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砕ける月

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  第 43 章  

 すぐに行くと言って電話を切ったときには、アタシはすでに走り出していた。
 赤に変わった歩行者信号を突っ切って、ガラパゴスの入ったテナントビルの入り口に駆け込んだ。
 エレベータを待つのももどかしくて、アタシはミニスカートを履いていることも忘れて階段を二段飛ばしで駆け上がった。
 ガラパゴスと同じフロアには別のスナックが二軒入っていたけれど、どちらも休業中だった。入り口の脇に置かれた荷物の様子から見るとそうなってから結構な時間がたっているようだった。
 マホガニー材の色合いを模した合板のドアを開けると梅野の背中が目に入った。
 振り返った顔はまるで幽霊でも見たかのように青ざめていた。

「大丈夫ですか、梅野さん?」
 アタシは言った。自分でも驚くほど落ち着いた声だった。梅野はバネ仕掛けの首振り人形のように頷くだけだった。
 男のくせに情けないと罵るのは酷というものだろう。どれだけ威勢のいいことを言っていても土壇場で度胸が据わっているのは女のほうだ、とアタシの父親も言っていた。
 もちろんアタシだって死体を見るのは怖い。まったく自慢にはならないけどスプラッターは死ぬほど苦手なのだから。
 それでもアタシが落ち着きを保っていられたのは、梅野があまりにもビビっているせいでアタシのほうが毒気を抜かれていたからだし、更に言うならそこで人が死んでいるということに、まだ現実的なものを感じられなかったからだった。
 出来損ないのマネキンのように棒立ちの梅野を避けて、アタシは店の中に入った。
 蛍光灯の煌々とした明かりに照らされた店内は、乾いて崩れた漆喰の壁を連想させる荒れ具合だった。
 十坪ほどの手狭な店内の中央にはもともとあった家具や什器――安っぽい光沢の真っ赤なソファやガラステーブルなど――を除けて作ったスペースがあった。そこに一つだけ残された二人掛けのソファと背もたれのない箱型のソファの幾つかが、ここの住人のための数少ない家具といってよかった。
 バー・カウンターの上には家電量販店で安売りしていそうな十四型のテレビが置いてあって、それにプレイ・ステーションが繋がっている。カラオケの機械や天井から吊られたスピーカーは埃だらけで、もし曲を配信する回線が繋がっていたとしてもまともな音は出そうになかった。
 そんな店の真ん中に男が倒れていた。
 額をパックリと割られて顔面の半分以上が赤黒い血に染まっていた。殴られたのは額だけではなくて側頭部にも大きな瘤が出来ている。白目を剥いて口角からは泡のようなものがだらしなく垂れている。体中からぐったりと力が抜けていて、放っておいたらそのまま溶けて形がなくなってしまいそうだった。
 アタシは恐る恐る男の顔を覗き込んだ。苦痛に醜く歪んではいるけれどその坊ちゃん面は間違いなく徳永祐輔のものだった。
 次の瞬間、アタシは体中から力が抜けていくような感覚に襲われた。
 アタシは梅野を振り返った。
「――梅野さん、この人の脈、採ってみました?」
「ヘッ!?」
 梅野の声はいよいよ裏返り始めていた。
「そそそそそんな、そんなこと出来っこないっすよ。そんな、死体に触るなんて」
「じゃ、どうしてこの人が死んでるって分かったんです?」
「だって、どう見たって死んでるじゃないっすか、そいつ。――え、まさか?」
「そのまさか」
 アタシは祐輔の顎の下に触れて、そのままゆっくりと指先を首筋まで滑らせた。頚動脈には命の兆候がはっきりと感じられたし、胸も微かに上下していた。
「――生きてるんすか?」
「とりあえずは。大怪我には違いないですけどね」
 アタシはシザーバッグに押し込んだハンドタオルを引っ張り出した。この場にある布は衛生的にはまったく使い物にはなりそうになかった。
 バツの悪い顔をした梅野がバーカウンターにタオルを濡らしに行っている間に、アタシは指の背で祐輔の頬を軽く叩いた。その程度では反応はなかった。
 近くの床に血のついたごついクリスタルの灰皿が転がっていた。どうやらそれが凶器のようだった。アタシは少し考えて、それを少しでも汚れの少ないタオルで包んだ。
 梅野から濡れタオルを受け取って傷口の周りを拭いた。血は半ば乾いていて出血自体もほとんど止まっていた。その代わりといっては何だけれど、額は青黒く変色し始めていた。
 直ちに救急車を呼ぶべきだった。自発呼吸があるので即座に死亡することはないだろうけれど、凶器が凶器だけに頭蓋骨骨折や脳挫傷の可能性は否定出来ない。
 警察も呼ばなくてはならないだろう。そうすればこの店も家宅捜索されて、関わりのある熊谷たちにも捜査の手が伸びる。
 すべてが芋づる式に引っ張り出されれば由真も見つかるかもしれない。そもそもアタシの目的は由真を連れ戻すことで、熊谷たちの企みを暴くことでも徳永麻子を殺人犯として告発することでもない。警察が介入したってアタシは何も困らない。
 そこまで考えたとき、アタシの中で何かがカチリと音を立てた。
 だったら、何故、祐輔はこの場所で殴られた?
 ここで事件が起こればガラパゴスに出入りする面々に疑いがかかるのはどうやっても避けられない。だとしたら少なくとも熊谷や大沢たちはこの場では凶行には及ばないはずだ。クリスタルの灰皿で頭をぶん殴るのは明らかに殺意を持って行われる行為で、口を割らせるために微妙な手加減を加えながら殴る蹴るの暴行を加えるのとは違う。
 仮に彼らの犯行だとしても、それなら祐輔を放置したままにはしないはずだ。幸いにも祐輔は死んでないけれど、このまま放置されていればどうなったか分からない。いくら弱みを握っていても徳永夫妻が息子の死亡診断書を偽造することはあり得なかった。
 だとしたら、一体誰が――?

 筑紫通りを挟んだ向かい側、徳永祐輔のBMWのそばに立ったまま、アタシはテナントビルの入口に横付けされたパトカーの赤色灯を遠目に眺めていた。
 野次馬がその場所を遠巻きに囲んでいて、通りすがりの酔客がそこに引き寄せられては離れていくのが見えた。
 あの場で祐輔のためにアタシに出来たことは一刻も早く救急車を呼ぶことだけだった。
 アタシはガラパゴスの電話で一一〇番に通報した。まっすぐ一一九番にかけなかったのは救急車の出動要請は場所や患者の容態の説明などで意外と時間がかかるのと、こっちの言いたいことだけ言って切るのが難しいからだ。
 その点、警察は受付係の言うことを無視してケガ人の存在だけ教えてやれば、あとは勝手に電話番号の登録情報から(たとえ公衆電話であっても)場所を割り出して来てくれる。不良少女時代に何度か、付き添ってやることは出来ないけど放ってはおけないケガ人をその方法で病院に送ったことがあるのだ。
 間髪いれずにかかってくるコールバックは無視するかコードを引き抜けばすむことだった。
 パトカーが来たのはアタシと梅野が何食わぬ顔でビルを出て横断歩道を渡りきったときだった。
「いいんすか、これで?」
 梅野は不安そうな表情だった。
「しょうがないですよ。アタシだって心配ですけど、警察が来たときにあそこにいた理由が説明できないですもん」
「まあ、そりゃそうなんすけど。でも、疑われたりしないっすかね」
「大丈夫でしょ。指紋は拭いたし、何も残してきてないから」
 アタシと梅野は電話をかける前に手を触れたところをタオルで拭っていた。殺人事件ならともかく傷害で現場の指紋採取をやるとは思えなかったけど、用心に越したことはなかった。
 ちなみにもし指紋採取をやられたら二人とも一発で身元が割れてしまう。アタシはケンカで補導された際に十指指紋はおろか、掌紋まで採られているからだ。逮捕歴のある梅野は言うまでもない。
 もっとも該当するところはそれほど多くはなかった。祐輔の額を割ったクリスタルの灰皿には、タオル越しにしか手を触れていないので問題はなかった。
 それからも三分もしないうちに、救急車がけたたましいサイレンを鳴らして到着した。
 アタシは安堵のため息をついた。
 もちろん祐輔のケガが頭部で予断を許さない以上、安心するのはまだ早かった。それでもあのまま放置されているよりは何十倍もマシなはずだ。
「そろそろ行きましょうか、真奈さん」
 梅野が言った。エリミネーターを停めた駅裏のほうへ歩き出していた。
「あ、うん……そうですね」
 出来れば救急車が祐輔を乗せて走り出すところまで見ていきたかった。
 しかし、アタシは一刻も早くこの場を離れてこの服から着替える必要があった。アタシはこの目立つ格好で現場近くをウロウロしていたし、梅野の知らせを聞いてビルに駆け込むところは確実に通行人や近くの住人に見られているはずだ。
 アタシは踵を返して小走りで梅野の横に並んだ。
 本当なら来たときと同じようにカップルっぽく見えるように腕でも組んで歩くべきなのだろう。男女が並んで深刻な顔をして歩いている図は盛り場にはそぐわないし、変に誰かの印象に残るかもしれないしれないからだ。
 でも、とてもそんな気分にはなれなかった。


 天神で一度、梅野と別れた。
 駅のコインロッカーから放り込んであった荷物を回収して、トイレでTシャツとジーンズといういつもの格好に着替えた。途中のドラッグストアで買ったメイク落としのコットンで顔を念入りに拭うと、アタシは暑苦しい服を脱いでしまったような開放感に満たされた。
 時計は十一時を回っていた。
 警固公園の噴水の近くのベンチに腰を下ろした。蒸し暑い夜気が辺りに充満していて、じっとしていても額に汗がにじんでくる。街灯の白い明かりの中にポツポツと人影が見える。今泉や大名のほうからは終電に間に合うように公園をショートカットする連中が小走りに駆けてきている。
 思えばここで由真と高橋の逢瀬に出くわしたのがすべての始まりだった。
 あの日、二人は久留米の熊谷の実家に”オリジナル”の回収のための下見に行ってから、夕方には福岡に戻ってきてここで待ち合わせていた。その後、二人は呆然としているアタシを残して夜の街に消えていった。
 おそらくそれから二人は熊谷の事務所に侵入して、電子カルテと村松医師の死体の画像データの入ったMOと熊谷にとって”表沙汰に出来ないファイル”の入ったMOを盗み出している。
「――あれっ?」
 アタシは思わず呟いた。
 順番がおかしくないだろうか。
 あの時、先に来て待っていたのは高橋のほうだ。由真は遅れてやってきた。そして彼女は自分のバッグからMOディスク(はっきり断定は出来ないけど)を取り出して高橋に見せている。アタシに見せたことのないひどく深刻な表情で。
 つまり、あの時点で由真はMOディスクを手に入れていたことになる。
 普段からちょくちょく出入りしていた由真にとっては、熊谷の事務所に侵入するのは容易なことだったはずだ。だとすれば高橋を連れて行かなくても独りでディスクを盗み出すことは出来たことになる。更に言うならディスクを盗み出したのは当日ではなくてもっと以前だったかもしれない。
 それはそれでもいい。

 問題は高橋が熊谷総合企画への不法侵入及び窃盗に関わっていないことだ。
 そうであるならば、二人が防犯カメラに映っていたことから高橋の存在を把握したという熊谷の話は、例によってアタシを言いくるめるためのウソの一環だったことになる。
 作り話もここまで徹底していると腹が立つよりもむしろ感心してしまうけれど、とりあえずそれも良しとしよう。
 ただ、侵入の現場を押さえたのでなければ、どうやって熊谷は高橋の存在を把握したのだろうか。
 高橋の存在を隠すことは由真にとっては言ってみれば生命線だったはずだ。
 取り引きの材料となり得る大切なもの――カルテのデータと画像ファイル、告発書もそうだ――を持たせていたことから考えても、ブログに書いてあった高橋に対する心情から考えても、由真には高橋を交渉の場に出すつもりはなかっただろう。
 もちろん、元警官で今は興信所をやっている彼らにかかればいずれは調べ出されていたに違いない。
 しかし、由真が脅迫メールを送りつけたのが八月九日の夕方。高橋拓哉はその翌日の夜には拘束されている。それはいくら何でも早すぎる。
 二人の拘束された順番も気になった。
 高橋が久住賢治に最後に連絡をとったのは十日の深夜、正確には十一日の午前零時半前後。由真がファミレスの駐車場でワンボックスに乗せられたのは同じく十一日の午前二時半前後だ。
 由真がおとなしく拘束されたのは、先に高橋が熊谷たちの手に落ちていたからだと考えるほうが筋が通っているし、それは間違いないと思うのだけれど、そのためには何らかの方法で高橋の存在が知れていなくてはならなかった。
 由真は高橋と付き合っていることをアタシにさえ内緒にしていた。彼女の周囲に事前に高橋の存在を知っている人間がいたとは思えない。いるとすれば高橋とも共通の知り合い――ウチの学校の猫背の地学教師くらいだけど、熊谷が芳野の存在を知っている可能性は高橋のそれよりもさらに低い。
 だとすれば、どうやって熊谷は高橋のことを知ったのか。
 考えられる可能性は一つだけあった。あまり信じたくはなかったけど。
 高橋のほうから熊谷に接触した可能性だ。


 ケイタイに電話をかけると、河村靖子はアルバイト先の親不孝通りのスナックにいると言った。
 アタシは細かいことは話せないけどと前置きしてから、祐輔が何者かに灰皿で頭をぶん殴られて救急車で運ばれたことを教えた。
 意識はなかったもののとりあえず自発呼吸があったことを話すと、彼女は少し落ち着いた様子だった。
「――何処の病院に運ばれたの?」
 靖子が言った。気丈な物言いだけれど語尾は擦れていた。
「いや、そこまではちょっと……。現場は雑餉隈ですから、あの辺りの救急病院じゃないかと思うんですけど」
「そうね。でも、頭だったら専門のところに運ばれてるかもしれないわね」
「心当たりはありますか?」
「いくつかは。――いいわ、調べてみる」
 分かったら教えて欲しいと頼むと、彼女は了解してくれた。
 それからアタシは彼女に幾つか口裏を合わせてくれるように頼んだ。怪訝な表情をしていることが電波を介して伝わってくるような沈黙の後、彼女は分かったと言った。
「何にせよ、あなたは祐輔を助けてくれたんだものね。それくらいは引き受けるわ」
「アタシは警察を呼んだだけです。何もしちゃいませんよ」
「人がお礼を言ってるのに、どうしてあなたってそう素直じゃないの?」
 靖子は不満そうに言ってから、クスッと笑った。
「じゃ、あたしは病院に問い合わせるから。切るわね」
「よろしく」
 通話を切ってメモリから熊谷のケイタイの番号を呼び出した。七コール目で繋がった。
「――もしもし?」
 戸惑いを隠すためにわざとそうしているような鷹揚な話し方だった。
「あ、榊原です。夜分にすいません。ちょっと伺いたいことがあったんで」
「何だい?」
「祐輔さんの入院先なんですけど」
「入院?」
「ええ。――聞かれてないですか?」
「あ、ああ。初耳だな。どうしたんだ、一体?」
「詳しいことは分かんないんですけど、頭を鈍器で殴られて気を失ってたそうです。雑餉隈の潰れたスナックで」
 電波が途切れたんじゃないかと思うような沈黙が走った。
「……それはそれは。何をやってるんだ、彼は。……で、君はどうしてそれを?」
「アタシ、祐輔さんの恋人と知り合いなんですよ。その人から聞きました。河村さんっていう敬聖会の職員の人ですけど」
「その女性は知らんが……。状況が良く飲み込めないんだが、祐輔君は病院に運ばれたんだな?」
「だそうですよ。――何だ、熊谷さんに訊けば、入院先が分かると思ったのに」
「お役に立てなくて申し訳ないな。分かったら知らせたほうがいいかね?」
「いえ、だったら河村さんに聞きます。じゃ、失礼します」
 アタシは電話を切った。アタシの話には小さな無理がいくつもあったけれど、そこまでは気づかれなかったようだ。仮に気づかれてもその時のために河村靖子に口裏合わせを頼んであった。
 祐輔が殴られたことを熊谷は知らないようだった。
 大沢たちの独走だろうか。
 いや、それはないだろう。他の何処かならともかくガラパゴスでやったことなら、例え事後報告であっても熊谷の耳に入らないはずはない。
 そもそも祐輔はガラパゴスに何をしに行ったのだろうか。
 どうやってあそこを突き止めたかはともかく、由真がそこに監禁されていると考えた可能性はあった。しかし由真の姿はなく、代わりに何者かがガラスの灰皿で頭をどやしつけるという歓待をしてくれたというわけだ。
 アタシはそこまでで考えるのをやめた。これ以上はまだ仮定の話で考え始めればキリがない。
 いずれにせよ、ガラパゴスに警察が踏み込んだことで熊谷たちはそうゆっくりはしていられなくなる。アジトの一つが使えなくなってもすぐに影響はないだろうけど、電話の履歴や店の権利関係からいずれ警察は彼らにたどり着く。警察の介入が迫っているというプレッシャーは相当なものになるに違いない。
 もし祐輔が殴られたことに熊谷たちが関係ないのなら、彼らはおそらく現在抱えている問題の解決を急ぐだろう。これまでのように高橋の出方を待つようなことはしないはずだ。
 何としても熊谷たちよりも先に高橋と久住に接触する必要があった。アタシにはどうしても高橋に訊かなくてはならないことがあった。この事件を構成するパズルのピースのうち、まだ一つだけその輪郭すら分かっていないものがあるからだ。
 熊谷の実家に隠されていて、高橋によって盗み出された代物――”オリジナル”。








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