあやすような優しい口調で呼びかけた。
 郁美は床にへたり込むようにペタンと座っていた。汚れて真っ黒になったテディベアを抱き枕のようにしっかり抱え込んでいる。テディベアは相当に乱暴な扱いを受けているようで、背中にはブラックジャックのサンマ傷並みに雑な縫い合わせた痕があった。
 多香子の声が聞こえていないのか、郁美は何の反応も示さなかった。
「郁美ちゃん?」
 多香子は繰り返した。郁美は今度はほんの少しだけ煩わしそうに頭を振ると、小さな唸り声を出しながら顔を上げた。
 アタシは息を呑んだ。
 留美さんによれば、郁美を有名人に喩えるなら池脇千鶴という話だった。ところが、目の前の少女からは優等生っぽい清純な丸顔とまるで共通点を見出せなかった。頭蓋骨の上にまっすぐ皮膚を貼ったような顔からは表情が削げ落ちてしまっていて、肌もアタシと二つしか違わないとは思えないほど荒れている。眼差しにはまるで力が感じられない。
 薄いピンク色のパジャマの上下がかろうじて女の子らしさをアピールしていたが、アタシはそこにも信じられないものを見つけていた。袖や裾から覗く腕や脚には無数の引っ掻き傷があった。蚊に刺されたところを掻いたような生易しいものではない。皮膚の中まで掻きむしろうとしたような深くて加減のない爪痕だった。
「自傷行為の痕よ。禁断症状の一つで、体中を虫が這い回ってるような感じになるんだって。人によっては本当に皮膚の下に虫の幻覚が見えるそうだけど」
「知ってます」
 自分でも意外なほど強い口調で多香子を遮った。アタシの父親は長く薬物対策課にいて、たまにだがドラッグの恐ろしさを話して聞かせてくれたことがある。
 郁美の惨状もまったく想像していなかったわけじゃない。でも、どこかで「それは一般論で郁美は違う」というような何の根拠のない期待を抱いていたのも事実だ。
 しかし、それは敢無く打ち砕かれた。
「彼女、ずっとこんな感じなんですか?」
 アタシは訊いた。声が自分のものではないような気がした。多香子はこれ見よがしのため息をついた。
「大阪の病院から移ってきたときには、病状はかなり良くなかったと聞いてるわ。脳細胞の萎縮が進行してて回復の見込みはほとんどなし。ここに来て麻薬はやめられたから、身体のほうは幾らか良くなってるみたいだけど」
「待ってください。郁美さんはあっちでも病院にいたんでしょう?」
 由真の話では郁美は大阪でもここと同じような施設にいたはずだ。だったら、麻薬との縁はもっと早く切れていたはずだ。
「そうでもないの。携帯サイトを使って、更正施設の患者に麻薬を売る連中がいるのよ」
「病院の中に?」
「見舞い客を装って、とか手口はいろいろあるみたいだけどね。だから、こういうところは病棟に入るとき、割と厳重な手荷物検査があるわ。あなたの場合は私と一緒だからなかったけど」
「ひょっとして、葉子が郁美さんを転院させたのって――?」
「そのことを知った白石さんが、郁美さんと密売グループとの縁を切らせるつもりでやったみたいね。大阪の病院に転院先を教えなかったのは、何らかの形で密売グループに洩れて郁美さんの口を塞ぎにくるのを怖れてのことだったらしいわ」
「白石葉子に会ったことがあるんですか?」
「私に郁美さんの成年後見の依頼を持ち込んできたのは彼女なんだから当然でしょ。郁美さんの治療費とか彼女名義の財産なんかについて、ご家族――叔母さまと話をしなきゃいけないけど、自分じゃ何も分からないからって。私のことはテレビで知ったみたいね」
「じゃあ、権藤さんの依頼は?」
「調べていくうちに郁美さんの父親が健在だって分かったから、こっちから会いに行ったの。そのときにそういうことなら自分も頼みたいことがあるって」
 考えてみれば権藤は今年の五月までは郁美が大阪にいると思って、何度もあちらへ足を運んでいる。順番としてはそうでなくてはおかしい。それに目の前の美貌の司法書士と権藤康臣にはまるで接点がない。
 その場に気詰まりな沈黙が満ちた。
 アタシと多香子が話している間、郁美はその場に誰もいないかのようにテディベアと無心に戯れていた。会話が耳に入っていないはずはないのに、まるで興味を示そうとはしない。彼女にとってはアタシのハスキーヴォイスも多香子のコントラルトもただの雑音に過ぎないのかもしれない。
「――この部屋、何にもないんですね」
「何もない理由は分かるでしょ。一つは物を隠す場所を作らないため。もう一つは物を置けば置いただけ、郁美さんが自分の身体を傷つける道具が増えるから」
「彼女の私物は?」
「ナースステーションの隣に専用のロッカールームがあって、そこに保管されてるわ。でも、こういうところに入る人はあんまり私物って持ってこないし、彼女の場合はあっても満足に扱えはしないしね」
 多香子は壁に視線を投げた。そこには割と大きな液晶テレビが埋め込んであって、リモコンがない代わりに壁にはタッチパネルが設置してある。言いたいことはすぐにわかった。こんなところにいれば楽しみはテレビくらいしかないはずなのに、郁美はそれにすら興味を示さない――いや、示せないのだ。
「郁美さんの私物って言えるのはあのテディベアくらいよ。汚れてるのを見かねた看護師さんが洗ってあげようとしても頑として手放さないそうだから」
「ずいぶんボロボロですけど、いつ頃から持ってるんですか?」
「入院したときには持ってたそうよ。一度、白石さんが洗うのに取り上げようとして背中が裂けちゃったことがあるらしいけど。郁美さんが子供みたいに大泣きして大変だったんだって」
「じゃあ、あの縫った痕は?」
「白石さんがやったんじゃないかしら。言っちゃ悪いけど、彼女、お裁縫はまるでダメだったのね」
 多香子は静かに笑った。つられるようにアタシも笑ったが、微笑が引き攣っているのが自分でも分かった。
「ロッカーを見せてもらうことはできますか?」
「構わないけど、おそらく期待には応えられないと思うわよ。ここで着る物の他には、外出用の着替えが何着かと靴くらいしかないもの。預金通帳とか印鑑は私が保管してるしね」
「入院したときからそうだったんですか?」
「それは分からないわ。白石さんが私を呼ぶ前に持ち出してれば、それは私の与り知るところではないもの」
「……ですよね」
 ふと、遠くで何かが落ちる耳障りな物音がした。誰かが廊下の向こうでスチール製の何かを落っことしたような音だった。
 郁美はそれには反応を示した。何事かという表情で閉め切られた扉のほうを向く。その途中で視線がアタシの顔の上を通り過ぎて行った。
 一瞬だけ交錯した眼差しからは、一片の感情も読み取ることができなかった。
「どうする? まだここで何か話す?」
 アタシは「外に出ます」と答えた。彼女の私物を見るためにロッカールームへ向かった。
 しばらくの間、鳥肌が収まらなかった。それが自分の身に郁美と同じことが起こるのを想像したせいか、それとも、話には聞いていてもどこか実感のなかった麻薬の恐ろしさを目の当たりにしたせいかはよく分からなかった。

Prev / Index / Next
Copyright (c) All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-