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「ブラジリアン・ハイ・キック 〜天使の縦蹴り〜」

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  第 12 章  

「――ちょっと、薫さん、待ってくださいよッ!!」
 ボクは懸命に彼女を呼び止めた。
 福岡市中央区、天神のど真ん中。岩田屋前の広々としたオープンスペース。夏休みの真っ最中で、辺りは老若男女――老はあんまりいないか――でごった返している。照りつける陽射しは強烈で、熱気の壁を掻き分けながら歩いているような気さえする。

 日本はすでに温帯じゃなくて亜熱帯だという説も、まんざらでたらめじゃないな。
「亮太、おっそーいッ!!」
 薫さんは人ごみの間から、自分の存在を主張するようにピョンピョンと飛び跳ねている。小柄な彼女は人ごみの中ではラフに飛び込んだゴルフボールと同じだ。ボクは重いボストンバッグを肩に掛け直しながら彼女に駆け寄った。
「遅いって……薫さん、福岡の地理とか分かってるんですか?」
「そんなわけないじゃん。だいじょうぶよ、人ごみの中でも亮太はすぐに見つかるから」
 確かにボクは人垣の中にまぎれても頭一つ飛び出しているので、ちょっと見渡せば簡単に見つかってしまう。歩く標識とまで言われるほどだ。
「っていうか、二人のときは”さん”はつけない、敬語も使わないって約束じゃなかったっけ?」
「……うっ」
 確かにボクらの間ではそういう取り決めになっている。
 でも、そう簡単に使い分けなんてできるはずがないので、非難は覚悟の上でボクはさんづけと敬語を使うことにしている。だいたい、そんなことで周囲に二人が付き合っているのを隠し果せていると思っているのは彼女一人だけだ。
 何か飲みたいという彼女の意見で、ボクらは岩田屋の一階のスターバックスに入った。彼女はいつものようにヴァニラ・クリーム・フラペチーノ、ボクもいつものようにホットのブラックを買った。
「あっついのに、亮太ってばよくそんなの飲めるね」
「慣れれば、こっちのほうが身体にいいんですよ。ところで、この後ってどういうスケジュールになってるんですか?」
 薫さんはチラリとボクを睨んでから、パンパンに膨らんだシステム手帳を取り出した。
 それはボクが所属する大学のフルコンタクト空手部のすべて――チケットや現金、部名義の預金通帳、年間のスケジュール、その他活動に必要ないろいろ――が詰まった代物だ。優秀なことで知られるマネージャーの彼女は、そこに書かれていることの大半を暗唱している。
 だったらいつも「重たい、重たい」と文句を垂れながら持ち歩く必要などないような気がするけど、付き合い始めた頃に突っ込みを入れたら身が竦むような目で睨まれたので、それ以来そのことには触れないようにしている。
「えーっとね、さっき電話があったんだけど、合宿所の迎えのマイクロバスが二時間くらいで来るって。待ち合わせはキャナルシティ。――ねえ、これってどの辺にあるの?」
「中洲の向こう側ですね」
 ボクは記憶をたどって方角を思い出した。向かいにあるソラリアプラザの向こう側を指差した。たぶん間違ってないはずだ。
「遠いの?」
「ここからだとそんなに離れてないですよ。歩いて十五分くらいじゃないかな」
「えーっ、そんなに歩くの!? バスとかないの?」
「……あると思いますけど」
「じゃあ、そっちで行こ」
 マネージャーの彼女は、当然ながら他の部員と違って特に運動が好きなわけじゃないし、他の部員(ボクも含む)にしたってこの炎天下をほっつき歩くのはあんまり気が進まないに違いない。
「そういえば残りの面々は?」
「とりあえず自由行動ってことで。天神から出るなって言ってあります。そうすれば、はぐれても何とか電話のやり取りで見つけられますから」
「さっすが、元博多っ子」
「それは事実誤認ですってば。ボクは土浦の出身だし、福岡に住んでたのは結局、中学三年生の一年だけでしたから」
「そうなんだ? 部長がどっかのタイミングで中洲を案内してもらおうとか言ってたよ」
「ボク、まだ未成年なんですけど。一回生だし」
「そうは見えないもんね、亮太って。よっ、若年寄っ!!」
 なんだよ、その掛け声は。
「ね、今度の秋の大会、どう?」
 薫さんは意味もなく声をひそめた。
「どうですかね。一回戦でいきなり優勝候補と当たりますから」
「あの、ごっつい筋肉ダルマでしょ。あんなやつ、亮太の得意技でやっつけちゃえばいいじゃん。なんて言ったっけ。――ブラジリアン・キック?」
「ブラジリアン・ハイ・キック」
 ボクは訂正した。薫さんは頬を膨らませた。
「あれって絶対上段蹴りなんだから、わざわざ”ハイ”ってつけなくてもいいでしょ?」
「好みの問題ですよ。ま、ボクにあの技を教えてくれた人が、そう呼んでたってだけなんですけどね」
「ヘンなの」
 薫さんはゆっくり時間をかけてフラペチーノを飲み干した。熱いものは苦手だと言うくせに、冷たいものを飲むと「頭が痛い」だの「歯が痛い」だのとうるさい。
 ボクはとっくにコーヒーを飲み干してしまっていた。コーヒーと言えばブラックしか飲まなくなったのはいつ頃からだろう。
「じゃあ、もうちょっと時間あるんですね。だったらこの辺、ウロウロしましょうか?」
「この辺?」
「ここからちょっと裏手の大名って地区に入ったら、薫さん好みのショップとかブティックがありますよ」
「亮太ってば詳しいんだ。そういうの興味あったっけ?」
「違いますよ。ボクは中学生だったし、だいたい住んでたのは東区っていって、ずいぶん向こうのほうだったんです。ボクはときどき遊びに来て、街をウロウロと見て回ってただけです」
「へえ。当時の彼女と?」
 一瞬、言葉に詰まった。

 嘘をつく必要はないのかもしれないけど、それは付き合ってる人に話すことじゃないし、ボク自身にとっても心の奥にわだかまる痛みを思い起こさせる苦い質問だった。
 ボクはニッコリと笑った――我ながらわざとらしい作り物の笑顔。
「野暮ですよ、それを訊くのは」

 そのまま岩田屋の中を通り過ぎて、裏側の天神西通りに出た。
 片側一車線の狭い道にクルマが長い列を作っている。歩道は二人で並んで歩くのがやっとで、正面から人が来たら離合できない。
 一年間で身についた福岡の方言はほとんどないけど、この「離合」という人やクルマがすれ違うことを指す単語だけはつい出てしまう。関東に戻ってずいぶん笑われたけど、一方で大学で九州から出てきた人と友だちになるきっかけにもなったので、あながち悪いことばかりでもなかった。
「どう、三年半ぶりの福岡は? 亮太がいた頃と変わった?」
 薫さんが言った。
「大まかなところは変わってないですけど、やっぱり知らない店とかできてますね。さっきの岩田屋だって、ボクがいた頃はまだZ−SIDEっていって別館扱いでしたから」
 それが今では道を挟んだ隣のビルとあわせて岩田屋の本館になっている。交差点を挟んだ反対側にあったビル(たしか、ローラなんとかと言った)も真新しいファッションビルに建て替わっていた。
 西通りをブラブラ歩いて、南端のアップルストア(これもボクがいた頃はなかった)を覗いた。中古で買ったiPodのバッテリーが弱っていて新しいのに買い換えたいけど、手持ちが寂しくてなかなか踏み切れないでいる。
「亮太って偉いよね。学費とアパートの家賃だけ出してもらって、あとは自分でバイトでやりくりしてるんでしょ?」
「別に偉くないですよ。ウチは転勤族のサラリーマン家庭ですから、親に負担かけられないんです」
「それが偉いって言ってんのよ。ウチの部にだって、何から何まで親掛かりってのがいっぱいいるからね。ひどいのになるとパチンコやらキャバクラで赤字出して、毎月SOSを発信してるのもいるし」
 ボクは笑ってやり過ごした。
 ウチだって言えば生活費くらい出してくれる。実際、親からは毎月いくらかの金額が、家賃や学費と一緒にボク名義の通帳に振り込まれているはずだ。
 ただ、ボクはそのお金には手をつけないことにしていた。おかげで二つのバイトを掛け持ちしなきゃならないけど、贅沢を言わなきゃその金額で美味しいものを食べて、好きなジャズのCDを何枚か買って、薫さんとのデートにだって回せる。
「亮太って大人だね。あたしなんかよりずうっと」
「そんなことないですって」
 アップルストアを出て、そのままけやき通りを歩いた。
 道路の上まで覆いかぶさるケヤキ並木が続いていて、直射日光があたる他の道よりはいくらか涼しいような気がする。ゆるやかな上り坂に建ち並ぶビルはちょっとだけ周囲よりもセンスがいい。規模を思いっきり小さくした原宿の表参道という表現でいいとボクは思うけど、福岡の人がどう思うかは分からない。
「あ、あんなとこでファッション・ショーやってるよ」
 薫さんが通りの先のほうを指した。
 レンガ色のタイルに覆われた真新しいビルで、真ん中が吹き抜けの階段、両翼がそれぞれテナント・ショップになっているという形だ。階段とその前のスペースをステージにしてショーをやっているらしい。
 黒山の人だかりというとちょっと大げさだけど、それなりにギャラリーはいる。敷地に収まりきれなくて歩道にはみ出している人もいるくらいだ。
 どこかのテレビ局も取材に来ていて、レポーターと思しき女性がカメラに向かって鼻に抜けるようなフワフワした声でレポートしていた。話の内容からすると地元のローカル番組に出ている女性タレントの一人がそのショーに出ているようだった。
 率直に言ってあんまり興味が湧かなかった。そのタレントはボクがいたときにはすでにテレビに出ていんだけれど、その頃のボクは――まあ、今でもそうなんだけど――胸が大きな女性には距離を置くようにしていた。
「……ねえ、ちょっと見ていっていい?」
 薫さんが上目遣いで言った。やたらと服を買い過ぎるのにいい顔をしないボクといるとき、彼女は「見るだけだから」とオモチャ売り場の子供のようなことを言って、何とかショップへ入ろうとする。
 おそらく最初からどこかのショップに行くつもりだったのだ。そう言えば博多駅に着くなり、薫さんは「福岡の子ってかわいい服着てるよねえ」と犯行予告のような呟きを洩らしていた。
 ボクはため息を洩らした。
「荷物になるから、あんまり大きなのは買わないでくださいね」
「うん、分かった!!」
 子供のような笑顔。三つも年上――姉貴と同じ――なのに、どっちが年上だか分かったもんじゃなかった。
「ボク、そこの先のケンタッキーで待ってますから……って、聞いてないし」
 ボクの言葉を最後まで聞かずに、薫さんは身を翻して人垣の中に潜り込もうとしていた。

 もう一度大きくため息をついた。これで後になって「待ち合わせ場所を聞いてなかった!!」とか言いながら、怒りの電話がかかってくることが確定したからだ。
 ボクは人垣の上から、そこで行われているショーの様子をボンヤリと眺めた。
 ステージは楕円形の螺旋階段と、その下から伸びるT字型の通路で構成されていた。
 モデルは二階から階段を降りてきて、そのまま正面まで歩いてきてからT字の左右を往復するようになっている。途中、数箇所で止まってポーズをとるようにもなってるようだ。取り澄ましたような笑顔とシャープな身のこなし。このクソ暑い中で、辛そうな表情一つ出さずにステージをこなすのには結構な体力が必要だろう。
 思わず苦笑いが洩れた。こんな体育会系の視点でファッション・ショーを見るヤツなんていないだろうな。
 その場を立ち去ろうとしたとき、次のモデルが二階の踊り場に姿を現すのが目に入った。

 ボクは息を呑んだ。
 それまでのモデルの中でも一番の長身で、面長な凛々しい顔立ちに流行っぽいオリエンタル風のメイクを施している。黒髪をバンダナで留めて、丈の短い芥子色のチュニックとベージュの幅の広いパンツという格好だ。腕や胸元はやはりアジアっぽい感じのアクセサリで飾られている。その前のモデルが割と可愛い系の顔立ちだったせいか、鶴田一郎の美人画のようなクールさがやけに際立って見えた。
 ボクの目の前にいた若い女性の二人組が、感嘆混じりに「……うわあ、きれい」と囁き合っていた。
 怜悧な微笑を浮かべながら颯爽とステージを歩く彼女は、そこにいるだけで人の目を惹きつける何かを備えていた。二人組に限らず、彼女の動きにあわせるようにギャラリーの視線が移動する。
 そしてボクもまた、彼女から目を離すことができないでいた。ただし周囲とは違う理由で。
 彼女は真奈――佐伯真奈だったのだ。


 ――福岡に行けば、真奈に会えるような気がする。
 何の根拠もない期待のようなものがなかったわけじゃない。でも、現実がそんなに都合よくいかないことくらい、たった十九年しか生きてなくたって思い知らされてる。

 なのに、真奈は目の前にいた。
「……マジかよ」
 二人組の一人が不審そうに振り返った。慌てて笑ってごまかしながらその場を離れた。
 人だかりを遠目に見つめながら、ボクはなんとか真奈を視界に捉えようとした。彼女がステージの端まで来たとき、人垣の切れ目から胸元のあたりまでを見ることができた。
 それは確かにボクに空手を教えてくれた佐伯真奈だった。しかし、彼女はボクが知っている眩しい笑顔を見せる勝気な少女じゃなかった。
 そこにいるのは、しなやかな影をまとった大人の女性だった。

 ボクが福岡を離れた後、真奈の身に降りかかった出来事――真奈のお父さんが起こした傷害致死事件については、ゴールデンウィークが終わってしばらく経ってから、杉野を通じて知ることになった。
 まるで信じられなかった。
 真奈のお父さんはボクをずいぶんとかわいがってくれた。「いっそのことヨメに貰ってくれ」などと言い出して、恒例の親子喧嘩を始めるほどだった。何があったかは分からないけど、あの人が人を死なせてしまうなんて。
「それで、真奈は?」
 杉野はボクと真奈が付き合っていたことを知っていたので、あえてそう呼んだ。
「悪いっちゃけど、俺も私立の全寮制の高校に進んだけんが、詳しか事情は分からんのよ」
 杉野はやつにしては神妙な声で言った。
 ボクは慌てて真奈の携帯を鳴らした。そう言えば、ここしばらく電話もメールも来ていなかった。お互いに進学したばかりで忙しいからな――それくらいにしか考えていなかった。
 返ってきたのは「この電話はお客様の都合により――」という無機質なメッセージだった。自宅の電話は留守番電話に切り替わることもなく、延々と鳴り続けただけだった。
 ボクはそれほど仲が良いわけでもなかったクラスメイトにまで電話をかけて、真奈の消息を追った。
 分かったことは事件後、真奈が気丈にも高校に通おうとしたことと、その結果として周囲の手厳しい対応――同級生の一人はそんな生易しい表現では飽き足らないと言った――に晒されることになったという惨い事実だった。
 結局、真奈は一週間ほどイジメに耐えた後、まるで最初からそこにいなかったように何の痕跡も残さずに学校を辞めてしまっていた。
 その後のことについては、ハッキリとしたことを知る人間には辿り着くことができなかった。噂で親類の家に引き取られたらしいことや、どこか別の私立の高校に編入したらしいという話を聞けただけだ。
 一人だけ、夜の街で連戦連勝の女のファイターがいて、それが真奈じゃないかと言ったやつがいる。でも、それも確かなこととは言えなかった。

 ――いったいどこへ行ってしまったんだ。

 心配と不吉な想像に悩まされて、何日も眠れない夜を過ごした。
 でも、ボクにできることは何もなかった。
 すぐに福岡に飛んでいって、傍にいてやりたいと思った。彼女に罵声を浴びせるやつを一人残らず叩きのめしてやりたかった。福岡にいたくないんだったら、こっちに連れてきてやりたかった。
 しかし、ボクにはそのうちの一つも現実にする力はなかった。
 せめてと思ってボクは手紙を書いた。元の住所宛に送れば、ひょっとしたらその引き取った親戚の家に転送されるかもしれないからだ。転勤族の我が家では、そうやって前の住所に送られてきた郵便物が転送されてくる。
 手紙はひどく短かいものにしかならなかった。
 書くことなんてほとんどなかったからだ。とにかく連絡して欲しい――ただ、それだけだ。

 祈るような気持ちでボクは封筒を投函した。万が一にも料金不足になんかならないように、海外に送れるほどの切手を貼って。
 手紙はずいぶん間をおいて、”転居先不明”のスタンプを押されて戻ってきた。

 頭の中のサムネイル画像をクリックすると、次々に真奈との想い出が甦ってくる。 

 あの事件から一週間後の日曜日、ボクは約束どおりに真奈の写真を撮らせてもらうことになった。

 近くの公園で撮ろうと思っていたけど、誰に見られるか分からないと真奈が強硬に主張したので、ボクは真奈の家族がずっと馴染みにしているという浄水通りの小さな写真館に呼び出された。
 真奈は貸切のスタジオでボクを待っていた。
「どうしたの?」
 彼女の格好を見てボクは思わず訊いてしまった。

 真奈が着ていたのは、まったく想像もしなかった真っ白なワンピースのドレス、しかもお姫様のドレスのようなフリルがたっぷりついた代物だった。
「……おかしい?」
「いや、似合ってると思うけど」
 ボクがそう言っても、真奈はバツが悪そうな顔のままだった。
 おかしくなんかなかった。見慣れていないから(制服以外、真奈のスカート姿なんて見たことがなかった)違和感があるだけで、十五歳の女の子に相応しい格好だった。
「あんとき、アタシたちが話しよったこと、どうやらウチのバカ親父に聞かれとったみたいでさ。それがお祖母ちゃんにまで伝わって――」
「そのワンピースってことになったんだね。ひょっとしてここで撮ることになったのも?」
 真奈は憮然とした様子でうなずいた。

 高い背当てがついたアンティーク家具に腰掛けたまま、彼女はなんだか落ち着かない様子だった。裾からはみ出した膝をぎこちないほどピッタリと寄せて、キョロキョロと辺りを見渡している。
 まさか、影でこっそり覗いてたりするんじゃないだろうな。
「さっさと撮っちゃおうよ」
 真奈は言った。

 言ってみれば罰ゲームなのに、写真を撮られること自体を嫌がってる様子はなかった。やけくそで腹をくくったのか、口では何だかんだ言いながら、実はまんざらでもないのかは分からない。
 ボクは自前のデジタル一眼レフを取り出した。この日のために父親から操作法や写真の撮り方を習って、ついでにこのカメラの所有権も譲ってもらっていた。
 真奈に向かって本体から大げさに突き出したカメラのレンズを向けた。
 予想はしていたけど、ファインダーの中の真奈はコチコチだった。懸命に落ち着こうとしているようだけど、そうすればするほど表情は硬くなっていった。変に声をかけても逆効果そうだったので、ボクはそのまま撮り始めることにした。
 記念写真なら掛け声は「チーズ」でいいけど、こういう写真で何と言えばいいんだろう?
「――撮るよ」
 そう言ってシャッター・ボタンを押した。ピピッという電子音が静かな部屋の中で大きく響いた。
 一瞬、身を硬くした真奈がおずおずとレンズを覗き込む。ファインダー越しに目と目が合って、ボクも息苦しいような緊張に捉われた。眼差しもそうだけど、彼女のポッテリした唇がやけになまめかしく見えた。ボクは初めて真奈が薄く化粧をしていることに気づいた。
 見とれるというより引き込まれるように、ボクはシャッターを切り続けた。

 大晦日の夜、真奈はいつものようにウチのマンションの敷地の木の下でボクを待っていた。三社参りに行く約束をしていたのだ。
 福岡で迎える初めての正月。ボクはみんながどこへお参りに行くかなんて分からない。実はそれが家族で出かけるのを回避できた理由だったりもする。
「どこに行くんだい?」
「アタシはいつも筥崎宮と近所で済ますんやけど、今年はやっぱり大宰府に行っとかんと。学問の神様やけんね」
「困ったときの神頼み」
「あ、その言い方ムカつく。どうせアタシは亮太みたいに頭良くないよーだ」
「教えてあげるって言ってるだろ。空手を教えてもらってるお礼にさ」
「結構よ。ところで、この前言いよったことって本気なん?」
「何が?」
「ブラジリアン・ハイ・キックを身に付けたいって言ったやろ?」
 ボクは先週、意を決して真奈にそれを頼み込んでいた。
「言っとくけど、けっこう難しいとよ。それに、最初のうちに変則的な蹴りを覚えると妙なクセがつくけん、あんまりお奨めできんとやけどね」
「そればっかりやるわけじゃないよ。基本の稽古はちゃんとやるさ」
「ま、よかけどさ……」
 真奈はフンと鼻を鳴らす。
 ユニオンジャックのヘルメット(ナイジェル・マンセルのレプリカだということは後で知った)をかぶって、真奈の後ろに乗った。夜で人目がないからか、真奈はいつもよりも大胆にアクセルを開けてバンディットをスタートさせた。
 太宰府天満宮の周辺は交通規制が敷かれていて、あちこちに通行止めの看板が出ていた。真奈はそれをスイスイとかいくぐりながら、西鉄大宰府駅(参道入口の脇にあるのだ)の近くにある駐輪場まで入り込んでいった。
「調べてたの?」
 駅のコンコースを横切りながら訊いた。
「もちろん。交通規制もそうやし、取り締まり情報も最新のやつが入ってくるけんね」
「お父さんから?」
「それもあるけど、恭吾からも」
 恭吾――村上刑事にこっぴどく叱られたというのに、ボクらはバンディットでたびたび遊びに出かけた。

 最初はそのたびに怒られていたけど、そのうち諦めたのか、逆に「……絶対に捕まるんじゃないぞ」と言いながら、そういった情報を流してくれるようになっていた。初めて会ったときには融通の利かない人のように見えたけど、案外そうでもなかった。
 ボクらはそのまま天満宮の参道を歩いた。

 話には聞いていたけど人の出はものすごくて、まっすぐ歩くのも難しい状態だった。やっぱり学問の神様ということで受験生がこぞってお参りにくるし、そうじゃなくてもここは初詣のメッカ(この表現は間違ってるけど)らしい。
 参道で梅ヶ枝餅という餡子が入った焼き餅を買って食べたり、土産物屋を覗いて神社の参道で売ってる意味が分からないものにイチャモンをつけたりしながら、ボクらは境内に足を踏み入れた。

 お正月らしい厳粛な空気を雅楽の音色が盛り立てていて、特に信心深くもない中学生のボクと真奈もなんだか神妙な顔つきになるから不思議なものだ。
 本殿へと続く道は大きな池の上に架かる三連の橋になっていた。
「ねえ、知っとお? ここの橋って、実は縁切り橋って言われとるって」
「縁切り橋?」
「そう。カップルが一緒に渡ると別れるんだって」
「へえ……」
 その手の話は日本中、どこにでもある。ボクはあんまりそういうのを信じないほうだ。
「バカバカしいと思うけどな。何の根拠もないし、第一、これだけの人出だよ。カップルがどれだけいるか知らないけど、それが本当なら大変なことになってるんじゃないかな」
「……そうかな?」
 ちょっと意外だった。ボクは真奈のことを、そういう迷信めいた話を真っ先に笑い飛ばすタイプだと思っていたからだ。
「気になるんだったら、別々でもいいけど?」
 その気はなかったけどからかうような口調になった。真奈は頬をさっと赤らめた。
「気になんかしとらんよ!! ふん、さっさと行くよ。はぐれたら置いて帰るけんねっ!!」
 真奈はむくれてズンズンと先に歩き出した。人ごみの中では目を離したが最後、あっという間にはぐれてしまう。ボクは慌てて彼女の後を追った。
 ――バカだな、そんなわけないじゃないか。
 
 ところが、実際に別れはやってきた。
 三学期の終業式を目前にして、急に父親が東京の本社に転勤することになったのだ。姉貴はもともと東京の大学に進むことになっていたから問題なかったけど、福岡の高校に進学することが決まっていたボクは、転入の手続きでえらい目に遭わされた。
「……ほら。やけん、あの時に言ったやん」
 放課後、ときどき立ち寄っては取り留めもない話をする公園で、真奈はブランコに揺られていた。
「あの時?」
「大宰府で縁切り橋の話、したやろ?」
 それとウチの父親とは関係がないような気がしたけど、結果として一緒に渡ったボクらが離れ離れになるわけだから、正しいのは真奈のほうだった。

「亮太、アタシと離れるのに寂しくないと?」
 真奈は言った。
「寂しくないわけないじゃないか。――でも、どうしようもないだろ」
「……そっか、亮太は転校慣れしとうもんね」
 非難するような口ぶり。
 ボクと真奈の間に温度差があるとしたら、そこだった。同じ学校に最高でも二年しか通ったことがないボクにとって、友だちとの別れはある意味、人生の一部だった。別れたくないと言って泣いたのは、小学校の二年のときが最後のはずだ。
「いつ、こっちを発つと?」
「終業式の次の日。昼のJALのチケットがとってあるって。両親は先に行ってるし姉貴はあとからだから、ボクは一人で乗ることになるんだけどね」
「ふーん。――アタシ、見送りにとか行かんけんね。亮太なんか勝手にどこでも行っちゃえ」
 つっけんどんな言葉の裏に、彼女なりの惜別の思いがあることは伝わってきた。だから、ボクは何も言わなかった。
 なのに、実際に空港に行ってみると、国内線ターミナルで真奈はボクを待っていた。
 真奈は人目も憚らずに泣きじゃくった。なだめるボクの胸板を叩きながら「だって、だって」と繰り返した。真っ赤な眼がボクを真っ正面から見つめている。
 たった半年の間に、ボクは真奈とほぼ同じ背丈になっていた。
 ボクは真奈をターミナルの隅っこに連れて行った。
「さよならは別れの言葉じゃなくて、って歌、知ってる?」
「……知っとうよ。「セーラー服と機関銃」やろ。……なんよ、亮太ってやっぱりジジくさいよね」
「それを知ってる真奈だって同じじゃないか」
 ボクは笑った。真奈はようやく、なんとか笑顔のようなものを見せてくれた。
「じゃあ、その続きは?」
「……再び逢うまでの、遠い約束」
「そうだよ。また会えるさ。お互いに忘れなければ、いつかまた」
「アタシは、忘れんよ」
「ボクもさ。じゃあ、そろそろ行くよ。搭乗の時間だから」
「うん。――亮太」
 真奈はそう言って、静かに眼を閉じた。
 ――おい、こんなところでかよ。
 そうは思ったけど、不思議と恥ずかしさはなかった。ボクも覚悟を決めた。
 初めて触れた真奈の唇は、驚くほど柔らかかった。

「――ちょっと、亮太!!」
 怒鳴り声でボクは我に返った。
「は、はい? どうかしました?」
「図体でっかいんだから、そんなとこでボーッとしてると世間の迷惑だよ」
 あれほど言ったのに、薫さんはショッピング・バッグ一杯に買い物をしていた。いつの間にかショーは終わっていて、出演したモデルが一列に並んで記念撮影をしている。
 スタッフらしき人たちは慌しく撤収に入っていて、さっきまで華やかだったステージはあっという間に夢の跡と化していた。ボクもバイトで野外ライブの打ち込みや撤収作業はやったことがあるので、その忙しさは理解できた。あれは戦場だ。
 ボクは真奈を目で追った。
 集合写真の撮影が終わると、今度は一人ずつの撮影があるようだった。スタッフの女の子――ふわふわしたボブカットで、この子もモデルが務まりそうなくらい可愛かった――が真奈のメイクを直したりアクセサリを替えたりしている。モデルの仕事もいろいろと大変なんだろうな、と思った。
 真奈とそのスタッフの子は仲がいいらしく、何やら二人で笑いあっていた。
 ――へえ。
 さっきと打って変わって、その笑顔はボクが知っている真奈のものだった。
 できればこのまま駆け寄って、真奈に話しかけたかった。三年半の時間を埋めたかった。日常の忙しさに埋もれながらも、決して忘れることがなかったことを伝えたかった。ボクが彼女から教わったブラジリアン・ハイ・キックを武器に戦っていることを知って欲しかった。
 でも、今さらどんな言葉をかければいいんだろう。真奈が一番苦しんだときに傍にいてあげられなかったボクに、そんな資格があるんだろうか。
「知ってる人?」
 訝しげな薫さんの声。ボクは慌てて首を振った。
「そ、そんなことないですよ。ボク、モデルさんなんかと縁があるように見えます?」
「……いいけど。そろそろ行かないと、集合時間に間に合わなくなっちゃうよ」
 誰のせいだよ、という言葉をボクは寸でのところで飲み込んだ。
 スタスタと歩き出す薫さんを追って、ボクはけやき通りを歩き出した。
 警固一丁目のバス停の前で西鉄バスの時刻表を覗き込みながら、ボクは懸命に自分を納得させようとした。
 これでいいんだ。真奈がとにかく元気でやってることと、あんな笑顔で話せる友だちがいるってことが分かっただけで充分だった。
「……亮太の嘘つき」
 薫さんはポツリと、でも、ボクにハッキリ聞こえるように呟いた。
「嘘つき?」
「そうだよ。あの背が高いモデルの女の子、亮太の知り合いなんでしょ?」
 言葉が詰まった。ボクはそんなに――薫さんに感づかれるほど真奈のことを凝視していたんだろうか。
「その……、何ていうか」
「って言うか、知り合いじゃなくて元カノだよね。福岡時代の」
「……なんでそうハッキリ言い切れるんです?」
「年上の女の勘をバカにしちゃいけないよ」
 薫さんは横目でボクを睨んだ。そして、口許にちょっと皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「うっそ。それは冗談だけどさ。あたし、見たのよ。亮太がパソコンに入れてるあの子の写真」
「あっ……」
 福岡行きが決まってから、ボクは久しぶりに真奈の写真を収めたフォルダを呼び出していた。
 そこには校庭での隠し撮りから写真館でのワンピース姿、あるいは二人で出かけた先での記念撮影、一度だけ真奈がボクの目の前でうたた寝したときにこっそり撮った寝顔なんかが収められている。
「――言っとくけど、見ようと思って見たわけじゃないからね。って言うより、バレちゃいけないって思うんだったら履歴くらい消しときなさいよ。あのパソコンはあたしも使うんだから」
 ボクの部屋にあるパソコンは、元々は薫さんが誰かから貰ってきてくれたもので、彼女もレポート作成なんかに使っている。
「その……すいません」
「謝ることないけど。――逢ってこなくていいの?」
 薫さんは言った。
「えっ?」
「久しぶりなんでしょ。別にいいよ、話してくるくらいなら。焼けぼっくいに火がつくとか言うんだったら、ちょっと困るけど」
「ちょっと、ですか?」
 薫さんは少し考えて、首を横に振った。
「ううん、かなりかな」
 ボクは彼女のショッピング・バッグを手に取った。バスが近づいてきていた。
「変な気を回さないでくださいよ。今、ボクが大事にしなきゃいけないのは薫さんなんですから」
「……言うじゃん」
 バスに乗り込んだ。キャナルシティまで立ったままを覚悟していたけど、うまい具合に席が空いていた。
 もっとも、体が大きいボクとじゃ薫さんはきつい。彼女を座らせて自分は立っていようとしたら、薫さんはギリギリまで身体を寄せてボクに座れと言った。狭いスペースに身体を押し込むと、薫さんは小柄な身体を押し付けるようにボクに寄り添ってきた。
 ボクは手を回して彼女の肩を抱いた。人目なんかまるで気にならなかった。
「せめて手紙くらい書きなさいよ」
 薫さんは言った。
「そうですね。――でも、どこに送ればいいか、分かんないんですよ。ボクが知ってる住所じゃ届かなかったんで」
「そんなことだろうと思った。はい、コレ」
 目の前に一枚のチラシが突き出された。それはさっきのファッション・ショーのものだった。
「そこの一番下。ショーを仕切ってたイベント会社が載ってるけど、モデル事務所もそこと一緒なんだって。そこにファンレターを出したら、モデルさんに渡してくれるってよ」
 ボクは薫さんをマジマジと見た。
「そんなこと、訊いてきてくれたんですか?」
「そうだよ。だって、亮太がすっごく思いつめた顔であの子を見てるんだもん。ホント、一歩間違ったらストーカー呼ばわりで警察呼ばれてたかも」
「……そんなことねーよ」
 ボクは言った。
 薫さんは弾けるように笑い出した。ボクは彼女の口許を押さえながら、何事かという顔の他の乗客に頭を下げた。
 しばらく笑いが収まらない薫さんを見つめながら、ボクは真奈に出す手紙の文面に想いをめぐらせた。
 何て書けばいいんだろう。
 あまりにも書くことがありすぎて、なかなか考えはまとまらなかった。でも、それでいいのかもしれない。ボクと真奈の空白の時間を埋めるのには、それ以上の時間がかかるだろうから。

 それでも書き出しはすぐに浮かんだ。ひどく平凡でありきたりなものだけど、他にピッタリくるものはないに違いなかった。

 ――真奈へ。お久しぶりです。元気ですか? ボクは元気です。



<了>

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