Left Alone

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  第 78 章  

 上社はベッドの背を起こしてくつろいだ様子だった。
 顔色はさすがに良くないものの昨夜死にかけた人間には見えない。病室に来る前に陣内聡子に聞いたところでは出された食事をペロリと平らげた上にお替りまで要求したらしい。ひょっとして”急に容体が悪化”なんてことになっていないだろうかと心配していたのだが、一〇〇パーセントの杞憂だった。
「なるほど、これで真奈ちゃんが連れて行かれた場所が分かるってわけか」
 上社は膝の上の由真のノートパソコンを軽やかに操作していた。太い指では一度に二つくらいのキーを叩いてしまいそうな気がするが、操作ミスをした時の耳障りな警告音はこれまで鳴っていない。
 アタシはモニタを覗き込んだ。開かれたメールには意味不明の英文字や数字の羅列だけが記されている。由真のGPS発信機から送られてきた座標のデータだ。
「やり方は分かるの?」
「そっちの発信機から届くメールをチェックするだけだからな。さっきから三〇分おきのGPS座標が送られてきてるよ。こいつを――」
 上社がメールから羅列をコピーして地図サイトに貼り付けた。画面が変わって薬院近辺の地図が表示された。
「こんな具合だ。おや、ここって浄水通りにある下着のサロンじゃないか?」
「へっ?」
 自分でもびっくりするような裏返った声。
「何のこと?」
「しらばっくれても無駄だよ。ここ、俺の知り合いがやってる店なんだ」
「……ふうん」
 発信機がいつメールを発したかはアタシには分からない。しかし、よりによってそんなところにいるときに発信しなくてもいいじゃないか。
「若いのに下着に金かけるなんて、やっぱりお嬢様なんだな」
「違うわよ。ガードルの持ち合わせがなかったから、通り道にあった店で買ってきただけ」
「ガードルなんて必要ないだろ?」
「普通はね――って、どうしてあんたがそんなこと分かるのよ?」
「夕べ、たっぷり触らせてもらったからな」
「……そうだったわね」
 くそ、金とってやろうか。
「発信機を隠すのに必要だったのよ」
 アタシは下腹を軽く叩いた。ポケットの中ではどんな形で手元を離れるか分からないので、パスポートを入れるポケット付きの腹巻のようなベルトを撒いて上からガードルを履いているのだ。慣れれば暑さも違和感も我慢できる範疇だったし、ゆったりしたカーゴパンツなので膨らみも目立たない。ブラジャーの中も考えたのだが硬いプラスチックのケースはアタシの貧弱な胸ではちょっと痛すぎた。
 上社はノートパソコンを閉じて、筺体を軽くコンコンと叩いた。
「君の居場所が一定になったら、そこが奴らのアジトってわけだな」
「多分ね。……何、その顔?」
 上社は珍しく眉間にしわを寄せて不服そうな表情をしていた。
「囮作戦には賛成しかねるさ。当然のことだろ?」
「心配してくれてるの?」
「後で何で止めなかったんだと恭吾に責められるのは御免蒙りたいからな。……ま、他に手がないのは認めるが」
「……まあね」
 アタシの顔をしばらく眺めてから、上社はため息をついて無理矢理っぽい笑みを浮かべた。
 作戦はこうだ。
 馬渡から報告を受けたであろう今、新庄圭祐は疑心暗鬼の真っ只中にいる筈だ。鶴崎に対する傷害ばかりか、現住建造物放火という殺人罪にも匹敵する重罪(と上社が教えてくれた)まで犯して奴が郁美や和津実の客だった証拠を葬り去った筈なのに、アタシにその事実を掴まれてしまった。
 たとえば、アタシが和津実と新庄が同衾している写真を警察庁に送りつけたらどうなるか。考えるまでもない。その瞬間に新庄圭祐の官僚人生は終わる。
 しかし、アタシにはそうできない理由がある。由真だ。奴らもアタシを止める手立てがそれしかないことは分かっているだろう。奴らの選択肢は二つしかない。由真を人質にアタシと取引をするか、由真と同じようにアタシを拉致するか。ただ、アタシは前者の可能性は低いと考えていた。
 葉子や和津実のようにいきなり亡き者にされる可能性もなくはない。
 だが、奴らはこれまでそうやって事態を泥沼化させてきているし、アタシが証拠をどう取り扱っているか分からないのにそんな乱暴な手段はとらないだろう。奴らはどこかの段階で必ずアタシの身柄を押さえようとする。その場所を知らせるのが由真お手製の発信機というわけだ。連れて行かれたところに由真もいるかどうかは分からないが、そこから先はもうギャンブルだ。
「救助隊の人選は任せるわ」
「馬鹿なことを言うな。俺が先頭にたって駆け付けるに決まってるだろ」
「あんた、絶対安静でしょ」
「君の貞操の危機だってのにおとなしくしてろってのか?」
「変な想像しないでよ」
 まあ、そういう可能性だってあるがそれを言い出したら何もできない。ボディチェックと称して身体を触られるくらいは覚悟しておかなくてはならないだろう。
「とにかく、上社さんだけが頼りなんだから、くれぐれも容体急変で死んだりしないでね」
「そうする。君も気をつけろよ」
「アタシもそうする」
 気をつけようといっても何をすればいいのか分からないが、とりあえずそう答えて病室を後にした。
 アタシは地下鉄で天神に向かった。やるべきことは、というより出来ることはもうほとんどない。その残り少ない一つが天神地下パーキングから愛車を回収しておくことだった。一晩以上もほったらかしにされたロードスターをそう呼ぶ資格があるかどうか、いま一つ自信が持てないが。

 オーナーの薄情さに反してロードスターのエンジンはいつになく快調だった。
 一晩お泊りの料金を支払って地上に出た。時刻はそろそろ昼に差し掛かろうとしていて、真夏の陽射しが容赦なく照りつけていた。ダッシュボードに入れっぱなしのサングラスをかけて、ついでに誰が忘れていったか定かでない”SBH”のロゴ入りの黒いキャップをかぶった。
 アタシは自分の間抜けさに呆れてため息をついた。誰が忘れていったか、だって? アタシの周りにこんなものを買う人間は村上恭吾しかいないだろうに。
 あの男がこのクルマに乗ったのはいつのことだっただろうか。アタシは記憶を探った。二人で一緒に乗ったことは実は一度もない。買ってすぐの頃に「運転させてくれ」とあの男にしては珍しくアタシに頼んできて、フェアレディZと引き換えに何度か貸したことがあった。おそらくそのうちのいつかに福岡ドームにオープン戦でも見に行ったのだろう。
 ふと、思い出してアタシはCDのスタートボタンを押した。CDは入れっぱなしなので流れ出したのは〈LEFT ALONE〉だ。
 嫌いだと言いながら、アタシは英語の詞を諳んじることができる。
 初めて聞いたのは中学生のときで、村上のクルマに乗った時にスピーカーから流れてきた。ジャズなんかまったく知らなくて、音楽そのものの大人っぽさと村上への憧れがないまぜになってアタシを虜にした。ただ、今だから笑えるのが、歌詞の意味を知らなかったアタシはドラマティックなメロディのイメージだけで――マリーンが歌うバージョンは特にそうだ――ラブソングだと思い込んでいたことだ。恋人に去られた女が〈わたしは取り残され、ひとりぼっち〉と歌っているのだと知ったのは割と後になってからだ。
 勿論、そんなことで嫌いになったわけじゃない。決定打はやはり、村上がアタシの父親の裁判で証言台に立った日の夜の出来事だった。村上はいつものように無表情で、どうして父をかばってくれなかったのかと責めるアタシに何も説明しようとしなかった。引っ叩かれて吹っ飛んだ眼鏡を拾い上げて歪んだフレームを直している間も、アタシの罵声をただ黙って聞いているだけだった。
 アタシは懸命に涙をこらえて彼に背を向けた。そのまま、部屋に駆け込むと村上に関わるものを片っ端から壊して捨てた。そんな中にあったのが村上がCD−Rに焼いてくれた〈LEFT ALONE〉だった。

 Where's the love that's made to fill my heart
 Where's the one from whom I'll never part
 first they hurt me,then desert me
 I'm left alone,all alone

 Where's the house I can call my own
 there's no place from Where I'll never roam
 town or city,it's a pity
 I'm left alone,all alone

 Seek and find they always say
 but up to now,it's not that way

 Maybe fate has let him pass me by
 or perhaps we'll meet before I die
 hearts will open but until then
 I'm left alone,all alone


(……そんなに嫌いか?)

 いつだったか、村上に訊かれたことがある。
 あれは確か、いつものように彼の部屋を掃除しに行ったときのことだ。ベッドの上に追いやられた村上は膝の上のノートパソコンを弄っていて、iTunesに入っていた〈LEFT ALONE〉が流れ出した。アタシはこれみよがしの舌打ちをして見せたのだ。

(別にいいでしょ、アタシが何が嫌いでも)
(……まあ、そうだが)
(他のに変えてよ。ヴァン・ヘイレンでもエアロスミスでもいいから)

 珍しく村上はアタシの要望をあっさり聞き入れた。代わりに流れ出したのはボン・ジョヴィの〈Have a nice day!〉だった。アタシは鼻歌を歌いながらフローリングにモップをかける作業に没頭した。村上がアタシをどんな目で見ていたのかは顔を見なかったので知らない。
 そんなことがあってから、村上がアタシの前でこの曲をかけたことはない。一度だけ、マリーンとは違うアコースティック・ギターのバージョンのイントロが流れたことがあるが、村上は何事もなかったかのような顔で曲をスキップさせた。気まずい思いをしていたのかもしれないが、いつもの無表情からは何も読み取れなかった。
 アタシが〈LEFT ALONE〉を嫌うのは歌詞に自分を重ねるからだ。〈I'm left alone,all alone(わたしは取り残され、ひとりぼっち)〉。大切な人に――それも一度に二人に置き去りにされたアタシの気持ちを代弁するにはこの曲はあまりにも甘く切なすぎた。

 家には帰りたくなかったのでロードスターは大橋にある馴染みの修理工場に預けることにした。不調を感じるところはなかったが五月の車検のときに車検非対応の部品を根こそぎノーマルに替えたままにしてあって、それを元に戻すという理由にした。お盆休みを挟むのでしばらくかかると言われたのでアタシは「それでもいい」と答えた。
 駅まで歩いて西鉄電車で天神まで戻った。
 日頃、クルマでの移動ばかりで電車に滅多に乗らないので、切符を買うところから不思議と新鮮な感じがした。改札を通り抜けてホームへ上がった。電車が入ってくるまでだだっ広いホームの一番後ろに立っていたのは、アタシなりに万が一を恐れたからだ。
 窓際の椅子に腰を下ろしたと同時にケイタイが鳴った。知らないケイタイの番号だった。
「――もしもし?」
「今、いいか?」
 わざとらしく押し殺したような静かな声。一瞬、馬渡かと思ったが違った。声が明らかに若い。
「誰?」
「おっと、吉塚で一回会ってるのに忘れたか?」
 記憶を辿った。すぐに和津実が住んでいた市営住宅前で見た立花正志の白い貌が脳裏に浮かんだ。
「街金融で借りなきゃなんないほどお金には困ってないけど?」
「その割には一度、ウチに来てるじゃないか。防犯カメラに火災報知機を押すところが映ってたぞ」
「あら、そう」
 しらばっくれても仕方がない。
「何の用?」
「御挨拶だな。こっちからの連絡を待ってたくせに」
「あんたがかけてくるとは思ってなかった」
「俺もだ。馬渡がやるのかと思ってたが、どうやら、あの小娘のガラを攫ったのは俺の仕業ってことにしたいらしい」
 立花が言っていることの意味を考えてみた。答えは簡単だ。アタシが電話を録音していたとき、そこに警察関係者の声が残るのは拙いということだ。
「トカゲの尻尾ってわけ? 損な役回りなのね」
「違いない」
 鼻で笑ったような音が聞こえた。どこか他人事のような物言いは渡利が撮った映像の中の制服警官のものと同じだった。
「それで、どうするつもりなの?」
「こっちとしては、おまえさんが持ってる証拠とあの小娘――」
「由真よ。徳永由真」
 確かにこいつらから見ればアタシも由真も小娘に違いない。だが、そう呼ばれるのは我慢がならない。鼻白んだような短い沈黙のあと、立花は短く笑った。
「そう、その由真ちゃんだ。あの子の身柄を交換したい」
「嫌だと言ったら?」
「くだらない駆け引きするなよ。今さら断るくらいなら、とっくにあのおっさんが女子高生を買ってた証拠がマスコミに流出してるはずだろ?」
「……そうね」
「まあ、どうしても嫌だっていうなら仕方ない。お友だちの由真ちゃんで一本、DVDでも撮らせてもらわなきゃならんだろうな」
「DVD?」
「ホモ・サピエンスの生態に関する研究映像だよ。テーマは交尾に限られてるがな」
「どうして、あんたたちみたいな連中って考えることが同じなの?」
「分かってないな。ベタは効果があるからベタなんだぜ」
 今度はアタシが鼻で笑う番だった。
「本当にそれでアタシを止められると思ってるの?」
「思ってるさ。おまえさんがどれだけ友だち思いの人間か、俺たちが調べていないとでも思ってるのか?」
「アタシがそんな人気者だったとは知らなかったわ」
「バカなこと言うなよ。俺たちは今や、おまえさんに夢中なんだぜ」
「ぜんぜん嬉しくない」
 立花は電話の向こうで大笑いし始めた。聞き苦しい引き笑いが収まるまでアタシは何も言わずに待った。
「――さて、本題に戻ろう。今夜十二時、証拠の品を持って福岡ドームに来い」
「いいけど、そんな時間に?」
「そんな時間だからだよ。まさか、人質交換を衆目の前でやるわけにいかんだろう」
「そりゃそうだけど」
 福岡ドームと一口に言っても広い。具体的な場所は何処なのかと訊くと、立花はそのときに連絡すると言って一方的に電話を切った。
 アタシはバッグから写真のコピーを取り出して眺めた。手元に残された、たった一枚のジョーカー。いっそのこと、このままここでバラ撒いてやりたい衝動に駆られたがそんなことはできない。
 電車はいつの間にか薬院駅を通り過ぎて天神駅のホームへと滑り込んだ。たたんだコピーをバッグに押し込んで電車を降りた。
 夜までは時間が空いたことになる。それまで何をすればいいのか。
 アタシは天神地下街へ下りてしばらく店を見て歩いた。何を買うという目的もなかったが、他にすることが思いつかなかった。由真に付き合わされたときくらいしかウィンドウショッピングなんかしたことがなかったし、それも単なる苦行程度にしか感じたことがなかったのに、不思議と独りで服や靴、バッグなんかを見て歩くのは楽しかった。
 地下街南端のスターバックスでカフェラテを飲んで、地上へ上がる階段のところにあるトイレに立ち寄った。
「――すみませーん」
 アタシが用を足しているブースのドアが控えめにノックされた。
「あ、入ってます」
「はーい」
 甘ったるい声が遠ざかっていく。ドアノブを見れば入ってるかどうかくらい分かるだろうに。アタシはドアを開けた。
 その瞬間、ドアがアタシの手を離れて物凄い勢いで開いた。同時にどう考えても女子トイレにいるはずがない巨体が躍りかかってきた。完全に不意を打たれたアタシの下腹部に硬いものがめり込まんばかりに押し付けられた。

 ――しまった。

 油断を後悔したがすでに遅かった。全身の神経をむんずとつかんで揺さぶられるような痛みが全身を貫いた。スタンガンか、それともマイオトロンか。生臭い息を吐く巨体を押し退けようと腕を上げたつもりだったが、身体がいうことを利いたかどうかすら定かではなかった。
 アタシの意識はあっという間に暗闇に落ちていった。

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