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Left Alone

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  第 32 章 

 ドアの外に”藤原とうふ店”と書いてあるんじゃないかと疑いたくなる桑原の運転に肝を冷やしつつ、アタシはどうにか生きたままで博多警察署の地下駐車場に辿り着いた。
 桑原は空いていたスペースに黒塗りのトヨタ・キャバリエをバックで突っ込んだ。助手席のヘッドレストに手をかけて半身で後ろに乗り出し、手のひらでステアリングを回すという、世間では女子ウケすると言われているやり方だ。別に難しくもなんともないので、アタシにはその辺はどうでもいい。一つ言えるのは桑原がやっても誰もときめくことはなかろうということだけだ。
 トヨタの名前がついているがキャバリエはシヴォレーのクルマで、造りにはアメ車らしい野暮ったさが感じられた。年式が古いせいもあってエンジンもスムーズに回っていないように聞こえる。「騎士」を意味する「Cavalier」の綴りを「キャバリエ」と読ませることに村上が文句を垂れていたことがあって――フランス語で「シェヴァリエ」、英語では「キャヴァリア」になる――アタシはこのクルマのことを知っていた。どうでもいいことのような気はするのだが。
 青白い光に照らされたコンクリート壁の空間は、外の暑さが嘘のようにひんやりした空気に満たされていた。壁際にはお馴染みの白黒ツートンや、それに混じってダークカラーのセダンがずらりと並んでいる。来客用の駐車場ではないのでセダンはどれも覆面パトカーか捜査車両なのだろう。外見は普通のものと違わないのに、水銀灯が生み出す強いコントラストのおかげでやけに威圧的な面構えに見える。
「へえ、こんなふうになってるんだ」
「地下駐なんて何処も違わねえだろ。停まってるクルマは普通じゃねえけどな」
「それを運転する刑事も普通じゃないみたいだけど?」
 嫌味っぽく言ってやった。まったく、何処の警官が街のど真ん中で派手なスキール音を鳴らしながら交差点を抜けていくというのだ。
 桑原はブツブツと言い訳のようなことを呟きながら、守衛の警官には何も説明もせずにアタシをエレベータに乗せた。刑事としての評価がどうなのかはともかく、これだけアクが強ければ知らない者はいないに違いない。大抵の場所では顔パスなのだろう。
 桑原は八階のボタンを押した。
「俺は捜査会議に出なきゃならん。その間、どうする?」
「どうするって……。だったらアタシ、一回帰ってもよかったんじゃないの?」
「そのまま出てこねえつもりだろ、おまえ」
「んなわけないじゃない」
 村上の病室の前でひとしきり揉めたあと、アタシは事情聴取のために捜査本部が置かれている博多署に連れて行かれることになった。交換条件だった面会が叶わなかった以上、断っても咎められる筋合いはない。それなのに黙って着いてきているのは、家に帰ったところで睡眠時間の確保以外のことはできないからだ。
 会議が終わるまで、何処かで仮眠をとらせてもらうことにした。
「また、面倒なこと言いやがるな、お前」
「どうしてよ?」
「俺は県警の人間なんだぜ。所轄の部屋を勝手に使えるわけねえだろ」
「じゃあ、どこで寝ればいいのよ?」
「俺のクルマで寝てろ」
「やだ。タバコくさいんだもん」
 短いやり取りの末、アタシは博多署の隣にある博多区役所の待合にいることになった。署の裏は広々とした公園なのだが、真夏の陽射しの下で居眠りするほどアタシは無謀ではない。
 エレベータは八階まで上がって、桑原はそこで降りた。
 廊下の向こうに会議室らしきものがあって、入口の脇に捜査本部の名称を書く長い木の板が立て掛けられているのが見えた。縦長で位牌に似ていることから、捜査本部名を”戒名”と呼ぶのだと父親から聞いたことがある。捜査本部が設けられるのが主に殺人事件などの重大事件だということを考えると、性質の悪いブラック・ユーモアとしか思えない。
 エレベータには誰も乗ってこない。そのまま一階に降りた。
 博多警察署は県下最大の警察署だ。当然、その一階にあるいろんな窓口を訪れる人も多い。二階の交通課に呼び出しをくらった人のために案内板まで立ててある。職員は全員警官だし、彼らは夏服でも充分にいかついのであまり和やかとは言えないが、応対の丁寧さは他の公共機関よりよっぽど良かったりもする。
 ただし、それは相手が善良な――せいぜい交通違反程度の違法行為しかしていない一般市民に限っての話だ。そうでない者は最初から表玄関からは入れてもらえない。
 アタシが警察署に足を踏み入れるのは今回が初めてではない。回数も一度や二度ではない。福岡市内にある八つの警察署のうち、空港署と臨港署、西署以外の五つはすべて網羅している。中でも博多署には三回も連れて来られたことがある。
 理由はいずれも裏口からご招待される類のものだった。
 
 およそ半年の不良少女時代、アタシは何回も――正確には八回、補導されている。
 理由は主にケンカと飲酒、深夜徘徊だ。タバコは身体に合わなかったのでやらなかったし、薬物は最初から選択肢になかった。窃盗や恐喝にもまるで興味がなかった。アタシは万引きにスリルを感じる感覚が今ひとつ理解できない。ケンカが始まる直前、身体が熱を持つのと裏腹に頭が冷めていき、相手が打撃練習用のダミーにしか見えなくなる感覚に比べたら、まるで退屈な気がするからだ。
 いずれにしても、捕まらないように遊べないほど要領が悪いわけではなかった。自分で言うのもなんだけど悪知恵は働くほうだし、実は逃げ足も相当速い。公式計時ではないがアタシは一〇〇メートルを十二秒フラットで走ったことがある。
 むしろ、その頃のアタシには捕まることを望んでいたフシがあった。
 すでに祖父母の籍に入っていたアタシは普段は榊原姓を名乗っていた。ただし、警察の事情聴取のときだけは父の姓――佐伯真奈を名乗り続けた。免許証と違うことを追求されても頑なにそう言い続けた。そして、自分が佐伯真司の娘であることを声高に喚いた。
 それは復讐だった。
 父の上司だった権藤はそれを聞きつけて取り調べ中のアタシを諭しに来たことがある。同じようにアタシの素行はいずれ村上の耳にも入るはずだった。”あんたが正義を気取って父さんを告発したことが、アタシをこんな人間にしたんだ”――逆恨みにすぎないことは当時でも分かっていたけど、それでも何か、村上にも心の重荷を背負わさずにはいられなかった。
 村上は結局、一度もアタシの前に顔を出さなかった。あとで知ったことだが、その時には村上はすでに県警の薬物対策課から博多署の刑事課に異動になっていた。それなのに、だ。
 和解したあとで来てくれなかった理由を訊いたときには、「……俺だって気まずかったんだ」というぶっきらぼうな答えが返ってきただけだ。逆にあまりにも子供じみた振る舞いを詰られて、その話はそれっきりになっている。
 
 考え事をしながらその場にボーっと突っ立っていると、怪訝そうな顔つきの窓口の女性警官と目が合った。アタシはとっさに愛想笑いを浮かべてその場を去ろうとした。
 次の瞬間、ヒステリックな怒号が周囲に響きわたった。
「いったい、どういうことなのよッ!!」
 周囲の誰もが声の方向――総合受付のほうに目を向けていた。
 アタシの位置からは、声の主の白っぽいリネンのパンツ・スーツの後ろ姿しか見えなかった。短い黒髪はショートボブというより、おかっぱというほうが合っている。服の上からでも分かるほどの痩せぎすの体型で、周囲の疎ましそうな視線を無視して受付のカウンターを叩く手は、ほっそりを通り越して手術用のゴム手袋をかぶせた骨格標本のようだ。肩から提げたバッグを邪魔そうに身体の後ろに追いやるのだけれど、前のめりの姿勢のせいですぐに元の位置に戻ってしまう。すると、それをまた押し戻す。受付の警官とのやり取りの間、彼女は何度もその動作を繰り返した。
 しかし、その体躯とは裏腹に声と態度はパワフルそのものだった。彼女は責任者を出せと息巻いた。自分の手に負えないと判断したのか、応対していた実直そうな顔立ちの若い警官は背後の上司に助けを求めた。 
 ピンチヒッターが出てくるまでの間、彼女はあたりをつまらなそうに見渡した。頬骨の高いちょっとエキゾチックな横顔が見えた。アタシは思わず息を呑んだ。
「……菜穂子さん!?」
 口にしてから激しく後悔した。彼女の耳に届いていないことを祈った。
 しかし、相手はハッとしたようにこっちを向いた。彼女が夫――正確には元夫――の独り言を聞き逃さない地獄耳の持ち主だということを村上の酒席での愚痴で聞いた覚えがある。
「あら、真奈ちゃん。こんなところで何してるの?」
 和風美人の高坂朋子とは似ても似つかない東南アジア系のシャープな顔。その中で爛々と輝く眼差しがアタシを射すくめていた。人間誰しも、一人くらいは”天敵”としか言いようのない相手がいるものだ。コブラにとってのマングース、アタシにとっての彼女がまさにそうだった。
「久しぶりねぇ。良かったら、ちょっとお茶しない?」
 村上菜穂子――いや、高坂菜穂子はそう言って、それまでのヒステリーが嘘のようにニッコリと笑った。

「――へえ、そういうことになってるんだぁ?」
 今朝、アタシのケイタイに入った電話から博多署の受付で顔をあわせるまでの一通りの経緯を聞き終えると、高坂菜穂子はヴァージニア・スリムの白っぽい灰を灰皿に落とした。
 アタシと彼女は博多署と同じブロックにあるホテルのダイニングにいた。
 開放感のあるオープンカフェで、フローリングの床は屋外に張り出したウッドデッキまで続いている。本当は少し離れたホテル日航のラウンジがお気に入りらしいのだが、桑原警部が会議を終えるのを待っていると言うと、彼女は近くのこの店を選んだ。「区役所の喫茶室でもいいんじゃ?」というアタシの意見はあっさり無視された。
 久しぶりに会った菜穂子は一段と日本人離れした容貌になっていた。雪焼けの名残りのように浅黒くて、その上、ただでさえメリハリのある顔立ちにキッチリとメイクをするので、一歩間違うとアジア方面の女性にしか見えない。実際、街を歩いていて前触れもなくタイ語やベトナム語で話しかけられたという逸話も聞いたことがある。少なくとも、やり手の刑事弁護士には見えない。
「それで、おとなしく警察くんだりまで着いてきたんだ?」
 菜穂子は面白がるような口調で言った。
「だって、帰ったってしょうがないですもん。取り調べの中で何か分かるかもしれないし」
「分かったらどうするの?」
「そりゃあ……」
 そこで答えに詰まった。一体、アタシはどうするつもりなのだろう。と言うより、アタシに何ができるのだろう。
 和津実が殺されたことも村上が撃たれたことも、犯人を捕まえて真相を明らかにするのは警察の仕事でアタシが出る幕ではない。一方で村上の窮地に関してもアタシにできることがあるかどうかは分からなかった。それ以前に村上に何の容疑がかかっているのかすら分からないのだ。
「そういう後先考えないとこ、二年前と変わってないのね」
「二年前?」
「敬聖会の事件よ」
「どうして、そのことを菜穂子さんが……?」
「恭吾に聞いたに決まってるじゃない。いつだったか、一緒に呑んだときにね」
「……へぇ」
 離婚後も、二人は酒の席でそういうことを話す関係を続けているわけだ。
 考えてみれば、憎みあって別れた夫婦ではないのだからおかしな話ではないのだろう。彼女の姉の言葉を借りれば二人の夫婦生活はアタシの父親がメチャメチャにしたのだ。村上自身は県警幹部である高坂姉妹の父親に「上司に逆らって左遷されるバカのところに娘は置いておけない」と申し渡されたと言っていた。
「ヘンかな、別れた夫婦がそんなふうに会ってるのって?」
「……別にいいんじゃないですか」
 彼女の視線から逃れるようにさりげなくそっぽを向いた。
 
 人見知りをする割にはアタシは他人に苦手意識を持つことがない。周りに関心がないわけじゃないが、どちらかと言えば「自分は自分、他人は他人」というタイプだからだろう。
 しかし、そんなアタシが顔を合わせるだけで憂鬱になり、同時に萎縮してしまうのが村上菜穂子という女性だった。
 そもそも村上がアタシの家に出入りするようになったのは、彼女が司法修習生になって家を空けがちになったことで村上の食糧事情が悪化したのを父が見かねたからだ。後で聞いた話では、アタシの料理のレパートリーがまだ乏しく――当然だ、小学六年生だったのだから――大鍋でたくさん作るものばかりだったから、一人くらい食い扶持が増えても問題ないと思ったらしい。
 とは言え、さすがの村上も初めてウチに来たときには、後の横柄な態度が嘘のように恐縮していた。水炊きの鍋から立ち上る湯気で曇ったメガネを何度も拭う仕草に――正確にはそのときに覗いた彼の端正な素顔に子供心にもドキッとしたことを、アタシは今でも覚えている。当時はまだ、それが初恋だなんて思いもしなかった。
 別に伝える必要もないと思っていたのか、父はアタシに村上が結婚していることを教えてくれていなかった。アタシがそれを知ったのは、夏休みに非番の村上がドライブに連れて行ってくれたときだ。
 村上のデルタの助手席に乗っている女性の姿にアタシはかなりショックを受けた。
 菜穂子はそんなアタシに向かって自分のせいで迷惑をかけていることを詫び、子供の身で家計を預かるアタシに大げさな賞賛を贈った。おそらく、そこには何の他意もなかっただろう。
 アタシは当然のように後部座席に乗せられた。目的地までの道中、前の二人はアタシを気遣いながらも、他人には入り込むことができない空気を共有していた。
 夫婦なのだから当然の光景だった。しかし、それはアタシの小さな胸に鋭く突き刺さった。アタシは生まれて初めてジェラシーを感じた。
 もちろん、それは筋違いなものだ。しかし、自分の憧れを憧れとして処理してしまうにはアタシはあまりにも子供だった。
 それからも時折、菜穂子は夫と一緒にアタシの前に現れた。そのたびにアタシはその場を離れようとしたし、そうすることができないときは何でもないフリをしながら他のことに没頭しようとした。
 菜穂子はそんなアタシにわざとらしいほど優しく接した。だからこそ、アタシは彼女が嫌いだった。
 ふと、アタシの脳裏に合鍵を返しに行ったときの村上の部屋の様子が浮かんだ。村上が自分でやったにしては片付きすぎていた。もし、他の誰かに泣きついてやってもらっていたのだとしたら――。

「菜穂子さんはどうして博多署に?」
 くだらない回想と邪推を追い払うように話題を変えた。
「姉さんから、恭吾が撃たれたって連絡をもらったのよ。最初は病院に行こうとしたんだけど、部外者は会わせてもらえないって聞いたから、こっちに来たの。捜査本部は博多署に立ってるっていうし、だったら、責任者もここにいるはずだものね」
 彼女が言う”責任者”とは村上を拘束している人間であり、それなら捜査本部内にはいるはずがない。片岡監察官のことだからだ。桑原の反応を見るまでもなく捜査本部もそのあたりの事情は把握しておらず、銃撃事件と身柄の拘束がまったく別だということを知らない菜穂子と話が噛み合うはずがない。
「責任者に会って、どうするつもりだったんですか?」
「さあね。でも、何も分からなきゃ動きようがないし。まずは状況の把握。難しいことを考えるのはその後よ」
「……なるほど」
 だったらアタシだってそうだ。
 菜穂子はエスプレッソを飲み終えて、デミカップの底に溶け残った砂糖をチビチビと舐めている。砂糖を入れて掻き混ぜずにエスプレッソだけを飲んでしまい、沈殿した苦味のある飴のような砂糖を楽しむのがイタリア風らしい。どうせパンツェッタ・ジローラモのエッセイあたりで仕入れた知識に違いないが。
「村上さんは逮捕されたんですか?」
「そういうわけじゃないわ。警察の内部調査の一環よ」
 何がどう違うのか、アタシにはよく分からない。
「分かりやすく言うと”逮捕”っていうのは裁判所が出す令状に基づいて身柄を拘束されること。恭吾の場合はまだ警察内での事実関係の調査の段階。監察事案って言うんだけどね。これが厄介なのは非公開だってことと、通常の被疑者の取調べと違ってあくまでも内部調査だから、外部の人間――要するに弁護士がつけられないこと」
「だったら、菜穂子さんだって手の打ちようがないんじゃ?」
「あたしの父親が誰だか知ってる?」
「……そういうことですね」
「とりあえず、何の嫌疑かさえ分かれば事実関係の調査のしようもあるわ。幸いにもうまく相手の懐に潜り込めそうだしね」
 菜穂子は意味ありげにアタシの顔を見た。事情聴取の中で訊き出せと言われているのだ。
 うまくいく可能性はなくもない。博多署の捜査本部は重要証人である村上との接触を禁じられて、監察室に対して並々ならぬ不満を抱えているはずだ。意外におしゃべりな桑原警部あたりならポロリと洩らしそうな気はする。ただし、彼の耳に入っていればの話だが。
「真奈ちゃん、うまくやれる?」
 アタシはうなずいた。彼女の手先になる気などさらさらないが、利害は間違いなく一致する。彼女がアタシを利用するつもりならそれでもいい。アタシも彼女を利用させてもらうだけだ。
 あと一服させてくれ、という菜穂子を待っているとケイタイが鳴った。桑原からだった。
「……何処に逃げやがった?」
 そんなに腹を立てているような口調ではなかった。
「あんまり待たせるから、ちょっとお茶してたのよ。だいたい、参考人をこんなにほったらかしといていいの?」
「仕方ねえだろ。警察だって一度に何もかもはできねえんだよ」
「とりあえず、今から戻るわ」
 それだけ言って一方的に電話を切った。警察の都合などアタシの知ったことではない。

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