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砕ける月

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  第 16 章  

 応接間に戻ろうとしていると、家の奥からドタドタと慌しい足音が聞こえてきた。
「――祐輔、待ちなさいっ!!」
 徳永麻子のヒステリックな叫び声が聞こえた。
 アタシはとっさにバッグに手を突っ込んでハンドタオルで顔と手のひらの汗を拭った。絵を眺めているフリをしながらホールの中央に立った。
「煩いなぁ。いいだろ、オヤジとオフクロの好きなようにすればッ!!」
 若い感じの男が答えた。苛立ちを隠そうともしない投げつけるような物言い。
 三人の男女が玄関ホールに姿を現した。
 徳永祐輔は以前に見たことがあったのですぐに分かった。その後ろに年配の夫婦――徳永麻子ともう一人が追いかけるようについてきていた。
 アタシと鉢合わせするような格好になって、徳永祐輔は驚いたように立ち止まった。
「……君は?」
「こんばんわ。由真のお兄さんですよね?」
 何事もなかったようなポーカーフェイスを装ってアタシは彼の前に立った。
 祐輔と顔を見合わせてアタシはギョッとした。
 丸顔なのと目鼻立ちがハッキリしているところは母親似だった。短く刈った髪を流行りの感じに立ち上げていて、丁寧に整えた顎鬚を蓄えている。多少、運動不足の感は否めなかったけれど全体的には均整の取れた体型だった。黒いポロシャツとジーンズというシンプルな組み合わせで、開き気味の胸元にはシルバーのネックレスが覗いている。
 医者だと知らなければアパレル関係者か美容師のようにしか見えなかった。
 しかし驚いたのはそんなところじゃなかった。
 祐輔の表情は憔悴しきっていた。丸顔だと余計に目立つ頬のこけ方で、眼窩も落ち窪んで目の周りに暗い陰を作っている。そんな中で熱に浮かされたようなギラギラした眼だけが異様な光を放っていた。
 徳永祐輔は芝居がかった満面の作り笑いを浮かべた。
「こんばんわ。君が榊原さんだね。由真から話は聞いているよ」
 そう言って右手を差し出してきた。
 少し迷って彼の手を取った。背筋を冷たいものが走るのをアタシは懸命にこらえた。
 徳永麻子は険しい目でアタシを睨みつけていた。アタシが勝手に応接間から出たことを咎めているのだろう。
「貴女、何しているの? よその家の中をウロウロするなんて」
 アタシが何か答える前に徳永祐輔が口を挟んだ。
「いいじゃないか、そんなこと。だいたい失礼じゃないか。あんな誰も使ってない部屋にお客さんを閉じ込めとくなんて」
「あ、いえ、すいませんでした」
 謝りながらもアタシはその場から立ち去るつもりはなかった。
 舞台に上がった役者全員から台詞が飛んでしまった芝居のように、気まずい沈黙がその場を支配していた。アタシを除いた三人――徳永祐輔、徳永麻子ともう一人の男性――は誰が次に口を開くべきなのかを探り合っていた。
 何か言いたそうだったのは徳永麻子だった。ただアタシがこの場にいることで、彼女は言葉を選ばざるを得なくなっていた。
 彼女の隣に立つ男性は”沈黙することこそが家庭内における最良の処世術”だと信じているようなタイプだった。
 由真が見せてくれた家族写真に映っている養父、徳永圭一郎。前髪は写真の頃よりもかなり後退しているけれど、面長で精悍な顔立ちはハンサムの部類に入れても良かった。口を固く結んで当惑したような眼差しを息子に向けていた。
 その息子はアタシという闖入者の存在を意外なことに面白がっていた。それまでの苛立った様子は影を潜めて、彼本来の(と思われる)人当たりの良さを取り戻していた。
 ただし、それはアタシに対してだけだった。
 徳永麻子はヒステリーを抑え込むように一度大きく息をついた。
 応接間で話していたときのいかにも医師らしい冷静な表情を見ていたせいか、紅潮した顔と目が吊り上がっている様はまるで別人のようだった。
「……榊原さん、とにかく応接間に戻っていてくれないかしら。そうじゃなかったら帰って頂戴」
「そんな言い方ないだろ。この子は由真の事を心配して来てくれたんだぜ」
 アタシが応じるよりも先に祐輔が言った。
 おかしな事になっていた。彼がアタシを庇う理由はよく分からなかった。ただ彼にとってはアタシがどうこうではなく、母親に逆らう材料があれば何でも良いような感じにも見えた。
 アタシはそ知らぬ顔で祐輔の背後に隠れるような位置に移動した。ここまで至ってはもはや平和的に彼女と話すのは不可能だった。
 ならば神経を逆なでしてやることにしたのだ。
 徳永麻子は掴み掛からんばかりの眼差しを息子ではなくアタシに向けた。お門違いも甚だしいけど世の母親の反応などそんなものだろう。アタシは将来、この家に嫁いでくるであろう見知らぬ女性への同情の念を抱いた。
「……とにかく祐輔、話は終わってないわ。奥の部屋に戻りなさい」
「だから、勝手にしてくれって言ってるだろ。どうせ俺の言うことなんか聞くつもりないくせに」
「いいから戻りなさい。――榊原さん、悪いけど今すぐ、この家から出て行って頂戴」
「だったら、俺はこの子を送っていくよ。こんな夜道に女の子一人ってわけにはいかないからね。彼女を送ったら俺は百道のマンションに帰るよ。由真が帰ってきているかも知れないから」
 最後は嘲るような口調だった。徳永麻子はその一言でキレた。
「そんなこと、許さないわ。もとはと言えば、貴方の問題なのよ!!」
「おい、麻子――」
 初めて徳永圭一郎が口を開いた。
 声に狼狽の色が浮かんでいた。しかし彼の妻は意に介する様子もなかった。そんな冷静さはとっくに彼女からは失われていた。その目にアタシが映っているかどうかも怪しかった。
「どうしてこんなことに……貴方は徳永家の――敬聖会の後継者なのよ。それがあんな投薬ミスなんて、インターンでもやらないようなミスをするなんて。自分がしたことの意味が分かってるの?」
 痛いところを突かれたように祐輔は言い返そうとした言葉を飲み込んだ。眼差しに最初の暗さが戻ってきていた。
「……俺にどうしろと言うのさ? 死んだ患者さんには悪いことをしたと思ってる。でも、俺は医者には向いてない、医者にはなりたくないって何度も言ったはずだよ」
「そんなことを言ってるんじゃないわ」
「そうだろうね。お袋が心配してるのは、敬聖会の将来のことさ。せっかく九大病院から親父みたいな優秀な医者を引き抜いてグループを大きくしてきたのにその跡取りがこんなヤブ医者じゃあね。――そうだ。いっそのことお袋と同じように、由真に優秀な医者を婿に取らせればいいじゃないか。養女と言っても徳永家の血は引いてるんだし」
「祐輔っ!!」
 今度こそ徳永麻子は爆発した。しかしそれが彼女のリミッターを働かせるきっかけになった。彼女は膝から崩れ落ちるように床にへたり込んだ。
「おいっ、麻子、しっかりしろっ!!」
 夫は慌てて妻の肩を抱いた。徳永麻子は荒い息をしていて、頭痛を堪えるように固く目をつぶっていた。
 息子はそんな両親を見下ろすように言葉もかけずに仁王立ちしていた。
「――どうしたんだ、徳永。大きな声を出して……おい、大丈夫か?」
 しゃがれたバリトン・ヴォイスと共に廊下の奥から別の人物が姿を現した。
 がっしりとアゴの張り出したいかつい顔立ちの男だった。
 歳は徳永圭一郎とあまり変わらない五十台前半といった感じで、ゲジゲジの眉と同じような質感の口ひげを蓄えていて、短く硬い髪を逆立てている。顔に比べて小さく鋭い目が狡猾そうな印象を与えていた。
 着ているのは仕立ての良さそうな濃紺のダブルのスーツで、真夏だというのにレジメンタルのネクタイをキチンと締めている。身長はアタシと変わらないくらいだけれど横幅は倍近くあった。
 よく見ると耳朶が変形していた。柔道を長くやっている人間に見られる特徴だった。
 その後ろにはベージュのパンツスーツ姿の三十台半ばのふっくらした女性が秘書のように付き従っていた。男が目顔で指示すると、その女は徳永麻子に近寄って夫と共に彼女を抱え起こした。
「徳永、いいから奥さんを連れて行けよ。こっちは俺に任せて」
「あ、あぁ。すまん、熊谷。よろしく頼む」
 彼はパンツスーツの女と一緒に妻を奥へと連れて行った。母親と言い争った息子に対して何か一言あってもいいはずだったけどそれはなかった。自分のフィールドでは有能でも家庭では何の役にも立たない男が九州男児には意外と多いのだ。
 祐輔は連れて行かれる母親を目で追っていた。心配そうな、おそらくは言い争ったことを後悔しているように見えた。元々、親に反抗的な態度が取れるようなタイプではないのだろう。
「どうしたっていうんだ、祐輔くん。お母さんと言い争うなんて、君らしくもない」
 熊谷が曖昧な笑みを浮かべて言った。よく通る声質のせいか、オペラのような芝居がかった感じだった。
「……いえ、何でもありません。すいません、お騒がせして」
「ま、俺に謝ってもらう必要はないがね。ここは君の家だからな」
 祐輔は露骨に唇を歪めた。この二人の間にも部外者には窺い知れない何かがあるようだった。
「帰っていいですか?」
「どうぞ。明日はちゃんと出てきてくれよ。今日だって君の代わりに公休だった他の先生にシフトに入ってもらったんだから。お母さんの台詞じゃないが、君は敬聖会病院の後継者なんだ」
「分かりましたよ、事務長」
 祐輔は吐き捨てるように「おやすみなさい」と言い残して家を出て行った。アタシのことは気に留める様子もなかった。
 
 玄関ホールには熊谷と傍観者を決め込んでいたアタシが取り残された格好になった。
「いやはや、困ったもんだな、この家も。――ところで君は? 榊原さんといったかな」
「由真の友達です。陰でずっと話を聞いてたんですね」
 徳永圭一郎の大声を聞きつけて出てきたような素振りの熊谷は、実際には徳永麻子がアタシの名前を呼んだところも、息子に後継者の自覚を求めたところもちゃんと聞いていたのだ。
「榊原さん、というと、ひょっとして市議会議員の榊原先生のお孫さん?」
「元、がつきますけどね」
 熊谷がアタシを見る目が変わった。
 アタシの祖父は会社経営(建設、不動産関係)の傍ら、三期ほど福岡市の市議会議員を務めていたことがある。最後の一期は健康上の理由で任期半ばで辞職しているのだけれど、それが父の事件と時期が前後しているせいか要らぬ勘繰りを受けることが多い。アタシは率直に言ってこの話題が好きじゃなかった。
「そうか。ということは、君は佐伯の娘なんだな」

 いきなり呼び捨てだった。ムッとしたけど顔には出さなかった。
「……そうですけど。父とお知り合いなんですか?」
「知り合いも何も、俺は十二年前まで警察にいたんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。佐伯刑事――君のお父さんとは同期でね。同じ部署になったことはないが、同期の集まりなんかで一緒に飲んだりしたんだ。いやぁ、世の中は狭いな」
「そうですね」
「お父さんの事件は本当に残念だよ。警察に残ってる同期の連中が何とかしようと動いたらしいんだが、裁判で勝ち目がないからって上層部があっさり諦めたからな。何といったっけ、その時の一緒にいた若い刑事は」
「村上さんのことですか?」
「そう、村上だよ。まったく、刑事なんてやってりゃ誰だって後ろ暗いことの一つや二つあるってのに。そういう時に助け合うのが仲間ってもんじゃないかな」
「そうかも知れませんね」
 それから熊谷は父親の近況などを訊いてきた。アタシは差し支えのない範囲で(ほとんどはそうなのだけれど)質問に答えた。
「警官を辞めて今は病院の事務長さんですか。すいぶんと畑違いの仕事みたいですけど」
 アタシは言った。熊谷は虚を突かれたようにキョトンとした顔をした。
「エッ? ああ、祐輔君が言ってたことか。いや、そんな感じの仕事もしているけど、実際にはいわゆる事務方ってわけじゃないんだよ。第一、俺は敬聖会の職員でもないからね」
 アタシが意味を図りかねていると、熊谷は得意そうに続けた。
「経営コンサルタントというヤツだよ。俺はどうもそっちの方が向いてたらしい。でも、警官だったこともムダじゃないんだ」

「どういうことですか?」
「敬聖会くらい大きなところになるといろいろと面倒なトラブルが多い。表に出せないようなのがね。で、俺はそれを一手に引き受けて片付けるって寸法さ」
「例えば? 病院の弱みを握って強請ろうとしている人間を痛めつけたり、とか?」
 熊谷の顔から表情が消えた。
「どういう意味かな?」
「例えばって言ったじゃないですか」
 アタシはニッコリと笑った。
 お互いを探り合うような視線が交錯して、すぐに何事もなかったように緊張は去った。熊谷の表情は暗いままだったけどそれ以上の話にはならなかった。
 奥の方から秘書風の女性が熊谷を呼びにきた。どうやら徳永麻子は落ち着いたようで、夫の方が熊谷を呼んでいるらしかった。
 アタシはそれをきっかけに徳永邸を辞することにした。これ以上、ここにいても得るものはなさそうだった。
 名刺を貰えないかと言うと、熊谷はヴェルサーチのロゴが入った名刺入れから一枚引き抜いて、ぞんざいな手つきでアタシに渡した。
 アタシはそれを受け取って表書きを一瞥してから、名門女子高の生徒にふさわしく丁寧に辞去の挨拶をして玄関を出た。
 外の空気はムッとするほど暑かったけど、室内の何倍も心地良かった。







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