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砕ける月

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  第 11 章  

 高橋の入院している病院は博多区と東区の境にあった。
 エントランスの横には救急車が横付けできる大きなスロープがあって、アタシが着いたときにも一台停まっていた。後ろのドアが開いていて、救急隊員が手際よくストレッチャーを降ろしている。
 アタシ自身はお世話になったことはないけど祖父が交通事故で一回、父の同僚がウチで飲んでいて急性アルコール中毒で一回、そして正月に入院先から帰ってきていた母親の容態が急変して一回の計三回、アタシは患者が車内に運び込まれるところを見たことがあった。
 母の一回は生きている彼女を見た最後だった。
 アタシはロビーの売店でお見舞い用の花束を買って床に貼られたカラー・テープを頼りに外科病棟に進んだ。
 五階のナース・ステーションで受付簿に名前を書いて、高橋の病室を訊いた。最近は個人情報保護の観点とやらで誰でも自由には出入りできなくなっているのだそうだ。
「あー、でも高橋さんは面会謝絶ですよ」
 前髪にメッシュの入った若い看護師が声を潜めて教えてくれた。
「そうなんですか」
「ええ、結構ひどい怪我ですから」
「ご両親はいらっしゃってるんですか?」
「お母様が付き添ってると思いますよ」
 母親に挨拶だけしておくと言うと、看護師は高橋の病室を教えてくれた。このフロアの一番奥まった部屋で、緊急の場合に備えて処置室の隣になっている。
 アタシは案内板を見てその病室に向かった。
 病室の前では香椎で見た化粧っ気のないオバサン――高橋の母親が医者と何やら話していた。
 医者と母親の会話が終わるまでアタシは見えないように通路の角に立っていた。母親の「ありがとうございます」という感謝の意に溢れた言葉を繰り返すのが聞こえてきた。してみると高橋の容態は悪いほうには進んでいないようだった。アタシは少しだけホッとした。
 母親はハンドバッグからハンカチを取り出して目元を拭っていた。
「あのー、先程お電話した榊原ですけど……」
 声をかけると母親は驚いたようにアタシを見た。
「ああ、さっきは取り乱してごめんなさいね。お見舞いに来て下さったの?」
「高橋さんの容態は?」
「ええ、峠は越したって。今、先生がおっしゃったの。一両日中には意識も戻るだろうって。MRIで撮った写真にも脳挫傷とかは見当たらないっていうことだったから、ホントに……」
 母親はまた言葉を詰まらせたけど、今度はいい意味でのことだった。アタシは彼女が落ち着くのを待って、持っていた花束を渡した。
「また出直します。高橋さんによろしくお伝えください」
「本当に有難うございました。せっかく来て下さったのに、面会謝絶なんてねぇ」
 母親は深々と頭を下げた。

 アタシはナースステーション前で下りのエレベータを待った。
 とりあえず懸案の一つは最悪の形にはならなかった。
 出来れば高橋と話したかったけど意識が戻るのを待つしかない。アタシは梅野に連絡を取って例のMOディスクを見るつもりだった。
 エレベータが五階についてドアが開いた。
 降りてきたのは三十歳くらいの男だった。ピン・ストライプのボタンダウン・シャツにニット・タイ、ベージュのスラックスと手に同色のジャケットを抱えている。背はアタシよりも少し高くて体躯は細く見えるけど、痩せているのではなくて引き締まっている感じだった。
 アタシはこの男に見覚えがあったけど、向こうはアタシには気付いていなかった。
 男はナース・ステーションに向かって小さく会釈した。アタシが歩いてきた方向――高橋の病室に向かっているようだった。
「……何でヤクタイ(薬物対策課)の刑事がここにいるの?」
 アタシは言った。
 男は立ち止まってアタシのほうを振り返った。
 サラサラの茶髪と温和で理知的な顔立ち。ボックス型のメタルフレームのメガネが誂えたようによく似合っている。恐ろしく表情に乏しいことを除けばペ・ヨンジュンに似ていないこともない。
 去年の初夏に最後に見たときと何も変わっていなかった。証人として出廷した夜、平尾浄水の家を訪ねてきて祖父に追い返されたときと。
 村上恭吾――アタシの父親のパートナーだった男。
 そしてアタシの父親を刑務所に送った男。

      *      *      *

 アタシの父親が逮捕された二日後の夜、平尾浄水の家を訪ねてきた人物がいた。
 父の同期で県警総務課の警部補というその人は、どういう繋がりか知らないけど祖父とも旧知の間柄だった。呼んだのは祖父のほうで詳しい経緯を聞き出すのが目的だったらしかった。
 アタシは客間の隣の部屋に隠れて、祖父とその警部補のやりとりを盗み聞きすることにした。
 県警の上層部は当初、この事件を”犯人逮捕の際の不幸な事故”として処理する方向で動いていたらしかった。
 不祥事が起こったときに警察が組織防衛に走るのはアタシでも知っていることだった。父親が揉み消し工作の一端を背負わされて、ひどく不機嫌になっているのを見たこともある。
 父の事件の場合は相手が嫌疑の濃い麻薬の密売人だったことや、抜いてはいなかったけど実際に刃物を持っていたこと、家族とは絶縁状態で異議を申し立てるような人間がいないこと、深夜の出来事で最初の通報者以外の目撃者がいないことなどから隠蔽工作は十分に可能だと判断されていた。
 しかし事態はそうはならなかった。
 その筋書きを押し通すためには事の成り行きを傍で見ていた人間、父のパートナーとして現場に居合わせた刑事――村上恭吾の証言が不可欠だった。
 それを村上は拒否したのだ。
 県警幹部と村上の間でどんなやりとりがあったのかは、その警務課のヒトの耳にも入ってはいないようだった。ただ、裁判になれば村上が証人として出廷するのは避けられず、万が一にも彼が警察の筋書きを台無しにするような証言をすれば県警はそれこそ”警官の傷害致死”と”揉み消し工作の発覚”という二重のダメージを負ってしまう。
 県警幹部が選んだのはアタシの父親の事件を公表して、全てを真っ当な方法で処理することだった。
 理屈から言えばそれは当然のことだった。
 アタシだって自分の身内に起こった出来事でなければ「そんなの当たり前でしょうが」と切り捨てたに違いない。でも村上が目を瞑ってくれれば父は刑務所に行かずに済んだのではという思いは捨て切れなかった。
 父親はよく村上を自宅に連れてきた。いつも突然のことだったのでアタシはぶつくさ言いながら三人分の食事と二人の酒の用意をしたものだ。
 中学生だったアタシには村上が周囲にはいない”大人の男性”に見えて、恋愛感情とまでは言わないけど憧れのような想いを持っていたことを覚えている。もちろんそんなことは億尾にも出さなかった。村上には大学時代の同級生だというステキな奥さんがいたからだ。
 でも、それも祖父たちの会話を盗み聞きするまでのことだった。
 最後に会った日、帰り際の村上に対してアタシがやったのは、思いっきり彼の頬を引っぱたくことだった。

      *      *      *

「――真奈?」

 村上は驚いたように声をあげた。メガネの奥で目を瞬かせている。
 昔から村上は当たり前のようにアタシを呼び捨てにする。文句を言ってやろうかと思ったけど、だからと言って何と呼ばせていいか、とっさには思いつかなかった。
「久しぶりだな。何してるんだい、こんなところで」
「……いいでしょ、別に。アタシが何をしていようと。アンタこそどうしたの? 刑事に殴られた売人が入院してるの?」
 村上はほんの少しだけ目を細めた。笑ったらしかった。以前から表情の乏しい男だったけれどその傾向は一段と進んでいるようだった。
「相変わらず口が悪いな。俺はもう薬物対策課の刑事じゃないよ。博多署の刑事課に異動になったんだ」
「へぇ。県警のエリートから所轄の刑事ねぇ。左遷されたの?」
「警官は警官、どこでも一緒だけどね。ま、そういうことにしておくよ」
 村上は肩を竦めて廊下の奥――高橋の病室のほうを見やった。
「ここに俺が担当してる傷害事件の被害者が入院してるんだ。まだ意識が戻らないらしくって心配してるんだが……」
 アタシはそうなんだと言った。警察が何をしていようとアタシの知ったことではない。警察の捜査に協力する気もサラサラない。
 話をしている間に別のフロアに呼ばれたらしく、エレベータは一階まで下りてしまっていた。アタシはもう一度エレベータを呼んだ。
「さっさと行ったら?」
「あ、ああ……」
 村上はそう言いながらもアタシの傍に突っ立っていた。アタシに何か言いたそうなのは分かっていた。
 でも、アタシは何も言わせるつもりはなかった。
 エレベータは遅々として上がってこなかった。階段で降りようかと思っていると廊下の向こうから高橋の母親が歩いてきた。

 彼女は村上を見つけると駆け寄ってきて、もう少しで息子の意識が戻りそうだと言った。村上はさっきまでの無表情がウソのように安堵した表情で、母親に「それは良かった」と語りかけた。
 アタシと村上が一緒にいるのに気付いて高橋の母親は怪訝そうな顔をした。
「お知り合いなんですか?」
 アタシじゃなくて村上に言ったようだった。村上は「昔、ちょっと」などと聞く人によっては誤解されるような誤魔化しかたをした。
 アタシは足を蹴飛ばしてやろうかと思ったけど、ギリギリで思いとどまった。
「高橋さんとは知り合いなのか?」
 村上がアタシに訊いた。
 アタシは返答に窮した。知り合いだといえば話を訊かせろと言われることは目に見えている。知り合いじゃないと言えば母親に対してウソをついたような形になる。

 アタシは知り合いだ、と答えた。ここで否定しても村上が真に受けるとは思えなかったからだ。疑うことが仕事の刑事は絶対に他人の言葉を鵜呑みにしたりはしない。父がよく言っていたことだ。
「あとで話を訊かせてもらえるかな?」
 アタシは肩を竦めてオーケーと答えた。

 村上はアタシを病院のロビーの隅にあるコーヒーラウンジで待たせていた。
 コーヒーサーバから注いだだけの薄いコーヒーを飲みながら、アタシは週刊誌を読んで時間をつぶした。

 十五分ほどで村上は下りてきた。無愛想なウェイトレスにコーヒーを注文してアタシの向かいに腰を下した。
「待たせたね。帰ってしまうんじゃないかと思ったよ」

「そうすればよかった」
 本当に帰ってしまおうかと思った。この男とどんな顔をして話せばいいのか分からなかったからだ。
 そうしなかったのは警官は必要ならどんなところにだって話を訊きにくるし、家に来られるとただでさえ高い祖父の血圧を致命的な高さまで押し上げることになってしまう。
「一年ぶりかな」
「一年と一ヵ月。アタシの誕生日の少し前だったから」

 村上は小声で「……そうだな」と呟いた。
「佐伯さんから連絡は?」
「ないわ。もともと筆不精だし。自分に対する恨み言を書いてないか、心配なの?」
 アタシは言った。嘲るような口調は隠せなかった。
 村上はほんの少し眉根を寄せただけだった。
「……恨まれても仕方ないとは思ってるよ。佐伯さんにも、お前にもね」
「アタシは恨んでなんかいないわ。父さんを救ってくれなかったアンタを許したわけでもないけど」
 救われなかったのは父だけじゃない。この男の決断はアタシもそうだし、祖父母も救ってはくれなかった。ついでに言えば福岡県警も救わなかった。
 救ったのは村上自身の警官としての良心くらいのものだ。
 村上を恨むのが筋違いなことくらいアタシにだって分かっている。悪いのは人を死なせた父であり、償いをするべきなのが父であることも。
 今思えば夜の街で遊び歩いて何度も補導されたのだって、村上に対する当てつけのような気持ちがあったのかもしれない。アタシは”佐伯真司の娘”であることを隠さなかったし、アタシの行状は村上の耳にも届いていたはずだ。
 それでもこの男は姿を見せたことすらなかった。
 お互いに何を話していいか分からずに押し黙ったままだった。アタシは本題に入ることにした。
「訊きたいことがあるんでしょ。アタシ、用事があるの。早くしてくれないかな」
「オーケー。じゃあ、被害者との関係から訊こうか」
「知り合いだと言ったはずよ」
「一番乗りで見舞いに駆けつけるほどの?」
「そんなの知らないわ。友達がいないんじゃないの?」
「確かにお友達の多いタイプには見えないな。えー、一応、彼との接点は訊いておかなきゃならないが」
「クラスメイトのご紹介。アタシが彼氏がいないからって心配してくれるお節介がいるのよ」
「なるほど」
 どちらに対する「なるほど」なのか――紹介という接点に対してなのか、アタシに彼氏がいないことに対してなのか――は、口調からは判別できなかった。アタシは先を続けた。
「正直に言って高橋さんには一度しか会ったことないのよね。あのときはホテル海ノ中道までドライブしたんだったっけ。で、アタシの留守中に家に電話を貰ってたんでかけ直したら、お母さんから入院を知らされたってわけ」
 アタシが電話をかけた経緯はいずれ高橋の母親から洩れるだろうからウソはつかなかった。ご紹介やらドライブのことは村上を待っている間にあらかじめ考えておいたことだ。
「被害者はお前に何の用事があったんだろう?」
「それはアタシが知りたいくらいよ」
「……だろうな。お前と被害者の間に共通の知り合いは? あ、そのクラスメイト以外で」
 アタシは首を振った。
 納得したかどうかは分からないけど村上はそれ以上は訊かなかった。
「お母さんからは暴行されたって聞いたけど、容態はどうなのよ?」

 アタシが訊いた。
「全身打撲で意識不明の重体というところかな」
「ひどいの?」
「かなり。幸いにも骨折とか深刻な怪我はないが、その分だけ全身痣だらけだ。おそらく何かをしゃべらされようとしたんじゃないかな」
「どういうこと?」
「例えば殺そうとしたとか、そこまでいかなくても痛めつけるのが目的ならもっとひどい打撲を負ってるものだ。しかしこの被害者の場合、どっちかと言えば手加減しながらやったような形跡があるんだ。人をいたぶることに慣れたヤツの仕業だな」
 自分が同じ目にあうことを想像して、アタシは思わず身震いした。
 話しているとコーヒーが届いた。一口啜って村上は顔をしかめた。
「……ひどいな、これは」
「アンタが煩すぎるの。アタシの淹れたコーヒーにだっていっつも文句言ってたし」
「……そう言えばよく淹れてもらったっけ」
 村上はコーヒーに砂糖とミルクを大量に放り込んだ。
 想像しただけでも口がベタベタしそうな量で、アタシは思わず顔をしかめた。美味しいコーヒーはブラックで、そうでない場合は甘くして飲む。やはり昔と何にも変わっていない。
 村上は手帳を取り出してページを繰った。
 目当てのところを見つけると水を一口飲んだ。やはり甘すぎたのだ。
「高橋拓哉、十九歳、独身。東区の舞松原に両親と一緒に住んでいる。元パソコンショップ店員。現在は父親が経営する輸入代行の会社を手伝っている。かなりのコンピュータ・マニア。ご両親から伺う限りでは女っ気はないようだ――お前以外はね。何か訂正することは?」
「アタシは高橋のオンナじゃないわ」
「それだけ?」
 アタシは頷いた。正確に言えば女っ気はある。由真のことだ。それを言うつもりはもちろんない。
「分かりました。ご協力に感謝します」
 村上は最後だけ取ってつけたように警官らしい物言いで締めくくった。半分ほど残したコーヒーを飲むかどうか迷って、残すことを選んだ。伝票を持って立ち上がろうとした。
「ちょっと待ってよ」
 アタシは村上を呼び止めた。
「何だい?」
「訊くだけ訊いてそれで終わり? 一応、知り合いがこんな目にあったんだし、事の経緯を聞かせてくれてもいいんじゃないの」
 村上はアタシの目を覗き込むようにじっと見つめた。疑うことが仕事であり習性でもある生粋の警官の眼差し。アタシは目を逸らさなかった。
 村上は再び腰を下ろした。
「高橋が発見されたのは八月十一日――つまり昨日の早朝だ。雑餉隈のヘルス街の外れに倒れていたのを南福岡駅に向かっていた通勤中のサラリーマンが発見して、119番に通報している。全身に殴打の痕があるのはさっき話したとおり。それ以外に肘や膝に擦過傷が多く見られたことから、どこかから這って逃げ出したんじゃないか、と見られてる。今のところ、前日の夜に家を出てからの足取りは掴めていない」
「雑餉隈って博多署管轄なの? 南署だと思ってた」
 武田鉄矢の実家のタバコ店があったことで有名な雑餉隈界隈だけど、現在は西鉄の駅名と隣接する大野城市の小さな区画の名前にあるだけで、福岡市内にはそういう地名は存在しない。それでも誰もがあの辺りを雑餉隈、または略して”ザッショ”と呼ぶ。
「だと助かるんだけどな。中洲は地回りの目が行き届いてるんでヘンな事するやつは少ないんだが、雑餉隈はそうはいかないからね。陸自の基地が近いんで荒っぽいヤツが多いし」
「風俗店で何かやらかして袋叩きにされたとかじゃないの。場所が場所だし。店の禁止事項に触れて恐いオニイサンに小突き回されたとか」
「それはないんじゃないかな。奴さんたちも身包みくらいは剥がすだろうけど、怪我をさせて警察に駆け込まれるのは本意じゃないから。しかし、最近の女子高生は何でそんなことを知っているんだか」
 皮肉は聞き流すことにした。
「警察はどう見てるの」
「事件性はあると考えてる。ただ、まだ具体的なことは把握できていないんで、早急な判断は避けているのが現実だよ」
「それって何もしてないってことじゃないの?」
「意外と鋭いな。ま、俺みたいな窓際刑事を担当にしてるくらいだからな」
 自虐的な物言いはともかく、村上が――警察が悠長に構えている理由は分かった。被害者である高橋の意識が戻るのを待って事情を訊いてからでも遅くはないからだ。
 これが(縁起でもないけど)高橋に回復の見込みがなかったり、もっと言えば死んでいたりしたら見舞いにノコノコやってきたアタシも厳しく追求されていたに違いない。
「他に訊きたいことがないんなら失礼するよ。他にももう一件、傷害事件を抱えてるんでね」
 村上は店内の時計を見やって、小声で「ヤバイ」とつぶやいて立ち上がった。その拍子に脚が安っぽいガラステーブルに当たってお冷のグラスがひっくり返った。
「うわっ!!」
「ああ、もうっ。慌てるからでしょ。何をやってるんだか……」
 アタシは急いでペーパータオルをテーブルにこぼれた水にあてがった。村上はハンカチを引っ張り出して自分のスラックスにかかったところを拭いた。ウェイトレスが噴飯やるかたない表情で台拭きを持ってきた。
「昔から意外とそそっかしいのよね、あんた」
「……返す言葉がないな」
 村上は苦笑いした。そういうときだけこの男には表情らしきものが窺える。
 ふと、村上が手にしたハンカチに目がいった。奥さんが出来た人なので、アタシの知っている村上はいつも糊の効いたシャツを着て、折り目の入ったスラックスを履いて、アイロンのかかったキチンと畳まれたハンカチを持っているという男だった。
 村上のハンカチは雑に折り畳まれた毛羽立った代物だった。アタシがそれを見ていることに気付いて村上はバツの悪そうな顔をした。
「あー、シャツとかスラックスはクリーニングに出せば良いんだけど、こういったのには手が回らないんだよな」
「奥さんとケンカでもしてるの?」
「別れた」
「へっ!?」
「今年の初めに離婚したんだ。警務部長のお嬢さんだったんだが、上司に逆らって左遷されるようなバカのところに大事な娘は置いておけんとさ」
 アタシは何と返事をしていいか分からずに、ただ「……そう」とだけ答えた。
 村上は他に用がなければ行くと言った。
 コーヒー代は村上の払いだった。ロビーを出て、お互いのケイタイの番号を交換して別れた。








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