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砕ける月

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  第 1 章  

 教室の窓から見える空は、夏期講習という名の拷問で一日を過ごすことがやるせなくなるようにどこまでも澄んでいた。
 もし”夏色”という色があるのなら、きっとこんな色なんだろう。――アタシは柄にもなくそんなことを考えていた。
「――真奈ってば、まだぁ?」
 由真が言った。
 教壇に置いた椅子に跨るように座って、背もたれの上で腕を組み、それに突っ伏するように顎を乗せている。柔らかい顔のラインと整った目鼻立ち。念入りに、それでいて無造作な感じにも見える縦巻きの長い髪。退屈しきった子猫のように首を傾げて、構って欲しそうにアタシの眼を覗き込んでくる。
 お昼休みで、2−Aの教室にはアタシと彼女しかいなかった。
 アタシは机の上のプリントに視線を戻した。書かれているのは解きかけの数学の問題なのだけれど、自分で考えたものにもかかわらず、そこにある数式は何かの(多分、眠気を催す系の)怪しい呪文にしか見えない。
 もう一度、空を眺めたくなる衝動に駆られた。でも、現実逃避を許してくれるほど目の前の親友は優しくはなかった。
「もうちょっとだから」
「さっきもそう言ったよね。ヨソ見してたくせに。お昼ごはん食べる時間、なくなっちゃうよ」
「先に食べていいって言ったじゃない」
「一人で食べるのキライなんだもん。あ、ひょっとしてダイエット中?」
「う・る・さ・い」
 由真は大げさなため息をついた。
 アタマにくるのはアタシがかれこれ三十分ほど格闘している問題を、コイツはものの数分で終わらせてしまっていることだ。メイクなんかしなくても充分アイドルで通用しそうなルックスと、志望校A判定を難なくもらえる明晰な頭脳。神様は不公平だ。
「教えてあげるって言ってるのに」
「大きなお世話。自分でやらなきゃ意味ないでしょ」
「変なとこで真面目なんだから」
 由真は諦めて立ち上がると、可愛らしく伸びをして教室から出て行った。
 アタシはやりかけの問題に取り掛かった。
 ふと、入り口のほうでコンコンという音がした。顔を上げると、由真がドアのところから顔だけ出して「コーヒーでいいよね?」と言った。
 アタシは返事の代わりに手を挙げた。 

 学校が終わると、見たいショップがあるという由真に付き合うことになった。
 西新の外れにある学校から、地下鉄に乗って天神に出た。
 アタシたちが通っている高校(一応、福岡では名門の部類に入る私立の女子高だったりする)では、学校の帰りに寄り道をすることは禁止されている。そのためアタシたちは教科書やらノートやらを突っ込んだカバンとは別に、着替えを入れたカバンを持ち歩いている。
 地下鉄の駅のトイレで、アタシはいつもとあまり代わり映えしないアディダスのグリーンのTシャツとリーヴァイスのジーンズ、スニーカーに着替えた。ラップアラウンドのサングラスをかけてバンダナで髪を覆うと、ガタイのいい(そのくせ貧乳の)アタシは男と間違われることがよくある。隣に並んでいるのが華奢な体つきの由真だったりすると、その傾向には更に拍車がかかることになる。
 由真が見たいと言ったのは大名の裏通りにあるインポートカジュアルのセレクトショップだった。彼女がそこで服を次々に取り出しては体にあてがって見せるのに付き合っていると、女のアタシでさえ男の子が女の子の買い物に付き合うのを躊躇する気持ちが理解出来てくるから不思議だ。
 その店では見るばかりで何も買わなかったけど、買い物気分に火がついたのか、その後も由真はアタシを連れまわした。
 大名からソラリアプラザ、天神地下街に潜って、早くも初秋のコーディネイトを展示しているショーウィンドウを歓声を上げながら眺めて歩いた。
 そのまま地下からギャル・ファッションの聖地(なんだそうだ)である天神コアに入った。ラメ入りメイクにローライズ・ジーンズの店員と、同じような格好の客でごった返す中でギャル系ファッションに関して辛らつな批評を展開する由真を、アタシは慌てて裏から外へと連れ出した。
 書店やインターネット・カフェの入ったビルとの間の狭い路地にあるスターバックスに入ると、アタシはようやく一息つくことが出来た。

「あー、楽しかった」
 由真はヴァニラクリーム・フラペチーノをプラスティックのスプーンですくうと、幸せそうな表情で口に運んだ。
 彼女は行く先々で服やアクセサリを買い込んでいて、バーバリーのトートバッグはパンパンに膨れ上がっている。そりゃ楽しかっただろう。
「アンタねぇ、いい加減にしてよ。あんなとこでケンカにでもなったらどうすんのよ」
「その時は真奈が守ってくれるでしょ?」
 由真の表情にはまったく屈託と言うものがなかった。アタシは真面目に話をしているのがバカバカしくなって、倒れこむようにソファの背にもたれ掛かった。
 本日のコーヒーは“ティモール・ロロッサ”だった。ちょっとだけスパイシーな味わいが弛緩した気分に合っていて、アタシはゆっくりと味わいながらコーヒーを啜った。甘いものが苦手なアタシはこういうところではコーヒーしか飲まない。
 由真は本日の獲物をバッグから引っ張り出しては、それがいかにセンスの良い物でどれだけ流行を先取りしているかについて熱く語っていた。生返事を返しても気にならないようだったので、アタシは彼女が熱弁を振るうに任せておいた。
 思えば、アタシと由真は共通項よりも真逆なところの方が多かった。
 小さな頃から可愛がられて育ったせいかワガママで感情の起伏が激しい由真と、どちらかというと泰然としていて、あまり群れて行動することが好きじゃなかったアタシは不思議とウマが合った。
 もちろん彼女だけがアタシの友人だった訳じゃない。空手道場に一緒に通った子もいるし学校の友達だっていた。プラトニックで、今思えば笑ってしまうような清純な交際をした男の子だっている。
 でも、彼らはある事件を境にアタシの周りからいなくなってしまった。ある者は親から遠ざけられるように。ある者は逆にアタシの方から。
 今、友達でいてくれるのは由真だけだった。
 人殺しの娘であるこのアタシと。 
 
 由真のファッションに関する御前講義(まあ、何を言っているのかアタシにはよく分からないのだけれど)に一段落がついた頃には、街には夕暮れのオレンジ色のヴェールがかかり始めていた。
 時計はもうすぐ七時になるところだった。
 とはいっても今の季節、日の入りの遅い九州では八時くらいまでは明るくて、まだ夜という感じじゃなかった。そのせいかまだ「帰らなきゃ」という気分にはならない。由真とアタシの数少ない共通項の一つに”午後八時が門限”というのがあって、二人とも門限破りの常習犯だというのがそれに続く。
 由真のケイタイが鳴った。着メロは彼女が愛してやまないB‘zの「今夜、月の見える丘で」だった。割と昔の曲で流行りものが好きな由真にはそぐわないような気がするのだけれど、良いものはいつ聴いても良いのだ、というのが彼女の主張だった。
「――あ、もしもし。うん、ちょっと待って」
 由真は声のトーンを落とした。アタシに目顔と手振りで“ごめん”と言って席を立った。お互いに目の前で電話やメールをされるのがキライなのでいつもそうするのだ。彼女は小走りに店の外に出て、通りのオープンテラス席に座って話し始めた。
 アタシは椅子に置かれた由真のバッグと向かい合って、自分のケイタイを開いた。
 着信履歴は由真のケイタイと自宅、バイト先からのシフトの確認でほぼ全部が占められている。メールを送ってくるような友達はいないので(由真はメールを打つくらいなら電話をかけてくる)メールボックスはいつも空っぽに近い状態だ。
 アタシはケイタイをポケットに戻してiPodを取り出した。イヤホンを突っ込んで江利チエミの「テネシー・ワルツ」を選んで再生した。
 女子高生の聴く曲じゃないよね、と由真は言う。アタシもそう思うのだけどどうしてもこの曲だけは消すことができなかった。両親が大好きだった曲で、この曲の入ったカセットテープを車のカセットデッキに差し込むのが、幼い頃に家族でお出かけするときのアタシの役目だった。
 思えばあの日も、アタシは擦り切れたテープの代わりにMDに録音するためにこの曲を聴いていた。

      *      *      *

 警官だった父、佐伯真司が人を死なせて逮捕されたという知らせは、去年のゴールデンウィークの真っ最中にもたらされた。
 率直に言ってアタシはその日のことをよく覚えていない。覚えているのは激昂した祖父と魂の抜けたような表情の祖母の噛み合わないケンカの様子だけだ。
 幼い頃に母親を亡くしたアタシは連休があると祖父母の家に預けられていた。父とアタシは二人暮らしで、父の両親は早くに亡くなっていたので(彼らは当然、父の家族構成を把握していた)警察の人たちは自宅には行かず、まっすぐ祖父母のところにやってきたのだ。
 アタシの父親は福岡県警の薬物対策課の刑事だった。
 父の属していた捜査班は親不孝通りのクラブ(踊るほうのヤツだ)で捌かれていた合成麻薬の捜査をしていて、父ともう一人の村上という若い刑事が二人で張り込みをしていた。密売グループのリーダー格の少年(アタシはこの言い方が気に入らない。売人で十分だ)が手に入ったばかりの麻薬をクラブに持ってくるという密告があって、父たちはその現場に踏み込んで現行犯逮捕するつもりだったのだ。
 売人は情報が洩れていることに気付かずにまんまとクラブに現れた。父は売人に職務質問をかけ、同時に村上が彼の腕を捻りあげた。
 あとは彼の懐にある麻薬のパッケージを取り上げ、売人を連行して、父たちのその日の仕事は終わるはずだった。
 ところが実際はそうはならなかった。一瞬の隙をついて村上の鳩尾に一撃を入れた売人がそのまま逃走したのだ。父は売人を追った。
 それから二人の間で何があったのかは、実はよく分かっていない。
 村上が長浜公園で二人に追いついたときには父は肩で荒い息をしていて、売人はその足元でぐったりと伸びていた。父の拳は売人の鼻血と裂けた傷口から流れる血で染まっていて、通りかかった通行人の通報で駆けつけた長浜交番の制服警官が、父を激しい口調で詰問していたそうだ。
 売人は救急車で病院に運ばれたけれど倒れたときの打ちどころが悪くて、明け方を待たずに息を引き取った。死因は倒れたときに道路の縁石で頭を打ったことによる頭蓋骨骨折、および脳挫傷だった。
 追い討ちをかけるように(と言っていいのかどうか分からないのだけど)死んだ売人は麻薬を持っていなかった。密告に気付いた売人がとっさに隠したのか、最初から密告自体が罠だったのかは分からない。ただ状況が警察にとって非常に厳しいものになったことは間違いなかった。
 父は傷害致死の容疑で緊急逮捕された。
 暴力警官に対する世論の追求は“激烈”の一語に尽きた。
 事件は当然のことながら全国ニュースでも取り上げられ、アタシは”ヒトゴロシのムスメ”として凄まじいイジメの真っ只中に放り出された。クラスメイトは一斉に背を向け、通っていた空手の道場からは丁重に(でもキッパリと)出入り禁止を宣告された。
 裁判で父は大筋で起訴事実を認めて謝罪の意を示したけれど、売人を殴った理由については「カッとなって覚えていない」の一点張りで、動機は明かされることはなかった。
 父は懲役五年の実刑判決を受けた。検察・弁護側双方が控訴せずに刑が確定して、父は程なく北陸のほうの刑務所に収監された。
 アタシはそのまま祖父母に引き取られ、祖母の母校に編入することになった。
 そこでは元の高校ほどの疎外には合わなかったけれど、場違いな雰囲気はアタシの心をささくれ立たせるには充分だった。アタシはすっかり荒れて夜の街を遊び歩くようになった。

 九月になっても自主的な夏休みを続けていたアタシは、中洲のど真ん中にあるゲームセンターで徳永由真と出会った。
 お人形さんみたいだなというのが最初の印象で、アタシは自分のボキャブラリーの貧困さに呆れたものだ。
 実はアタシには彼女に見覚えがあった。というより同級生の中で彼女のことを知らない者はいなかったのだ。祖母の頃とは違うと言っても未だに“お嬢様学校”と呼ばれるウチの高校でも、由真は指折りのお嬢様だ。家は西区のほうにある総合病院を経営していて、分院やクリニックが市内を始め、福岡県内にいくつもあると聞いていた。
 ゲームセンターにいるのに遊ぶふうでもなく、ただ興味深げにキョロキョロと店内を眺めて歩いている様は、買い物をする親から「見てるだけよ」と言われて玩具売り場で待っている子供を思わせた。
 身長は一六〇センチ弱(あたしより十五センチほど低い)で、体重はあっても四〇キロちょっと(あたしより十五キロほど軽い)だろうか。控えめなフリルの付いたサックス・ブルーのワンピースは、猥雑で騒々しい夜の街では明らかに異質だった。
 そんなところにそんな少女がいれば、ナンパ待ちの女の子をモノにするのが生きがいのバカな男が言い寄ってくるのは当然のなりゆきだった。ホスト崩れのようなだらしないスーツ姿の男が馴れ馴れしく声をかけて、肩を抱かんばかりに彼女に寄り添った。
 どうするのかと見るとはなしに見ていたら、彼女は女のアタシでさえドキリとするような艶然とした微笑を浮かべた。
 度肝を抜かれたのはその後だ。
 次の瞬間、パァンという男の頬を張る小気味のいい音が鳴り響いた。由真はそのまま、その場を立ち去ろうとした。
 しかし男のほうは(当然だけれど)収まらなかった。屈辱で顔を紅潮させながら由真の細い腕を捻りあげた。由真は悲鳴を上げた。
 周囲は事の成り行きを遠巻きに見ていた。盛り場の痴話喧嘩に口を差し挟むほど中洲の住人は暇じゃないからだ。
 アタシはやれやれと思いながら、やりかけのクレーン・ゲームの前から離れた。狙っていたものがどうしても取れなくて、ちょっとイラついていたのもある。
 アタシはバンダナを外して右拳に巻きつけて、男の死角になる方から近づいた。
「――ねぇ、何してんの?」
 わざとらしく明るい感じで声をかけた。
 不意打ちに驚いた男がアタシのほうを振り返った。その瞬間、アタシは男の顔面に渾身の正拳突きを叩き込んだ。男は無様にひっくり返って床に転がった。
 由真は何が起こったのか分からないように目を瞬かせていた。
「ボーっとしてないで逃げるよっ!!」
 アタシは由真の手を取った。しかし由真は男に腕を捻られたときに落としたバッグを拾おうとして手間取った。残念ながらアタシの正拳には一撃でノックアウトできるほどの威力はなく、男はノロノロと立ち上がった。
 男は鼻血を袖でグイッと拭うと、ジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。
 ――まずい。
 ポケットから出した手に鈍く光るものを認めた瞬間、アタシの体は動いていた。左の下段前蹴りで男の出足を止めて、その脚を下ろさずに左の上段横蹴りでナイフを蹴り飛ばした。男は蹴られた腕を押さえながら後ろへ下がった。
「チキショウ、このガキッ!!」
 男は助けを求めるような視線を飛ばした。アタシは舌打ちした。仲間が来ると面倒なことになる。
 アタシはもう一度、左の下段で男の脚を狙った。位置的な関係もあるけれど、さっきからアタシは相手に近い左ばかりを使っていた。
 もちろんそれは決め技への伏線だった。
 男がアタシの左の届かない右側へ動こうとした。その刹那、アタシは軸足をスイッチして右の上段回し蹴りを放った。
 とっさに男の腕がガードに跳ね上がったのは褒めてやってもいいかもしれない。しかしアタシの得意技の前には無意味だった。膝をたたんだまま振り上がったところで腰を返し、ガードの上から脚を振り下ろす。
 軌道の変化する上段縦蹴り――グラウベ・フェイトーザばりのブラジリアン・ハイ・キックが男の肩口にめり込んだ。
「グウッッ!!」
 不気味な悲鳴とともに鎖骨が折れるイヤな感触が伝わってきた。男は肩を押さえて座り込んだ。
 誰かが吹いた口笛で、アタシは我に返った。
 いつの間にか周りを囲んでいたギャラリーは思わぬ見世物に大興奮だった。しかし、その向こうにいかにもという感じの剣呑な雰囲気を漂わせた若い男たちの姿が見えた。
「早く逃げよっ!!」
 誰かがそう言ってアタシの手を取った。
 徳永由真だった。さっきまでの可愛らしい表情は消えていて、有無を言わせない力強さでアタシを引っ張った。
 アタシたちは脱兎のようにその場から逃げ出した。

 インターハイに“四〇〇メートル逃げ足”という競技があったらブッチギリで優勝できそうな勢いで逃げ出したアタシたちは、那珂川に架かる福博であい橋(ホークスが優勝するとファンがダイブすることで有名な橋だ)の袂まで来たところで足を止めた。
 息を整えながら追ってくる気配がないことを確かめて、アタシは橋の欄干に体を預けた。
 立ち並ぶビルの屋上のネオンが水面に映り込むテレビや雑誌でお馴染みの風景は、幻想的で見る者を惹きつける華やかさと猥雑さを併せ持っている。光に照らされたところの美しさと、その陰にある暗い闇が持っている別の意味で人の心を捉えて放さない力。
 アタシは自分がここにいることの現実感のなさに、しばし呆然とした。
「――真奈ってば強いんだね」
 由真はいきなりアタシを呼び捨てにした。
 アタシのほうは徳永さんと呼んだし、ちゃんと榊原真奈と名乗ったのにだ。しかし、彼女にはそういう細かいことを気にしないようなところがあったし、アタシもそういうことにそれほどうるさいわけでもなかった。
「あれ、何ていう技なの?」
 由真が訊いた。
「どれ?」
「あの、脚を高ーく上げるやつ」
「あれは上段縦蹴り。ブラジリアン・ハイ・キックともいうんだけどね」
「病気で死んじゃった外人さんが使ってたのと同じなの?」
 彼女が言っているのは二〇〇〇年に急性白血病で亡くなったK−1ファイター、アンディ・フグのことらしかった。アタシは首を振った。
「あれは踵落とし」
「そうなんだ。あれも出来るの?」
「出来るよ。あんまり得意じゃないけど」
「すごいんだね。あたしにはとてもじゃないけどムリだな」
 ついさっき危険な目にあったとは思えない由真の無邪気な口調に、アタシは呆れるのを通り越して笑い出しそうになっていた。
「変わってるね、徳永さんって」
「……そうかなぁ?」
 そう言って彼女は「由真でいいよ」と付け加えた。
 それからどちらともなく、お腹すいたね、ということになった。
 由真がいい店を知っていると言うので、二人で西中洲から静まり返った天神中央公園を抜けて今泉まで歩いて、公園の向かいにある洒落たカフェに入った。夜中に女子高生二人組なのを見咎められるかと思ったけど、アタシはどちらかと言えば宝塚系の男っぽい顔立ち(あまり嬉しくはないけど)だし、由真はメイクをしていたので何も言われなかった。
 アタシはコーヒー、由真はアップルタイザーを頼んだ。食べるものは由真が適当にオーダーした。
 興奮していたのもあっただろうけど、アタシたちはしばらく(と言うか閉店まで)いろんなことを話した。特に面白いことを言ったわけでもないのに、由真は本当によく笑った。
 夜の街で遊ぶようになってから、アタシは人が浮かべる笑顔とその裏側で浮かべている違う種類の笑顔について、とても敏感になっていた。
 由真はアタシの身に起こったことも、その後、アタシがどんなに荒れた生活をしていたのかも知っていた。それでもこんな笑顔を向けてくれる人はアタシの周りにはいなかった。
 店を出てから、アタシはタクシーが拾えるところまで由真を送った。
 別れ際に由真が「ありがとうね。助けてくれて」と言った。
 アタシは何と返事していいか分からなくて、ただ「……うん」とだけ答えた。

 一年生の半分近くは学校に行かなかったアタシは、由真と時々街で会うようになって、ふとしたことから学校に通うようになった。
 もちろん普通ならとても出席日数が足りないので、留年は間違いなしだった。ところが(事情は知らないけど)たまたま同じように出席日数が足りない子がいて、その子は父親がPTAに多大な影響力をもっていたこともあって、特例措置が取られることになった。
 それを聞きつけた由真は、恐ろしいことに”何故、榊原さんには同じ措置が取られないのか”と全校集会でぶち上げるという暴挙に出た。
 明確にアタシを差別する理由を提示できなかった学校側は(アタシの祖母がOG会の重鎮ということもあって)特例措置とやらをアタシにも適用することを認めた。
 アタシはそうやって、膨大な追試と補習と引き換えに進級を許されたのだ。

      *      *      *

「――ゴメン、すっかり話し込んじゃった」
 由真は店内に戻ってくると、顔の前で可愛らしく手を合わせた。彼女はこういう仕草が本当によく似合う。
「いいけどさ。誰よ、ひょっとしてオトコ?」
「そんなわけないでしょ。あたし、遊び相手のルックスにはうるさいのよ。真奈こそ誰かいいヒトいないの?」
「残念ながらね」
「ま、真奈にカレシはムリよねー。恋愛観が”一撃必殺”だし」
「また、その話?」
 いつもと同じ他愛もないやりとり。何かの心理テストとやらで”思いついた四字熟語”というのを急に言わされて、前の日に数見肇とフランシスコ・フィリョが戦った極真世界大会のビデオを見ていたアタシはとっさにそう答えたのだけれど、どうやらそれが恋愛観を表すものだったらしいのだ。
 コレが相当に由真のツボに入ったらしくて、もう二週間はたったというのにことあるごとに蒸し返される。最初はやっきになって否定していたアタシだけれど、最近は諦めモードに入っていた。
 どちらともなく帰るということになった。
 スターバックスを出て渡辺通りのバス乗り場へ行った。由真は自宅のある百道浜方面へ行くバスに乗った。アタシの家は平尾浄水にあるので方向は逆になる。
 由真を見送ってからアタシもバスに乗った。ブラブラ歩いて帰れない距離ではないのだけれど、遅くに夜道を歩くと祖父がうるさいのだ。
 それでも日が沈んで薄暗くなった街を、西鉄バスに揺られながら帰るのは悪くなかった。
 不意にメールの着信音がした。ケイタイの画面を見ると由真からだった。

<……今日は楽しかったよ>

 文面はそれだけだった。珍しいなと思いつつ、アタシは慣れないケイタイのボタンを押して<アタシも楽しかった、また明日ね>と返事のメールを打った。
 由真からの返事は返ってこなかった。








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