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砕ける月

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  第 56 章  

 熊谷幹夫と大沢隆之、古瀬龍二、徳永由真、徳永祐輔、そしてアタシは敬聖会の外来棟に相次いで運び込まれた。
 事件の背景にあるのがこの病院であることを考えるとあまりいい選択じゃないような気はするけれど、最寄の医療機関であることは間違いないし、不都合があれば後日転院という運びになるのだろう。
 アタシは治療を受けるようなケガはしていないつもりだったけど、検査してみたら見事に右拳の骨にヒビが入っていた。
 人間の頭蓋骨は硬いもので素手で殴ると逆にこういう結果を招くことがある。知ってはいたけれどあの場で何かを巻いたり拳を気遣うような余裕はなかった。
 幸い骨がずれたりはしていなかったので、添え木と包帯で固定するだけで切開手術の必要はないとのことだった。診察前に打たれた局所麻酔のおかげで手首から先が自分のものではないようだった。
 他にも身体のあちこちに打ち身と擦り傷があって背中には軽い火傷の痕もあった。それは今回のケガじゃなかったけれどついでに薬を塗ってもらうことになった。
 救急外来の一番隅のパーテーションで仕切られた処置室で診察台にうつ伏せになって、アタシは看護師のお姉さんの手が空くのを待っていた。
 忙しない騒然とした空気に満ちているのは場所柄から言ってもいつものことなのだろうけど、スタッフの間にはそれとは違う明らかな動揺が走っていた。
 担ぎ込まれたのがこの病院を仕切っていた男で、しかもそれが銃弾に倒れたとあっては動揺するなというほうが無理だった。しかも院長夫妻の跡取り息子と愛娘がセットとあっては尚更だ。
「――おい、大丈夫か?」
 仕切りのカーテンの間から藤田刑事が顔を出した。
「ちょ、ちょっと、何よ!!」
 アタシは起き上がりかけて慌てて元の姿勢に戻った。背中に薬を塗ってもらうために上半身には何も着ていなかったからだ。うつ伏せで胸は見えないけれどだからいいというものではない。
「あ、こりゃ失礼」
「失礼じゃないわよ。乙女の柔肌を何だと思ってんの?」
「普通の乙女は警官の言うことを聞かずに勝手なことをして、拳銃を持った犯人に飛び掛かったりはしないけどな」
 藤田の口調は思いも寄らないほど強いものだった。アタシは言葉に詰まった。
「……だ、だって」
「だってじゃない。結果オーライって言えるほど、君がしたことは軽くはないんだ。――君の身にもしものことがあったら、我々は親御さんに何て言って詫びればいい? お宅のお嬢さんが勝手にやったことだってわけにはいかないんだぞ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
「捜査をぶち壊しにする覚悟で、君を助ける決断をした村上の気持ちが分かるんなら、少しは反省してもらいたいね」
 藤田は初めて見せる厳しい表情で言った。この男もまた警官なのだった。
「分かりました。反省してます。――だから、早く出てってくれない? セクハラで訴えるわよっ!!」
 藤田は舌先を出していつものおどけた調子に戻ると、失礼と言って出て行った。
 それと入れ替わるように村上が顔を出した。
「おい、真奈。ちょっといいか?」
「……いいわけないでしょ!! まったく、どいつもこいつも!!」
 アタシの格好に気づくと村上は慌てて顔を引っ込めた。
「あー、すまん」
 カーテン越しに声が聞こえた。気まずそうに鼻を掻いている様子が目に浮かんだ。
「……で、何よ? 用事があってきたんでしょ」
「ああ、知らせておこうと思って。徳永兄妹が二人とも意識を取り戻したよ。妹のほうは長いこと鎮静剤を投与されていてまだ意識の混濁はあるが、医師の説明じゃ後遺障害の恐れはないそうだ。脳波の異常もないし外傷の類も見当たらない。監禁と言ってもそれほどひどい扱いじゃなかったようだな」
「……そう。良かった」
 アタシは安堵のため息をついた。少なくとも由真を取り戻すことだけは出来たのだ。
「由真は何処に?」
「とりあえず、まだICUで加療中だそうだ。当面は面会謝絶で体力の回復を待って話を訊くってことになりそうだ」
「じゃあ、当分は会わせてもらえないのね」
「申し訳ないが仕方がないな。彼女は今回の事件の重要参考人だからね。それに立件するかどうかは分からないが、事と次第によっては容疑者ってことにもなりかねない」
 確かに由真がしようとしたことは殺人事件の証拠隠滅だし、熊谷に対してしたことはれっきとした恐喝だった。
「まあ、そんなことはないと思うけどね。どっちかと言えばマスコミ対策という側面が強いんだ。もう一つ、例のファイルの事件の余波が何処まで広がるか分からない段階で、こっちの事件だけ先走りされちゃ困るんでね」
「困るって、アンタたちが?」
「上層部がだよ」
 村上の声に少し不機嫌な響きが混じった。ゴソゴソと音がしたかと思うとジッポの蓋が開く金属音がした。
「ちょっと、ここ、病院よ」
「えっ? あ、ああ。そうだな」
 公共のマナーには人一倍うるさいこの男のすることとは思えなかった。心ここに在らずという感じだった。
「……どうしたの?」
「いや、大沢さんからいろいろと話を訊いてたんでね。――刑事が容疑者を”さん”付けしたら、おかしいかな」
「そんなことないけど。そうか、あんたたち、先輩後輩なんだよね」
「ああ。どうしてあの人がこんな汚い世界に足を突っ込んだのか、どうしても訊いておきたくてね」
「何て言ってたの?」
「大沢さんには娘がいてね。まあ、複雑な事情のある血の繋がらない娘なんだが。実はこの子がちょっと厄介な病気にかかってて、大沢さんじゃどうにもならないほどの治療費が必要だったらしいんだ。そのカネを用立てたのが熊谷ってわけさ」
「その恩返しに熊谷の仕事を手伝うようになったというわけね」
 子供の話はトモミさんとの会話の中で聞いた記憶があった。そういう事情なら彼のあの忠誠心も説明がつく。
「首までどころか、頭の天辺までドロドロの世界に浸かりきっていた熊谷にとって、徳永由真は数少ない表の世界との接点だった。しかし皮肉にもそれが熊谷の手足を縛る格好になってしまった。その苦悩を間近で見て何とかしてやりたいと思ったと言っている」
 アタシは鼻を鳴らした。
「だからって夜道でアタシを襲ったり、梅野さんをフクロにしていいって法はないわ」
「もちろんそうだ。お前とその彼氏に謝っておいてくれって言ってたよ」
 アタシはさっきも似たようなセリフを聞いたことを思い出して、少し腹が立った。どうして彼らは自分の口で謝ろうとしないのだろう。
「熊谷は助かりそうなの?」
「分からないな。出血量が多すぎるし腹から弾丸が抜けてない。おそらく内臓にかなりのダメージがあるはずだ」
「――そう」
 それからアタシはポツリポツリと特別病棟の裏庭に侵入してからのことや、撃たれた熊谷の傍らで聞いたことを話した。村上は黙ってアタシの話を聞いていた。ジッポを手の中で弄ぶ音が時折、相槌のように鳴っただけだ。
「あのさ……?」
「何だ?」
「心配かけてゴメン。アタシのせいで捜査がダメになるところだったんでしょ?」
「どうしたんだ、急に。気持ち悪いな」
 アタシは思わず身体を起こした。
「ちょっと、女の子に気持ち悪いとか言わないでよ。……ふん、せっかく謝ってるのに」
「悪かったよ。でも、俺より先に藤田に怒られてたみたいだし、まあ、いいだろ」
 村上は笑っていた。アタシはその顔を見たい衝動に駆られた。
「これから、どうなるの?」
「何が?」
「徳永家の人たちよ。由真の両親も逮捕されるんでしょ?」
「そうだな。すでに毛利課長が徳永邸に向かっているはずだ」
「あの人、組織犯罪対策課じゃないの?」
「行きがかり上、あの人が捜査本部の親分なんでね。容疑は徳永麻子は村松俊二殺害と証拠隠滅、夫の圭一郎は村松の死亡診断書の偽造で医師法違反だろう。証拠隠滅についても事後従犯、ひょっとしたら共謀共同正犯ってことになるかもしれない。二人はもちろん兄の祐輔も最初の医療事故の件での医師法違反だな」
「その診断書の偽造って手口は、十四年前に徳永佳織のときも同じなの?」
「提出された診断書自体が現存しないんではっきりしたことは言えないが、そのコピーは例のオリジナルの中のファイルに残ってた。書いたのは徳永圭一郎だ。ついでにいうと死体の写真はどっちも同じ人物が撮ってるか、少なくとも指示をしてる。警察が収容した遺体の写真を撮るときのアングルと一緒なんだ」
「それって熊谷が?」
「おそらくな。そういう意味では今回と十四年前は同じ構図だったってことになる。徳永麻子が人を殺して、夫の圭一郎がその隠蔽に走った。その指南をしたのは熊谷ってわけだ」

 村上は小声で「……麗しいトライアングルだな」と付け加えた。
 アタシは再び診察台に突っ伏した。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろ」
 アタシはポツリと呟いた。
「どうしてって?」
「だってアタシは三人は友だちで、だから熊谷は徳永麻子が村松を殺したとき、その隠蔽に手を貸したと思ってたんだもの。由真の実家で見たときも少なくとも熊谷と徳永圭一郎は友だちに見えたわ」
「でも、実際はそうじゃなかった。かつてはそうだったとしてもね」
 アタシは三人の、いや、徳永佳織を含めた四人の間柄が変質していった過程にじっと想いを馳せた。
 村上はしばらくジッポの蓋を開けたり閉めたりしていたけれど、やがて何かを思い切ったように口を開いた。
「本当に友だちだったのなら、熊谷は隠蔽工作の指南なんかするべきじゃなかった。俺は熊谷が夫妻の本当の友人だったとは思わないね。まあ、罪を償う機会を奪い更なる地獄へ突き落とすことが友情と呼べるのなら、そうかも知れないが」
 村上は藤田のように日常的に軽口を叩く男じゃないけれど、だからといっていつもしかめ面をしているわけでもない。
 なのに、その口調は今まで聞いたことがないほどひどく重苦しかった。
 アタシは不意にその言葉の意味を悟った。
「――それが、アタシの父さんを告発した理由なの?」

 口を開こうとした村上を遮るようなタイミングで早足でワゴンを押す忙しない足音が聞こえてきた。
 さんざん待たせた挙句、絶妙の気の効かなさで看護師がやってきたのだった。それでも文句を言うのは筋違いなのだろう。

 寝技ではアタシでも勝ち目のなさそうな立派な体格のお姉さんが、服を引っ剥がすような手つきでカーテンを開けた。
「ごめんなさいねえ、遅くなっちゃって。具合はどう?」
「あ、大丈夫です」
 若々しいというのはそろそろ厳しい年頃だけれど、時間を考えれば破格のエネルギッシュな声だった。そうでなければ夜勤の救急外来の看護師のようなハードな仕事は勤まらないのかも知れない。
「じゃあ、あとでな」
 村上は仕切りの向こうでそう言った。口調にどこかホッとしたような響きがあるのがアタシの神経を逆撫でした。
 ――話はまだ終わっていない。アタシの質問に答えて。
 そう言いたかったけれど、二人きりでもなければ口に出来る言葉ではなかった。代わりに呼び止める言葉が見つからないまま村上がその場を離れる気配がした。
 アタシは背中と脇腹(こんなところまで打撲の跡があった)に薬を塗ってもらい、両肘と右膝、そして古瀬に組み付いたときについた頬の傷に見せしめのように馬鹿でかい絆創膏を貼られた。
 肌がちょっとベタベタするのを我慢して、看護師さんがいるうちに手伝ってもらって服を着た。右手が上手く動かせないので一人じゃ下着がつけられないからだ。
 手当てが終わるとアタシにはすることがなくなった。誰かと話をしたかったけど美幸はすでに家に帰っているはずだった。
 彼女には、クラスの担任への連絡を頼んでいた。

 事件が報道されればマスコミは学校にも取材にくるだろう。そのとき何も分からないでは困ったことになる。本当は経緯に明るいアタシが説明するべきなのだろうけど、開校以来の問題児であるアタシの言よりも次期生徒会長の呼び声高い彼女のほうが話は通りやすいだろうと思ったのだ。
 美幸はちょっとだけ嫌そうな顔はしたけれど、朝一番で連絡してくれることになった。
その代わり、すべてが終わったら(差し支えのない範囲で)事件のことを話すように約束させられたけれど、彼女がしてくれたことを考えればその程度のことはお安いご用と言えた。
 事情聴取は明日以降になると運び込まれる途中で村上から聞かされていた。
 もう帰っていいのだろうかと思ったけれど、無断で帰るわけにもいかないだろう。アタシは処置室を出て、見知った顔がないか辺りをウロウロしてみた。
 救急外来から手術部という案内板に沿って廊下を歩いた。
 手術室の手前には制服警官が二人、緊張した面持ちで立ち番をしていた。手前のベンチには私服の刑事と思しき中年男性が腰を下ろしていた。赤い”手術中”のランプが近寄る者を威嚇するような輝きを放っている。
 アタシは私服刑事に近寄って村上刑事と連絡はとれないかと言った。彼はアタシの名前を訊いて、呼んでくるからちょっと待っていてくれと言ってその場を離れた。
 アタシは刑事の代わりにベンチに腰を下ろした。
 中ではまだ熊谷の手術が続いているようだった。村上の話では相当に難しい手術とのことだった。
 正直に言えば彼が死んでもアタシは特に悲しいわけでもなかった。
 そんな感慨を抱くほど彼を知っているわけでもないし、彼が死んだら由真が悲しむというような偽善めいた感傷も、二人の間柄をよく知らないアタシにあるはずもなかった。
 しかし、それでも熊谷に死んで欲しくはなかった。
 これ以上、こんな事件で誰かが死ぬのはまっぴらだった。

 廊下の時計は午前四時二十五分を指していた。
 ボーっとしたまま秒針の動きを目で追っていて、アタシはヒップバッグの中でケイタイのヴァイブレータが振動しているのに気づいた。

 病院の中だから使ってはいけないだろうと思って、マナーモードにしたまま突っ込んでいたのだ。
 こんな時間に電話をかけてくるような、と言うか起きているような奇特な知り合いに心当たりはなかった。祖父は年寄りらしく朝は早いけれどケイタイの通話明細が十行を越えることがないほどの電話嫌いなので論外だった。
 アタシは近くにあった女子トイレに駆け込んでケイタイを開いた。
 ディスプレイには”徳永祐輔”と表示されていた。
「……誰?」
 アタシは思わず呟いた。
 ゆっくり考えている暇はなかった。アタシは通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「……ああ、よかった。やっぱりこの番号だったのね」
 聞こえてきたのは徳永麻子のひどく冷静な声だった。
 これまで何度かいろんな状態の彼女と話す機会があったけれど、あえて言うなら初対面のときの印象に近かった。相手を安心させるような落ち着きと威厳に満ちたその声音は、ひょっとしたら医師である彼女本来のものなのかも知れない。
「どうしたんですか、いったい? ……って言うか、どうして?」
 我ながら間の抜けた質問だった。

「ああ、この電話は祐輔のものなの。あなたの電話番号を訊くの忘れてたから。ほら、あなたって祐輔とも知り合いみたいなことを言ってたじゃない。だから、ひょっとしたら登録してあるんじゃないかと思って」
 確かにアタシは吉塚のマンスリー・マンションで祐輔と番号の交換をしているし、母親が入院中の息子のケイタイを保管していても何の不思議もない。
 でも、そんなことを訊いているわけではなかった。

 村上の話ではとっくの昔に徳永邸には警察が向かっているはずだった。逮捕された被疑者が自由に電話をかけられるなんて話は聞いたことがない。
 それが意味することは一つだ。警察が来る前に彼女は姿を消していたのだ。
「今、何処にいるんですか?」
「ここ? そうね。――聞こえる?」
 彼女の声が遠のいた。

 ケイタイを口から離したようだった。代わりにウッドベースのような低い弦の音と切なさを強調するようなテナー・サックスの音色が聞こえた。よく聞き取れないので曲名は分からなかったけど、ジャズのスタンダード・ナンバーのようだった。
 曲に割り込むように固くて澄んだ音が聞こえた。
 その音はすぐにピンときた。グラスの中で氷が鳴る音だ。酒を飲んでいて、そのグラスをケイタイの傍で鳴らしてみせたのだ。
 おそらく徳永麻子は何処かの店(バーか、そんな類の店だろう)の中にいて、BGMでジャズが流れている。
 しかし、そんな店が福岡市内(とは限らないけど)に何軒あるかなど見当もつかなかった。
「そこ、中洲ですよね?」
 根拠も手掛かりもないけれど、まんざら当てずっぽうでもなかった。こんな時刻に開いているバーなど中洲くらいにしかないからだ。
 一瞬の沈黙が電波を通じて伝わってきた。
「……あら、意外と鋭いのね。ご名答。ねえ、今から出てこない?」
 友だちをお茶に誘うような気軽さに「はあ?」と訊き返したくなるのをアタシは懸命に堪えた。
「でも、もう朝の四時半ですよ。アタシが行くまでお店、開いてないでしょう」
「かもね。その時は公園か何処かでもいいじゃない。私、あなたとお話がしたいの。……ねえ、いらっしゃいよ、名探偵さん」
 皮肉混じりの台詞とは裏腹に彼女は屈託のない上品な笑い声を立てた。その笑い方は由真のそれにとてもよく似ていた。
 いや、それは逆だった。由真が彼女に――母親に似ているのだ。
 アタシはわざとらしくため息をついてみせた。
「――いいですよ。何処に行けばいいんです?」
「そうね。中洲に着いたらこの番号に電話して頂戴。それまでに場所は考えておくわ。――じゃあね、待ってるわ」
 そう言うと電話は一方的に切れた。
 せっかく貼ってもらったものだけれど、アタシは頬の絆創膏を引っ剥がして洗面台で顔に何度も水を浴びせた。頬を叩いて眠気を追い払いペーパータオルで滴を拭った。

 鏡の中のアタシは自分でもギョッとするほど怖い顔をしていた。







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