Left Alone

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  第 19 章  

 聞き耳を立てていて分かったことは、渡利純也が仲間を信用せずに隠していたドラッグやカネが未だに何処かに隠されたままだということと、その隠し場所について葉子が何かを知っていたということだ。和津実は危急の金策と、葉子からそのことを訊き出すために近づいた。葉子のアパートを荒らしたのも和津実だろう。
 それが分かれば、ここへ来た目的は果たされたようなものだ。結局、和津実は渡利純也の”遺産”には近づくことができなかったわけだし、それに彼女の口ぶりからしてひき逃げ事件とは関わりはなさそうだからだ。
「じゃあ、事務所で今後のお話し合いといこうか。――ケン、女を載せろ」
 タチバナは若い男に目配せすると、自分はさっさと停めてあったエスティマの助手席に乗り込んだ。

 ケンと呼ばれた男はハルに「さっさとしろ」と言い捨てた。短く逆立った茶髪と丁寧に形を整えたらしい眉。薄く色が入ったメガネとシルバーのピアスがホスト崩れのような如何わしさを醸し出している。
 ハルは和津実を引っ立ててクルマへ引きずっていこうとした。和津実は駄々をこねる子供のように、必死にその場に座り込もうとしていた。
「ちょっと、誰かっ!! 誰か助けてえっ!!」
 和津実は助けを求めて悲痛な声をあげた。しかし、誰も応える者はいない。アタシも含めて。


 和津実とタチバナのやり取りを聞きながら、今さらながら苦々しい感情が湧き上がるのを感じた。この女とその恋人、その取り巻きたちがいなければ――。
 こいつらがドラッグ取引になんて手を染めなければ、アタシの父親はあんなことをせずに済んだ。アタシも普通の女子高生でいられただろうし、村上との関係も――事件がなければ離婚しなかっただろうから進展することはなかったにしても――少なくとも今のような思いをさせられることはなかったはずだ。

 言っても始まらないことだというのは分かっている。事件は確かにアタシを打ちのめしたが、その後のことは悪いことばかりじゃなかった。夜の街をフラフラしていたからこそ由真と出会えたのだし、別れてしまったけれど恋人もできた。つらい思いをしたことで精神的に強くなれたような気もする。
 だからと言って、この女を許すことはできそうにない。
 そんなことに今ごろ気づいている自分の間抜けさに、何よりも腹が立った。


「イ……イヤよ。お願い、おカネはなんとかするから、許して……」
「人聞きの悪いことを言うな。ウチの事務所で話をするだけだ」
「ウソっ!! 知ってんのよ、あたし。あんたたち、ユカリを外国に売り飛ばしたじゃないっ!!」
 ケンが小さく舌打ちを合図に、ハルがグローブのような手で和津実の顔を打った。「ひぐっ!!」という聞き苦しい悲鳴と共に、和津実の顔の下半分が血だらけになった。鼻骨が折れたんじゃないかというほどダラダラと鼻血が滴り落ちている。
 ヤクザを相手にしてまで和津実を助けてやる謂れなど何処にもない。それでもアタシは大男の技量を量ろうと、その足の運びに神経を集中させていた。

 ヤクザから借りたカネが返せなければ追い詰められるのは自明の理だ。和津実がどんな目に遭おうと自業自得以外の何者でもない。本当ならアタシの知ったことではない。
 しかし、今、彼女を救えるのはアタシしかいない。

 和津実が被害者面をしているのは確かに気に喰わない。しかし、彼女への嫌悪を理由に和津実を見捨てようとしている自分はもっと気に喰わない。
 アタシの父親はたまたま自分を頼ってきたというだけの少女を守るためにその手を汚した。そうしたところで何の見返りもなければ、何の救いもないというのに。
 父に対して「一人娘もいるというのにバカなことをしたものだ」という大人たちは大勢いる。常識的にはそれが正論のはずだ。

 しかし、父が渡利を殺していなければ葉子がどんな目に遭っていたかは想像に難くなかった。最悪、彼女は殺されていたかもしれない。
 もちろん仮にそうなったとしても、責任を問われるべきなのは渡利や和津実、その取り巻きたちであってアタシの父ではない。父はいくらでも葉子のたどる末路に対して自分を言い繕うことができた。

 しかし、父はそうしなかった。
 父だって自分のしたことに何らかの、そして少なからざる後悔はあっただろう。アタシを始めとした周囲の人間に迷惑をかけたことや、求めに応じて自分を告発したことで未だに苦境に立たされている村上のこと。そして、いかなる理由があったとしても人を殺めたという事実に。
 誰かを守るために自分を犠牲にするのは、おそらく愚か者の所業なのだろう。ただ、それでも父は自分のしたことに何も恥じることはなかったはずだ。
 そして、アタシはそんな男の娘なのだ。

「――ちょっとあんたたち、何やってんのよ!!」
 暗がりから出て、わざとらしいほどの大声で怒鳴った。
 もっとも、通りすがりの人間に見られた程度で止めるようなら、最初からこんなところで拉致を企てたりはしないだろう。アタシもこれで引き下がるとは思っていなかった。案の定、ケンはアタシに向かって、見て見ぬフリを強要するようなじっとりとした眼差しを向けただけだ。
 アタシは無造作にエスティマのほうへ歩み寄った。助手席のタチバナも外の様子に気づいているようだったが、フロントグラスに映り込む街灯でその表情は見えない。

「おい、痛い目に遭いたくなかったら余計な口出しするんじゃねえ。あっちに行ってろ」
「バカなこと言ってないで、さっさとその人を放しなさいよ。じゃないと、警察を呼ぶわよ」
 ケンは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「そんなことさせるかよ。しょうがねぇ、ハル。その女を黙らせろ」
「うっす」

 ハルはオモチャに飽きた子供のように、つかんでいた和津実の腕を放した。
 仁王立ちのようなのっそりとした立ち姿は格闘技者のそれではない。その並外れた体格と持ち前のパワー、そして分厚い脂肪層がもたらす打たれ強さが売りというタイプだ。ケンカにおいて体格差は絶対的なアドバンテージで、それを生かすことに長けているこの手のケンカ屋は意外と多い。
 まともな打ち合いではアタシのほうが分が悪いのは確かだ。しかし、アタシは自分より大きな相手とは充分な対戦経験がある。要は真っ正面から当たらなければいい。
「後悔するぞ」
「あんたがね」
 腹の肉を揺らしながら、ハルはアタシの腕を掴もうと無造作に手を伸ばした。それをいなしてバックステップでかわす。後ろにスペースがあることは確認してあった。

 ハルはさらに前に出た。本当に前に踏み出しただけだ。腕でも服でも掴んでしまえば終わり――そんな戦い方だ。ケンカの方法論としては間違いではない。
 ただ、それにしてはスピードがなさすぎた。
 サイドステップでハルの軸線上から外れながら、残した膝下を鋭く振り抜く。爪先をハルの体重のかかった踏み込み足、その膝頭の下辺りに叩き込む。ブーツの先端とハルの骨がたてるカツンという音が聞こえたような気がした。
 格闘技の中で靴を履くのはボクシングだけだ。そしてボクシングには蹴りはない。すなわち靴を履いて相手を蹴る格闘技は存在しない。何故か。事実上、凶器で殴っているのと同じだからだ。おまけにアタシのショートブーツはいわゆる安全靴で、先端には爪先を覆うように鋼の芯が入っている。元々は得意技のブラジリアン・ハイ・キックの威力を上げるために履き始めたものだ。

「――っ!!」
 ハルは声にならない悲鳴をあげてその場に崩れた。それでも、膝を押さえて身体を立て直そうとしたのは褒めてもいいかもしれない。
 しかし、それがハルの命取りだった。アタシの上段回し蹴りが、立ち上がりかけたハルの顔面を完璧に捉えた。おそらく自分の身に何が起こったのかすら分からなかっただろう。

「――なっ!?」
 どさりと仰向けに倒れる巨体を目の当たりにして、ケンが素早く身構えた。ボクシングの右構え、だらりと下げた左手を幻惑するように動かすデトロイト・スタイル。
 内心でため息をついた。トーマス・ハーンズが使うこのスタイルは格好もいいし、ディフェンス技術の上級者がやれば抜群の戦闘力を発揮する。しかし、そうでなければ防御を忘れたただの馬鹿だ。
 残念ながらケンは馬鹿のほうだった。スローなジャブを捌いてしまえばあとは隙だらけ。顔面に正拳を叩き込んでから、後ろ回し蹴りで側頭部を蹴飛ばした。フラフラとたたらを踏みながら二、三歩歩いて、ケンはバッタリと倒れた。
 次の瞬間、エスティマの猛烈な空吹かしと甲高いホイールスピンが耳に飛び込んできた。

 タチバナは運転席に移っていた。エスティマがつんのめるように走り出す。降りてくるかと思ったら手下二人を見捨ててとっとと逃げるのか。
 いや、それはどうでもいい。逃げたきゃ勝手に逃げろ。好きにしてくれて構わない。問題はエスティマの進路上に和津実がへたり込んでいることだ。完全に硬直したまま、迫り来るヘッドライトを凝視している。

 ――撥ねられる。
 そう思ったときには、アタシは和津実に駆け寄って身体に組み付いていた。体当たり同然に彼女を突き飛ばして、一緒に倒れこむように鋼鉄の塊から逃れた。アタシよりもずっと背が低いくせに、和津実はアタシ以上に重たかった。
 エスティマはギリギリのところで和津実とアタシを避けて――仮に接触していてもそのまま逃げたであろう勢いで走り去った。

 荒くなった息を整えているとケイタイが鳴った。由真からだ。
「……どうかしたの?」
 様子を窺うようなひそひそ声。バックでB’zの「イッツ・ショウタイム」が流れている。車内で声を潜めてどうするのだろう。

「どうしたって、何が?」
「ううん、今そっちからすっごい勢いでクルマが出てきたから。ひょっとして何かあったのかなって」

「ちょっとトラブル。でも、とりあえずやり過ごしたよ」
 ケンとハルを見やった。二人が意識を取り戻すのにそれほど時間はかからないだろう。早くこの場を離れたほうがよさそうだ。女にぶちのめされたとは口が裂けても言わないだろうが、できればリターンマッチは避けたい。

「ケガ人がいるの。こっちにクルマ回してくれない?」
「オッケー」

 電話を切って振り返ると、和津実が口許を乱暴に拭いながら立ち上がっていた。服についた砂や埃をオーバーな手つきで払うと、そのたびに豊満な胸元がゆさゆさと揺れる。血で真っ赤に染まっていなければ、その深い谷間はそれなりに彼女のチャーム・ポイントなのだろう。ふん、羨ましくなんかないぞ。
 シャネルのバッグにはハンカチとかタオルの類は入っていないようだ。持っていたハンドタオルを放ってやった。タチバナたちに向けたのとあまり違わない剣呑な眼差しを向けながら、顔の下半分をゴシゴシと拭う。
「助けてあげたんだから、お礼くらい言ったら?」
「……あんた、誰?」
「白石葉子の知り合い。榊原真奈っていうの。ま、あんたには県警の佐伯の娘って言ったほうが分かりやすいかもね」
「サエキ?」
 和津実はアタシを斜に睨んだ。彼女がそういう表情をすると余計に狡猾そうに見える。
 父のことには思い当たらないようだった。それは和津実の渡利純也に対する想いがどんなものであるかを示している。自分の恋人を殺した相手の名前を忘れるなど、普通はあり得ないことだ。
 それでも時間が経つにつれて、和津実の中で何かの像が結びつつあるようだった。アタシを見る目が明らかに変わってきていた。
「ひょっとして佐伯って、ジュンを殴り殺した刑事のことじゃねえの?」
「ご名答。でも、殴り殺したっていうのは正確じゃないわ。あんたの彼氏は殴られて倒れたときの打ちどころが悪かったのよ。父さんが止めを刺したわけじゃない」
「同じことじゃん。――ハッ、今ごろ何? 詫びでも入れに来たのかよ?」
「バカなこと言わないで。あんたは渡利の遺族でも何でもない。さっきの話を聞いている限りじゃ、あんたには元恋人を名乗る資格もなさそうだし」
 アタシが父の代わりに謝る相手がいるとしたら渡利純也の本当の遺族だけだ。もっとも、渡利にはそう呼べる相手はいないと聞いているが。
「だったら、あたしに何の用さ?」

「言ったでしょ、白石葉子の知り合いだって。あんた、彼女を強請ってたんだって?」
「強請った? 冗談じゃねえよ。あたしはあの女に貸しを返してもらってただけ。それより、あんたと葉子が知り合いってどういうことだよ?」
 言ってから、和津実は小賢しそうに目を細めた。
「ははあん、そういうこと。あんたが葉子に自分の親父のこと、紹介したってわけだ」
 何を言っているのか、意味が分からなかった。
 しかし、それはすぐに繋がった。葉子と父の接点のことを言っているのだ。聞いた話では葉子の友人の誰かが父のことを知っていたということだったが、それは和津実の知らない人物なのだろう。
 訂正するほどのことでもないので、その問いは無視した。
「葉子に貸しがあったってどういうことなの?」
 答えないかと思ったが、興奮気味の和津実は話に乗ってきた。
「葉子はね、あたしをこんな世界に引っ張り込んだ張本人なんだよ。あいつに誘われるままに遊びに行ってたら、気がついたらヤクの売人のオンナにされちゃってさ。なのにあいつ、ジュンが死んで頭を押さえつける相手がいなくなったら、自分だけちゃっかり学校に戻りやがってさ。こっちはその間、必死で逃げ回ってたっていうのに」
 何から逃げていたのかと訊いても、和津実は答えなかった。
「その貸しをカネで払わせてたの?」
「そんなとこ。葉子があんたの親父にジュンを売ったことを知ってるのは、仲間内でもあたしだけなんだ。それを当時の仲間に知られたくなければ、ってね」
「麗しい友情ね」
 さっきの話では渡利の死によってその”仲間たち”とやらは何も持たずに放り出されている。その中に葉子に責任を取らせようと考える者がいるのは確かにあり得ることだ。
 由真のBMWが近づいてきて急ブレーキを踏んで停まった。さっきの出来事のせいか、和津実はそのヘッドライトに一瞬だけ顔をしかめた。
「とりあえずこの場を離れたほうがいいわ。乗りなさいよ」
「はあっ!? 何であんたのクルマに乗らなきゃなんねえの」
 心底意外そうな声だった。
その柔らかそうな腹にブーツの爪先を叩き込みたくなる衝動を懸命に堪えた。
「アタシだって乗せたかないわよ。でも、あいつらがいるところにあんたを残していくわけにはいかないでしょ。さっきのヤクザもいつ戻ってくるか分かんないし」
「大きなお世話。そこに迎えが来てるはずだし」
 和津実は大通りのほうへ顎をしゃくった。そういえば、コイツはデリヘルにご出勤の最中だった。行きたければ行けばいい。これだけいがみ合ったままでは、どうせまともな話などできそうもない。
 和津実はアタシに背を向けて誰かに電話をかけ始めた。その迎えとやらだろう。待たせたことを謝っているが、口調だけ聞いているととても謝っているようには聞こえなかった。
「その顔で行く気?」

「……何か文句あんのかよ」
「アタシは別に。でも、そんななりで現れるんじゃ、相手の男の人が気の毒だと思って」

「ちゃんとシャワー浴びて着替えるに決まってんじゃん。ケンカ売ってんのかよ?」
 言ってから、和津実は気まずそうな表情を浮かべた。それが実力行使ではアタシに敵いそうにないからか、自分が誰に助けられたのかに思い当たったせいかは分からなかった。
 最後にアタシを一睨みして和津実は無言で踵を返した。BMWの横を通り過ぎるときに車内に向かってきつい一瞥を投げて、殊更にヒールの音を立てながら歩き去る。

 その後姿が表通りに出るまで見送ってから、BMWの助手席に滑り込んだ。
「たいへんだったみたいだね」

 運転席側の窓が少し開いている。話は聞いていたのだろう。
 詳しい話は後にして、とりあえずこの場を離れることにした。BMWは街中へ向かって走り出した。アタシは起こったことをかいつまんで説明した。
「へえ……。じゃあ、あれがお目当ての彼女だったの?」
「そう。聞いてたとおり、ロクな女じゃなかったけど」
「そんな人を助けるためにヤクザとケンカしたんだ?」
「しょうがないでしょ。あそこで見捨てて後味の悪い思いしたくなかったんだもん。明日の新聞に”デリヘル嬢、博多湾で溺死”なんて記事が載ってたら、やっぱり気分悪いしさ」
 由真は忍び笑いを洩らした。
「……何がおかしいのよ?」
「いや、そういうとこ変わんないなって思って。どうして素直に正義の味方になれないかな」
「やめてよ。そんなんじゃない」
「そういうことにしといてあげるよ」

 由真は相変わらずニヤニヤしていた。アタシは腕組みして、シートの背もたれにどっかりと身体を預けた。
「でもさ、すごかったね」
「何が?」
「あの人の胸。風船でも入れてるみたいだったもん。あれ、間違いなくGとかHとかあるよ」
「何見てんだか……」
 興奮気味にこっちを見る由真を、冷ややかに見返してやった。
「やっぱり男の人って大きいほうがいいのかな?」
「それは個人の趣味だと思うけど。それにあんた、結構あるじゃない」
 着痩せするせいであまり目立たないが、由真はなかなか立派なバストの持ち主だ。彼女がアタシに身体を寄せてくるのは一種のスキンシップでヘンな意味はないはずのだが、それでも薄着のときにやられるとその柔らかさと量感にちょっとドキドキする。同時に、幾らかのほろ苦い気分にもさせられる。
 信号で止まったとき、由真はアタシの目を覗き込んだ。
「ねえ、真奈?」
「……な、何よ、改まって」
「あたしで良かったら、大きくなるように揉んであげようか?」
「あんた、ホントにぶつよ?」

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