Left Alone

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  第 73 章 

 実際に可能かどうかは別にしても、こちらから新庄たちに圧力をかけられる対抗策のようなものが見つかったことは、僅かにではあるが心を軽くする効果があった。映像をインターネット上に載せるのにはそれはそれで面倒な手はずがあるらしいが、必要な機材はDVDを預けたツルさんのところで調達できるらしい。
 必要なのは時間だけだ。そして、それは皮肉なことに由真の身柄について連絡がないことで稼げている。
 大名の路地を歩いてツルさんの店に向かった。
「あれっ?」
 シュンが怪訝な声をあげた。
 ツルさんの店の前、車がぎりぎりすれ違える程度の細い路地に救急車が停まっていた。後部のハッチが開いていて、慌ただしい様子でストレッチャーが運び込まれている。遅い時間だというのにくそ狭い道路には野次馬が溢れ返っていた。
「……やっべぇ」
「なに?」
「ツルさんだ」
 ストレッチャーに布の類は掛けられていない。それでもアタシたちの場所から見えるのは横たわる人物の足だけなのだが、シュンはそう言い切ったと同時に走りだしていた。アタシも後を追った。
「すんません、ちょっと!!」
 シュンが救急隊員に声をかけた。隊員は何事かという表情で振り返った。
「何ですか?」
「いや、知り合いかもしれないんで。――やっぱツルさんだ」
 本名は確か鶴崎とかいうシュンの知り合い。顎の先にうっすら生やした髭といい、栄養失調じゃないかと思える細さといい、大名のアパレルショップでなら幾らでも見かけるタイプの男だ。無地のTシャツに派手な柄のアロハ、ダメージ加工が入り過ぎたデニム。帽子だけは何故かニット素材のチロリアン・ハット。もっとも、帽子は血に染まっていて山吹色の生地もエメラルドグリーンの細いバンドも台無しになっている。ぐったりした様子からは意識があるのかどうかは窺い知れない。
 隊員はそれ以上の質問を受け付けずにハッチを下ろした。救急車は赤色灯を灯すとスピーカーで道をあけろと怒鳴りながらあっという間に走り去った。
「なんてこった」
 シュンの顔は蒼白だった。見合わせたアタシの顔も多分似たようなものだろう。
 アパレルの店はそんなに遅くまで営業していないのが常だが、今日はたまたま馴染みの客が遠くから来るから開けているとツルさんは笑っていた。そうでなければ警固にある女子高前の馴染みのガールズバーに飲みに行ってたのだそうだ。そうであってくれれば良かったのにと思っても後悔は先に立たない。
「ごめんなさい……」
「ん?」
「アタシがDVDのコピーなんか頼まなきゃ、こんなことに――」
「ストップ。ツルさんにあれを持ち込んだのは俺だ。真奈っちが責任感じるとこじゃねえよ」
「でも……」
「デモもストもねえ。俺のミスだ。連中が真奈っちを泳がせて監視してることは分かってたくせに、用心が足りなかったんだ」
 シュンは悔しそうにツルさんの店のショーウインドーを覗き込んだ。アタシはシュンの視線を追った。
 あまり広くはなくて、しかも二階の居酒屋に上がる階段の裏側が壁から大きく張り出していて余計に手狭に見える。ツルさんの定位置はその階段下に設えられたレジ兼用のテーブルだ。灯りは点いたままで陳列された商品もほとんどそのままのようだが、ここからでは争った形跡までは見えない。ただ、カウンターに置かれていたノートパソコンがなくなっていることだけは見て取れた。ということは中に入っていたDVDも持ち去られていることを意味している。
 奴らが強硬手段に出るのは予想されていたことだった。ただ、もしそうであれば対象は自分自身であると思い込んでいた。たった一枚しかないジョーカーをみすみす奪われた自分の間抜けさにも腹が立つ。だが、それ以上に無関係な人間を巻き込んでしまった不甲斐なさに目がくらむ思いがした。
 奴らはまだアタシを監視しているのだろうか。
 こみあげる感情を抑えて何気ない素振りで辺りを見渡す。もちろん、そんなことで怪しい人間を発見できたりはしないだろう。無駄なことをしているという自覚はあった。ただ、そうせずにいられなかっただけだ。半分は怒りのせいで。半分は恐怖のせいで。
 救急車と入れ替わるようにパトランプを載せたセダンが入ってきた。降りてきた人間の腕には”機捜”の腕章が巻かれていた。初動捜査専門の機動捜査隊だ。アタシの父親も警部補に昇進したときに一年ほど配属されていたことがある。
 年配の刑事が現場にいた制服警官から話を訊いて、アタシたちのほうに歩いてきた。
「――えーっと、武松さんですか。被害者とはどういうお知り合いで?」
「高校のときの先輩です。何があったんすか?」
「いえね、まだ詳しいことは分かってないんですが……。状況からして店の中で背後から頭を一撃されたのは間違いないと思われますが、それ以上は何とも」
「怪我の具合はどんな感じなんすか?」
「それも何とも。まあ、一一九番には自分でかけてきたそうですし、混濁はしてるようですが意識もありますし。最悪の事態は避けられるだろうと救急の人間は言っとるそうです」
「そうっすか……」
 硬かったシュンの表情がほんの少しだがほころんだ。アタシもこっそりと安堵のため息をついた。
 一方で刑事は困惑を隠そうとしなかった。まだ駆け付けたばかりでしかも被害者からは何も訊けていない。その状態で何も話せないのは当然のことだ。
「後でお話を訊かせて戴くかもしれません。連絡先を伺えますか」
 シュンは名前と住所、携帯電話の番号を刑事に教えた。刑事はくたびれた名刺入れから一枚引き抜いて慣れた手つきでシュンに渡した。アタシは単なる連れとしか思われなかったようで何も訊かれなかった。
「行こうぜ、真奈っち。ここにいたってしょうがない」
「……そうね」
 行くあてなどありはしないが、アタシたちは歩きだした。その瞬間。
「――ちょっと、なにこれッ!?
 ハスキーというよりしゃがれ声というほうがピッタリくるガサガサした女の声。いかにも酒焼けという感じだ。思わず声の主を振り返った。
 こんがりと陽に灼けた褐色の肌。天然パーマの栗色の長い髪。まん丸な輪郭にパッチリした大きな目と見本のような団子鼻。ヌードカラーの唇も分厚くぽってりとしている。叫び声のニュアンスは一〇〇パーセント日本人のものだったが、見た目はサモアかタヒチの人にしか見えない。緑色の花柄のロング・プリントドレスなんか着ているから尚更だ。
「ユウコさん?」
 シュンが声をかけた。ユウコと呼ばれたサモア女が振り向いた。まさか二人が知り合いとは思ってなくてアタシは面食らった。
「あらっ、シュンくん。こんなとこでどうしたの?」
「いえ、ちょっと」
「デート?」
「じゃないんですけどね。ユウコさんこそどうしたんすか?」
「今からお店。休みだったんだけど、オーナーが急に来てくれっていうもんだからさ。それより何があったの?」
「いや、実は……」
 何をどこまで話せばいいのか、シュンもすぐには判断がつかないようだった。とりあえず、ツルさんが何者かに襲われて救急車で運ばれたことだけシュンは話した。
「襲われたって……ツルくんが?」
「そうなんすよ。具体的なことは何も分かんないんすけどね。――あ、真奈っち。この人、ツルさんの行きつけのバーのユウコさん」
「こんばんわ」
 アタシはペコリと頭を下げた。正直、シュンの同業者に何の興味もないし今のアタシはそれどころじゃない。態度に出ないように気をつけたつもりだったが、素っ気ない挨拶になるのは避けられなかった。彼女はあまり気にした様子もなく朗らかな挨拶を返してきた。
「それにしても、何だったんだろ」
「何がっすか?」
「あたしが呼び出されたの、ツルくん絡みだったのよ」
「何ですってッ!?」
 無力感に苛まれていたアタシは自分でもびっくりするほどその言葉に食いついていた。ユウコさんはマスカラで反り返ったまつげを瞬かせながら「……どうかしたの?」と言った。

「あたし、本職はSEでね。あ、システム・エンジニアのことね」
 ユウコさんはガールズバーのカウンターに入って、アタシとシュンの飲み物を作り始めた。
 警固の交差点から別府のほうに抜けていく道沿いで、アタシも時々通るのだがこんなところにバーがあるなんて知らなかった。通るのが主に昼のせいもあるだろうが、それほど目立つ店構えでないことも理由の一つだろう。国体道路から一本裏に入ったこの辺りは半ば住宅地ではっきりした歩道がなく、立て看板や大きく張り出したネオンサインは置けない。おまけに最初から飲食店を前提に作られた建物ではないらしく、シャッターを下ろすとドアの上の看板まで隠れてしまうのだ。
 しかし、入ってみればピンクと黒を基調にしたど派手な内装で、天井から吊られたBOSEのスピーカーからはハウス・ミュージックというかトランス・ミュージックというか、要するにそのあたりの騒がしい音楽が流れている。アタシの趣味ではないし、シュンもあまり好きじゃないと言っていたような記憶があるが、飲みに来たわけじゃないので文句をつけるのはお門違いだろう。
 貰った名刺によればユウコさんの本名は木原裕子といって、福岡では割と知られたIT関係の会社に派遣されているエンジニアなのだそうだ。とてもそうは見えないが。
「ツルさんはユウコさんに何の用事だったんですか?」
「うーん、何だっけ?」
 疑問符は隣でほかのお客さんのカクテルを作っている女の子に向けたものだった。
「DVDのコピーとるの手伝ってって言ってましたよ」
「やっぱりそっちか」
 シュンがため息をつきながらグラスを口に運んだ。
 アタシもそれに倣った。注文したのはラフロイグのハイボール。何があるか分からないからアルコールはオミットしてきたが、さすがに飲まずにはいられなかった。
「真奈ちゃん、お酒強いのね。ウチのお客さんでそれ飲む人いないのよ」
「だったら何で置いてあるんすか?」
 疑問をシュンが代弁してくれた。ユウコさんは「あたしが飲むから」と笑った。
 アタシがラフロイグを選んだのは少しでも飲みにくい酒が飲みたかったからだ。独特の飲み口のアイラモルトの中でもラフロイグは好き嫌いがはっきり分かれることで知られている。ピート臭というかヨード臭というか、とにかくまるで消毒液のような匂いがするのだ。口が悪い人間は正露丸に喩えたりもする。言いえて妙でアタシもロックではとても飲めない。だが、不思議と癖になる味でもある。
「手伝うって何を?」
 アタシの疑問にユウコさんはきょとんとした顔をした。
「……さあ、何をだろ。あたしは何も聞いてないからねぇ。オーナーから呼び出されただけだし。サツキちゃん、オーナーは?」
「そろそろ戻ってくると思いますけど」
 しばらくの間、アタシは何もしゃべらずにシュンとユウコさんの会話を聞いていた。話題はツルさんのことから離れなかったがどれも仮説の域を出ない内容だった。
 一〇分ほどしたころだろうか。二杯めのラフロイグを注文するか迷っていると入口のカウベルが鳴った。
「ただいまー」
「おかえりなさい、オーナー」
 入ってきたのは三〇代半ばの女性だった。顔立ちはそれほど珍しくない整った造作だ。だが、化粧や服装がまったく年齢にマッチしていなかった。蒼いラメ入りのメイクやトロピカルな雰囲気の飾りがついた麦わら帽子はともかく、ショッキングピンクとターコイズブルーのタンクトップ二枚重ねにカットオフのショートパンツ、紅白ボーダー柄のオーバーニー・ソックスはやり過ぎだろう。ユウコさんのインパクトが強すぎて感覚が麻痺しかけているが、こちらもそれなりに強烈な個性を放っている。あるいはこの経営者にしてこの従業員と言うべきなのだろうか。
「オーナー、どこ行ってたの。ずっと待ってたんだから」
「どったの?」
「うん、ツルくんのDVDのことでね。それよりオーナー、ツルくんが襲われて病院に運ばれたって知ってる?」
 ユウコさんの問いかけにオーナーの女性が鼻に皺を寄せた。
「ちょっと、それ何の冗談? あたし、ほんの一時間くらい前にツル君の店で会ったんだけど」
「その後よ。まだ三〇分にもならないんじゃないかな。あたしが大名を通り抜けてくるときにちょうど救急車に乗せられてったの。店の前とか警察が来てて大変なんだから」
「そうなの?」
 アタシとシュンの存在を無視して会話は続いた。中には明らかにユウコさんが見てない筈の情報も含まれていたが、そのくらいの話のふくらみは許容範囲だろう。誰かに迷惑がかかる話でもない。
「なるほどねぇ……。でも、ちょっとタイミングがズレてたらあたしも巻き添えだったかもしれないんだ。おお、こわ」
「オーナーがいたら襲われてないよ。ねえ、シュンくん?」
 いきなり話を振られてシュンはむせそうになった。
「あ、まあ、そうっすね。ツルさん一人じゃなかったら、そんなに荒っぽいことできないっすよ」
「だよね」

「やっぱり、ツルくんが言ってたDVD絡みなのかな。何だか知らないけど「イズミさん、ヤベぇんすよ!!」って言ってたし」
「……確かに」
 アタシは思わずつぶやいた。しかし、どうやら聞こえなかったらしく誰からも返答はなかった。
「でもオーナー、何でDVDのコピーくらいでウチに言ってくるの? ツルくん、そういうの得意じゃなかったっけ?」
「そうなんだけど、コピーガードが堅くて手に負えないみたいなこと言ってた。だから、あたしが画像安定器貸してあげよっかって話になってさ」
 シュンが短く口笛を吹いた。
「そうか、その手があったか」
「……ごめん、意味分かんないんだけど」
 アタシはシュンの脇腹を指でつついた。
「ああ、つまり何て言えばいいのかな。真奈っち、コピーガードがかかってるとDVDに焼けないって話はしたよな?」
「聞いたわ」
「それはつまり、デジタル信号の中に暗号が仕込んであって、その暗号を解除しないと再生ができないようになってるってことなんだけど」
「それも聞いた。だから?」
「でも、デジタルからデジタルは無理でも、デジタルからアナログでならコピーできるんだ。もちろん画質とか音質は落ちるけど」
「その為に必要なのが画質安定器?」
「そういうこと。一度アナログに落としてからもう一回キャプチャしてPCに取り込めば、それこそ言ってたみたいに動画サイトに載せることだってできる」
「へぇ……」
 すごい発見をしたように目を輝かせるシュンにはかなり好感が持てる。しかし、アタシには冷や水をぶっかけることしかできなかった。
「でも、それって手元にあのDVDがあればの話よね」
 シュンがどれほど名案を思い付いたところで、コピーをとるべきDVDはすでにアタシの手元にない。
 和津実の実家に衝突事故の映像を収めた原版とでもいうべき八センチDVDがあるから、まったく手がなくなったわけではない。だが、そっちには郁美のロング・インタビューが収められていない。仮にシュンの提案通りにインターネット上に流出させるとしても延々と同じような映像が続く上に人間関係がよく分からない事故のものより、警察官僚である新庄圭祐の実名が出ているだけでなく、女子高生を買春していたことを当の本人が証言しているインタビューのほうが格段にダメージが大きい。奴らだってそうだからこそ、単独では証拠能力に欠ける――と菜穂子も多香子も口を揃えた――事故映像ではなく、郁美が持ち出し、葉子の手を経て村上が手に入れたDVDに執心したのだ。
 ふと、目当ての物を手に入れた奴らが由真を解放したということはないだろうか、という考えが浮かんだ。
 しかし、それは甘すぎる期待というものだ。由真にはまだ人質としての有用性がある。アタシの口を封じる必要があるからだ。村上は未だに身動きが取れないがいずれは復帰してくる。そのときにはあの男にも同じ効果があるだろう。
 皮肉な話だが”奴らは後顧の憂いを断つために自分や村上に牙を向けてくる筈だ”という本来なら嫌気が差す状況こそが、由真の命を保証する唯一の拠り所なのだ。
アタシの頭からはDVDのことはすでに過去の話になり始めていた。失われたものにこだわっても意味がない。
 それなのにこの男は。
「でも、あれが最後の一枚って決まったわけじゃねえだろ。コピーガードかけた奴がまだ持ってる可能性だってあるし、事故の映像だけならあるんだろ」
「どっちにしても可能性は薄いし、時間がないわ」
「そんな言い方しなくていいだろ?」
「悪かったわね。アタシ、こんな口のきき方しかできないの。だけど、敬語で話すのやめろって言ったのはシュン、あんたよ?」
「そうだけどよ。……ちぇっ、真奈っちって意外とペシミストなんだな」
「難しい言葉知ってんのね。けど、使い方が正しくないわ。アタシはリアリストなの」
「……んだと?」
 シュンの眼差しに初めて見る剣呑な光が宿っていた。
 アタシがやってるのは間違いなくただの八つ当たりだ。シュンのお気楽さに苛立っているのは事実だが、それだってアタシが文句をつけるようなことじゃない。彼が寄せてくれる好意に甘えて危険な事柄に巻き込んでおきながら口にするべきことじゃないことも分かっている。
 しかし、そろそろ限界だった。
「もういいわ。今まで付き合ってくれてありがと」
 アタシはポケットから財布を引っ張り出して、千円札をカウンターに叩きつけた。バーの三人はいきなりの痴話喧嘩に驚いたようにぽかんと口を開くだけだった。
 

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