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砕ける月

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  第 57 章  

 ミッドナイト・ブルーという色は日本語では暗青色と呼ばれている。
 まだ染色技術が未熟だった頃に夜の照明の下ではタキシードなどの黒がそう見えないことをカバーするために、紺よりも更に暗い色調の青を用いたことからその名がついたのだという。人工照明の下ではそれがまるで漆黒のように見えるらしい。
 何故、アタシがそんなことを知っているかと言うと、祖父の喜寿のパーティ用にドレスを作らされたときにエメラルド・グリーンとミッドナイト・ブルーのどちらかの生地を選ぶことになったからだ。
 少しでも目立ちたくなかったアタシは迷わずミッドナイト・ブルーを選んだ。
 ところが「お祝いの席に黒く見えるドレスは如何なものか?」という祖母の年寄りらしい意見で敢無く却下になり、アタシはこっ恥ずかしい派手なドレスを着る羽目になった(おまけに先日、由真にさんざんからかわれた)というわけだ。
 都市高速の防音壁越しに深い青が少しずつ薄くなっていく東の空を見上げながら、アタシはそんなことを思い出していた。
 村上はフェアレディZを片手運転とは思えないスピードでブッ飛ばしながら誰かとケイタイで話していた。あれほどマニュアル・シフトを偏愛していたくせにこのZはオートマティック・トランスミッションだった。
 Zは都市高速を呉服町ランプで降りた。もう一つ先の千代ランプのほうが中洲には近いのだけれど、都市高速にはいくつか片方の方面からしか乗り降り出来ないランプがある。千代はその一つだった。
「了解。……また連絡する」
 村上は通話を切るとケイタイを胸ポケットに押し込んだ。
「運転しながらケイタイ使っちゃいけないんじゃなかったっけ?」
 アタシは言った。
「ハンズフリー・キットってヤツが苦手でね。耳がムズムズするんだ」
「そういう問題じゃないと思うけど」
 三笠川に架かるランプウェイを下って昭和通りに入った。
 大博通りとの交差点で信号待ちをしていると路地から出てきたトラックが信号無視で交差点に突入してきて、Zの目の前を猛スピードで横切っていった。
 福岡の交通マナーは全国でも指折りの悪さだと言うけれど深夜から明け方にかけての時間帯は最悪だと言っていい。アタシは反対車線の歩道で手を上げている客を見つけた流しのタクシーが道のど真ん中でスピン・ターンを敢行するのを見たことがある。
 村上は走り去るトラックの後ろ姿をあまり興味なさそうに眺めていた。
「そろそろ着くぞ。電話を入れてみてくれ」
「分かった」
 アタシは着信履歴から祐輔の番号を呼び出して通話ボタンを押した。

 徳永麻子との話を終えて女子トイレから出てきたアタシを待っていたのは、警察が踏み込んだときには麻子はすでに姿を消していて徳永圭一郎が二階の自室で射殺死体で発見されたという、どうにも救われない知らせだった。
「あいつらはともかく、何で医者が拳銃なんて持ってるのよ?」
「俺に訊かれてもな。新しい手術道具の研究でもしてたんじゃないのか」
「冗談にしては、あんまり面白くないわね」
 アタシは徳永麻子と電話で話したこと、彼女にこれから会いたいと呼び出されたことを話した。
 藤田のパトカーの無線で毛利課長を交えて緊迫した話し合いが行われた。
 毛利課長の指示は中洲のバーをしらみ潰しに当たらせることだった。中洲にはかなりの数の店があるけれど、この時間まで開いているバーはそれほどの軒数ではないからだ。
 異を唱えたのは村上だった。
 徳永麻子が(どうやって手に入れたか分からないけど)拳銃を所持していて、下手に刺激すると自棄になった彼女が無関係な一般市民を巻き込む危険性が、更に言うなら自殺してしまう可能性があることがその理由だった。
 前者はともかく後者の可能性は決して低くはなかった。
『――じゃあ、どうするんだ?』
 毛利が訊いた。
「徳永麻子は真奈と話をしたがっています。理由は分かりませんが。この時間です、何処かの店内ということはないでしょう。人気のないところへ上手く誘導してから身柄を拘束するべきだと思います」
『誰がやるんだ、その誘導ってヤツを?』
 村上はアタシのほうを見やった。
「相手は真奈とは顔見知りです。身代わりは使えません」
『バカなことを言うな。民間人をこれ以上、危険な目に遭わせるつもりか』
「他に方法がありません。ついでに言うと、時間も」
『だからって――』
「アタシ、やるわ」
 無線のマイクに向かってアタシは言った。
「犯人直々の御指名とあっちゃ断るわけにはいかないわ。――守ってくれるんでしょ?」
 後のほうは村上に向かって言ったことだった。
 村上は力強く頷いた。藤田が他人事のようにニヤニヤしながら小声で「……出たよ、命令違反の常習犯が」と呟いた。


 大博通りから店屋町、冷泉町を抜けて上川端商店街に差し掛かるところで村上はZを道端に寄せた。前方にハザードを点けた白いセドリックが停まっている。
 セドリックのドアが開くと権藤課長が黒いビニールバッグを二つ抱えて降りてきた。
 ビニールバッグの中身はやけにゴワゴワした素材で出来たヴェストだった。
 いかにも警察の装備品らしい濃紺でずっしりと重い。体の前面側には固い手触りの板のようなものが詰め込まれている。
 それが防弾チョッキと呼ばれるものであることはアタシにも分かったけれど、実物を見る機会はまずないし、まして自分にこれを着る機会が巡ってくるなど考えたこともなかった。
「装備課に女性用が見当たらなかったんで、男物で辛抱してくれ。まあ、真奈ちゃんは背が高いから大丈夫みたいだな」
 防弾チョッキを着込んだアタシを見て権藤課長は少しホッとしたようだった。ピッタリと身体にフィットさせて着るものではないのだろうけど、あまりブカブカでも効果が薄いのかも知れない。
 上からパーカーを羽織ってみた。ファスナーをしめるとちょっとキツイのであけておくことにした。
 村上も同じように防弾チョッキを着込んでいた。着痩せして見えるけど実はガッチリしているので胸板が異様に厚く見えた。上からジャケットを着るのは無理だったので、村上はZのトランクに入れてあったホークスの黒いウィンドブレーカーを羽織った。
「暑くない?」
「暑いに決まってるだろ」
 ちょっと不機嫌そうな村上は脇の下に吊るしたホルスターから拳銃を取り出して弾倉をチェックした。某公園前派出所の巡査長が持っているようなリボルバーではなくて、どっちかというと古瀬たちが持っていたものに似ていた。
「徳永麻子の現在位置は?」
 権藤課長が訊いた。アタシに訊いたようだったけど答えたのは村上だった。
「まだ、分かっていません。ついさっき、真奈が電話したときにはまだ先程の店にいたようですが。――中洲にいるのは間違いないんですか?」
「基地局の割り出しの結果、この周辺に該当する携帯端末があることが確認出来ている」
 一度、通話状態になれば基地局との交信情報から端末のおおよその位置が割り出せるというのは割と有名な話だ。この期に及んで麻子が嘘をつくとは思えなかったけど、警察の注意を違うところに集めておいて逃走する可能性もまったく否定することは出来ない。
「とりあえず、中洲に架かる十七の橋にはすべて私服警官を配備した。中洲交番にも連絡してある。お前の言うとおり、相手を刺激しないように、目撃してもすぐに接触はしないように申し渡してある。しかし中洲を出ようとしたときはすぐに身柄を拘束する。いいな?」
「了解です」
 村上はコクリと頷いた。
 アタシは村上と並んで歩き出した。上川端のアーケードをくぐって博多橋から中洲に入った。

 アタシと村上はそのまま中洲を横断するように路地を歩いた。
「どうして嘘ついたの?」
「何が?」
「だって、徳永麻子の居場所、分かってるじゃない」
 さっきの電話のときに麻子はバーを出て、同じビルの屋上にいると言った。那珂川沿いに立ち並ぶ背の高いビルの一つでビルの名前を言われてもピンと来なかったけど、そのバーを村上が知っていたのだ。
「話したいんだろ、彼女と」
「えっ?」
「違うのか? 俺はてっきりそうだとばかり、思っていたんだが」
「……まあ、そうなんだけど」
 疑問に思っていることや彼女に言ってやりたいことはもちろんある。しかし、由真を取り戻した今、そして事件が警察の捜査の対象となった今ではそれは危険を冒してまで訊くことではない。事件の背景が知りたければ裁判の傍聴に行けば済むことだった。そんな暇があるかどうかは別にして。
 それよりも事件が終焉を迎えて自分も逮捕されることが分かっていながら、アタシと会って話したいという麻子の意図がアタシを強く引きつけていた。
 何故なら彼女がアタシと話したいことに、正確に言うならアタシに会って確かめておきたい事柄におおよその見当がついていたからだ。
「じゃあ、何? アタシにそんな機会を与えるために、命令違反なんかしたの?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。彼女を下手に刺激することの危険性は本当だろ。ビルの屋上に追い詰めれば持ってる拳銃で自殺する可能性もあるし、飛び降りるかも知れない。俺は確実に、かつ安全に被疑者を確保するために、より確率の高いほうを選んだだけだよ」
「……昔から思ってたけど、アンタ、ホントに口が上手いよね」
 村上は返事をしなかった。代わりにいきなりアタシの腕を取った。
「な、何よ、いきなり!!」
 声が裏返りそうになるのをアタシは堪えた。
「バカ、変な勘違いするな。ここだよ、例のビルは」
「だったら、そう言えばいいじゃない」
「被疑者が何処にいるのか分からないことになってるのに、何の迷いもなく入るわけにいかんだろうが。――オーケー、警官はいないみたいだな」
「アンタ以外はね。……何だか、アタシたちが犯罪者みたいじゃない」
 アタシは跳ね上がった動悸を落ち着かせようと深呼吸しながら、村上の顔をじっと睨んだ。
 村上はいつものように涼しい顔をしていた。

 屋上へと通じるペンキの剥げかけた鋼鉄製のドアを押し開けると、蝶番が軋む耳障りな音とともに明け方のちょっとだけ涼しい空気が流れ込んできた。
 空はすでに白み始めていた。夜が去って朝が来るまでのほんのわずかな間、世界は洗い晒したシーツのように色あせて見える。
 正面からではよく分からなかったけれど、間口の割に奥行きのあるビルだった。屋上は空調機や貯水槽などでゴチャゴチャしていなかったらバスケットボールの試合くらいは出来そうな広さだ。
 道路側(というか、那珂川の方向)に設置された高い壁はネオン看板の裏側だった。
 鉄骨を組んだ櫓のようなものに電線や機械が複雑に絡み付いていて、まるで花壇の柵を這い回るいばらの蔓のように見えた。
 徳永麻子はその看板のコンクリートの土台に脚を組んで腰掛けていた。
 シックなサマードレスの裾から伸びる柔らかそうな素足の先にエナメルのオープントゥのパンプスがぶら下がっている。メイクは申し訳程度な感じだったけれど、それがかえってルージュの光沢を際立たせて彼女を若々しく見せていた。
「――多分、来てはくれないだろうなって思ってたわ」
 麻子はちょっと意外そうに微笑んだ。何処で買ってきたのか分からないけど彼女の足元にはバドワイザーのビンが数本、無造作に転がっていた。閉店するバーからもらってきたのかも知れない。
「約束しましたから。正直、守れる自信はなかったですけど」
「私と逢うこと、警察には話したの?」
「話さないわけにはいきませんでした。あなたは今や、ご主人を殺した容疑で追われる身なんですよ」
 アタシはすべての橋に警官が配置されていて中洲からは出られないこと、ここへ警察が踏み込んでくるのも時間の問題なことを話した。
 麻子はそれを他人事のように聞いていた。
「そんな状況で、貴女がここへ来ることをよく警察が許したわね」
「お節介な刑事がいるんです。代わりにこんなものを着せられましたけど」
 アタシは自分の胸の辺りを叩いてみせた。

「ずいぶんとゴツイ服ね。それ、何なの?」
「あなたが持ってる物騒なものに対する、お守りみたいなものです」
「ああ、コレのこと」
 麻子は手元にあった拳銃を取り上げた。
 古瀬たちが持っていたものに比べれば全体的に短くて小型のようだったけれど、いずれにしても女性の手には余る代物に見えた。
 彼女がそれを両手で持つとガチャンという大型のホッチキスで紙を綴じるような音がした。一瞬、彼女が銃を撃ったんじゃないかと思ったけどそうではなかった。
「ヘッケラー・ウント・コッホ・ペー・ズィーベン・エメ・アハトって言うの。英語読みするならヘッケラー・アンド・コック・ピー・セブン・エム・エイト。――どうしてこういうのって、むやみに長ったらしい名前なのかしらね」
「ずいぶん詳しいんですね。そんなもの、どうやって手に入れたんですか?」
「私のものじゃないわ。あの人が書斎のデスクにずっと隠し持っていたのよ。名前は箱に書いてあったのよ。特にガン・マニアってこともなかったから、ちょっと意外だったわ」
 麻子は険のある含み笑いを浮かべていた。
「ひょっとしたら、いつか、私を殺すのに使うつもりだったのかも知れないわね」
「実際に使ったのは、あなたが先でしたけどね」
「確かにそうね。でも大変だったのよ。ほら、これってこんな風に撃つ前にすごく大きな音がするから。この音がするまでしっかり握らないと弾が出ないようになってるの。だから、あらかじめ聞こえないところでしっかり握り込んでから、あの人に近づいたの」
 嬉々として自分の凶行を語る彼女を前に、アタシはただその銃口の動きだけに集中していた。万が一、アタシのほうを向くようだったらそれですべてが終わる。
 しかし、麻子は両脚の間にゆっくりと銃を下ろした。握る手を緩めたのか安全装置が戻るカチンという音がした。もちろんすぐに握り直せる。迂闊に近づくことは出来なかった。
「どうして、ご主人を殺したんですか?」
 アタシは訊いた。
「そうね、強いて言えば、あの人に用が無くなったからかしらね。徳永家が私と妹の佳織の二人姉妹だってことは知ってるわよね?」

 アタシは頷いた。
「父はそのことで、ずいぶん長いこと不機嫌だったわ。昔の人だし何だかんだ言っても田舎だから、やっぱり跡取りは男じゃないとって話になってね」
「そんなものですか」
「今は跡取りがどうとかってあんまり言わないし、女性天皇を論議する時代だから、貴女にはピンとこないかも知れないわね。――まあ、そういうことでせめて婿養子を取らなきゃって話になってね。もしそうならなければ父の弟が跡を継ぐことになっちゃうから。こんな地方病院でもそれなりに利権や資産、それに名誉なんてものがあってね。兄弟とは言っても、おいそれと譲れるものじゃないのよ」
 麻子は左手でバドワイザーを取って口に運んだ。上品に見える彼女がラッパ呑みをする姿は意外なほど様になっていた。
「二人のうち、医師になったのは私だけだった。いきおい、婿取りは私の役目になったわ。ずいぶんとお見合いさせられたわね。どういうわけだか一回り以上も齢の離れたオジサンばっかりだったけど」
「その中にご主人が?」
「いいえ。主人とは九大病院で一緒だったの。私は憎からず思っていたけど向こうにその気があったかは疑問ね。今でこそ歳相応に枯れた感じだけど、昔は見場も良かったしずいぶんとモテてたから」
 確かに由真に見せてもらった昔の家族写真に写る徳永圭一郎は、精悍でエネルギッシュな印象を与えるルックスだった。アタシ好みではないけど女性にモテたのは間違いなさそうだった。
「私は同僚の一人に過ぎなかったわ。その風向きが変わったのは結婚する前の年のことだった。あの人が書いた論文が無断で教授名義で発表されてね。大学の医学部じゃよくあることなんだけど、その論文はあの人が数年かけて取り組んだものだったの。あの人は教授に食って掛かってそのまま窓際へ送られたわ。大学の医局がどんなところか、ご存知?」
「テレビで『白い巨塔』は見ましたけど」
 麻子は可笑しそうにクスッと笑った。
「あんなに権謀術数に長けた人ばっかりじゃないけど、権勢欲に溢れてるって意味じゃあれも嘘とは言えないわね。――医局では教授に逆らったら生きてはいけないわ。臨床医なら医局を出るという選択肢もあるけど、あの人のような研究者は大学を追い出されたら何処にも行くところはない。あの人に残された道は一生窓際で飼い殺されるか、今更ながら臨床に戻るか――」
「……戻るか?」
「教授に対抗できるだけの後ろ盾を手に入れるか。父は医局そのものには関係はなかったけれど、医師会の重鎮だったし、大学の理事会とかいろんなところに影響力があったの。その娘が目の前にいて、自分のことを憎からず思っている。飛びつくなっていうほうが無理よね」
「あなたはそれを承知で?」
「もちろん。そんなことが分からないほど子供じゃなかったわ。でも、それでも良かった。父は優秀な跡継ぎが出来て喜んでたし、あの人は充分な後ろ盾を得られたわけだし。結婚式であの人を冷遇した教授が父から、息子をよろしく頼むって言われて顔を引きつらせたところは今でも忘れられないわ」
 まるで自分のことで溜飲を下げたような物言いだった。

「こんなこと訊いていいのか分かりませんけど、夫婦仲は良かったんですか?」
「ずいぶん単刀直入ね」
 麻子は小さく苦笑いした。
「まあ、最初は良かったと思うわ。そうね、祐輔が生まれたくらいまでは。でも元々がお互いを利用しようとして、利害が一致したから結婚したみたいなところがあったし、仕事も忙しかったし。普通の夫婦みたいにはいかないわ。それに――」
「それに?」
「まあ、中洲に愛人がいただとか、看護婦――今は看護”師”って言わなきゃいけないんだけど――それに手をつけただとか。カネと権力を握ったら、男はどうしてもそっちに行っちゃうのかしらね。誰のおかげで窓際の飼い殺しを逃れられたのか、ホント、身の程知らずにも程があると思わない?」
 そう言われても答えようがなかった。アタシは肩をすくめた。
「用が無くなったっていうのは、どういう意味なんですか?」
「読んで字の如しよ。元々、私が――と言うか、父があの人を求めたのは、敬聖会の経営権や資産を弟に渡したくなかったから。でも、私はもう敬聖会に携わっていくことは出来なくなるわ。だったら別にあの人は必要ない。むしろ、徳永家の資産は一族の中で引き渡すほうが理に適っているわ」
「だからと言って、殺す必要はなかったでしょう」
「そうかも知れないわ。でも今さら離婚だなんて、そんな馬鹿馬鹿しいことやってられないもの。私が破滅するのにあの人にだけ良い目を見せるほど、私は人間が出来ていないわ」
「そんな理由で人を殺したんですか?」
「そうよ。あなた、私がそんなに立派な人間に見える? ――言っとくけど佳織だって自殺じゃないわ。私が殺したのよ」
「知ってます。ナイフで刺したんだそうですね」
 アタシは熊谷が保管していた、麻子が徳永佳織の殺害を自供した供述書に目を通したことを話した。
「それを知ってるなら尚のことよ。佳織ったら昔から面倒ごとばっかり起こして、私はいつも尻拭いばっかりさせられたわ。いい歳になっても結婚もしないで。ある日突然フラッといなくなったかと思うと、父親も分からない娘を連れて帰ってきたり。そのくせ、自分の財産の取り分だけはキッチリ主張したりね」
「供述書には、言い争いの末にカッとなってと書いてありましたね」
「そうよ。……今となっては何という言葉が引き金だったのかも思い出せないけど」

 麻子は目を伏せて、疲れが一度に襲ってきたようにフゥッと長い息を吐いた。
 アタシは訊いた。
「だったら何故、由真も一緒に殺さなかったんですか? 遺産の半分は由真が佳織さんの代襲相続で受け取ってるいるし、彼女はあなたたちの養女だから相続分は祐輔さんと同じです。あなたがたご両親が亡くなれば、結果的に遺産の四分の三はあなたが憎んだ妹の娘にいってしまうんですよ」
「ずいぶんと相続のことに詳しいのね」
 アタシは答えなかった。アタシがこの辺りのことに詳しいのは自分が祖父母と養子縁組したときに弁護士から教えてもらったからだけど、今はそんなことはどうでもよかった。
「……仕方がなかったのよ。あのとき由真まで殺せば、さすがに警察や世間の目を欺くことは出来なかったでしょうから。あの子を養女にするように求めたのは熊谷だけど、それでも私たちがあの子の親でいれば遺産は自由に出来るし、後で由真にもしものことがあれば、それは私たちのもとに帰ってくるものね」
「怪しまれるリスクを冒すよりも、親子ごっこをしながら機会を待ったほうがいいというわけですか」
「そういうこと」
 麻子は口の端に微笑を浮かべていた。
「ところで、まだ答えてもらってない質問があるの、覚えてます?」
 アタシは言った。

 麻子はキョトンとした顔をした。
「そんなの、あったかしら?」
「ええ。何故、あなたが熊谷さんの言いなりになっていたか。昨日の昼に訊いたときは大人の事情ってことでしたけど、もういいんじゃないですか。熊谷さんがあなたを脅すことはないんですから」
「どういうこと?」
 アタシはつい数時間前に敬聖会の特別病棟で何が起こったのかを話した。麻子は由真と祐輔が無事に収容されて快方に向かいつつあるというところで、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、熊谷が私を脅すことはないっていうのは……」
「ここへ来る途中で連絡がありました。手術中に出血多量でショック症状を起こして亡くなられたそうです」
「そう……」
 麻子はもう一度長くて細い息を吐いてから、患者に余命を告げるときのような厳粛な面持ちをアタシに向けた。
「だったら尚のこと、話す必要はないわね。貴女には関係のないことだわ」
 それで話は終わりというふうに麻子はプツンと言葉を切った。そして蓮っ葉な口調で「……警察を呼んで頂戴」と付け加えた。
 アタシはケイタイを開いて村上の番号を呼び出した。このビルの名前と屋上で被疑者が出頭すると言っていることを伝えた。
 電話を切ると、麻子はまたバドワイザーをラッパ呑みしていた。
「すいません、まだビール、余ってます?」
 麻子は手元に視線を落として、最後の一本を無造作に放った。

 アタシは何とかファンブルせずにそれをキャッチした。ツイストキャップを捻ってビールを喉に流し込んだ。意外なことにそれほどぬるくはなっていなかった。
 麻子は奇妙に清々しい表情で、あっという間に朝の色に変わった空を眺めていた。それは一見、罪を償って刑に服する覚悟のように見えた。
 しかし、それは違った。彼女のそれは自分の筋書き通りに話が進んだという自信だった。
 熊谷は死んだ。徳永圭一郎は自分が殺した。徳永佳織もはるか昔に死んでいる。そして目の前の小娘はそれに気づいていない。知っているのは自分だけ。そしてその自分もおそらく極刑に処される。真実はそうやって闇の中へ消えていく。――そういう自信だ。
 アタシはカードを切ることにした。猿芝居はもうたくさんだった。







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