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砕ける月

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  第 54 章  

 愛宕の敬聖会病院に着いたときには午前二時を回っていた。
 救急外来用の入口から入ったせいで、ドゥカティ・モンスターは誰にも見咎められることなく駐輪場に滑り込んだ。
「ホントに行く気なの?」
 美幸は半ば呆れ顔で言った。そのくせ目は好奇心で輝いている。
 アタシが敬聖会の特別病棟に忍び込む(と言うか、殴り込む)つもりだと言うと、美幸は自分もついていくと言い出した。
 もちろんアタシは断ったのだけど、もし由真を抱えて逃げ出すようなことになったときに一人で彼女を運べるのかというもっともな理屈を持ち出されて、渋々ながら同行を受け入れざるを得なかったのだ。
「まあね。ウダウダ考えてたって仕方ないし」
「でも、もし捕まったら停学程度じゃ済まないよ」
「覚悟の上よ」
 停学程度で済めばとアタシは思った。待ち受けるのは警察すらも手を出せなかった裏社会の策士とその手下どもだ。しかもそのうち一人はバケモノのような強さの大男ときている。
 アタシは夜間外来用の入口から病院の本館に足を踏み入れた。
 昨日、追いかけてきた河村靖子と話したエントランス・ホールはこの時間でも空調が効いていた。こんなところにも病院特有のとしか表現しようのない、いろんな薬品や消毒液の入り混じった匂いが漂っている。洗いすぎた手のように清潔で、それでいて触れることを躊躇わずにいられない独特の雰囲気。
 人の気配もなく、あるのは非常口の誘導等の緑色の灯りと天窓から差し込む月明かりだけだった。
 周囲を見渡して警備員の姿がないことを確認してから、アタシは出来る限り足音を忍ばせてエントランス・ホールへ入った。
 アタシの目当てはここで見かけた敷地内の建物のジオラマだった。
 ガラスのケースに収められたそれは敬聖会病院がここへ移転してきた平成十四年の段階のものだった。
 縦に長い敷地のど真ん中を貫く通路の右手に外来棟と管理棟、その奥に二列縦隊で病棟が六つ。病棟の向こう側には研究センターと称する建物がある。それらはどれも渡り廊下で行き来出来るようになっている。白亜の外来棟以外はどれもハーフミラーを多用した箱型の黒っぽい建物で、模型を作るのは簡単だっただろうなと思った。
 通路の左手の大きく開けた部分は駐車場で、それは病棟の手前辺りで裏山へ上る斜面に遮られるまで続いている。この病院の敷地自体が小高い丘の中腹にあって、周囲はこういう斜面にぐるりと取り囲まれているのだ。
 目指す特別病棟はこのジオラマには入っていなかった。
「ない……ね?」
 いつの間にかアタシの隣で模型を見ていた美幸が言った。
 予想していないことではなかった。その目的からすればこんなところで存在をアピールしているはずはないからだ。
 それでも見ていればそれっぽいところは分かる。敷地の一番奥に手付かずの大きなスペースが空いていた。
 それは裏山へ上がっていく斜面の中腹で、病院側から見れば一段高くなった階段状の位置になる。広さは病棟一つ半くらいあって、造成すればこじんまりした建物と庭くらいなら充分に置けそうだった。
 おそらくここで間違いはないだろう。アタシは美幸を促してその場を離れた。

 ジオラマはおおむねよく出来ていて、実際に敷地内を歩いてみてもその雰囲気をよく再現しているように見えた。
 おかしいのは主に高さの縮尺で、敷地を取り囲む斜面の高さや傾斜はどこも模型の倍以上に高くて急だった。まあ、そのまま再現すれば見る人にかなり窮屈な印象を与えるだろうから、それは許される範囲の脚色なのかもしれないけど。
 同じ理屈で特別病棟が建っているところは、それ自体がちょっとした高台になっていた。
 ぐるりと背の高い生垣に囲まれていて下からでは中の様子を窺うことは出来ない。裏山からなら見下ろせるのだろうけど、うっそうとした木々が生い茂っているのに加えて敷地に接するところはわざと切り立った絶壁になっていて、そこから中を覗くのはなかなかの度胸を要求されそうだった。
 斜面を大きくうねりながら登っていく坂道をアタシはゆっくりと上っていった。
 もちろん、その様子はどこかにある監視カメラに映っているはずだった。しかし、とりあえず誰も出てくる気配はない。
 アタシがやっていることはどう言い訳しても不法侵入で、真っ当な施設の所有者なら警備員を派遣したり警察に通報するのが普通の対応だ。でも、それは熊谷たちにとっては逆にヤブヘビになりかねない。
 坂を上りきると正門のところから建物が見えてきた。
 御影石のようなタイルに覆われた三階建ての建物で、この時間では当然だけれど灯りはついていない。意外だったのは靖子の話ではいることになっている警備員の姿が見えないことだった。
 狭い前庭にはシルバーのメルセデスと白いバン、中型のバイクが停まっていた。
 アタシは門扉を乗り越えてクルマが停まっているところへ行った。
 メルセデスは熊谷のAMGだった。駐車区画は区切られているけれどそんなものは思いっきり無視して斜めに突っ込んである。
 驚いたのはその横に停められていたバイクが、梅野のエリミネーターだったことだ。
 おそらくキャラバンに乗っていなかった小宮が移動手段に使ったのだろう。見るとハンドルロックどころかカギも付けっぱなしだった。明らかに横倒しにした痕があってマフラーには大きな傷がついている。梅野も相当に荒っぽい運転をするし、決して丁寧に乗られていたバイクではないけれどこれを見たら怒り狂うことだろう。
 もう一台のバンはマツダ・ファミリアで、キャラバンと同じようにスモーク・フィルムが貼られている以外はどこにでもあるバンだった。
「……さて、どっちにしようかな」
 アタシは一人ごちた。
『――どうかしたの?』
 トランシーバーのインカムから美幸の声が聞こえた。
 美幸がバイク狂の父親(まあ、そうでなければ、校則に反して娘にドゥカティを買い与えたりはしないだろう)とツーリングに行くときに使っているもので、彼女の家から持ち出してきたものだった。
 美幸の同行を認めるにあたってアタシが出した条件は、彼女は外で待機して非常事態に備えるという役目を受け入れることだった。二人で一緒に侵入するのは単にリスクを二倍にするだけで何のメリットもないし、もちろん美幸を危険な目に遭わせるわけにはいかないからでもある。
 彼女はすんなりオーケーして、その代わりといって用意してくれたのがこのトランシーバーというわけだ。
 アタシは現在の状況と二台のクルマと梅野のバイクを見つけたことを話した。
『それって、ここにその熊谷って人がいるってことだよね?』
「まあ、そうよね」
『ってことは、それを通報すれば、警察はここへ入ってこれるってことよね?』
「熊谷の逮捕状が出ていればね」
 パスワードを知らせた時間からすればもう出ていてもおかしくないし、意外と荒っぽい(と父が言っていた)権藤課長がとりあえず重要参考人で引っ張るという決断をしているかも知れない。
 しかし警察が来ることは熊谷に全てが終わったことを知らせることでもあり、彼に最悪の選択をさせる後押しをすることに他ならない。もちろんそうすると決まったわけでもないのだけれど後になって後悔するのは御免だった。
 とは言っても連絡をしないわけにもいかなかった。
『で、どっちにするって何のことなの?』
「へっ? ああ、ペ・ヨンジュンとイ・ビョンホンの、どっちが話が分かるかなって」
『……何のこと?』
 彼女には意味の通らないことだけれど、アタシはちょっと笑った。
 こんなときに自分が笑えることに少し驚いた。不安と疑念、度重なる嘘に苛まれていたこれまでと違って、今のアタシは自分がやらなければならないことがクリアになっていたからだろう。
 由真を助け出す。ただ、それだけだ。
 アタシは県警の藤田刑事に熊谷のメルセデスを見つけたことを知らせるように頼んだ。別に村上に含むところがあったわけではない。たった二人とはいえ捜査の指揮官は藤田なのだから、そのほうが筋が通っていると思っただけだ。
 アタシが読み上げた藤田の番号を、美幸は復唱した。
「じゃ、よろしくね」
『いいけど、あなたはどうするの?』
「予定は続行。とりあえず、中に――」
 その瞬間、建物の裏手のほうで何かが弾けるような乾いた音がした。爆竹のような残響を残すひどく虚ろな音。しかし、こんな時間にこんなところで爆竹を鳴らす馬鹿はいない。
『……何、今の音!?』
 美幸の声に緊張が走った。インカムのマイクは指向性で外の音は拾わない。つまり今の音は外で待つ彼女にも聞こえたということだ。
『ひょっとして、拳銃?』
「分かんない。――とりあえず、行ってみるわ」
『うそ、やめなよ!! 危ないって、ねえ、真奈ってば!!』
 アタシはトランシーバーのスイッチを捻って、建物の裏手に向かって走り出した。

 建物の周りを走り抜けて裏庭に出るまでの間に、ヒステリックな叫び声のように立て続けに銃声が聞こえた。
 本物の銃声は映画やテレビドラマのように迫力のある音ではないとは聞いたことがあるけれど、その乾いた炸裂音は違う意味でアタシの腹の底を揺さぶるような奇妙な響きを持っていた。
 アタシは足音を忍ばせて建物の角から裏庭の様子を窺った。
 一基だけ点された水銀灯の青白い灯りが庭園の一角に再現されたゴルフのグリーンと周辺のラフの緑を照らし出している。建物からは大きなウッドデッキが張り出していて、そこにはオープンカフェのようにデッキチェアとウッドテーブルが並べられている。誰かが使ったパターが柵に立てかけられたままになっている。
 そのデッキの上にこちらからだと二つの背中が見えた。
 二人とも敢えて言うなら中肉中背で、大沢のような大男でも熊谷のように恰幅がいいわけでもない。二人の足元には銀色の小型のアタッシェケースが幾つか置いてあった。
 アタシは身体を低くしてウッドデッキの縁ににじり寄った。
 柵の足元に並べられたプランターの間から男たちの背中を見上げた。
 男の一人は安っぽいメッキで光る拳銃を手にしていた。銃口はデッキの反対側の二つの人影に向けられていた。
 アタシは息を呑んだ。
 一人は熊谷幹夫、もう一人は大沢隆之だった。
 大沢は前のめりに蹲って右脚の膝の上辺りと左の肩を押さえている。指の間から血が染み出している。目を限界まで見開いて歯を食い縛って立ち上がろうとしているけれど、身体を動かすことは出来ないようだった。
 熊谷は薙ぎ倒したウッドテーブルにもたれ掛かるように身体を預けていた。
 足取りの怪しい酔っ払いがだらしなく倒れ込んだような格好だったけど、そうじゃないのははだけたジャケットから覗くシャツの腹の辺りが赤黒い色に染まっていることからも明らかだった。
 建物からデッキに出るドアのところにさらに二人が倒れていた。どちらも脚しか見えないけど片方はジーンズとコンバースのスニーカー、もう片方はハイヒールと肉付きのいいふくらはぎが覗いている。どちらも仰向けでピクリとも動く素振りは見せなかった。
 銃を手にした男はヒステリックな忍び笑いを洩らしていた。顔は見えなくてもそれが古瀬だということは一目瞭然だった。
「……き、貴様、どういうつもりだ……?」
 大沢が苦痛の中から搾り出すような声で言った。
「どういうつもり、だと?」
 古瀬の声は興奮冷めやらぬといった感じで少し裏返っていた。
 もう一人のヒゲ面の男は恐怖の混じった半笑いの表情で、足元のアタッシェケースに何度も視線を落としていた。ケースは全部で五個あった。
「熊谷のダンナについていくのも、ここまでだってことさ。これまでは美味い汁を吸わせてくれたから風下に立ってきたが、そうじゃなくなるんなら従う必要はないからな。――まあ、俺たちにも絶対に触らせなかった例のファイルを、いくら可愛がってたからってあんな小娘に盗られるようじゃあ、ヤキが回ったとしか言いようがない。そうだろ、熊谷さん!!」
 銃口がすうっと動いて、狙いを大沢から熊谷に変えた。
「このカネは俺と永浦で分けさせてもらうよ。一人五千万じゃ高飛びするのにはちょっと不安なんでね。ホントはあんたの隠し財産も戴きたかったんだが、その時間はなさそうだ」
 熊谷はゆっくりと顔を上げた。血の気がなく表情は虚ろで、肩で浅い息をしている。
「……誰の、差し金、だ。……お前一人じゃ、こんな、思い切ったことは出来ん……」
「ウルセェ!!」
 拳銃が火を噴いた。アタシは思わず目を閉じて耳を押さえた。遠くでは軽々しく聞こえた音も、近くでは耳をつんざく轟音だった。
 恐る恐る顔を上げると古瀬はより一層、興奮して肩をおこりのように震わせていた。
 弾丸は当たっていないようだった。狙いが外れたのか、当てる気のない脅しだったのかは分からない。
「教えてやるよ。あんたのお得意さんの一人が、こいつを用意してくれたのさ。あんたがサツで洗いざらい歌わされたら、揉み消せるものも揉み消せなくなるからな」
「……か」
 熊谷は誰かの名前を言った。しかし、それを聞き取ることは出来なかった。
 アタシは呆然としてその状況を見詰めていた。
 とりあえず表向きは平和なこの国の陽の当たる真っ当な世界の住人ならば、裏切りにあって拳銃で撃ち殺されたりはしない。しかし、彼らはそれが当たり前に行われる真っ当じゃない世界の住人たちなのだった。
 このまま放っておけば熊谷は間違いなく出血多量で命を落とすだろう。口封じが目的ならば古瀬はこの場を立ち去る前に大沢も殺すだろう。宮田史恵と小宮健太郎はすでに何も語ることは出来ない。
 古瀬と永浦の友好関係もそう長くは続かないだろう。そのとき再び拳銃が火を噴くのかどうかは分からない。
 いずれにしても、いろんな形で人の不幸をカネに換えてきた彼らにはお似合いの最後のはずだった。アタシが避けるべきはこの運命に由真が巻き込まれることだけだ。
 幸い、古瀬も永浦も目の前の状況に気をとられている。アタシがどこかの窓を叩き割って建物に侵入しても気づいたりはしないだろう。
 アタシはゆっくり後ずさりして建物の角に身を隠した。
 古瀬は尚も熊谷に対して何かをまくし立てていた。恨み言か、それとも初めて有利な立場に立ったことからくる歓喜の弁か。いずれにしても再び銃声が鳴るのは時間の問題だった。
 彼らがどうなろうとアタシには関係ない――はずだ。
 熊谷が死んだところでアタシは何の痛痒も感じないはずだ。彼が由真にしたことを考えれば怒りをぶつける対象ではあっても、その命を救うために自分の身を危険に晒したりする謂れはない。
 にも関わらず、気がつくとアタシは痛いくらいに拳を握り締めていた。
 それは古瀬に対する怒りでも熊谷本人に問い質したいことが山ほどあることが理由でもなかった。アタシと梅野の二人分の借りを大沢に返さなくてはならないからでもない。
 徳永祐輔は熊谷のことを実の叔父のような存在だと言った。由真は脅迫メールの中で自分のしたことを彼に詫びていた。熊谷はアタシに多くの嘘をついたけれど徳永佳織とその娘である由真への想いだけは嘘ではなかった。
 熊谷がこういう形で最後を迎えるのはおそらく自業自得なのだろう。
 しかし、それをアタシが見殺しにするのは正しくない。彼が由真に詫びることなく死んでいくのも。







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