Left Alone

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  第 65 章 

 判明した事実の酷さは帰りの車中の空気は重苦しくさせた。
 葉子はやはり殺されていた。一〇〇歩譲って脅しだったとしても、大怪我をさせるつもりだったことは間違いない。そうすることでホンモノのDVDを放り出させようとしたか、あるいは入院している間に家捜しをして回収するつもりだったのだろう。
 怪我をさせたのが無関係な――権藤はそうとも言えないが――人物ではあるけど、身動きがとれなくなったところに襲い掛かるやり口が村上のときと同じなのが無性に腹が立った。
 新庄圭祐。
 村上が追い続けた男。すべてはこの男が起こしたくだらない事故とその隠蔽工作から始まった。そして、それは一人のチンピラをヤクザですらおいそれと手を出せない怪物へと変えていった。
 渡利の死後、新庄は配下――公安課の井芹、警察組織を離れた立花を使って、渡利が脅迫の材料にしたDVDを捜させたのだろう。逃げ回る渡利の仲間たちを追いかけた吉塚正弘と椛島博巳が、共に立花によって借金でがんじがらめにされていたのは偶然ではない。彼らもまた、事情を知らされないままに手足として使われていたのだ。
 もちろん、奴らが求める物は関係者を一人ひとり訪ね歩いて「あなたは何か知りませんか?」と訊けるようなシロモノではない。捜索は難航を極めたことだろう。だからこそ、大きな動きもないままに事件から三年もの歳月が流れた。あるいは、誰もが「もういいじゃないか」と諦め始めていたのかもしれない。
 事態が急展開を見せたのは、和津実が”渡利純也の遺産”の話を立花に示したからだ。
 吉塚と椛島が渡利が残した麻薬や金銭を浪費してしまっていて、他に渡利が残した物の中にカネになりそうなものがないことを知っていた以上、和津実がホンモノのDVDを取引材料にするつもりなのを立花は見抜いていたことになる。同時に、名前は出さなかったにしても和津実は取引材料の出所を薄々明かしている。アタシが立花たちを追い払ったあのとき、和津実は「かつての仲間の女が死んだからブツは手に入らない」と弁解していた。
 いずれにしても、渡利純也の交友関係を洗っていけば和津実から葉子にたどり着くのは難しいことではない。そうであれば、渡利が死んだ夜を最後に遥として行方の知れなかった証言者が、実は生きていることに気づくのも時間の問題だったはずだ。
 新庄は全てが白日の下に晒される恐怖に震え上がっただろう。しかし、まともな受け答えすらできない郁美に裁判での証言が不可能なことも知ったはずだ。
 渡利がこの世の人でなく郁美も証人になり得ない今、新庄を脅かすものは何か。渡利の死のどさくさにまぎれて失われた脅迫の証拠だけだ。そして、それはおそらく葉子の手にある。
 大人しく差し出すのならいい。
 しかし、それをもって脅迫者になろうというのなら。ましてや、我が身を破滅させるに充分な映像を収めたDVDを、真実を追い続けたために刑事ですらいられなくなった愚かな警察官に渡すというのなら――

「……真奈ちゃん?」
 留美さんの声で我に返った。
「はい?」
「顔が真っ青だけど、だいじょうぶ?」
 心配そうに顰められた目がアタシの顔を覗き込んでいる。ハイラックスは信号停車していて、留美さんはシートベルトを外して身体を乗り出してきた。
「だいじょうぶです。あ、信号変わりますよ」
 アタシは前を指差した。クルマはいつの間にか東区を離れて百年橋通りを平尾浄水に向かっていた。ロードスターに乗り換えるためだ。いつまでも留美さんをアシ代わりにしているわけにもいかない。
「そういえば、由真ちゃんから連絡ないね」
 留美さんが言った。それに合わせて咥えたペルメルが小さく上下する。咥えタバコが似合う女性をアタシはこの人以外に知らない。
「元カレに逢いに行ってますからね。盛り上がってるじゃないんですか」
「そうなの?」
 村上のノートパソコンの徹底調査を頼んだ相手が由真の元カレだという話をした。昔は典型的な電車男だったのに今は矢野東に似たイケメンになってることや、表向きは高橋が由真にぞっこんだったように見えるが実は由真のほうがベタ惚れだったというエピソードは、留美さんの琴線を大きくかき鳴らしたようだった。
「へぇー、そうなんだぁ」
「ま、今はそいつも結婚して子持ちらしいんで、ヨリが戻ったりはしないでしょうけど。でも、由真はまだ気があるんだと思いますよ」
「うっわ、それじゃ略奪愛じゃん」
 平尾浄水までの道中、車内は勝手な妄想で由真のデート話をでっち上げて盛り上がった。留美さんは元々そういうのが大好きだし、由真には村上のことでずいぶんといたぶられているので、アタシも幾らか意地悪な気分でそれに乗っかった。さっきまでの陰鬱な考え事を頭の隅に押しやるのにちょうど良かったというのもある。
 もっとも、話は途中で大きく脱線していった。話題は「結局のところ、略奪愛は是か非か?」になり、アタシの母親が「奪ってしまえば何だかんだ言っても周りは奥さんと呼んでくれるけど、奪えなければただ遊ばれただけ。だから、不倫するなら必ず奪え。できないならするな」と幼い娘に言い聞かせているのを祖母に見つかってコンコンと説教された話をしているところで、ハイラックスはアタシの家の前に着いた。
「やっぱり連絡ないね」
 留美さんが言うので電話してみることにした。ノートパソコンから何も見つからなかった以上、せっかくのデートの邪魔をする必要はないけど、後で合流と言いながらまったく連絡なしというのも確かに変だ。
 しかし、<この電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため――>という本日二回目のメッセージを聞かされただけだった。念のために高橋のケイタイも鳴らしてみたが二回が三回になっただけだ。
「ひょっとして、ひょっとするかな?」
 留美さんの目尻が下がる。ニタニタ笑いが意味することはアタシにも分かった。
「まさかぁ」
「いんや、分かんないよぉ。由真ちゃんって意外と魔性っぽいとこあるから」
「……まあ、否定はできませんけどね」
 高橋と別れて以来、由真はずっとフリーで通しているが、アタシが知っているだけでも五人に言い寄られている。
 それはあのルックスなら無理からぬことだ。ただ、問題なのはその気がないなら最初にキッパリ断わればいいのに、由真が普通にデートしたり思わせぶりな態度をとって相手をのぼせさせてから「ごめんなさい」をやることだ。気が弱くて断りを言い出せないというようなことはまったくないので、あれはわざとやってるはずだ。いつか刺されるんじゃないか、とアタシはひそかにヒヤヒヤしている。
 それはともかく、いくら由真でもホテルでご休憩中ということはないだろう。いや、由真だからと言うべきだろうか。口先では利いた風なことを言っていても、彼女がヴァージンなのは一〇〇パーセント間違いないからだ。
 何やってんだろ、いったい。

 考えてみれば久しぶりの無断外泊だったが、祖母には特に何も言われなかった。それどころか、新しい彼氏ができたのかと訊かれる始末だった。そんな馬鹿な話があるものか。一昨日の夜の出来事を考えれば、いくらアタシが図太くても到底そんな気になれないことくらい分かるだろうに。
「なんだ、残念」
「……それ、お祖母ちゃんが孫に言うことじゃないよね」
 祖母は不思議そうに小首を傾げた。すっかりお気に入りのサマードレス姿で紅茶を楽しんでいる。BGMはラルク・アン・シエルの〈セヴンス・ヘヴン〉だ。もうすぐ喜寿にはとても見えない。
「でも、一昨日だって男の子とホテルに行ってたから、あんなところに出くわしたんでしょう?」
「へっ!?」
「由真ちゃんがそう言ってたけど、違うの?」
「んなわけないでしょ。たまたま近くを通り掛かって権藤さんを見かけただけよ」
「でも、男の子といっしょだったのは本当でしょ?」
「……そうだけど」
 一昨日の明け方に帰ってきて以降、アタシは祖母にほとんど詳しい話をしていない。何をどう説明すればいいか、見当がつかなかったからだ。
 権藤康臣の死の顛末はアタシが語るまでもなくテレビでやっている。それに登場する”説得を試みた知人の女性”というのがアタシなのは警察から祖母へ連絡されてしまっている。だから、アタシはその場に居合わせた理由を訊かれたときに何と説明するべきか、それだけを延々と考えていた。あるいは、追求をやり過ごす方法を。
 由真に対して手間を省いてくれた礼をするべきか、余計なデマを流してくれた仕返しをするべきかは悩みどころだった。
「今のところ、そんな予定はなし。それとも何、孫娘がそんなに尻軽だと思ってんの?」
「そういうわけじゃないわ。でも、前の彼氏と別れてから浮いた話の一つもないんだもの。あなたが奈緒子と同じように行き遅れるんじゃないかって、わたしはそれだけが心配で心配で……」
「大きなお世話ですー。それより、アタシ宛てに何か届いてなかった?」
「休み前に出てなきゃならない書類が出てないって、学校から連絡があったわよ。それと、前に通ってた空手の道場から封筒が届いてたわ。あと、いくつかダイレクトメール。ラブレターはゼロ」
「訊いてないし」
 アタシは祖父の様子を尋ねた。このところ見舞いにも行っていないが、痩せ衰えた姿を見られるのは嫌という理由で、そもそも祖父はアタシが来るのをあまり歓迎してくれない。孫に向かって見栄を張ってどうするんだと思う。しかし、こうやって格好をつけたがるのは昔からだ。
 祖母の話では容態に大きな変化はなし、もう少し穏やかな季節になったら外泊許可をとって家族水入らずで旅行に行きたいと言ってるけど、たぶんアタシが嫌がるだろうなとも言っているらしい。アタシの母親、佐伯奈緒子は入院先からの一時帰宅中に容態が急変して亡くなっている。
「そんなの気にしてないよ。予定だけ早めに教えてくれれば、こっちはそれに合わせるから」
「そう? だったら、お祖父さんにそう言っておくわね」
 祖母の嬉しそうな顔を見るのは、心配をかけ続けてきたアタシにとって何よりも幸せなことだ。しかし、それは同時に今、自分が途轍もなく危ない橋を渡っているという親不孝を自覚することでもあった。
 ふと、父が渡利純也を殴り殺したとき、あるいは、村上が父を告発して警官としてのキャリアを台無しにしたときのことを思った。彼らが決断を下したとき、娘であるアタシや妻である菜穂子の顔は思い浮かばなかったのだろうか。
 考えても答えは出ない。アタシとしては、彼らが自分の意思を貫いた代償を支払わされた誰かがいると知っていること、そして、それに心の痛みを感じてくれていることを願うしかなかった。今のアタシが祖母の笑顔を正面から見ることができないのと同じように。
 
 ロードスターに乗り換えて家を出た。毛利課長と会うためだ。
 留美さんと馬出に行く途中で毛利課長のデスクに電話を入れてある。アタシのことは覚えてくれていて、アタシと由真の近況を尋ねられた。二人とも大学生になったことや元気にしていることを話すと、毛利は穏やかな声で「そりゃ良かった」と言ってくれた。
 どこかで会って話がしたいと用件を切り出すと、毛利は「今はちょっと立て込んでいて時間がとれないが、夕方の四時ごろに早良署に行く用事があるんで、そのついででよければ」と言ってくれた。アタシは構わないと答えて、近くにいるので都合がいいときに電話をくれるように頼んだ。
 待ち合わせには少し時間があった。
 その間に学生課に出し忘れていた書類を出すのと、一週間ほど無断で休んだままの空手同好会に顔を出しておくことにして、ロードスターの針路を七隈方面に向けた。平尾浄水から七隈へは別府橋通りから油山観光道路に入ってもいいし、平尾の丘陵地をぐるりと回って山荘通りから大池通りに入ってもいい。ただし、大学近辺は全体的に道が狭いのでどちらも時間帯によってはやや渋滞することはある。急ぐわけでもないので別府橋通りのほうを通っていくことにした。
 大学には思ったよりも早く着いた。学生課の窓口で軽くイヤミを言われながら書類を出して、敷地の隅のほうにある愛好会会館まで歩いた。アタシが所属するフルコン空手同好会は幾つかある格闘技系の同好会の中では比較的弱小で、夏季休暇中は平日の午前中しか練習場を使わせてもらえない。なので、この時間に部室に行っても誰もいないのだけど、他の部や同好会と掛け持ちしている上級生が何人かいるのだ。
「あ、サボリの女王だ」
 アタシの顔を見るなり、女子サッカー部と掛け持ちしている先輩が言った。顔は笑ってるけど目が笑ってない。同好会はオープン参加の大会しか出られないので今の時期は差し迫って稽古をする必要がないが、それを理由に稽古に出てこない連中が多いので、副部長であるこの人はサボリに厳しい。
「すいません、この頃忙しくて」
「そう? ああ、でも分かる。榊原さん、やつれてるもん」
「……そうですか?」
「具合悪いの?」
「いえ、そういうわけでもないんですけど」
「ふうん。まあ、いいけど。いつ頃から出て来れそう?」
「あー、それがもうちょっとだけ……」
 言外に「一年のくせに堂々とサボりとはいい度胸だ」という雰囲気をにじませながら、しかし、表面的にはアタシの身体を心配してくれているようなことを言う。こういう腹芸ができなくてはまとめ役はできないのだろう。しかも、アタシは一年にして主力選手だ。迂闊なことを言って辞められても困るというニュアンスもちゃんとある。
 それに甘えてはいけないのだが、今は何も約束できない。自分が抱え込んでいることと本来のあるべき姿のあまりの乖離に、見慣れたキャンパスの風景が急に現実感を失ってしまったように思えて仕方がなかった。
 愛好会会館を後にして、ロードスターを西新方面に向けて走らせた。
 途中、由真が机の上に置いていたCD−Rの中の一枚をスリットに挿し込んだ。CDは全部で七枚あったけど”By 由真”の丸文字のサインと番号が割り振ってある以外はどの盤にも何も書かれていない。
 再生されたのはエアロスミスの〈ウォーク・ディス・ウェイ〉だった。
 イントロだけ聴いてスキップしていった。曲は〈トレイン・ケプト・ア・ローリン〉〈ジェイデッド〉〈アイ・ドント・ウァント・トゥ・ミス・ア・シング〉と続いていた。最後の曲は〈アルマゲドン〉のテーマだg、いずれにしても由真のフェイバリットとは程遠い選曲だ。
 疑問の答えはすぐに出た。エアロスミスの次がオーディオスレイブだったからだ。村上のパソコンに残っていたiTunesのバックアップだろう。
 試しにCDを変えてみても、メジャーどころではヴァン・ヘイレンやジューダス・プリースト、ボン・ジョヴィ、日本ではややマイナー気味なレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンとかサウンドガーデン、ちょっと毛色の違うところではダンディ・ウォーホルズ、果てはメタリカまで入っていたけどジャズはまったく見当たらない。アタシが見たときにはマリーンの〈レフト・アローン〉があったはずなのに。
 理由は最後の二枚で分かった。由真も分からないなりにジャンル分けをしたらしい。ジャズ・ミュージシャンはほとんどこの二枚に集めてあって〈レフト・アローン〉は七枚目の冒頭に入っていた。
 聴きたいわけじゃないのに、アタシはスキップせずにマリーンの歌声に耳を傾けていた。知らず知らずのうちに歌詞を口ずさんでしまう。

 Where's The Love that's made to fill my heart
 (心を満たしてくれる愛はどこにあるの)
 Where's the one from whom I'll never part
 (そばにいてくれるはずのあの人は、どこへ行ってしまったの)
 First they hurt me,then desert me
 (人はみんな、わたしを傷つけて、そして去って行く)
 I'm left Alone,all Alone
 (わたしは取り残されて、ひとりぼっち)

 曲自体が嫌いなわけじゃない。むしろ、インストゥルメンタルの孤独を強調するような演奏より、こっちの少し歌謡曲っぽさもある大げさなアレンジのほうが甘ったるい歌詞に合っている気すらする。それはアタシがこの曲を嫌っている理由でもあるのだが。
 この後にもマリーンの聴いたことのないナンバーが入っていたが、残念ながら〈レフト・アローン〉ほどのインパクトはなかった。スキップした次の曲はベイ・シューがカバーしたジェイムズ・ブラントの〈ユア・ビューティフル〉だった。この人の歌い方はスロー・アレンジだとどれも同じ曲に聴こえてしまうのであまり好きになれない。
 それでも一応、最後まで聴いてからCDを止めた。他のCDに換えようかと思ったが、聴きたい曲が思いつかなくて助手席のCDケースに手を伸ばすことはしなかった。耳の奥ではマリーンのベタっとした英語がずっと鳴り響いている。
 村上が好きだというこのジャズ・ナンバーが最初から嫌いだったわけではない。声がジャズ向きだと言われたのに気を良くして覚えようとしたことすらあるのだ。そうでなければ歌詞を暗唱できたりしない。
 嫌いになったのは三年前、村上が父を告発したことを知った夜だ。持っていたCDを叩き割ったときのことは今でも覚えている。他人から見ればくだらないことに見えるだろうが、アタシにとってこの歌は村上との確執そのものなのだ。

 Maybe fate has let him pass me by
 (きっと運命が、彼をわたしから遠ざけたんだろう)
 or perhaps we'll meet before I die
 (でも、あるいは死ぬまでに巡りあえるかもしれない)
 hearts will open but until then
 (心と心が通じ合える、そのときが来るまで)
 I'm left Alone,all Alone
 (わたしは取り残されて、ひとりぼっち)

 何故だか分からないけど、前触れもなく涙が溢れだした。

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