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Left Alone

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  第 33 章 

 博多署に戻ったのはそれから四〇分後のことだった。本棟と別棟の間を繋ぐ渡り廊下の下、アタシにとっては正面入口より馴染みがある署の裏口で、桑原は苛立たしそうに待ち構えていた。
「……すぐ戻るって言わなかったか?」
「しょうがないじゃない、頼んだ料理が出てくるのに時間がかかったんだから。それともなに、代わりに美味しいものでも食べさせてくれるの?」
「取調室でカツ丼なんてどうだ?」
「面白くない」
 小声でブツクサ言いながら、桑原はアタシをエレベータに乗せた。
 事情聴取は取調室ではなくて、捜査本部と同じ八階の殺風景な小部屋で行われることになった。とは言っても、訊き手である桑原とアタシがテーブルを挟んで向かい合わせに座り、別のテーブルに記録係の刑事がいるというフォーマットは不良少女時代に受けた取調べと同じだった。面通し用のハーフミラーがないだけだ。
「で、何を話せばいいの?」
「余計な気を回す必要はねえよ。訊かれたことに答えりゃいい」
「あっ、そう」
 アタシはどっかりとパイプ椅子の背もたれに身体を預けた。脚も高々と組んでやりたかったけど、テーブルが思いのほか低かったのでそれは断念した。
 最初に今朝の謎の電話に始まって南福岡駅に到着するまでの経緯を訊かれた。特に隠し立てすることもないので、実際に起こったことを時系列に沿って話した。電話の主が権藤康臣だったかどうかについては、声でそうだったと言えるほどの自信はないと答えた。ボソボソと押し殺したような声だったし、そうでなくても耳の記憶などあまりアテにはならない。
「むしろアタシとしては、車両基地で村上さんを撃ったのが本当に権藤さんだったのか、そっちのほうが信じられないんだけど」
「近くのマンションの住人の目撃証言があるし、逃走経路にあたる基地の南側のコンビニの前で、権藤の姿が目撃されている。店長がヤクザ映画の大ファンでな。間違いなく奴だったと証言してるのさ。有名人に似てるってのも不便なもんだな」
「それだけ? 偶然、通り掛かっただけかもしれないじゃない」
 桑原の目に一瞬、底光りのようなギラリとした色が走った。
「だったら、もっと決定的な証拠を教えてやるよ。ついさっき権藤のアパートにガサをかけたんだが、ガンオイル塗れのウェスやら油紙なんぞが出てきた。それと隠してた箱と”Cz”ってタグが付いたビニール袋な。あと、9パラの空薬莢がいくつか。何処かで試し射ちしたんだろう」
「Czって?」
「拳銃の名前だ。おそらくCz75のことだろう。チェコ製の9ミリ・オートマチックだ」
 どうせ中国製のコピーだろうがな、と桑原は付け加えた。
「ちなみに奴は一週間前に急に辞表を出してる。理由は分からん。健康上の理由だと上司には言ってたらしいが、今にして思えば今回の事件を起こすために辞めたのかもしれねえ。迷惑をかけねえようにってな」
「……なるほどね」
 薄々覚悟はしていたが、権藤康臣がアタシが知っている”権藤課長”ではないことはもはや否定しようがない。ギョロリとした目でアタシを見てはクドクドと小言を垂れる権藤の表情が脳裏に浮かんだ。ウザイと思うことも少なくなかったけど、それでも父が刑務所に行ってからアタシのことを心配してくれた数少ない一人であることに変わりはない。その彼が何故、こんな凶行に及んだのか。権藤と和津実の間に、いったい何があったというのか。
 アタシの想いをよそに質問は続いた。
 最近、権藤と会ったか?(つい先日、親不孝通りで偶然顔を合わせた)
 権藤はそんなところで何をしていたのか?(知り合いの店を訪ねて来たが潰れてなくなっていたらしい)
 その店の名前は?(そんなこと訊かなかった。権藤とはその場で別れた)
 権藤が村上の負傷を知らせる相手にアタシを選んだ理由は?(アタシと村上の関係を知っているからだろう。他にその役目を負わせられそうな人物に思い当たらなかったのかもしれない)
 権藤と吉塚和津実の間柄は?(アタシが知るか。本人に訊いてくれ)
「他には?」
「とりあえず、そんなところだな。権藤に関しては」
 本題は別にある、ということだ。アタシはこれみよがしに鼻を鳴らしてやった。
「……少し休憩しよう」
 桑原はタバコに火をつけた。壁には大きく”禁煙タイム 9:00〜17:00”という貼り紙がしてあるが、気にする様子もなく美味そうに煙を吐き出している。被疑者と一緒に拷問を受けたようなスチールの灰皿が据わりの悪さを訴えるようにカタカタと鳴った。
「そういえば、村上さんの電話は見つかったの?」
「村上の? それがどうした?」
「ううん、電話がかかってすぐにすぐにコールバックしたんだけど繋がらなかったから。ひょっとして村上さんが誰かに電話できないように、権藤さんが持っていったんじゃないかと思って」
「それが?」
「今のケイタイってGPSが付いてるから、それで権藤さんの居所が分かるんじゃないの?」
 権藤は小さくせせら笑いながら肩をすくめた。
「いい考えだ、と言いたいところだが、真っ二つにへし折って捨ててあったよ。ご丁寧に二つともな」
「二つ?」
「村上の奴、携帯電話を使い分けてたらしい。片方はドコモ、片方はソフトバンクのプリベイド――ま、買ったときはボーダフォンだったようだが」
「アタシが使わないからってあげたやつかな」
 桑原の眉がスゥッと持ち上がった。
「そうなのか?」
「分かんないけど。番号を言うから比べてみて」
 自分のケイタイから呼び出した”〇八〇”で始まる番号を読み上げた。記録係の刑事は手元の資料を目で追って、小さく首を振った。
「違うみたいですね。〇八〇なのは一緒ですけど」
「すると村上の奴、ケイタイを三つも使ってたことになるのか」
「みたいね」
 アタシはケイタイをパタンと折り畳んだ。葉子の名刺ホルダーに残っていた村上の名刺――その裏に記されたケイタイの番号は、村上のものではなかったことになる。
 由真が言ったとおりだ。

 四〇分の遅れのうち、三〇分は食事ではなく由真との電話での打ち合わせに費やされていた。
 今朝の経緯から考えると、お互いに冷静に話ができる精神状態ではない。ふてぶてしい笑みを浮かべる由真の顔を思い浮かべるだけで、頭に血が上りそうになる。
 それでも、アタシはまったく逡巡することなく通話ボタンを押していた。警察と話をする上でどうしても確認しておかなくてはならないことがあったからだ。名刺の番号もその一つだ。
「――へえ、そういうことになってるんだね」
 病院で別れた後のことを話すと、由真は何処かで聞いたような台詞を吐いた。
「そう言えば村上さんのこと、テレビのニュースで大きく取り上げられてるよ」
「そうなの?」
「そりゃそうだよ。現職の警察官が撃たれたんだもん。おまけに逃走中の容疑者も元警察官だっていうんだから。ついでって言っちゃ悪いけど、すぐそばで和津実の事故もあったし」
「そんなとこまで報道されてるんだ」
「顔写真は出てないけど、二人の名前は出てるよ。和津実の事故については、事件と事故の両方から捜査ってことになってるみたいだね。警察発表じゃ一応は別の事件だけど、ニュースでは”何らかの関係があるのでは?”って言ってた」
 実際に何らかどころではない関係がある。そうでないにしては登場人物が重なりすぎている。
「で、真奈。あたしに何の用なの?」
 突き放すような物言いとは裏腹に口調はいつもの屈託のなさだ。それがかえってアタシの神経を逆撫でした。おそらくわざとやっているはずだ。
 ケイタイを離して、大きく一つ深呼吸した。
「――手を貸して欲しいの。あたし一人じゃあいつを助けられないから」
 これでもアタシは負けず嫌いで通っている。本来ならケンカしている相手に助けを求めるなどありえないことだ。しかし、今はそんなちんけなプライドに拘っている場合じゃない。
 結果として、村上は一命を取り留めた。だから今、アタシはこうやって様々なことに思いを巡らせていられる。でも、それは単に幸運だったからにすぎない。
 もしそうでなかったなら――。
 つまらない意地や意気地のなさがあの雨の夜の身を切られるような会話を、アタシと彼の最後のものにしていたかもしれないのだ。そして、アタシの想いを伝える機会も永遠に失われていたかもしれない。正直に言えば由真の声を聞くことすら苦痛だった。しかし、もう一度、同じ轍を踏むわけにはいかない。
 由真は押し黙ったまま、返事をしなかった。
「どうなの?」
 受話器の向こう側の息遣いが聞こえたような気がした。
「……オッケー、話を聞くわ。あたしだって村上さんを助けたいしね」
 由真はアタシの質問にいくつか答えて、今朝の電話で途切れた捜査報告書の説明をしてくれた。それから警察に何を話して、何を伏せておくべきかを例の講義口調で説明した。
「――だいたいこんなとこだけど、分かった?」
「分かった、と思う」
「思うじゃダメなんだけどな。真奈がヘマすると、その後の段取りも狂うんだからね」
「大丈夫よ。うまくやるわ」
 由真は尚も何かを言い募ろうとした。しかし、それ以上言わせるつもりはなかった。仲直りをしたわけではないのだ。
「じゃ、アタシ行くから」
 そう言って、アタシは一方的に電話を切った。

 トイレに立ったついでに洗面所で思いっきり顔に水をぶちまけた。家でシャワーを浴びたときにメイクを落としてしまっていたので、いまさら気遣いをするようなこともない。もともとノーメイクで出歩くことに抵抗がないので恥ずかしいということもない。一人前のレディとしてどうなんだ、という葛藤がないわけではないのだが。
 酔いはすっかり醒めてしまっていたが、眠気と疲れは山場に差し掛かっていて指先にもいまいち力が入らなかった。そんな中で鏡に映ったアタシの目だけがケンカが始まる前のように爛々と輝いている。
 手櫛で髪の乱れを直して、取調室――じゃなくて会議室に戻った。
「さてと、本題に入るか」
「いいわよ。何?」
「お前と吉塚和津実の関係を聞かせてもらおう。お前、遺留品のバッグを見ただけで被害者が誰だか分かったそうだな。そんなに仲が良かったのか?」
「友達というほど親しくはない知り合い、かな」
「ずいぶん微妙な間柄だな」
「まあね。実は彼女、アタシのバイト先の先輩の従妹なのよ」
「従妹?」
「そう。紹介されたってわけじゃないんだけど、まあ、世の中は狭いってことで」
「その先輩とやらの名前は?」
 留美さんの名前と城南区のアパートの住所を教えた。和津実を知った接点としては順番が逆だがそんなことをいちいち調べはしないだろう。留美さんも余計なことは言わないはずだ。もし知り合った詳しい経緯を訊かれたら不良少女時代の適当なエピソードをでっち上げるつもりだった。どうせ確認などできはしない。
 桑原はそれ以上は訊かずに手元の資料に視線を落とした。
「吉塚和津実。旧姓、千原和津実。一九八六年四月二日生まれの二十一歳。家は南区屋形原、免許センターの近くだな。夫は吉塚正弘、子供が一人いるな。過去に数回、補導歴がある。お前との繋がりもその辺か」
 皮肉は聞き流した。アタシの来歴は確認済みということだ。
「彼女、何で補導されてるの?」
「武勇伝は語ってなかったのか?」
「本人はね。周りからは噂話だけ聞いてるけど、あくまでも噂だから」
「……ま、いいだろう。援助交際で一回。窃盗の共犯で一回。男がバイクを盗んで、そいつに二人乗りしてて捕まってる。あと、深夜徘徊で二回」
「そんなもの?」
「なんだ、他に何か知ってるのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 渡利のような男と一緒にいた割には大人しすぎるとすら言える内容だ。まあ、それはいい。それとは別に一つ、確認できたことがある。警察は和津実についてほとんど何も把握していない。住所を吉塚の市営住宅ではなく実家だと思っているのもそうだし――住民票がそのままなのだろう――桑原が挙げていることは戸籍と警察のデータバンクに残っている通り一遍のものばかりだ。彼女が渡利純也の薬物密売グループに関わっていたことにも気づいていないのだろう。彼らについて捜査した資料なら、三年前に県警薬物対策課と中央署の合同捜査班――つまり、アタシの父親が作成したものがあるにもかかわらず。
 それもまた、由真が言っていたことだった。
 由真との打ち合わせの中で、警察にどこまで話すかの線引きは考えてあった。昨夜からの事実関係、彼女が街金融に追われていたことや、自分が彼女の夜逃げの手助けをしたことは話す。身辺を調べれば借金まみれだったことは一目瞭然だし、彼女の昨夜の足取りを追えば、深夜のファミレスで目つきの悪いノッポ女と話していたのを突き止められるのは時間の問題だからだ。
 話さないのは和津実の過去、彼女が渡利純也と付き合っていたことや薬物密売グループに出入りしていたことだ。葉子から当座のカネを融通されていたことや、借金の帳消しを狙って渡利純也が残した資金や薬物を探していたことも伏せておく。アタシが父親の事件の背景を調べていたこともやむを得ない場合を除いては話さない。
 要するに当たり障りのないこと以外は何も話さないということだ。
 和津実と村上、そして権藤に繋がりがあるとしたら三年前の父の事件しか考えられないが、それと村上が犯したとされる容疑に関係があるのかどうかは、今のところ何とも言えない。そもそも何の容疑かも分かっていないのだから。
 ただ、関係ないにしては銃撃と拘束のタイミングが良すぎるのも事実だ。まるで村上が行動不能になったのを見計らって監察官室が行動に移ったようにしか見えない。しかし、村上にハッキリとした容疑があるのならそんなことをする必要はない。もっと前の段階で身柄を押さえられていたはずだ。
 では何故、そうしなくてはならなかったのか。考えられる理由は一つ。村上が自由に行動できる段階では手出しができない何らかの保険が掛かっていたからだ。アタシが知っている村上恭吾という男はそれくらいのことはやりかねない。だから、片岡監察官はこの絶好の機会に便乗した。そう考えるほうが筋が通っている。
 しかし、そうだとすると村上が何も手を打てない今、アタシが知っていることをぶちまけるのは警察に協力するのに等しい。
 最初は何もかも話してしまおうと思っていたのだ。そのほうが捜査の進展にプラスなのは間違いない。村上を撃ったことを許すつもりはないが、権藤がこれ以上の罪を重ねる前にという思いはアタシの中にもあった。しかし、警察が村上の味方ではない以上、彼らに協力する気は完全に消え失せていた。

 遅れた四〇分の残りの一〇分は、藤田への口止めに費やされていた。
「――それを俺に黙っていろっていうのか?」
「別に話したければ話してくれてもいいですよ。本当はそうするべきなんだから。別に藤田さんを責めたりしません」
「驚いたな。いつの間にそんな婉曲な当て擦りを覚えたんだ? ちょっとした性悪女みたいだぜ」
「いつまでも子供じゃないです」
「そうみたいだな。なぁ、真奈ちゃん。一つ、訊いてもいいかな?」
「なんですか?」
「真奈ちゃんはどうしてそこまでして、村上を助けようとするんだ?」
 アタシは言葉に詰まった。
「……それ、今、答えなきゃいけないことですか?」
「できれば。いつか、一緒にあいつのスーツを買いに行ったときに、村上にはお父さんのことで感謝してるって言ってたよな。これはその恩返しなのか?」
「それは……」
 自分の胸の中の感情をかき集めた。大きく息を吸い込む。
「違うわ。村上さんのことが好きだから」
 藤田は電話の向こうで弾けるような笑い声をあげた。アタシは思わず気色ばんだ。
「何がおかしいんですか!?」
「いや、ごめん。まさか、こんなにあっさり認めるとは思ってなかったからさ」
 自分が口にしたことの意味がジワジワと染み込んできて、顔がカッと熱くなるのを感じた。思えば誰かにハッキリと自分の気持ちを宣言したのは初めてだった。
「……そんなに笑わなくてもいいじゃないですかぁ」
「いや、ホントごめん……そうか、真奈ちゃんは村上のことが好きなのか」
 謝りながらも藤田の笑いはなかかな収まらなかった。おかげで恥ずかしさを通り越して腹が立ってくる。もう一度怒鳴ろうかと思った頃、藤田はようやく笑いをかみ殺した。
「オッケー、この話は俺の胸の中に収めておくよ」
「いいんですか?」
「もともとあのオッサンとは仲が悪いんでね。表立っては動けないが、こっちでもちょっと嗅ぎ回ってみるよ」
 藤田は夜に会おう、と言った。アタシは警察から解放されたら連絡する、と答えた。

「被害者が和津実だっていうのは間違いないの?」
 桑原はアタシをちらりと見て、若い刑事に持ってこさせた番茶をすすった。同じものがアタシの目の前にもあるが、いかにも渋そうな色に手を出す気にならない。
「お前がそう言ったんじゃねえのか?」
「アタシは被害者がホームに落っことしたバッグが和津実のものだって言っただけよ。ホームから突き落とされたのが引ったくり犯だった可能性だってないわけじゃないでしょ?」
「まったく、ああ言えばこう言うって感じだな、お前」
 自分が示唆している可能性がおそろしく低いものだということは分かっている。アタシ自身、それに期待をしているわけではなかった。
「確かにまだ本人と断定はできていない。遺体の損傷が酷いんでな。轢死体って見たことあるか?」
「あるわけないでしょ」
「そいつは幸いだな。仕事柄、いろんな死体を見る機会があるが、時間が経った水死体とアレは見るもんじゃねえ」
「……へえ、そう」
「昔、地域課にいたときに踏切事故――自殺だったんだが、その後始末に駆りだされたことがあってな。破片を拾い集めてたら、線路脇の草むらを掻き分けたときに見つかってなかった頭と真っ正面からご対面してさ。しばらくの間、寝る前に目をつぶるとその顔が浮かんできて、なかなか眠れねえ日々が続いたっけ」
「そりゃ大変だったわね」
 自分でも驚くほどの棒読みだった。実はアタシはスプラッターの類に弱い。桑原が嬉々として悪趣味な昔話を披瀝するのを我慢するにはかなりの忍耐を要求された。
 無口だとは思ってなかったが、桑原は興が乗ってくると止まらなくなるタイプのようだった。”そういえば”という余談の枕詞に続いて、異臭がするアパートから腐乱死体を上司の「お前、運んどけ」の無情な一言で運ばされて、その日の夕食の席でチキンソテーにご飯粒をまぶしながら同僚に遺体の傷み具合を説明してやった逸話を聞かされた。同僚はさぞかし食欲をなくしたことだろう。アタシがその場にいたらルスラン・カラエフばりのバックスピン・キックをお見舞いしていたに違いない。
「――ねぇ、そろそろ本題に戻りたいんだけど」
 桑原は尚も思い出し笑いを続けていた。記録係の刑事はゲンナリした表情を隠す様子もなかった。
「ああ、そうだな。吉塚和津実のことで、知ってることがあったら話してくれ」
「大したことは知らないかな。訂正しといてあげると、彼女の住所は屋形原じゃなくて吉塚よ。市営住宅のB棟、一〇一か二号室。郵便受けに督促状がアイドル宛てのファンレター並みに突っ込んであるから、すぐに分かると思う」
「借金があったってことか」
「みたいね。ほとんどは旦那が作った借金らしいけど」
「吉塚正弘か。何モンだ?」
「会ったことはないけど、ヤクザくずれだって話を聞いたことがあるわ。家にはほとんど寄り付いてなかったみたい」
「他には?」
「彼女がデリヘルで働いてたってことくらいかな」
「ほう……。何処の店だ?」
「そこまで知らないわ。本人から聞いた話じゃ売れっ子だったみたいよ」
「なるほどな。ちなみにお前のバイトってなんだ? まさか和津実の同僚とか言わねえだろうな?」
「だったらどうなの? 指名でもしてくれるの?」
 つまらない冗談だった。事実、桑原もつまらなそうにアタシを見ていた。
「アタシはモデルよ」
「モデルって……まさかファッション・モデルとか言わねえよな?」
「そのまさかだけど、それが何か?」
「いや、まあ、な。……背ェ、高ぇしな」
 桑原はいかにも意外そうにアタシを眺めていた。失礼な言い草だが知人にモデルのバイトをしていることを話すと概ね同じ反応が返ってくるので、それほど気にはならない。
 記録係の刑事が席を立ち、ドアの外にいた別の刑事に耳打ちをした。耳打ちされた刑事は桑原に目配せをしてその場を離れた。アタシが言ったことを確認しに行くのだろう。
「ところで、最後に吉塚和津実と会ったのはいつだ?」
 アタシはいかにも”ああ、そういえば”といった表情をしてみせた。
「昨日の夜中。あ、日付はまたいでたから今日になるのか」
「なんだと?」
 桑原の声がスッと抑えたものになった。
「どういうことだ?」
「最初の話に戻るけど、アタシがどうしてバッグを見て列車に轢かれたのが和津実だって分かったかっていうと、実はバッグそのものじゃなくて、駅員さんが周りに出してた中身の服に見覚えがあったからなのよね」
「……分かるように説明しろ」
「昨日の夜、彼女から急に電話がかかってきて、借金取りから逃げるって言うんで、逃げ用の荷物とか現金を運んであげたの。アパートまで行って言われたものを詰め込んでね」
「友達というほど親しくはない知り合いのために、か?」
「救いようのないお人好しで通ってるのよ、アタシ」
 桑原はフンと鼻を鳴らした。
 南福岡駅の前で待ち合わせて荷物を渡して、腹が減ったという彼女のために博多駅の近くのジョイフルに行ったことを話した。アパートを出てからはホテルに泊まっていたようだが、それが何処かは知らないと言った。
「何時まで一緒にいたんだ?」
「時計を見てないからはっきりとは言えないけど、夜中の一時過ぎくらいじゃないかな」
「その後は?」
「さあ? 彼女のほうが先に店を出たから。だいたい、そのまま始発に乗るっていうから博多駅の近くに行ったのに、何で南福岡にいたのよ?」
「んなこと、俺に訊かれてもな」
 桑原は大きくため息をつくと、休憩にしようと言った。

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