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砕ける月

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  第 17 章  

 ケイタイのディスプレイに表示された時計は午後十一時を示していた。
 アタシは大濠公園の西側を南北に走る県道まで歩いてタクシーを拾った。博多駅に向かって欲しいと言うと、運転手のオジサンはその場の車列の切れ目で強引にクルマをUターンさせた。
 タクシーは夜の街を走り出した。アタシはバッグから熊谷の名刺を取り出した。
 ケイタイのライトをかざして名刺の表書きを読んだ。
 横書きの今風のデザインで、名前は”熊谷幹夫”という漢字名とアルファベットの”Mikio Kumagai”の表記が併記してあった。
 会社名は熊谷総合企画、熊谷の肩書きはそこの代表となっていた。電話とファックスの番号、Eメールアドレス、オフィスの所在地が下の方に小さな字で並んでいる。場所は福岡市博多区博多駅前四丁目、白浜第三ビルの三階となっている。
 天神が福岡の商業圏の中心地なら、博多駅周辺は九州最大のビジネス街だ。
 用がないのでそれほど足を運ぶわけじゃないけれど、あの辺りはこの時間ならすっかり静まり返っているはずだった。
 もちろんそこに何かがあるという当てがあるわけじゃなかった。
 ただ今なら間違いなく主は留守なので、様子を伺っておくには都合がいいと思ったのだ。
 名刺をしまってから三村のケイタイを鳴らしてみた。
 相手はドライブ・モードになっていた。
 電話を取れないからといってキチンと切り替えるところが彼女らしかった。アタシは必要なときはハンズフリー・キットを使うけれど、基本的には留守番電話に切り替わるのに任せたままだ。
 留守番電話に「また電話する」と吹き込んでから梅野に電話をかけた。こちらは一コール目が終わらないうちに繋がった。
「ハイッ、梅野っす!!」
 深夜だと言うのに梅野のテンションは異様に高かった。
 アタシは由真の自宅を訪れたことや、敬聖会の関係者(熊谷のことだ)と会った話をした。梅野はそれを大げさな相槌を挟みながら聞いていた。
「すいません、連絡貰ったのに遅くなっちゃって」
「それはいいんすけど、ホントに無事なんすよね?」
 まるでアタシが殴り込みにでも行ったような言い草だった。身の危険を感じるようなことは何もなかったけど、と思いながらアタシは苦笑した。
「大丈夫ですってば。詳しいことは会ったときに話します。それより何が判ったんですか?」
「あ、そうだ。えーと、ちょっと待ってください」
 電話の向こうで紙の束を取り出すようなバサバサという音がした。
「あった、あった。いいっすか、まずディスクに入ってたファイルの件。やっぱり電子カルテでした。今、手元にプリントアウトしたものがあるんすけど――」
「ちょっと待ってください。カルテの形には出来ないって言ってませんでしたか?」
「それが出来たんすよ。実はそれに例の高橋とかいう男が絡んでるんっすけど、話がややこしくなるんでそれは後で」
 アタシは分かったと答えた。
「で、カルテはやっぱり同じ患者のものっすね。クラハシカツミという爺さんっす」
「クラハシ?」
「どうやら例の投薬ミスで死んだ人みたいっすね。カルテの最後の方に、そこら辺のことが書いてありましたから」
「なるほど。それで?」
「カルテには細かい相違点はいろいろありましたが、重要と思われるのはただ一ヶ所。担当医の名前が違うんすよね」
 梅野は小さく咳払いした。
「一つのカルテは死んでしまった村松俊二。で、もう一つは徳永祐輔という男っすね。敬聖会のホームページに顔写真つきで出てましたよ。徳永一族の御曹司。本院の外科副部長にして敬聖会の理事」
 脳裏にさっきの徳永麻子と祐輔のやり取りが甦っていた。
 ――やはり、そういうことか。

「そんな肩書きなんですね」
「ええ。……でも、つまりこの男って、真奈さんのお友達のお兄さんってことっすよね?」
 気を使ったような口調だった。アタシはそうだと答えた。

「――真奈さん、聞いてます?」
 梅野が言った。
 二つのカルテの細かい違いについて説明してくれていたようだった。申し訳ないけどまったく頭に入ってきていなかった。
「え、ええ。聞いてますよ」
「大丈夫っすか? 何かずいぶん疲れてるみたいっすけど」
 声の感じからして、アタシが聞いてなかったことはバレていないようだった。
「すいません、心配かけちゃって」
「友達のことが気懸かりなのは分かりますけど、今日は早く帰って休んだ方がいいっすよ」
 梅野がアタシの体を気遣ってくれているのは素直に嬉しかった。
 徳永邸では危うく倒れかけたりもしたのだし、本当に倒れる前にそうするべきなのは分かっていた。がむしゃらに突っ走ったところで得るものはないことも分かっていた。
 アタシが衝き動かしているのは、様々な事実関係が見えてきた今になっても自分と由真との間の距離が縮まっているという実感がないことへの焦りだった。

 とても帰って眠る気にはなれなかった。
 アタシは梅野に「そろそろ帰って休む」と嘘をついた。自分に好意を寄せてくれる相手に心配をかけたくはなかったからだ。
「最後に一つだけ。高橋について判ったことって何なんですか?」
「ああ、そのことっすか。実は俺がコンピュータのことで分かんないことがあるときに頼りにしてる人がいるんすよ。ちなみに真奈さんも知ってる人っすけど。芳野さん」
 聞き覚えのない名前だった。
「誰ですか、それ?」
「真奈さん、自分の学校の先生の名前くらい覚えときましょうよ」
「……えっ?」
 そう言えばそんな名前の理科(確か、専門は地学だったはずだ)がいた。
 今どき珍しく一年中白衣で通していて、まだ若いのに”化石”なるあだ名をつけられている。メガネに猫背という格好といかにも粘着質っぽい眼差しのせいで大半の生徒からは気持ち悪がられているけど、授業自体は分かりやすくて学校での評価は高いらしい。地学の授業をまともに聞いている生徒がどれくらいいるかは疑問だけれど。
 そういえば由真と二人で理科準備室にプリントを取りに行ったときに、芳野の机に発売されたばかりの最新型のデスクトップと周辺機器が鎮座していたのを思い出した。由真が何やら興奮気味に騒いでいたのだ。アタシはまるで興味はなかったけど。
「ひょっとしてアタシの名前、出したりしてませんよね?」
 アタシは訊いた。
「もちろんっす。で、芳野さんと話してたらその高橋拓哉のことが出てきて。ビックリっすよ。しかも高橋が吉野さんに「電子カルテ用のビューアーソフトが手に入らないか?」なんて相談してたって言うんだから、更に驚きでしょ?」
「手に入ったんですか?」
 訊いてから自分の頭の悪さを痛感した。入手できたからこそ梅野はカルテの内容を知らせてくれているのだ。
「システムを作ったのが地元の会社だったんで、コネで何とかしたそうっすけどね」
 考えてみれば由真と高橋拓哉がカルテのデータを持ち出したとしても、見る方法がなければそれが狙っていたものかどうか確認する方法がない。まさかソフトの入ったコンピュータごと持ち出すわけにもいかないだろう。彼らがビューアーソフトを求めたのは当然のことだった。
 株式会社タカハシが荒らされたのもその辺りに理由があるのかもしれない。カルテの内容を第三者に見られる危険性を増やすビューアーソフトの存在は目障り以外の何者でもないからだ。
「じゃあ、明日にでもプリント持っていきますから。何か手伝えることがあったら言ってくださいよ」
 梅野は最後まで心配そうな口ぶりだった。アタシはお礼とおやすみを言って電話を切った。

 考えれば考えるほど全てが敬聖会の――すなわち徳永家の仕業に思えてくる。
 徳永祐輔は治療中の”インターンでもやらないような”投薬ミスでクラハシという老人を死なせてしまった。
 本来なら然るべき筋に届け出た上でキチンと刑事/民事の両方の償いをするべきところだ。しかし徳永夫妻は息子の医師としての経歴に致命的なキズがつくことを恐れ、事実を隠蔽することを選んだ。
 折りしも敬聖会には業者との癒着を疑われている男がいた。
 多分、病院側と村松医師の間で取引があったのだろう。カルテの担当医の名前は書き換えられて徳永祐輔は患者の死亡の責任と医師としての将来を放棄することを免れた。一方、村松俊二は医師としての経歴には大きなキズがつくものの背任罪による刑事告訴と損害賠償を免れることが出来る。
 もちろん被害者はまったく浮かばれないし、そもそもそんなイージーミスをしでかす医者を野放しにしていいのかという社会的な問題はあるけれど、加害者たちにとってはそれで話は丸く収まる予定だったのだろう。
 村松医師が殺されなければならないような事態が起こらなければ。
 しかし何らかの理由で村松医師は殺害されて心筋梗塞によって死亡したとされてしまった。これには偽の死亡診断書が必要なはずだから医師が隠蔽に関わっていることは間違いない。
 敬聖会は死んだ村松俊二に全ての責任を被せて、金銭的な補償を約束することで事態を沈静化しようとした。目論見は成功し、村松の死によってある意味では後顧の憂いを断った形にもなった。
 多額の出費や病院の信用低下は最初から織り込み済みだったのだからそれも問題ではなかっただろう。
 事の是非はともかく関係者たちにとっては事件は決着したはずだった。
 由真が二つのカルテと村松俊二殺害の証拠となり得る画像データを持ち出すまでは。

 タクシーは国体道路を通って天神へ、そして渡辺通りを渡って中洲に差し掛かっていた。
 福岡の中心部、天神から中洲辺りは大雑把に言えば渡辺通りが天神を南北に貫いていて、それと交差するように那の津通りや昭和通り、国体道路が東西に走っている。国体道路は福岡城跡あたりから博多駅前の大博通りまでを繋いでいて、それが中洲の南新地の前を横断している。
 キャナルシティ博多にも近くて昼夜を問わず交通量は多い。アタシが遊び歩いていた去年ぐらいまでは地下鉄三号線の工事もやってたので、渋滞はひょっとしたら市内でも一、二を争うくらいだったかも知れない。
 それに比べれば車の流れはスムーズだった。
 週末と言ってもお盆前日の夜ということもあるのだろう。道端を歩く酔客も心持ち少ないような気がする。一昔前の親不孝通りや最近の大名・赤坂周辺と違ってもともと若い客が多い地域ではないので、夏休みだから人が増えるということもないらしい。
 アタシは予定を変えて、春吉橋に差し掛かるちょっと手前で降ろしてもらった。
 料金を払うときに運転手のオジサンに何か言いたそうな顔をされたけど、結局何も言われなかった。アタシの父親くらいの年齢で、おそらくアタシと同じくらいの子供がいるのだろう。そんな感じの眼差しだった。
 夜の街は以前と同じように、刺激的な魅力と何とも言えない暗さを併せ持っていた。

 川縁に立ち並ぶビルの屋上には名物の煌々と輝く巨大なネオン看板が並んでいて、その灯りが那珂川の水面に映り込んでいる。
 由真に諭されて学校に戻ってからは、あまり夜の街に遊びには来なくなっていた。

 バイトで街に出てきても終わったら真っ直ぐ家に帰るので、こんな時刻に一人で街に立っているのは本当に久しぶりだった。
 ここから南新地の縁をかすめるようにキャナルシティまで続く遊歩道に、福岡名物の屋台が整然と並んで営業しているのが見えた。

 どの店も狭い店内に客がひしめいていた。ちょうど今ぐらいが一番忙しい時間帯なのだろう。アタシも何か食べたい誘惑に駆られたけど、深夜のB級グルメツアーにきたわけじゃなかった。
 時間を考えれば道草を食っている場合ではなかったけれど、どうしてもちょっと寄りたい所があったのだ。

 中洲によってほんの二キロ弱ほど二つに分断される那珂川には、川端商店街との間を流れる狭いほうの部分にだけ博多川という別の名前がある。
 アタシの目当てはその博多川沿いの小さな雑居ビルの地下にあるピアニッシモというバーだった。
 いくらアタシが隠れ酒豪だと言ってもバーでグラスを傾けるほどではないし、第一、ガキにそんなことを許すような店じゃなかった。
 ここのマスターが酔っ払って威勢のよくなったヒップホップ風の格好をしたニイチャンたち(こういうのをB系というらしいけど、アタシにはよく分からない)に絡まれていたのを助けたことがあるのだ。
 アタシは別に中洲でガーディアン・エンジェルズの真似事をしていたわけじゃなくて、良心が咎めることなく誰かをぶん殴れるのなら相手は誰でも良かった。

 そのときも何事もなかったように立ち去ろうとしたのだけれど、ちょっと拳にケガをしてしまっていたアタシをマスターは半ば強引に店に連れて行って手当てしてくれたのだ。
 それ以来、アタシは行くところがなくなったときやケンカで昂った気持ちを落ち着かせるために、このバーのキッチンに(店内はさすがにマズイので)入り浸るようになったというわけだ。
 本気で営業する気があるのか疑わしい古びたネオン看板をくぐって、一人しか通れない狭い階段を下りた。
 重いオーク材のドアを開けるとカウベルの軽やかな音が店内に響いた。
 かなり年季の入ったカウンターにスツールが八席と壁際のボックス席が二つだけの狭い店。客は誰もいなかった。控えめな間接照明とバック・バーを背にして立っているマスターを照らすピンスポットが灯りの全てだった。
「――おや、珍しいお客さんだね」
 マスターが顔を上げた。
 削り過ぎた木彫りの人形のようなガリガリの体躯。白髪をピッチリと撫で付けていて鼻の下に申し訳程度の髭を蓄えている。目許には年輪のように深いしわが刻まれていて、笑うと目がその中に埋もれてしまいそうだった。
 ウイングカラーのシャツとメスジャケットが誂えたように体に馴染んでいた。真夏でもヴェストにせずにバーテンダーの正装なのは彼独特のポリシーでもあるし、客に合わせて強めに効かせている空調がマスターの細い体には堪えるからでもあった。
 アタシはマスターの向かいに立った。
「こんばんわ。相変わらずお客さんがいないのね」
「そりゃそうさ。ウチの常連さんは盆に外を出歩いたりしないからね。一人だけ店を開けた直後に、ほとんど毎日欠かさずにラフロイグを飲みにくるヤツがいるが」
「今日も来たの、その人?」
「ああ。でも、もうとっくに帰っちまったよ」
「新しい常連を見つけたほうがいいんじゃないの? 外の看板を替えるだけでも効果あると思うんだけどな」
「考えておくよ。――座りなよ。何か作ってあげよう」
「いいの?」
「今日は店じまいするつもりだったからね。何が飲みたい?」
「スクリュー・ドライバー」
 マスターはジロリとアタシを見て、口許に笑みを浮かべた。
「いつものヤツだね?」
 アタシは頷いた。マスターは奥のキッチンに引っ込んで冷蔵庫からバヤリースの缶を持ってきた。
 当然のことではあるけれどマスターは(少なくともこの店の中では)アタシがアルコールを飲むことを許してくれない。しかしその唯一の例外がこのスクリュー・ドライバーだった。ただしウォッカはほんの少ししか入っていないけれど。
 いつだったか、アタシが何か飲ませろとしつこく要求したところ、根負けしたマスターが何かカクテルに関する薀蓄が言えたらそれを飲ませてやると言い出した。
 マスターとしてはまさかただの喧嘩っ早い不良少女にそんな知識があるとは思っていなかったのだろう。ところが、アタシの父親はやたらとそういうことに詳しくて、アタシもいくつかはその受け売りの知識があったのだ。
 アタシはスクリュー・ドライバーの名前の由来の薀蓄(第二次大戦後、進駐軍が持ってきたウォッカとバヤリース・オレンジを螺旋回し(スクリュー・ドライバー)で掻き混ぜたことからその名がついた。よってバヤリースを使うのが本当のレシピで、通常出されるフレッシュ・オレンジジュースを使ったものはウォッカ・オレンジ)を披露して、晴れてこの店でスクリュー・ドライバーを飲む権利を獲得したというわけだ。

 アルコールを極限まで減らしたのはマスターのささやかな抵抗と言ったところだけれど、アタシとしては水とブラッディ・メアリー用のトマトジュース以外のものが飲めればそれでよかったので異存はなかった。
 それからというもの、バヤリースはいつもこの店の冷蔵庫に常備されるようになっていた。
「ねぇ、それってアタシ用?」
「そうだよ。誰が好き好んでこんな甘ったるいカクテル、飲むもんかね。いつ真奈が来てもいいように、ちゃんと準備してあるんだよ」
「嘘つき。ただ入れっぱなしにしていただけでしょ」
 マスターは舌先を出しておどけて見せた。
 大振りのタンブラーにバヤリースとウォッカが少し(多分、メジャーカップ半分くらい)注がれた。さすがにドライバーは置いていないのでマドラーでステアすると、注文のスクリュー・ドライバーが出来上がった。
 コルクのコースターの上にグラスを置いてマスターは恭しく頭を下げた。
 アタシがカクテルを味わっている間にマスターはオーディオのスイッチを入れた。
 囁くような音量で流れ始めたのはビル・エヴァンスの「ヒアズ・ザット・レイニー・デイ」だった。途中で何度もメロディが変わる曲で、雨の日の移ろいやすい気分を感じさせてくれる。
 マスターはアタシの近況を尋ね、アタシはそれにポツリポツリと答えた。
 この店に最後に来たのは去年のクリスマス・イブで、それ以降のことで報告するべきことといえば何とか無事に進級したことくらいだった。友達は出来たのかという問いには由真のことをかいつまんで話すにとどめた。
 マスターはただでさえ細い目を更に細めてアタシの話を聞いていた。

 アタシはこの人のフルネームも知らなければ、何処に住んでいるのかも知らなかった。知る機会がなかったわけじゃないけれど、何となく、それはどうでもいいことのような気がしていたからだ。
 マスターは客足が途絶えると、いつも軽口を交えながらアタシの話を聞いてくれた。

 説教じみたことは言わなかったけれど、アタシが自棄になっているときには叱ってくれたし、へこんでいるときには励ましてくれた。
 アタシが夜の街で本当にどうしようもないところまで堕ちていかなかったのは、由真以外にもう一人、アタシを理解してくれるこの人がいたからだ。
 アタシは自分が唐突にここに来たくなった理由を理解した。

 事件のこと。由真のこと。アタシの心に圧し掛かってくる不安や焦り。思いもかけなかった自分のひ弱さ。そういったことを誰かにぶちまけたかったのだ。
 しかしまだ推測に過ぎないことも多いし、事件そのものがおいそれと誰かに口外するようなことではなかった。
 黙ってスクリュー・ドライバーを飲み終えて、アタシはスツールを降りた。
 代金は払わなかった。子供からカネを取るつもりはないのだそうで、アタシが財布を出す素振りを見せただけでもマスターは不機嫌になるからだ。
「じゃあ、ご馳走様。また時間のあるときに出てくるね」
「ああ。――気をつけるんだよ」
 アタシはドアの前で振り返った。
「何が?」
「さぁね。長年のバーテンダーの勘ってヤツだよ。何処かで鏡を見たほうがいい。女の子にこう言っちゃなんだが、お前さんひどい顔をしてるよ。まるで母親とはぐれて途方にくれてる子供みたいだ」
「……当たってるかも」
 マスターが手招きして、アタシはカウンターまで戻ってスツールに座り直した。カウンター越しに視線を合わせると、張り詰めていた気持ちが急に緩んで涙がこぼれてきた。
 
 ――由真のヤツ、いったい何処にいるんだ。
 
 マスターがタオルを放った。それはアタシの顔に当たってちょっとの間だけ胸のところで蟠ってから、ゆっくりとカウンターの上に落ちた。
「顔、洗っておいで。その間にコーヒー淹れといてあげるから」
 アタシは言われたとおりにした。


 普段あまり泣かないせいか、アタシはちょっと泣いただけで目の周りが真っ赤になってしまう。
 洗面台の鏡で自分の顔をじっくり眺めた。
 マスターの言ったとおり、頬の辺りに憔悴したような翳が出来ていた。
 道場の合宿でしっかり陽に灼けたおかげで顔色が悪いのは目立たなかったけれど唇の色があまり良くなかった。髪は出かける前にしっかり梳かしたのにいつもと同じように無造作な感じに戻っていた。
 水道水で顔をしっかりと洗ってタオルで丁寧に水滴を拭った。
 口紅など持ち合わせていないので、バッグの底に入れっぱなしにしていたリップクリームを丁寧に塗った。手櫛で髪を直すと多少はマシになったような気がした。
 トイレを出ると、カウンターにジョン・コルトレーンの肖像画が描かれた白いマグカップが置いてあった。
「待ってなよ。すぐに淹れるから」
 マスターはガスレンジの火を止めた。細長い口のついたケトルの取っ手を濡れた布巾で掴んだ。

 ケトルを何度も回して中のアルミの焼けた部分に湯が当たるジュウッという音を立てるのが、コーヒーを淹れるときの彼の儀式だ。三十センチくらいの高さから細く湯をドリッパーに落として十分な量を注いでから、芝居がかった仕草で湯を切った。豆が十分に蒸らされて香りが立ち始めているのがカウンター越しにも感じられた。
 マスターは残った湯で暖めていたカップを空けてガラスのポットからコーヒーを注いだ。
「どうぞ、お姫様」
「ありがと」
 コーヒーは心の刺々しさをなだめるように香り高くて、目が覚めるように思いっきり苦かった。
 アタシはコーヒーを啜りながら事の経緯を話した。マスターは口を差し挟むことなく黙って聞いてくれた。
 泣いたことで感情的な昂りは去っていて想いをぶちまけるような調子にはならなかったけど、アタシは胸につっかえていたものが軽くなるのを感じていた。何の解決にもならなくてもとりあえず誰かに話しただけで気が楽になることもあるのだ。
「残念だけど、役に立ちそうなことは何も知らないな」
 マスターは申し訳なさそうに言った。
「いいよ、そんなこと。話を聞いてくれただけで十分。ありがとね」
「行くのかい?」
「うん。思ってたより時間を潰しちゃったから。ひょっとしたら熊谷が事務所に戻ってるかもしれないけど、その時はその時ってことで」
「危ないマネは止めてくれよ」
「大丈夫だって。アタシが意外と臆病だって、話を聞いてて分かったでしょ?」
「怖いものを素直に怖いっていうことは、臆病であることとは違うよ。大切な誰かのためにそれに立ち向かえるお前さんは、決して臆病者なんかじゃない」
 マスターは穏やかな微笑を浮かべて言った。
「……ありがと」
「どういたしまして」
 ケイタイの時計は十二時半になっていた。アタシは再びスツールから降りた。
「マスター、ご馳走様でした」
「いってらっしゃいませ」
 マスターはおそらく何十年も繰り返してきた滑らかな動作で恭しく頭を下げて、アタシを送り出した。







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